休み時間の教室には喧騒があふれている。
次の授業は日本史。
教室移動もないから、この十分間は自席でゆっくりできる。
カバンから耳掛けヘッドフォンを取りだしてセット。
電源を入れるとノイズ・キャンセリングが始まり、辺りに満ちていた雑音が少し遠くなる。
再生開始。
ポツ、ポツ、ザーッと耳の中で雨が降りだす。
僕は目が悪い。
目が悪いという自覚がある分、耳に頼るクセがある。
普段から人の声音には敏感だし、自転車で走るときも周囲の状況は音で判断している。
サッカーのときも後方からの足音や人の声に注意を向けていた。
そうしたクセが身につきすぎていて、教室の喧騒が気になってしまう。
人間は、喧騒の中でも興味のある話題に関する言葉だけを聞きわけられるようになっているらしい。
カクテル・パーティー効果だったかな。
逆にいえば、自分に関係する話題だけを選択的に聞きとり、他をオミットする能力だ。
どうも僕はそういうのが苦手らしい。
何でもかんでも意識して聞きとろうとしてしまう。
スイッチ・オフが苦手なんだと思う。そりゃ疲れる。
というわけで、教室移動のない休み時間は、環境音で耳を満たして休むことにしている。
机に片肘をつき、窓の方へと視線を向ける。
耳元では、しのつく雨が振り続けているが、窓の外は快晴だ。
五月上旬の空は爽やかに青い。
クラスメイトたちは席を立ち、あちらへこちらへと歩きまわっている。
雨音の向こうからは、微かに話し声が聞こえてくる。
休み時間はたった十分。一分一秒が惜しい。少しでもしゃべりたい、動きたい、どこかへ行きたい。
そんな気持ちがあふれている。
そんな騒がしさの中、西町さんは凛とたたずんでいた。
窓際の前から二番目の席。その周囲一メートルだけ空気が止まっているようだった。
彼女が目立つのは髪と肌の色素が薄いからかもしれない。
西町さんは背筋を伸ばし、文庫本を片手に持っている。
窓の向こうの日射しはまるで後光。
ときどきパラリとページをめくる以外に余分な動きは一切しない。
十分しかない休み時間、ここまで優雅に過ごせるものなんだ。
先輩のブレザーをはおってクンクンし、挙げ句に目撃者を脅迫しようとした変態リアクション芸人と同一人物とはとても思えない。
と様子をうかがっていたら、不意に西町さんがこちらを見た。
西町さんは顔をしかめ、それからプイっとそっぽを向いた。
昼休み。食堂。パン売り場。
お昼ごはんはいつも食堂でとっている。
だいたいは食堂のパン。ときどきはコンビニで買い飯。
席は食堂中ほどにあるテーブル。太い柱がすぐそばに立っている、たむろしやすい立地。
そこにはいつも十人前後の一年生男子が集まっている。
クラスメイト、同じ中学出身の仲間たちとそのクラスメイト。
要するに友だちの友だちくらいまでの面々だ。
いつものメンツに一声かけてからパンの列に並んだときのこと。
「げ」
消え入るような小声だったので、最初は聞き間違えかと思った。
でも視線を横に向けると、やっぱり隣には西町さんがいて、難しい顔で僕を見ていた。
「何か用ですか?」
プイっと前を向き、西町さんは目いっぱい低い声でそう訊いてきた。
「パンを買う以外の用はないよ」
何だか言い訳めいているけれど、事実なのでしょうがない。
「どうだか」
西町さんは、トゲのいっぱい生えた声でそうつぶやいた。
「西町さん、いつもお昼はどこで食べてるの?」
ここは適当な雑談でもして乗りきろうと、無難そうな話題を振ってみる。
「それを知ってどうする気?」
失敗した。
社交辞令のつもりだったけれど、西町さんは穿鑿と受けとってしまった。
「どうもしないよ。いつも食堂では見かけないし、教室戻ってもいない事が多いから、どこかいい場所でも知ってるのかなって」
慌てて言いつくろうと、西町さんはため息をついてから応えてくれた。
「……文芸部の部室。静かな場所で、本を読みながら食事するのが好きなので」
「昼休みに部室って借りられるんだ。そういえば西町さん、今日はパンなんだね」
「いつもはお弁当なんですが、いま母が仕事で遠くへ行っていて」
と、どうにかこうにか穏当な雑談をしているうちに順番が回ってきた。
パン売り場には惣菜パンに菓子パン、サンドイッチが並んでいる。
今日は少し出遅れたこともあって、売り場には空きが目立っていたが、ちょうどたまごサンドが一つだけ残っている。
僕は毎日たまごサンドと、もう一品その日気になったパンを昼食にしている。
たまごサンドだけは外せない。甘い厚焼きたまごをパンに挟むなんて、おいしくないわけがない。
本日ラスイチ。
もう一品を選ぶ前にさっさと確保しておかなくちゃ、と手を伸ばした瞬間。
「……っ」
同じタイミングでラストたまごサンドを取ろうとしていた隣の人と手がぶつかってしまった。
隣の人、すなわち西町さんが僕をキッとにらみつける。
「……どうぞ?」
紳士的に譲ってみたけれど、西町さんはナワバリを守るネコみたいな声で「結構です」と断り、隣のハムサンドを手にとった。
そしてさっさと会計を済ませ、売り場を離れていった。
どうしてこうタイミング悪いかな。
サンドイッチ一つだけで足りるのかな。
背中を見送りながら、そんなことを思う。
いや、それよりいまはお昼ごはんだと売り場の机に目をやると……いつの間にかラスイチたまごサンドは姿を消していた。
次の授業は日本史。
教室移動もないから、この十分間は自席でゆっくりできる。
カバンから耳掛けヘッドフォンを取りだしてセット。
電源を入れるとノイズ・キャンセリングが始まり、辺りに満ちていた雑音が少し遠くなる。
再生開始。
ポツ、ポツ、ザーッと耳の中で雨が降りだす。
僕は目が悪い。
目が悪いという自覚がある分、耳に頼るクセがある。
普段から人の声音には敏感だし、自転車で走るときも周囲の状況は音で判断している。
サッカーのときも後方からの足音や人の声に注意を向けていた。
そうしたクセが身につきすぎていて、教室の喧騒が気になってしまう。
人間は、喧騒の中でも興味のある話題に関する言葉だけを聞きわけられるようになっているらしい。
カクテル・パーティー効果だったかな。
逆にいえば、自分に関係する話題だけを選択的に聞きとり、他をオミットする能力だ。
どうも僕はそういうのが苦手らしい。
何でもかんでも意識して聞きとろうとしてしまう。
スイッチ・オフが苦手なんだと思う。そりゃ疲れる。
というわけで、教室移動のない休み時間は、環境音で耳を満たして休むことにしている。
机に片肘をつき、窓の方へと視線を向ける。
耳元では、しのつく雨が振り続けているが、窓の外は快晴だ。
五月上旬の空は爽やかに青い。
クラスメイトたちは席を立ち、あちらへこちらへと歩きまわっている。
雨音の向こうからは、微かに話し声が聞こえてくる。
休み時間はたった十分。一分一秒が惜しい。少しでもしゃべりたい、動きたい、どこかへ行きたい。
そんな気持ちがあふれている。
そんな騒がしさの中、西町さんは凛とたたずんでいた。
窓際の前から二番目の席。その周囲一メートルだけ空気が止まっているようだった。
彼女が目立つのは髪と肌の色素が薄いからかもしれない。
西町さんは背筋を伸ばし、文庫本を片手に持っている。
窓の向こうの日射しはまるで後光。
ときどきパラリとページをめくる以外に余分な動きは一切しない。
十分しかない休み時間、ここまで優雅に過ごせるものなんだ。
先輩のブレザーをはおってクンクンし、挙げ句に目撃者を脅迫しようとした変態リアクション芸人と同一人物とはとても思えない。
と様子をうかがっていたら、不意に西町さんがこちらを見た。
西町さんは顔をしかめ、それからプイっとそっぽを向いた。
昼休み。食堂。パン売り場。
お昼ごはんはいつも食堂でとっている。
だいたいは食堂のパン。ときどきはコンビニで買い飯。
席は食堂中ほどにあるテーブル。太い柱がすぐそばに立っている、たむろしやすい立地。
そこにはいつも十人前後の一年生男子が集まっている。
クラスメイト、同じ中学出身の仲間たちとそのクラスメイト。
要するに友だちの友だちくらいまでの面々だ。
いつものメンツに一声かけてからパンの列に並んだときのこと。
「げ」
消え入るような小声だったので、最初は聞き間違えかと思った。
でも視線を横に向けると、やっぱり隣には西町さんがいて、難しい顔で僕を見ていた。
「何か用ですか?」
プイっと前を向き、西町さんは目いっぱい低い声でそう訊いてきた。
「パンを買う以外の用はないよ」
何だか言い訳めいているけれど、事実なのでしょうがない。
「どうだか」
西町さんは、トゲのいっぱい生えた声でそうつぶやいた。
「西町さん、いつもお昼はどこで食べてるの?」
ここは適当な雑談でもして乗りきろうと、無難そうな話題を振ってみる。
「それを知ってどうする気?」
失敗した。
社交辞令のつもりだったけれど、西町さんは穿鑿と受けとってしまった。
「どうもしないよ。いつも食堂では見かけないし、教室戻ってもいない事が多いから、どこかいい場所でも知ってるのかなって」
慌てて言いつくろうと、西町さんはため息をついてから応えてくれた。
「……文芸部の部室。静かな場所で、本を読みながら食事するのが好きなので」
「昼休みに部室って借りられるんだ。そういえば西町さん、今日はパンなんだね」
「いつもはお弁当なんですが、いま母が仕事で遠くへ行っていて」
と、どうにかこうにか穏当な雑談をしているうちに順番が回ってきた。
パン売り場には惣菜パンに菓子パン、サンドイッチが並んでいる。
今日は少し出遅れたこともあって、売り場には空きが目立っていたが、ちょうどたまごサンドが一つだけ残っている。
僕は毎日たまごサンドと、もう一品その日気になったパンを昼食にしている。
たまごサンドだけは外せない。甘い厚焼きたまごをパンに挟むなんて、おいしくないわけがない。
本日ラスイチ。
もう一品を選ぶ前にさっさと確保しておかなくちゃ、と手を伸ばした瞬間。
「……っ」
同じタイミングでラストたまごサンドを取ろうとしていた隣の人と手がぶつかってしまった。
隣の人、すなわち西町さんが僕をキッとにらみつける。
「……どうぞ?」
紳士的に譲ってみたけれど、西町さんはナワバリを守るネコみたいな声で「結構です」と断り、隣のハムサンドを手にとった。
そしてさっさと会計を済ませ、売り場を離れていった。
どうしてこうタイミング悪いかな。
サンドイッチ一つだけで足りるのかな。
背中を見送りながら、そんなことを思う。
いや、それよりいまはお昼ごはんだと売り場の机に目をやると……いつの間にかラスイチたまごサンドは姿を消していた。


