好きな人の好きな人を好きな人

 サッカー部創設に向けた勝負の裏で、文芸部は新たな局面を迎えている。

 スマホ覗き事件からおよそ一週間。
 今度は西町さんが文芸部に来なくなった。

 そうして部室に一人残されるようになって初めて、先週どれだけ西町さんが苦しんでいたかがわかった。
 くらら先輩も怜先輩も、優しくていい先輩だ。
 それは間違いない。
 僕が文芸部を休んでいた間のことを追及してはこなかったし、気安い空気をつくろうと話しかけてきてくれた。

 そんな二人だから、当然西町さんのことも気にかけている。
 僕が部室に顔を出すと『今日は学校に来ていたのか』と必ず西町さんのことを訊かれた。
 くらら先輩は西町さんの席を見ることが増えた。怜先輩も目の前の空席にふと目を止めた後、窓の外を眺める時間が増えていた。

 西町さんがいない間に、部室には何度か見学者が来た。

「怜先輩、小説を書いてるってマジですか? がんこやばいですねー」

 見学とはいっても、文芸部の活動に興味を持っているわけではない。
 麻利衣は『文芸部にはクールなイケメンの文学青年がいる』という噂を聞きつけ、目の保養に来ているだけだ。
 噂というか、僕がつい雑談のなかでしゃべってしまったというか。
 つまりは僕のせいだ。

「僕なんかまだまだだけどな。鍋平さんは普段どんなものを読むんだ?」

 怜先輩はミーハーな後輩女子が突然訪ねてきても平常運転。
 いつも通り包容力のあるお兄さんぶりを見せていた。

「奥津先輩、前に文化会館でやってた劇に出ていましたよね? 演劇ファンの間では評判でしたよ。今後の予定は決まってるんですか?」

 麻利衣に着いてきた満は満で、くらら先輩に即席のインタビューを始めていた。
 以前から先輩のことは知っていたらしい。
 さすが先輩。輝く才能は埋もれることがない。

「次はアクトシティでやる朗読劇に出るよ。うちの劇団、最近ネットでラジオドラマもやってて、あたしも出させてもらってるんだ」

 くらら先輩は、満のインタビューに応じつつも、ちらちらと怜先輩のほうを伺っていた。
 麻利衣という、見るからに悪い虫が先輩の周りを飛び回っている。
 それは気になるだろう。

「……怜ちゃん、デレデレしちゃって」

 満面の笑みから放たれた、地獄のように低い声音のひとり言。
 たまたま近くに居た僕だけが、聞きとってしまった。

 決めた。
 聞かなかったことにしよう。

 先輩は天使。
 悪いのは麻利衣。
 悪魔よ去れ!



 そんな文芸部の部室に来ない西町さんも、もちろん教室にはいる。
 毎日休まず学校には来ている。

 だが、最近彼女はHRが終わるとすぐ教室を出ていってしまう。
 放課後になると、西町さんは一目散に学校を出ていってしまう。
 追いかけて声をかける暇もない。

 教室では何もかもを涼しい顔でスルーしているのに、実は打たれ弱い。
 変態ストーカーのくせに、いざスマホを覗き見するとなったら尻込みするし、勝手に見た写真で勝手にへこたれる。
 人のことを部活に呼び戻しておいて、今度は自分が来なくなる。
 僕が追いかけて来ないように、あらかじめ逃げておく。

 そんなヘタレお嬢さまを捕まえるべく、僕は行動に出ることにした。

 HRが終わった瞬間。
 みんなが口々に「バイバーイ」とか「先行くわ」とか挨拶する喧騒。
 椅子が教室の床を擦る騒音。

 そんな音が生まれだしたその瞬間。
 カバンを引っつかみ、自席を立ち、一直線に西町さんの席へと向かう。

 さすがの西町さんも、まだ立ち上がっていない。
 机のすぐ横に立つと、西町さんは怪訝そうな顔でこちらを見て、相手が僕だとわかると「え」と意外そうな声を出した。

「西町さん。部活行こう」

 クラスメイトほぼ全員がまだ残っているこのタイミングで声を掛けられるとは思っていなかったはずだ。
 これまで教室では西町さんとほとんど接触してこなかったのだから。

 横目で周囲の様子をうかがう。
 僕と西町さんはけっこうな注目を集めていた。
 無理もない。

 彼女は目を逸らしてため息をついたあと、小さな声で「うん」とうなずいた。

 ふと見れば、希恵ちゃんと麻利衣も僕を見ていた。
 口は半開き。そんな二人に小さく手を振り、僕らは教室を後にした。

 昇降口まで歩いていくと、後ろから西町さんが声をかけてきた。

「部室行くんじゃないの?」

「今日はサボりでもいいかなって」

 僕がそう言って振り返ると、西町さんは肩をすくめてみせた。

「じゃ、わたしもサボりで」

 それまでの緊張から解放された、気の抜けた声だった。

 西町さんと二人、並んで自転車を漕ぐ。

 赤信号で停まったり、広い歩道で並んだりしたタイミングで、途切れ途切れに言葉を交わす。

「さあ、笑うがいい。環くんを連れ戻したその日に心ポッキリいって自分が部活サボりだしたわたしのことを」

 とある交差点で、西町さんはそう自嘲した。

「あはは」

「えへへ」

 乾いた笑いを交換する。

「さっきはビックリしたよ。環くん、教室で堂々と声かけてくるから」

「自分だってこないだやったでしょ」

「最近、誤解が積み重なってるよね。知ってる? 真実って事実の蓄積から生まれるんだよ」

 たしかに希恵ちゃんや麻利衣は、僕と西町さんの関係を誤解しているかもしれない。
 でもいまはそんなことはどうでもいい。
 いや、どうでもよくはないけど。

「西町さん、『狭き門』って読んだ? 怜先輩オススメの小説」

「うん。先週は時間あったから」

 『狭き門』はフランスの作家アンドレ・ジッドの自伝的小説である。

 主人公ジェロームは二歳上の従姉であるアリサに恋をする。
 アリサもジェロームのことは憎からず思っているが、アリサは信仰に身を捧げるため、ジェロームを拒絶する。
 アリサは信じていたのだ。
 天上へと至る狭き門をくぐるためには、地上での幸せを断つ必要があると。

「怜先輩にもくらら先輩にも夢がある。夢のために目の前の幸せを手に入れようとしないって、二人の境遇そのままだよね。二つ年上の従姉ってのも同じだし」

「環くんはわたしを連れ戻しに来たの? それとも追撃しに来たの?」

「心の痛みをシェアしに来たのかも」

「じゃあわたしもダメージあげるよ。環くん、前に『たったひとつの冴えたやりかた』貸してくれたでしょ。くらら先輩が好きだっていう本。あの訳者あとがき読んだ?」

「読んだよ。……思い出したら心の傷が開いてきた」

 『たったひとつの冴えたやりかた』の訳者あとがきには、著者の非業の最期が綴られている。

 著者ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアは男性だと思われがちだが、よく知られたその名前は筆名であり、実は女性である。
 彼女には長年連れ添った夫がいた。
 夫は失明し、老人性痴呆症のため寝たきりであったという。
 ある朝彼女はショットガンで夫の頭を撃ちぬき、自らも同じ銃で夫のあとを追った。
 遺書はかねてより用意されていた。
 夫婦は最期を共にすると約束していたのだ。
 発見されたとき、二人は手をつないでいたという。

「西町さん、あの写真覚えてるでしょ? くらら先輩がお昼寝してるやつ」

「忘れるわけないでしょう。くらら先輩の手許に写ってたよね。『狭き門』と『たったひとつの冴えたやりかた』。……もう、本当にさ」

「くらら先輩が怜先輩に抱いてる感情が重すぎる」

「怜先輩がくらら先輩に向けてる感情が大きすぎる」

 信号が青に変わる。
 僕たちは前に走り出す。

 少なくとも体と時間だけは、前に進んでいく。

 間もなくみずべの公園に着いた。
 自転車を停め、遊歩道を歩く。

 ボールを取ってこようとは、僕も言わなかったし、西町さんも言わなかった。

「好きって何なんだろうね」

 水路を跨ぐ小さな橋。
 立ち止まって流れる水を見下ろしながら、西町さんが呟いた。

「相手のために何かしたいって思うこと、かもね」

 『狭き門』の終盤、ジェロームはアリサの意向を尊重し、彼女への気持ちを諦める。

 ティプトリー夫妻の心中も、相手を思ってのことだろう。
 夫は、妻に面倒をかけたくないと願った。
 妻は、夫を一人で逝かせたくはないと願った。

「わたし、怜先輩に何かしてあげたいって思ったこと、あったかな?」

 橋上に転がる小石を蹴飛ばす西町さん。

「付き合ったらすぐ別れて東京に帰るとか、わたし何様なんですかね? 少女漫画だったら、人を人とも思わない悪役令嬢みたい。自分のことしか考えてなくて」

「僕だって酷いもんだよ。そもそも付き合うなんて発想すらなくて、一方的にくらら先輩を崇拝してるだけだもん。それでいて怜先輩とは付き合ったりしないでほしいとか願って。結局自分のことだけだよ」

「環くん、本当何しに来たの? 二人して落ちこんでるだけじゃない」

「ほんとだね。僕、何のために声かけたんだろう?」

 西町さんと苦笑いを交わしあう。

「環くん。いっそこのまま二人して文芸部を辞めるというのはどうでしょう?」

 西町さんは、いかにも冗談交じりといった口調で訊いてきた。
 だからこそわかる。
 その言葉が嘘偽りない本音だと。

「何もかも捨てて遠くへ行く?」

 明るい声を絞り出し、そう返す。
 だからこそわかるはずだ。
 その言葉が嘘偽りない本音だと。

「愛からの逃避行だね」

「愛ゆえの逃避行だよ」

 西町さんの笑う声を聞いて、考えた。
 僕に何かできないものか。

 しかし。
 自分にできることは何も思いつかなかった。