走っていく西町さんを追いかけていたら、あっという間に文芸部の部室に着いてしまった、

「ここまで来たら、もう逃げられないね」

 部室のドアを背にして、得意げに笑う西町さん。
 もしかしたらこれが西町さんの狙いだったのかもしれない。
 勢いで僕を部室にまで来させることが。

 と思ったその瞬間、ドアが開かれた。

「あ、環くん。よかった、来てくれたんだ!」

 部室から出てきたのはくらら先輩だった。
 僕の姿に気づいた先輩は、満面の笑みを浮かべてこちらに駆けよってきた。

「環か。最近どうだ?」

 くらら先輩の後ろから、ひょっこり顔を出す怜先輩。
 いつもどおり息子との距離を測りかねているお父さんのような声音で僕に話しかけてくれる。

 先輩たちは二人とも夏服姿だった。
 先週までは冬服だったはず。
 二人示し合わせて同時に衣替えしたのか。そんな些細な想像が胸の奥でチクリと痛む。

「……部活出られなくてすみません。同中の仲間がサッカー部の勧誘に手こずってまして。僕も一緒に回ってたんです」

 その言い訳はスラスラと口から飛び出した。
 文芸部に戻るときはこう言おうと、予め考えていたからだ。

「そうだったんだ! そういえばサッカー部創設を目指してるっていう話、結構前から聞いてるけど、もしかして困ってる? だったら相談のるよ。怜ちゃんが!」

「おい。そりゃあ相談にのるのは構わんが、力になれるか怪しいぞ」

 くらら先輩の無茶振りに顔をしかめつつも、僕に頷いて見せてくれる怜先輩。

 くらら先輩は疑う様子など微塵も見せず、跳びはねるような声を僕に向けてくる。

「ところで先輩たち、どこか行くんですか?」

「ああ。こないだ進路希望調査を提出したんだが、担任から話があると呼び出されたんだ」

 西町さんが尋ねると、怜先輩は親指と中指でメガネをクイッと持ち上げながらそう答えた。

「だって怜ちゃん『プロデビュー』って書くんだもん。そりゃ呼び出しもくらうよ。進路希望調査だよ? 目標じゃなくて進路希望書こうよ」

「そういうお前だって『声優養成所』って書いたろ。先生、頭抱えてたぞ。遠衛は進学校だからな。大学以外の選択肢は、先生方も専門外だろ」

 西町さんは「わー。お二人とも具体的な目標をお持ちですねー」と平板な声でコメントした。
 声はもちろん目も死んでいる。
 努めて心を殺しているのだろう。

「じゃあ進路指導室に行ってくるよ。二人とも、のんびりしててね」

 と、先輩たちは手を振り去っていった。

「わかる、環くん? わたし一人でこの仕打ちに耐えてたんだよ?」

「ほんとごめんね」

 頭を下げつつ部室に入り、自分の席に着く。
 たった数日空けただけなのに、何だかもう懐かしかった。

 くらら先輩と正面から向き合える特等席。
 斜め前には怜先輩。
 いつも目の前の二人に心をかき乱される、僕の席。

「あれ、怜先輩、スマホ忘れてる」

 と、自席から立ち上がった西町さんが、怜先輩の机に手を伸ばす。
 そして黒いスマホをさっと手にとり、机の陰にしゃがみこんだ。

「どうしよう。いま目の前で犯罪が行われてる」

「同志環くん。我々に足りないのは情報だよ。己を知り相手を知れば百戦危うからずというでしょう」

「西町さん、いま己を見失ってるよ」

 僕が止めずに見ていると、西町さんは「へえ」「ふーん」「え、そうなの!」と一人で騒ぎながらスマホをいじり続けた。

 さすがに気になったので机の上から覗きこむ。
 と、スマホの画面はロックされたまま。
 西町さんはスマホをいじるフリをしているだけだった。

「あれあれ? 環くん、どうしたの? 見ないんじゃなかったの?」

「……性悪ストーカー。犯罪者」

「女子高生がやったら純愛だよ」

「じゃあ男子高校生がやったら?」

「見つからなければ純愛だよ」

「格差社会だね」

 西町さんが横に避ける。
 僕も机の下にもぐりこみ、西町さんの隣に腰を下ろす。

「お主も悪よのう」

「お(ひい)さまにはかないませんて。……で、ロック解除は試したの?」

「まだこれから。えっと、『0329』。ダメだね」

「何の数字?」

「怜先輩の誕生日ですよ。何で知らないの?」

「寧ろ何で知ってるの」

「じゃあ、くらら先輩の誕生日はどうかな。はい、環くん」
「何で僕が知ってる前提なの」

 差しだされたスマホを受けとり『0416』と入力する。
 なんとこれが大正解。
 見事にロックは解除された。

「やった! これで主犯は環くんね。正解の数字に指紋残ってるし」

「死ぬときはいっしょだよ西町さん」

「やーん情熱的な告白ー。にしてもまさかほんとにロック番号がこれとはね……」

「勝手に覗いて勝手に落ちこんでる場合じゃないでしょ」

「そうでした。いまのうちに吸い出せるだけの情報を吸い出さないとね」

 と、そこで西町さんはピタリと指を止めた。
 スマホにはホーム画面が表示されたままだ。

「どうしたの?」

「……何見ればいいんだろ」

 そしてかすれた声で泣き言をもらす西町さん。

「だってほら、怜先輩といえばメモだけど、それは見ちゃだめじゃない? 次の作品のネタとかあるかもだし。かといってLINEとか連絡先とかは、他の人にも迷惑かかるし」

「西町さん恋愛(ストーカー)経験豊富でしょ。いままでこういうときはどうしてたの?」

「豊富じゃないよ。こんな身近な人好きになったことないし。これどうしよう!」

 西町さんは爆発物でも扱うように、おっかなびっくりな手つきでスマホを僕に渡してきた。

「僕に渡されても。あ、じゃあアルバムでも覗いとく?」

「その発想怖い。スマホのカメラロールは最高レベルのプライバシーだよ? その人がどう世界を見ているのか、そこからわかっちゃうんだよ?」

「いやそんなご大層なこと考えてないから。怜先輩って最近まで写真撮ってなかったでしょ。いま保存されてるのって殆どがこないだのお出かけのときの写真かなって。自分が写ってる写真だったらギリギリセーフな気がしない?」

「その発想、天才なの?」

 そして西町さんは早速アルバムを開いた。
 最初に一覧表示されたのは、やっぱり先日の体育館で撮られたものたちだった。
 これらが一番古いらしい。

「僕と西町さんが多いね」

「環くん、すっごい楽しそう。ほら、満面の笑みでピースしてる。可愛い」

「そういう西町さんはデレデレだね。めっちゃカメラ目線」

 お互いにからかいあいながら写真をめくっていくと、不意に僕たち二人のツーショットが現れた。

 いつの間に撮ったのか、写真の中で、僕と西町さんは向かいあっている。
 近い距離。警戒心のない笑顔。
 写っているのが他人だったら、微笑ましいなとニヤけるところだけど。

「……なんか、お父さん目線だよね。運動会で子ども撮ってるお父さんみたいな」

 西町さんは、間をごまかすように呟きながら、写真をスワイプしていった。

 と、突然写真の色あいが変わった。
 体育館の中から和風の住宅へ。
 背景が変わると共に、写真の中に漂う空気までが変わったようだった。

 そこにはくらら先輩が写っていた。
 くらら先輩だけが、たくさんいた。

 エプロンをしてフライパンからお皿へ目玉焼きを移す先輩。
 カゴから取りだした洗濯物を庭で干す先輩。
 ちゃぶ台で宿題をする先輩。
 テレビを見ながら焼きそばを食べている先輩。

 そして、日当たりのよい縁側で、折り曲げた座布団を枕にうたた寝する先輩。
 口が薄く開いている。
 手許には閉じた二冊の文庫本。
 『たったひとつの冴えたやりかた』と『狭き門』。

 そこからは同じような写真が何枚も続いていた。
 カメラの角度が少し違ったり、くらら先輩のほうが身動ぎしたり。

 そんな写真が何枚も。
 何十枚も。

 資格情報は暴力だ。
 わからされる。
 くらら先輩は、怜先輩の前ではこんな顔をする。

 いきなり、西町さんが電源ボタンを押した。

「ちょ、ロックかけたらまずいって!」

 慌ててスマホを取りあげ、もう一度暗証番号を入力してロックを解除。
 そしてホーム画面へと表示を戻しておく。
 戻ってきた怜先輩がスマホを開いたとき、くらら先輩の写真が開かれたままじゃ怪しまれてしまう。

「証拠隠滅しないと危ないよ。西町さん、急にどうしたの?」

「もう、見てられなくて」

 隣に座る西町さんは顔を上げ、窓の外を見ていた。

「わたし、脇役にはなってると思ってた。怜先輩の舞台の、端のほうには乗ってるかなって」

 僕はわからされた。
 くらら先輩のいる世界がどこなのか。

 そして西町さんはわからされた。
 怜先輩の見ている世界がどういったものなのか。

「草生えるね」

 夕陽に照らされた西町さんの頬を、一筋の光が流れていった。

 もし。

 もしもだ。

 もし僕に好きな人がいなくて。
 もし西町さんに好きな人がいなかったら。

 そしたら僕はその光を指で拭えたかもしれない。

 でも、もしそうだったら。
 いまこうして僕が彼女の隣りにいることは、きっとなかった。