五月も最終週に入った。
 ちょくちょく夏日も差し挟まる日々。

 流石にもう冬服では辛い。
 衣替えの移行期間に入ると、校内に白の彩りが一気に増える。

 教室もそうだし、食堂もだ。
 人いきれ、調理の熱、食事の熱。
 食堂は、校内のどこよりも暑い。

 僕も週明け月曜から早速夏服で登校している。
 上には薄い水色のカーディガンを羽織る。
 シャツだけでは、どうにも落ち着かないのだ。

「やっぱ無理だよー。もう見つかんないって!」

 食堂のいつものテーブルで、満が悲鳴をあげる。

「満っち、ギブアップ? あんだけ自信満々に『俺は顔が広いから絶対見つけてやる』とか言ってたんに」

「いや、言ってないから。捏造禁止。コミュニティノートつけるぞ」

 愉快そうに笑う麻利衣に、満が抗議の声をあげる。

「岩切夏より有望な経験者なんていないんだって。そりゃ他にも経験者はいるよ? でもブランクがあったり、本当にちょっとやっただけだったり。それに何よりモチベがゼロ! だから言ったじゃん。遠衛にいる時点でやる気ないんだって」

「そいつらだって、勝てるようになればやる気は出るさ」

 コーイチは食後のお茶を片手に、自信に満ちた声で言ってのけた。

「どうかなあ。たまきち、どう思う?」

 お手上げ状態の満が、僕に水を向ける。

「可能性はあると思うよ。経験者でも、未経験者でも、試合に勝ってみたいとは思うんじゃないかな。テレビで見ている光景に、もし自分もいたらって誰でも考えるでしょ」

「確かにね。でもだよ。イレブンすら集まってないチームでどう勝つのさ? それこそ岩切夏くらい抜きん出た才能がいないと地区予選ですら全敗確定だよ。そこらへんどうなの、コーイチさん。相変わらずいい返事はもらえてないわけ?」

「ああ」

 サッカーショップでの一件以降も、コーイチは何度も岩切くんにアプローチをしている。
 何度かは僕も同行した。

 岩切くんはうんざりする様子も見せず、いつも淡々と「すまない」と謝絶する。
 コーイチは「そうか」とだけ応えてその場は諦め、すぐ帰ろうとする。

 流石にそれだけじゃ気まずすぎるし、何のために出向いているかわからない。
 結局いつも、場をつなぐように僕がサッカー談義を持ちかける。

 休み時間の立ち話を繰り返すうちに、僕たちはお互いのことを知るようになっていった。

 岩切くんは、自身も所属していたジュビロをいまも応援している。
 二〇〇〇年代初頭、ジュビロがJリーグで覇を唱えていた時期のサッカーが憧れ
 ヨーロッパ・サッカーではマンチェスター・シティが一押し。
 産油国のスポンサードで一気に強くなったクラブだけど、有り余る資本を育成とインフラに費やし、サッカーが強くなるシステムを構築しているところが好きらしい。

 廊下ですれ違えば挨拶するし、機会があればサッカー談義もする。
 しかし、依然として彼から色好い返事はもらえていない。

「岩切のところには、また行く。俺にも考えがある」

「がんばってねー」

 力強く言い放つコーイチに、満は机に突っ伏したまま手を振った。



「あ」

「おっと」

 昼休みの終盤。
 食堂からの帰り道。

 一年四組の教室前で、偶然岩切くんと行き合った。

 別に会おうと思って狙ったわけではない。
 本当にたまたまだった。
 食堂から三組の教室に戻るためには、四組の前を通る。
 僕がいまここを通ったのはそれだけの理由だ。

「環くん、ちょっといいか?」

 普段だったら、僕やコーイチの方からそう誘うところ、今日は岩切くんのほうから言い出した。
 もしかしたら偶然だと思っているのは僕の方だけなのか。
 岩切くんは、僕を待ち構えていたのかもしれない。

 彼に促されるまま廊下の隅に、壁際に寄る。

「最近、環くんは俺を誘わなくなったよね」

 半身で窓の外を見ながら、岩切くんは呟くように言った。

「僕から言い出さなくても、いつもコーイチが誘っちゃうからさ。コーイチ、アグレッシブだよね。CBなのに」

 小さな笑みを交換する。

「コーイチくんは、何で勝ちたがってるんだろう?」

 なるほど。
 これが本題か。

 なぜコーイチは自分を誘うのか。
 断られても、断られても、何度も誘うのはなぜか。
 どうしてそこまで勝ちたがるのか。

「予め断っておくけど、これはコーイチ本人の考えじゃなくて、僕がどう思っているか、だからね」

「それを聞きたいんだ」

「……コーイチは、居場所をつくりたいんだと思う」

 窓の外、中庭を見下ろす。
 昼休みともなると、中庭を歩く生徒も多い。

 そのほとんどは、いま正にこちらの教室棟に戻ってくる最中だ。
 中庭でご飯を食べていたか、もしくは部室棟で食べていたか。

 教室棟の向かいにある部室棟。
 そこには、文化部、運動部を問わずたくさんの部室が入っている。

 入学以来、僕はまだ足を踏み入れたことがない。
 文芸部の部室があるのは教室棟三階。
 大きな部室をもらえるほど人数がいない。
 こちらのほうが図書室が近い。
 そんな理由があると、先輩たちからは聞いている。

「居場所、か」

 コーイチと同じく、岩切くんも現状部活には参加していない。
 部活必須と定められた遠衛で、二人は自分を貫いている。
 その代償として、二人は教室以外の居場所を持てていない。

 僕だったら、教室以外に文芸部の部室という居場所がある。
 そこでなら受け入れられる。

 実のところ、今週に入ってからはまだ一度も部室には行けていないけれど、それはまた別の物語だ。

「コーイチは勝利至上主義というわけじゃないよ。だったら遠衛には来ない」

「弱小以前に、部活が廃部になるレベルだもんな」

「僕たちの仲間が遠衛を選んだのはね、単に家から近くて、自分たちの成績で入れそうだったから。それ以上の深刻な理由とかは一切ないんだ。ただ、僕たちは約束した。一緒に入学しようねって。理由なんてそれだけだよ」

 そう。
 先輩たちとは違う。

「……そのうえで、自分たちの選択を誤ったものにしたくないと、コーイチは思ってるんじゃないかな。居場所がほしい。みんなで同じ時間を過ごせるなら何でもいい。極端な話、サッカーじゃなくてもいい。と、いまのは僕の考え。コーイチがそこまで考えてるかはわからないな」

「ただ居場所をつくるだけなら、勝たなくてもよくないか?」

「どうだろう。中学時代、僕らは勝ったり負けたりしたよ。地区予選で何度か勝ち進んだことだってある。素人に毛が生えた程度の僕ですら、毎回必ず初戦敗退というのは想像がつかない。岩切くんだってそうでしょ? 勝てる見込みがゼロという状況で、練習って続けられるのかな? サボらず、辞めず、部活って続けられるのかな? 少なくとも、昨年まで遠衛でサッカーをやってた先輩たちは無理だった。僕だって、できるかわからない」

「無理、だろうね」

 窓ガラスに映る岩切くんの顔が歪む。

「その気持ちは、わかるよ。絶対に勝てない相手と競い続けるのは、絶望しかない地獄だ。俺が選手を諦めたのだって……」

 と、岩切くんは言葉をつまらせた。

 ついつい、想像力を働かせてしまう。

 岩切くんがユースを辞めた理由。
 サッカーの選手を諦めた理由。

 何しろ岩切くんがいたのはプロクラブのジュニア・ユースだ。
 ヘタをしたら、将来世界に羽ばたいていくような才能がいたっておかしくない。

「……コーイチは勝ちたいわけじゃない。勝てる可能性を皆に感じてほしい。だから岩切くんを誘ってるんだと思うよ」

「可能性、か」

 岩切くんは口許に手をあて、その言葉を繰り返した。

「岩切」

 と、廊下の向こうから野太い声。
 聞き間違えうはずもない、コーイチの声だ。

「何度も悪いが、これが最後だ」

 コーイチが、岩切くんの前に立つ。

「俺と勝負してくれ。お前が勝ったら、もう誘わないと約束する」

「……コーイチくんが勝ったら、サッカー部に入れと?」

「ああ。ただし、そのときは選手としてじゃない。コーチとして皆を鍛えてくれ」

 これまでにない申し出に、岩切くんが目を丸くする。

「お前の言うことなら皆聞く。俺が保証する。だから頼む」

 と、コーイチは深く頭を下げた、

 数秒か。
 数十秒か。
 しばらく後、授業の始まりを告げるチャイムが鳴った。

「いいよ。勝負しよう」

 教室への戻り際、岩切くんはそれだけを言い残していった。