先輩たちと別れたあとの帰り道。
 僕と西町さんは短い言葉を交わしながら、家路をダラダラと走った。

 もう少しで別れ道というところで、西町さんがふいにつぶやいた。

「この後、みずべね」

 ちょうど同じことを考えていたので、僕は「うん」と応えた。

 一度家に帰り、トレーニング・ウェアに着替える。
 トレシュに履き替え、サッカーボールを自転車のカゴに入れ、みずべの公園へ。

 公園には、もう西町さんが待っていた。
 ベンチに腰かけた西町さんの背筋はめずらしく猫のように曲がっていた。

 その足許にボールを転がすと、西町さんは座ったまま足裏でボールをトラップした。

「今日は体も心も動かしたから、しっかりクール・ダウンしないとね」

 左の足裏で撫でるようにボールを転がしていく西町さん。

 履いているのは、昨日イオンで買ったばかりのトレーニング・シューズだろう。
 色はオレンジ。
 その鮮やかさが却ってもの悲しさを感じさせた。

「先輩たち、小説家とか役者とか目指すなら、自分のセリフには殺傷力があるって知っておいてほしいよね」

 西町さんは、芝生の広場でコロコロとボールを転がしながらそう呟いた。

 彼女の視線は足許へ向けられている。
 背筋を曲げ、ボールだけを見て戯れているその姿は、捨てられた猫が路地裏でいじけているようだった。

「僕ら勝手に傷ついてるだけなんだけどね」

「公に向けて言葉を発するなら、それも責任のうちじゃない?」

 西町さんは、言葉といっしょに丁寧なインサイド・パスを送ってきた。

「抗議してみる?」

 柔らかいパスを返す。

「僕は先輩のことが好きなので傷つきましたって? 環くんぜひどうぞ」 

 僕のパスをつま先で浮かし、小さなリフティングを繰り返す西町さん。

「……自分で言ってて嫌になるよ。わたし、こんなに性格悪かったんだって」

「そんなことないですよ」

 棒読みで言うと、西町さんは左インステップのシュート風パスで返してきた。

「露悪ついでに、不謹慎なこと言っていい?」

 振り切った足をおろした西町さんは、震える声でそう訊いてきた。

「羨ましい?」

「何でわたしが言おうとしてたことわかるの! ってまあ、環くんだからか。わたしの曲がった性根までよく知ってるもんね。何思ってるかわかっちゃうか」

「違うよ」

 自己否定のアクセルを踏み始めた西町さんに強めのパスを返す。

「僕も同じことを思ってたからだよ」

 前から思っていた。
 西町さんはヒロインみたいな人だ。

 東京から来たイギリス人のクォーター。
 『カワイイ』というより『美人』。
 私服だと高校生には見えなくて、学校では高嶺の花。
 本人が目指すところである、少女漫画原作の映画でヒロインを張れる人。

 そんな西町さんを、くらら先輩は霞ませる。

 失踪した有名女優の知られざる忘れ形見。
 本人も容姿と演技の才能に恵まれる。
 しかし事故でハンディを負い、一年遅れで高校入学。
 それでもなお母と幼なじみへの思いから、自分に残された武器である声で以て世界に訴えかけようとする心の強さ。

 怜先輩だって負けていない。
 幼いころから姉弟同然に育った従姉弟のために物語を書こうとしている。
 そして高校生ながらにプロ一歩手前のところにまで至っている。

 先輩たちは主人公だ。
 現状をよしとせず、道を切り開かんとする主人公だ。

「僕も同じことを思ってるって言ったけど、本当はそうじゃない。本当は、僕のほうがずっと強くそう思ってるんだよ。地方都市の公立中学を卒業して、同中の仲間とつるんで、片思いした先輩に近づきたくて部活に入っちゃうような、そんな量産型の高校一年生から見れば、先輩たちは星なんだよ。見上げれば光は届くけど、どんなに手を伸ばしても無限のような距離がある。一等星がどんなに熱くても、その熱は僕に届かないんだよ」

 いま、自分で自分に驚いている。
 自分の中にこんな気持ちがあっただなんて。

「西町さんだってそう。西町さんはヒロインになれる人だよ。『カワイイ』というより『美人』。高嶺の花。文芸部っていう舞台ではくらら先輩がヒロインになるけど、それでも西町さんはライバルになれる。西町さんも星だよ。少なくとも舞台のうえで役がある。僕なんて草だよ。役じゃない。背景だ」

 僕の裡で膨らんでいた気持ちが、口から勝手に飛びだしていく。

「西町さんとは違うんだよ」

 初めて気づいた。
 自分の中に、西町さんへのこんな気持ちがあるなんて。

 こんな気持ち。
 それは……僻み、妬み、劣等感。

 多分いま生まれたものじゃない。
 どれもずっと前からあった。

 ただ今日、心の覆いが弱っていて噴きだしてしまっただけだ。

「あ」

 そう。
 僕は今日打ちのめされ、心も体も疲弊していた。
 だから漏れた。

 じゃあ西町さんは?
 彼女も今日は僕と同じ痛みを味わった。

 足許に落としていた視線をあげる。
 西町さんは、まっすぐに僕を見ていた。
 夕陽に照らされたその顔には、何らの表情も浮かんでいなかった。

「ごめん」

 それだけ言って、僕は逃げだした。

 繰り返しになるが、僕は目が悪い。
 薄暗い夕方に、パスをやり取りするだけの距離をとれば、相手の顔の細かいところまでは見てとれない。

 だからこれは見間違いかもしれない。
 僕の心が見せた幻かもしれない。

 でも。
 僕には、西町さんの目が潤んでいるように見えた。