好きな人の好きな人を好きな人

「環くん、もう大丈夫?」

「はい。落ち着きました」

 僕が落ち着くまで、くらら先輩と西町さんは待ってくれた。
 あやされる子どもになったみたいで、恥ずかしくて死にそうだった。

「僕、さっきの朗読を前にも聞いたことがあります。遠衛に入学してきて、たまたま通りかかった廊下で、文芸部の部室から聞こえてきて」

「環くんが入部してくれたときだね。やっぱり聞かれちゃってたか」

「……実は、その前にも、ずっと前にも聞いたことがありました。もう三年くらい前に、動画サイトで」

「本当に? そっちも知られてるなんて、思いもしなかったな」

 先輩は、照れくさそうに、そして嬉しそうに微笑んだ。

 打ちあけるつもりなんてなかった。
 『先輩のことはインターネット越しに知っていました』なんて、ストーカー(西町さん)じゃあるまいし。
 でも、どうしても言いたくなった。」

「初めてあの朗読を聞いたとき、泣きました。ありがとうございます」

「まさか聞いた人にお礼言われるなんて。こっちこそありがとう。勇気をもらえたよ」

「訊いていいかわかんないんですけど……。何であの動画、消しちゃったんですか?」

 くらら先輩は目を細め、持っていた絵本を閉じた。

「お母さんが死んだの」

 その声を聞いたとき、不謹慎にも僕は感動してしまった。
 くらら先輩は本物だと、そう思った。
 特に抑揚をつけたわけでもない平板な声。
 にも関わらず、その声は僕の胸にズンとのしかかり、胃を押しつぶし、呼吸を止めさせた。

「お母さん、俳優だったんだ。わりと有名だったよ。メインのお仕事は舞台とかミュージカルだったんだけど、映画やテレビにも出てた。ネットで検索すればたくさん記事も出てくる。ほとんどは、失踪に関する記事だと思うけど」

 いきなりアクセルを踏まないでほしい。
 頭と、そして心がついていけない。

「とある病気に苦しんで、仕事が続けられなくなって、逃げちゃったんだって。何もかも捨てて、適当な夜行列車に乗って、気づいたら昔ロケで来た街にいた。特に珍しいものがあるわけでもないし、何か思い出があったわけでもない。どこにである地方都市の住宅街。そしてたまたま入った定食屋で倒れたの。体も心も疲れてたんだろうね。そのときのお店、『おきつや』があたしの生家。いまも住んでるあたしのおうち」

 『天賦の才』。
 そのとき僕の頭に浮かんでいたのはそんな言葉だった。
 混乱する心を置き去りにして、頭では『その演技の才能はお母さんから受け継いだものなんですね』なんてことを考えていた。

「『おきつや』はね、あたしと怜ちゃんのおじいちゃんおばあちゃんがやってたの。いまはあたしのお父さんが店主。で、お父さんの妹が怜ちゃんのお母さん。家は一応別なんだけど、すぐお隣で、ほとんど同じ家みたいな感じ。怜ちゃんもね、続柄は従姉弟だけど実質弟みたいなもんだよ。昔は、よくお母さんがあたしたちに読み聞かせしてくれたんだ。この絵本も、そのとき読んでもらった思い出の一冊なの」

 口から言葉が出てこない。
 その絵本を、僕は特別なものだと思っていた。
 その一冊があったから僕はあの動画に出会えたし、遠衛に入学して文芸部に入部することができた。
 くらら先輩との縁をつないでくれた運命の一冊。
 そう思っていた。

 まさかその一冊が、くらら先輩と怜先輩の幼いころからの絆を象徴するものだったなんて。

「贅沢だよね。テレビや映画館、劇場でみんなが共有してたお母さんの声を、あたしたちは二人じめしてた。そこがあたしと怜ちゃんの原点。原風景だね。あたしはいつからかお母さんの真似をするようになった。演じることに夢中になった。怜ちゃんは物語を書くようになった。最初はスケッチブックにクレヨンだった。で、怜ちゃんが書いたものを、あたしが演じる。いま思えば、あのころの世界って完璧だった」

 くらら先輩は、そこで言葉を区切り、持っていた絵本を積み上げた本の上に置いた。

「でも、完璧は続かない。永遠なんてない。生きることは失うことだから」

 すぐ隣で「ひゅ」と息を吸い込む音がした。

 西町さんだ。
 くらら先輩を見る彼女の目に浮かんでいるのは、畏怖のような、恐懼のような感情。
 まるで天使でも見ているかのようだった。

「あたしね、小学校にあがる前から劇団に入ってたの。地元の小さい劇団。レッスンのとき、お母さんはいつも送り迎えをしてくれた。レッスンを見ようとはしなかったし、発表会にも来なかったけど。もっとうまくなればお母さんがあたしの声を聞きに来てくれる。そう思ってがんばった。でも、いま思えばどうなんだろう? お母さんからしたら、自分が諦めた世界に娘が進もうとしてたんだよね。自分が失ったものを、娘が手に入れようとしてる。それはどんな気持ちだったんだろう」

 先輩は明後日の方向に目を向けている。
 児童書スペースの入り口の方だろうか。
 物語の冒険を終えた子どもを、お母さんが迎えに来る方だろうか。

「あたしと怜ちゃんね、中学は県立城西に入ったんだ。環くんは知ってるよね?」

「中高一貫のところですね。遠衛は、高校からなんですか?」

 県立城西といえば市内では二、三番目に偏差値の高い学校だ。
 遠衛もトップ層の進学実績では勝負できるけれど、全体で見れば同等とはいいがたい。

 そして遠衛は小中高の一貫校である。
 僕たちカミチュー出身者のように高校からの編入組もいるにはいる。
 しかし、わざわざ県立城西から遠衛に編入してくる生徒なんてまずいない。

「あたしが中学三年のとき、公演の帰り道にね、事故に遭ったの。単独事故だった」

 くらら先輩は積んでいた本を一冊ずつ手にとり、何ページかめくってから脇に置いていった。

 『ハートランド物語』、『のっぽのサラ』、『ボーイズ・ビー』、『別れのとき』……。

 知らないタイトルばかりだ。
 でもそれらがどんな物語なのか、僕は何となく想像できてしまった。

「その事故で、あたしは足をやっちゃった」

 これまでに見た光景がフラッシュ・バックする。
 通学用の電動アシスト自転車。
 バドミントンで引きずっていた右足。

「あたし、アクションとかダンスも得意だったんだよ。でもそっちの道はなくなった。ドラマとか映画でさ、障害者の役ってあるでしょ。ちゃんと演じきれる俳優さんを演技派とか実力派とか褒めたりね。でも逆はないんだ。障害者が健常者を演じることって、ないんだよ」

「僕、先輩の声はすごいと思います。演技も、本物みたいで」

「ありがとう。あたしには声しかないからね」

 どこか遠くを見たまま、先輩は応えた。

「あたしね、足のこと人に言いたくないんだ。知られちゃうと、そこしか見られなくなる気がする。あたし自身、事故で障害を負った俳優さんやアイドルのこと、心の底から尊敬してるし、応援してる。でも、あたしが見てるのはその人自身? それともその人の障害? ときどきわかんなくなる。周りからあたしもそう見られるってわかってたから、高校は中学とは別のところにした。目立っちゃうからね、一年遅れって」

 一年遅れ。
 そうか。
 そうだったんだ。

 くらら先輩と怜先輩は、姉弟みたいに育った従姉弟だと聞いていた。
 同い年だけどくらら先輩がお姉さん風を吹かせているのだろうと、そんなふうに思っていた。

 本当に、くらら先輩のほうが『お姉さん』だったんだ。

「リハビリもあって半年入院しててね。ま、おかげで遠衛では怜ちゃんとクラスメイトになれたんだけど」

 無理やりな明るい声に、僕は引きつった笑顔しか返すことができなかった。

「あたしの夢はね、怜ちゃんの書いた物語を世界に伝えること。ここに、こんなにも素敵なお話があるんだよって、あたしの声で伝えたい。そのために生きてるの」

「なんでわたしたちに、そんな大事なお話を?」

 しばらく黙していた西町さんが、ここに来てようやく言葉を発した。
 息が詰まったような、気道が細く窄まったような、そんな声だった。

「大事な後輩だからだよ」

 それは気持ちのこもった声だった。
 真心とか、誠意とか、そして親しみとか。

 でも、それ以外のものがそこにはあった。
 相手は、声にあらゆる感情を載せられるくらら先輩だ。
 その声に感じられるものが、錯覚であろうはずもない。

「怜ちゃんとはね、前から相談してたんだ。いつあたしたちのことを話そうかって。怜ちゃんはもっと後でいいって言ってたんだけど、あたしは逆。早いほうがいいと思った。黙ってる時間がながければ長いほど、いざ知らされたとき『何でいままで黙ってたんだ』って裏切られた気分になる。それは、嫌だなって思ったの」

 僕と西町さんのことを思いやる言葉。
 その言葉を紡ぐ声には。

 明確な拒絶があった。
 これ以上、君たちが近づける余地はない。

 このままでいようね。

 そんな響きが、確かに込められていた。

「あ」

 先輩の口から、歓喜の声が漏れる。

 視線の先を追う。
 児童書スペースの入り口に、怜先輩が立っていた。

「話は終わったか」

「うん」

 僕たちに向けるのとは違う、半オクターブほど低い声。
 よそ行きではない声。
 吹雪の中を帰ってきた彼に、暖炉のそばから彼女がかけるような声。

「おまたせ、怜ちゃん」

 くらら先輩が立ちあがり、積んでいた本を抱えようとする。

 慌てて僕も立つ。

 が、それより早く怜先輩が駆け寄り、代わりに本の山を抱え持つ。

「ありがとう。環くんは、本当にいい後輩だね」

 怜先輩の隣から、くらら先輩が笑みを僕へと向ける。

 その声は。
 天使のさえずりのように玲瓏なソプラノだった。