好きな人の好きな人を好きな人

「……こんにちは」
 ドアを開け、部室に入る。

「……こんにちは」
 西町さんはブレザーを脱ぎ、怜先輩がいつも座る席の背もたれにそっと掛けた。

「先輩たちは?」
 椅子を引きだし、腰を下ろす。

「図書室に行ってます」
 西町さんも僕の右隣、自分の席についた。

 あくまでも自然体を装うため、自席に置いてあった文庫本を手にとる。
 もう読み終わっている本だけど。
 西町さんも、僕の横で本を開いた。

 窓の外からテニスボールの音と「あと一本!」「ナイッサー」という声が聞こえる。

「……無理があるよ!」
 突然、西町さんが叫んだ。

「環くん、いま見たでしょう。流せるレベルの事故じゃないよ!」
 文庫本をとり落とし、バンと机を平手で叩く西町さん。

「事故じゃないよね。事件性があったと思う」

「あれは事故、ただの不幸な事故!」

「怜先輩のブレザーを羽織ってクンクン嗅いでたよね」

「わざわざ言わなくていいから!」
 と、西町さんは両手で頭を抱えこんでしまった。

 僕は目撃したばかりの事件よりも、西町さんの態度の豹変に驚いていた。
 普段の丁寧な口調と優雅な立ち居振る舞いはどこへやら。
 いまの西町さんはただのリアクション芸人だった。

「……ひとまず落ち着いて、現状を整理しましょう」

「西町さん、怜先輩のことが好きだったんだね」

「だから落ち着いて。アクセル踏まないで!」

 バンバン叩かれる机がかわいそうになってきた。

「環くん、けっこうSっ気あるんだね。知らなかった……」

「ごめん。落ち着いてるように見えるかもだけど、僕も内心めちゃくちゃ動揺してるから」

 冷静とかマイペースとか、僕はそう評されることが多い。
 誤解もいいところだ。実際はただ表情に出にくいだけで、いまだって心の中では感情と思考が洗濯機のように渦巻いている。
 孤高の存在みたいな人が犯罪スレズレの変態行為をキメてるのを目撃したら、誰だってパニックになる。
 ついでに、そんな高嶺の花のヒロイン風味な人の純真無垢な恋心を知ってしまったのだから、胸はキュンキュンするに決まってる。

 いや、嘘だ。
 純真無垢はない。
 だいぶ妄想入ってるし、なんなら変態に片足突っこんでるし。
 ついついイメージ先行で言葉を選んでしまった。これだから美人はズルい。

 と、大きく息を吸って吐いた西町さんが、ジロリと横目で僕をにらみつけた。

「……そうだよ。認める。悪い?」

「ブレザー事件のこと?」

「違うよ! そうじゃなくて、その、怜先輩のことが……」

「ああ。先輩のことがす……いや、そういうことね」

 『好き』という単語をかろうじて飲みこむ。
 西町さんの言うとおり、僕も彼女もそろそろ落ち着いたほうがいいだろうから。

 それにしても、西町さんが怜先輩のことを好きだとは。
 意外といえば意外だったけれど、納得もした。

 文芸部は二年生の先輩二人を中心に回っている。
 奥津くらら先輩と北守怜先輩。二人は幼なじみらしい。
 元気いっぱい天真爛漫、行動的でみんなを引っぱる部長のくらら先輩。
 物静かで知的でクール、だけど面倒見がよい副部長の怜先輩。

 会話の中心はいつも二人で、合間合間に話をふられた僕や西町さんが応えるのがいつものパターン。
 西町さんはいつも言葉少なに、しかし丁寧に受け答えをしていた。
 礼儀正しく、空気は壊さず、しかし一線を引く。大人な態度だと思っていた。
 まさか怜先輩に思いを寄せているなんて、予想だにしなかった。

 しかし一方で納得もできた。
 納得というか、お似合いだと思ったというか。
 涼しい目許の文学青年である怜先輩。
 『カワイイ』より『美人』な西町さん。
 例えば二人がクラシックな喫茶店で向かい合って本でも読んでいたら、実に絵になる。

 是非とも実現してほしい光景だ。
 だって二人がもしつきあうようになってくれたら。
 そうしたら、くらら先輩はフリーになって……。

「環くん、いま都合のいいこと考えてない?」

 不意に西町さんがのぞきこんできた。
 眉根を寄せ、強い目力で僕をにらみつけてくる。

「……そんな都合よくいくなんて、思ってないよ?」
 目をそらし頭を振って否定すると、西町さんは「はぁ」と聞えよがしにため息をついた。

「脅迫しようだなんて無駄だから。別にわたし知られたってかまわないし」
 そして西町さんは、ガタンと乱暴に席を立った。

 もしかしたら彼女は勘違いしているのかもしれない。
 『ブレザー事件をネタに脅迫してやるぜぐへへ』とか僕が企んでいると、そう勘違いしていそうだ。

「西町さん。僕、脅迫する気なんてないよ」

「もし誰かに今日のこと聞かれたら、環くんが言いふらしたって思うから。そうしたら絶対許さない」

 西町さんは僕の言葉に耳を貸してはくれなかった。
 自分の言いたいことだけ言って、仁王立ちで僕を見下ろしている。

「今日のことは忘れたほうが身のためだよ。じゃあね」

 そう言い残して西町さんは出ていった。

「……人脅すの、慣れてなさそうだなあ」

 思わずひとりごちる。

 だって西町さん、知られたってかまわないんじゃないの。
 なのに誰かに話したら許さないって、いきなり矛盾してるよ。

 しかも西町さん、僕と取り引きするような材料持ってないでしょ。
 たとえブラフでも、何か弱みを知ってるフリとかすればよかったのに。

 なんて冷静ぶって分析してはいるけれど。

「あー、怖かった」

 僕だって脅迫を受けるのに慣れているわけじゃない。

 そりゃあ経験自体はいくらでもある。
 中学時代、僕はサッカー部に所属していた。サッカーの試合中、ごつい相手に舌打ちされたり、にらまれたり、凄まれたり、ぶつかられたりはしょっちゅうだった。

 だからといって慣れるわけじゃない。
 怖いものは怖い。

 それにさっきの西町さんには、わかりやすい暴力とは違う迫力があった。
 その迫力が何かといえば。

「やっぱり美人はズルいよ」

 自分より格上と認識してしまった相手に対する萎縮としかいえないものだった。

 だって相手は西町さんだ。
 稀に見る『美人』。
 孤高の人。
 みんなにとっての高嶺の花。
 あと身長が高い。一七〇センチあるかないかの僕より少し低いくらい。

 でもそれだけじゃない。

 西町さんの声にはアツさがあった。
 必死で、切実で、欠けていて、掛けていて、賭けていた。

 彼女はまるでヒロインのようだった。
 僕は、その熱量に気圧された。