翌日の放課後。
文芸部の部室には誰もいなかった。
職員室で鍵を借り、一人部室に入る。
つい先ほどまでは教室の喧騒の中にいた。
教室は楽しい。
誰かとおしゃべりするのは好きだ。
騒がしいのも嫌いじゃない。
休み時間によくつるむ男連中、麻利衣や希恵ちゃんと仲のいい女子たち。
入り混じって誰彼となく話し声がとびかう教室が好きだ。
とはいってもだ。
楽しくても疲れるものは疲れる。
喧騒とひとまとめにできれば楽だけど、教室の中を往来する言葉の一つ一つには意味がある。
僕は耳がいい。
というより目が悪い分、耳に頼っている。
何もかもを聞こうとしてしまう耳には休息が必要だ。
耳掛けヘッドフォンをつける。
ノイズ・キャンセリングが始まると、窓の外、廊下の向こうのざわめきが遠のいていく。
耳許で流れる、寄せては返す波の音。
お気に入りの環境音だ。
どれくらい浜辺に佇んでいただろう。
不意に、トントンと肩を叩かれた。
「や」
片手を上げた西町さんが自分の席につく。
僕の右、廊下側の席が西町さんの席だ。
耳から外し首にかけたヘッドフォンを、西町さんが指さす。
「前島くんって教室でもよく音楽聞いてるよね」
「あ、まだ名字呼びやめないんだね。前島って発音しにくくない?」
昔から僕は名字ではなく名前で呼ばれることが多い。
『まえじま』というのはよくある名字だけど、地味に発音しにくいし省略してあだ名にするのもしっくりこない。
だから僕は『たまき』と呼ばれやすい。
ずっとつるんでいるコーイチが大声で『たまき』、『たまき』と連呼するのも一因だろう。
僕自身『たまき』と呼ばれるほうがしっくりくる。
文芸部での最初の自己紹介のとき、僕は自分から『たまき』と呼んでほしいと挨拶をした。
正直にいえば、ただ単にくらら先輩から下の名前で呼ばれたかったというのもあるけれど。
「名字呼び、面倒だから戻していい? で、環くん。いつもどんな音楽聞いてるの?」
机に置いたままのヘッドフォンのうち右耳用を西町さんが手にとる。
僕の顔を覗きこみ、無言のまま『いい?』と首をかしげてきたので、手で『どうぞ』と返事をする。
僕は僕で、残った左耳用のヘッドフォンを耳にかけ直す。
左側に座る僕が左耳に、右側の西町さんが右耳にかけているせいで、僕たちの距離は肩が触れそうなほど近くなる。
できる限り距離をとろうと離れると、コードがピンと張り詰める。
「……何これ。波の音?」
「1/fゆらぎって知ってる? 人間が心地よいと感じる音の周波数。波とか雨、焚き火、川のせせらぎなんかの自然音に含まれてるんだ。人間の心拍音にもね」
「環くん、病んでるの?」
「雑音とか人の声とか、ずっと聞いてると疲れちゃうでしょ。だからこういうので耳を休めてるんだ。赤ん坊のとき母胎の中で聞いた音だから、こういうの聞いてると落ち着くらしいよ」
「環くん、病んでるね?」
かわいそうなものを見る目で僕を見てから、西町さんはスマホをイジり始めた。
「……まあ、こういうの聞いてるのも悪くないね」
「でしょ? で、何見てるの?」
「写真だよ。こないだお出かけしたとき撮ったやつ」
西町さんはこちらへ見せているつもりはないようだけど、これだけ近くにいるとどうしても画面は見えてしまう。
指が左右するする度に映し出されるのは、どれも怜先輩の横顔だった。
「見事にカメラ目線が一枚もないね。盗撮ばっかじゃん」
スマホを抱きかかえ、僕の視界から隠そうとする西町さん。
「勝手に見ないでくださる? 覗き魔さん」
「勝手に撮るのはどうなの? 盗撮魔さん」
「だいじょうぶ。女子高生がやったら純愛だよ」
「西町さん学生証を免罪符だと思ってない? 高校卒業したらどうするの?」
「スマホのアルバムは持ち主の視覚そのもの。プライバシーの中のプライバシー。絶対見ちゃダメなんだよ」
「西町さん昨日僕のアルバム見たよね?」
「まさか素直に見せてくれるとは思わなかったよ」
「西町さんも素直に見せて。検閲が必要です」
「やめてくださーい。きゃー覗き魔でーす」
僕が手を伸ばすと、西町さんは棒読みのセリフを吐きながら、スマホを持つ右手を遠ざけた。
と、ちょうどそのとき部室のドアが開けられた。
姿を現す先輩二人。
それぞれの耳にヘッドフォンをかけ、もつれあっている後輩二人。
「どうしたのお二人さん、最近仲よしじゃん!」
「からかってやるなよ、くらら」
ご機嫌な声ではしゃぐくらら先輩。
気まずそうに「こほん」と咳ばらいをする怜先輩。
西町さんはそっとヘッドフォンを机に置き、自席でピンと真っ直ぐ背筋を伸ばし、楚々とした佇まいを整えた。
「……もう手遅れだよ」
「次半径三メートル以内に近づいたら通報します」
僕のぼやきに、西町さんは不穏なつぶやきを返してきた。
半径三メートルは勘弁してほしい。
それだと部室にいるだけで警察沙汰だ。
「怜ちゃん、まだ書いてるの?」
「まだって。そう簡単には書き終わらないし、書き終わったらまたすぐ次を書き始めるんだよ」
先輩たちは各自の席に着き、荷物を広げながら雑談を始めた。
いつもどおりの部活の光景だ。
と、机の下で西町さんがスマホを突きだしてくる。
どうしたのか訊こうと顔を見ると、彼女は空いた右手で『シー』とジェスチャ。
スマホの画面を見ろということか。
横目でちらりと伺うと、画面にはテキストが表示されていた。
『くらら先輩を週末デートに誘え。そしたら通報は勘弁してあげる』
酷い脅迫だ。
さっきのは事故。僕は何も悪くないのに。
と、更にメッセージ。
『昨日のセクハラも目をつむりましょう』
いやいや。
あれも事故だって。
というか自業自得でしょ。
スカートのままボールを蹴った自分が悪い。
という反論をこの場でするのも難しい。
「あの、くらら先輩、怜先輩」
先輩たちの雑談が途切れた隙を狙って声をかける。
二人が視線をあげ、僕を見る。
「今週末ってお暇ですか? また皆で遊びに行けないかなって思いまして」
先輩たちが目を見開く。
それはそうだ。
これまで僕がこんな提案をすることなんてなかったのだから。
「悪いが原稿の進みが、」
「あたしたちは二人とも大丈夫!」
何かを言いかけた怜先輩を遮り、くらら先輩は元気にサムズ・アップをしてみせた。
「環くん、ナイス提案! こないだは本屋さんに行ったから、次はどうしようか?」
「あのなあ、僕たち文芸部だぞ? 外出ばっかりしてどうするんだ」
渋る怜先輩。
先日ザザシティにお出かけしたとき、くらら先輩から聞いた話を思い出す。
怜先輩は、放課後や週末の間ずっと机にかじりつき小説を書き続けている。
そして、くらら先輩は人生経験と人間観察をさせるため、怜先輩を外に連れ出そうとしている。
外出の提案をすればくらら先輩が喜ぶ。
いまもほら、満足げな笑みを浮かべている。
先輩は天使。
だから僕はお出かけを提案した。
西町さんの脅迫に屈したわけではない。
「わたしも週末は空いているので、遊びに行きたいです。もっとこちらのことも知りたいですし」
小さく挙手をする西町さん。
殊勝な後輩お嬢さんのキャラはまだ継続する気のようだ。
怜先輩は「ん」と眉根を寄せていたが、数秒後にため息をつき、肩の力を抜いた。
「……三人ともそう言うなら。ま、ちょうどいい。図書館に行きたかったんだ」
「じゃあ決まり! 今日は週末のプランを考えましょう」
一片の陰りもない、夏の陽光のようなくらら先輩の声。
その声を聞くためなら、僕はきっと何でもできる。
文芸部の部室には誰もいなかった。
職員室で鍵を借り、一人部室に入る。
つい先ほどまでは教室の喧騒の中にいた。
教室は楽しい。
誰かとおしゃべりするのは好きだ。
騒がしいのも嫌いじゃない。
休み時間によくつるむ男連中、麻利衣や希恵ちゃんと仲のいい女子たち。
入り混じって誰彼となく話し声がとびかう教室が好きだ。
とはいってもだ。
楽しくても疲れるものは疲れる。
喧騒とひとまとめにできれば楽だけど、教室の中を往来する言葉の一つ一つには意味がある。
僕は耳がいい。
というより目が悪い分、耳に頼っている。
何もかもを聞こうとしてしまう耳には休息が必要だ。
耳掛けヘッドフォンをつける。
ノイズ・キャンセリングが始まると、窓の外、廊下の向こうのざわめきが遠のいていく。
耳許で流れる、寄せては返す波の音。
お気に入りの環境音だ。
どれくらい浜辺に佇んでいただろう。
不意に、トントンと肩を叩かれた。
「や」
片手を上げた西町さんが自分の席につく。
僕の右、廊下側の席が西町さんの席だ。
耳から外し首にかけたヘッドフォンを、西町さんが指さす。
「前島くんって教室でもよく音楽聞いてるよね」
「あ、まだ名字呼びやめないんだね。前島って発音しにくくない?」
昔から僕は名字ではなく名前で呼ばれることが多い。
『まえじま』というのはよくある名字だけど、地味に発音しにくいし省略してあだ名にするのもしっくりこない。
だから僕は『たまき』と呼ばれやすい。
ずっとつるんでいるコーイチが大声で『たまき』、『たまき』と連呼するのも一因だろう。
僕自身『たまき』と呼ばれるほうがしっくりくる。
文芸部での最初の自己紹介のとき、僕は自分から『たまき』と呼んでほしいと挨拶をした。
正直にいえば、ただ単にくらら先輩から下の名前で呼ばれたかったというのもあるけれど。
「名字呼び、面倒だから戻していい? で、環くん。いつもどんな音楽聞いてるの?」
机に置いたままのヘッドフォンのうち右耳用を西町さんが手にとる。
僕の顔を覗きこみ、無言のまま『いい?』と首をかしげてきたので、手で『どうぞ』と返事をする。
僕は僕で、残った左耳用のヘッドフォンを耳にかけ直す。
左側に座る僕が左耳に、右側の西町さんが右耳にかけているせいで、僕たちの距離は肩が触れそうなほど近くなる。
できる限り距離をとろうと離れると、コードがピンと張り詰める。
「……何これ。波の音?」
「1/fゆらぎって知ってる? 人間が心地よいと感じる音の周波数。波とか雨、焚き火、川のせせらぎなんかの自然音に含まれてるんだ。人間の心拍音にもね」
「環くん、病んでるの?」
「雑音とか人の声とか、ずっと聞いてると疲れちゃうでしょ。だからこういうので耳を休めてるんだ。赤ん坊のとき母胎の中で聞いた音だから、こういうの聞いてると落ち着くらしいよ」
「環くん、病んでるね?」
かわいそうなものを見る目で僕を見てから、西町さんはスマホをイジり始めた。
「……まあ、こういうの聞いてるのも悪くないね」
「でしょ? で、何見てるの?」
「写真だよ。こないだお出かけしたとき撮ったやつ」
西町さんはこちらへ見せているつもりはないようだけど、これだけ近くにいるとどうしても画面は見えてしまう。
指が左右するする度に映し出されるのは、どれも怜先輩の横顔だった。
「見事にカメラ目線が一枚もないね。盗撮ばっかじゃん」
スマホを抱きかかえ、僕の視界から隠そうとする西町さん。
「勝手に見ないでくださる? 覗き魔さん」
「勝手に撮るのはどうなの? 盗撮魔さん」
「だいじょうぶ。女子高生がやったら純愛だよ」
「西町さん学生証を免罪符だと思ってない? 高校卒業したらどうするの?」
「スマホのアルバムは持ち主の視覚そのもの。プライバシーの中のプライバシー。絶対見ちゃダメなんだよ」
「西町さん昨日僕のアルバム見たよね?」
「まさか素直に見せてくれるとは思わなかったよ」
「西町さんも素直に見せて。検閲が必要です」
「やめてくださーい。きゃー覗き魔でーす」
僕が手を伸ばすと、西町さんは棒読みのセリフを吐きながら、スマホを持つ右手を遠ざけた。
と、ちょうどそのとき部室のドアが開けられた。
姿を現す先輩二人。
それぞれの耳にヘッドフォンをかけ、もつれあっている後輩二人。
「どうしたのお二人さん、最近仲よしじゃん!」
「からかってやるなよ、くらら」
ご機嫌な声ではしゃぐくらら先輩。
気まずそうに「こほん」と咳ばらいをする怜先輩。
西町さんはそっとヘッドフォンを机に置き、自席でピンと真っ直ぐ背筋を伸ばし、楚々とした佇まいを整えた。
「……もう手遅れだよ」
「次半径三メートル以内に近づいたら通報します」
僕のぼやきに、西町さんは不穏なつぶやきを返してきた。
半径三メートルは勘弁してほしい。
それだと部室にいるだけで警察沙汰だ。
「怜ちゃん、まだ書いてるの?」
「まだって。そう簡単には書き終わらないし、書き終わったらまたすぐ次を書き始めるんだよ」
先輩たちは各自の席に着き、荷物を広げながら雑談を始めた。
いつもどおりの部活の光景だ。
と、机の下で西町さんがスマホを突きだしてくる。
どうしたのか訊こうと顔を見ると、彼女は空いた右手で『シー』とジェスチャ。
スマホの画面を見ろということか。
横目でちらりと伺うと、画面にはテキストが表示されていた。
『くらら先輩を週末デートに誘え。そしたら通報は勘弁してあげる』
酷い脅迫だ。
さっきのは事故。僕は何も悪くないのに。
と、更にメッセージ。
『昨日のセクハラも目をつむりましょう』
いやいや。
あれも事故だって。
というか自業自得でしょ。
スカートのままボールを蹴った自分が悪い。
という反論をこの場でするのも難しい。
「あの、くらら先輩、怜先輩」
先輩たちの雑談が途切れた隙を狙って声をかける。
二人が視線をあげ、僕を見る。
「今週末ってお暇ですか? また皆で遊びに行けないかなって思いまして」
先輩たちが目を見開く。
それはそうだ。
これまで僕がこんな提案をすることなんてなかったのだから。
「悪いが原稿の進みが、」
「あたしたちは二人とも大丈夫!」
何かを言いかけた怜先輩を遮り、くらら先輩は元気にサムズ・アップをしてみせた。
「環くん、ナイス提案! こないだは本屋さんに行ったから、次はどうしようか?」
「あのなあ、僕たち文芸部だぞ? 外出ばっかりしてどうするんだ」
渋る怜先輩。
先日ザザシティにお出かけしたとき、くらら先輩から聞いた話を思い出す。
怜先輩は、放課後や週末の間ずっと机にかじりつき小説を書き続けている。
そして、くらら先輩は人生経験と人間観察をさせるため、怜先輩を外に連れ出そうとしている。
外出の提案をすればくらら先輩が喜ぶ。
いまもほら、満足げな笑みを浮かべている。
先輩は天使。
だから僕はお出かけを提案した。
西町さんの脅迫に屈したわけではない。
「わたしも週末は空いているので、遊びに行きたいです。もっとこちらのことも知りたいですし」
小さく挙手をする西町さん。
殊勝な後輩お嬢さんのキャラはまだ継続する気のようだ。
怜先輩は「ん」と眉根を寄せていたが、数秒後にため息をつき、肩の力を抜いた。
「……三人ともそう言うなら。ま、ちょうどいい。図書館に行きたかったんだ」
「じゃあ決まり! 今日は週末のプランを考えましょう」
一片の陰りもない、夏の陽光のようなくらら先輩の声。
その声を聞くためなら、僕はきっと何でもできる。


