放課後の校舎は喧騒に満ちている。
ざわめき。足音。かけ声。笑い声。遠くから響く管楽器の音合わせ。
絡みあう雑多な音たちが、不思議と調和を成している。
吹奏楽に合わせて鼻歌をこぼす。
遠衛学園高等部文芸部の部室は、教室棟の三階にある。
四階にある一年三組の教室からは、校舎隅の階段を下りていく。
部室に近づいたとき、
「――先輩」
不意に部室の中から声がした。
「――嬉しいです。わたし、ずっとこうなりたかった」
僕は目が悪い。
ソフトのコンタクトレンズを入れているが、それでも視力は1.0がやっと。
代わりといってはなんだけど、耳はいいほうだ。
小さい音でも聞こえるし、音のする方向や声の主を聞きわけるのを得意としている。
だからドア越しの小さな声であっても、その主が誰かはすぐにわかった。
間違いない。
その声は、西町さんのものだった。
西町さんはヒロインみたいな人だ。
背がすらりと高く、背中まで伸びたセミロングは少し茶色がかっている。
目は切れ長で『カワイイ』というより『美人』。
浜松なんていう地方の町にはにあわない華がある人。
それもそのはず。
中学まではずっと東京にいたという。
本人から聞いたわけじゃない。
周りの女子がそう噂していた。
高校入学からもう一ヶ月が経つけれど、西町さんとはまともに話したことがない。
同じクラスで同じ文芸部員だけど、交わす言葉はいつも一往復か二往復。
そのうち一回は『はい』か『いいえ』だし、会話に含まれる情報量なんてスズメの涙。
僕は西町さんのことをよく知らないし、西町さんだってきっと僕のことなんてよく知らない。
もっとも、彼女に関する噂だけはよく耳にする。
イケメンの先輩に呼び出されて告白されたとか、チャラい同級生に告白されたとか、中等部のカワイイ系の後輩に告白されたとか、そのいずれも断ったのは東京に彼氏がいるからだとか。
ついでにいえば、西町さんはお高くとまっていて、調子に乗っていて、周りをバカにしていると、そんな噂をよく聞いた。
本当かどうかは知らない。
西町さんは、教室ではいつも文庫本を読んでいる。
窓際の席で、周囲の喧騒をよそに、背筋をピンと伸ばし、ときどき落ちてくる髪をかきあげて。
実に絵になる。
文芸部の部室でも、西町さんは静かに本を読んでいる。
先輩たちが雑談しているときは、口許に手を当てて小さく笑っている。
部室で一度、西町さんが落としたペンを拾ったことがある。
文芸部で西町さんはいつも僕の右の席に座る。
彼女は左利き。ペンは僕と西町さんのちょうど真ん中に落ちた。
僕が拾おうとすると、西町さんもちょうど手を伸ばしていて、指先が触れそうになった。
西町さんはピクッと手を引っ込め、僕からペンを受けとった。
彼女は『ありがとうございます』と上品な笑顔を向けたあと、少しだけ椅子をズラして僕から遠ざかった。
さすがに少し傷ついた。
高嶺の花というのはちょっと違うかもしれない。
高嶺の花という言葉には、手に入れたいけど手が届かない、そんなニュアンスが含まれる。
でも僕は手を伸ばそうとなんてしていない。
高校に入ってすぐ、僕は恋をした。
相手は文芸部二年生の奥津くらら先輩。
少しでもお近づきになろうと、僕は文芸部に入った。
その部活にいた同じクラスの同級生。
西町さんは、それ以上の人じゃない。
西町さんはヒロインみたいな人だ。
でもヒロインじゃない。
少なくとも、僕にとっては。
「――こうしてると、怜先輩の香りに包みこまれてるみたい」
昂り。蕩け。恍惚。
部室から漏れ聞こえる声には熱量があった。
直感的に思った。
これはやばい。これはアレだ。金曜日にセンテンスが春なやつ。
文芸部には二年生の先輩が二人いる。
男女一人ずつ。女子がくらら先輩で、男子のほうが北守怜先輩だ。
怜先輩は物静かで知的な人。
細い銀縁のメガネを親指と中指で持ち上げるのがクセで、明治大正の文学青年みたいな人。
クールはクールだけど、冷たかったり嫌味だったりはせず、難しい本が苦手な僕に対しても『無理に読むことはない。読書は楽しんでこそだ』と微笑みかけてくれる優しい先輩。
間違っても、部室で後輩女子を包みこんじゃうような人じゃない。
ついさっきまでそう信じてた。
ちょっと裏切られたショックはあるけれど、ある意味でこれはチャンスだ。
文芸部の二年生はくらら先輩と怜先輩だけ。
一年生は西町さんと僕だけ。
三年生の先輩も二人いるけど引退状態。
もし怜先輩のスキャンダルが発覚したら……じゃない、部員四人のうち怜先輩と西町さんがくっついたら。
残りはくらら先輩と僕だけになる。
「――先輩、わたし、いつかは東京へ帰るから」
部室にそっと近寄る。
横開きのドアにはのぞき窓がついている。
いやいやダメでしょ。のぞきはよくない。
聞かなかったことにして帰ろう。そうしよう。
「――いまは、思い出をください」
西町さんの声音は真剣で、そこには身を切られるような切実さがあった。
ヒロインみたいだと、思った。
だからこそ邪魔しちゃいけない。
のぞき見なんてしちゃいけない。
そう思う一方で、僕の耳と心は西町さんの熱量に惹かれていた。
中腰で部室のドアにへばりつき、少しずつ腰を上げてのぞき窓に顔を近づける。
よくないとわかってはいるけれど、ほんのひと目だけ。
だから僕は、のぞき窓からそっと中を……。
「ひぇっ」
部室には西町さんがいた。
西町さんだけがいた。
西町さんは一人、サイズの大きな男子制服のブレザーをはおり自分自身を抱きかかえていた。
そして丈の余った袖を鼻先にやり、ブレザーの香りをテイスティングしていた。
そんな光景を見た僕は当然悲鳴をあげ、当然西町さんはこちらを見た。
のぞき窓越しに目があう。
「ぐぁ」
西町さんは、豆鉄砲を食らったアヒルのような呻き声をあげた。
僕の中の西町さん像がイメージが一瞬にして粉々になるような声だった。
ざわめき。足音。かけ声。笑い声。遠くから響く管楽器の音合わせ。
絡みあう雑多な音たちが、不思議と調和を成している。
吹奏楽に合わせて鼻歌をこぼす。
遠衛学園高等部文芸部の部室は、教室棟の三階にある。
四階にある一年三組の教室からは、校舎隅の階段を下りていく。
部室に近づいたとき、
「――先輩」
不意に部室の中から声がした。
「――嬉しいです。わたし、ずっとこうなりたかった」
僕は目が悪い。
ソフトのコンタクトレンズを入れているが、それでも視力は1.0がやっと。
代わりといってはなんだけど、耳はいいほうだ。
小さい音でも聞こえるし、音のする方向や声の主を聞きわけるのを得意としている。
だからドア越しの小さな声であっても、その主が誰かはすぐにわかった。
間違いない。
その声は、西町さんのものだった。
西町さんはヒロインみたいな人だ。
背がすらりと高く、背中まで伸びたセミロングは少し茶色がかっている。
目は切れ長で『カワイイ』というより『美人』。
浜松なんていう地方の町にはにあわない華がある人。
それもそのはず。
中学まではずっと東京にいたという。
本人から聞いたわけじゃない。
周りの女子がそう噂していた。
高校入学からもう一ヶ月が経つけれど、西町さんとはまともに話したことがない。
同じクラスで同じ文芸部員だけど、交わす言葉はいつも一往復か二往復。
そのうち一回は『はい』か『いいえ』だし、会話に含まれる情報量なんてスズメの涙。
僕は西町さんのことをよく知らないし、西町さんだってきっと僕のことなんてよく知らない。
もっとも、彼女に関する噂だけはよく耳にする。
イケメンの先輩に呼び出されて告白されたとか、チャラい同級生に告白されたとか、中等部のカワイイ系の後輩に告白されたとか、そのいずれも断ったのは東京に彼氏がいるからだとか。
ついでにいえば、西町さんはお高くとまっていて、調子に乗っていて、周りをバカにしていると、そんな噂をよく聞いた。
本当かどうかは知らない。
西町さんは、教室ではいつも文庫本を読んでいる。
窓際の席で、周囲の喧騒をよそに、背筋をピンと伸ばし、ときどき落ちてくる髪をかきあげて。
実に絵になる。
文芸部の部室でも、西町さんは静かに本を読んでいる。
先輩たちが雑談しているときは、口許に手を当てて小さく笑っている。
部室で一度、西町さんが落としたペンを拾ったことがある。
文芸部で西町さんはいつも僕の右の席に座る。
彼女は左利き。ペンは僕と西町さんのちょうど真ん中に落ちた。
僕が拾おうとすると、西町さんもちょうど手を伸ばしていて、指先が触れそうになった。
西町さんはピクッと手を引っ込め、僕からペンを受けとった。
彼女は『ありがとうございます』と上品な笑顔を向けたあと、少しだけ椅子をズラして僕から遠ざかった。
さすがに少し傷ついた。
高嶺の花というのはちょっと違うかもしれない。
高嶺の花という言葉には、手に入れたいけど手が届かない、そんなニュアンスが含まれる。
でも僕は手を伸ばそうとなんてしていない。
高校に入ってすぐ、僕は恋をした。
相手は文芸部二年生の奥津くらら先輩。
少しでもお近づきになろうと、僕は文芸部に入った。
その部活にいた同じクラスの同級生。
西町さんは、それ以上の人じゃない。
西町さんはヒロインみたいな人だ。
でもヒロインじゃない。
少なくとも、僕にとっては。
「――こうしてると、怜先輩の香りに包みこまれてるみたい」
昂り。蕩け。恍惚。
部室から漏れ聞こえる声には熱量があった。
直感的に思った。
これはやばい。これはアレだ。金曜日にセンテンスが春なやつ。
文芸部には二年生の先輩が二人いる。
男女一人ずつ。女子がくらら先輩で、男子のほうが北守怜先輩だ。
怜先輩は物静かで知的な人。
細い銀縁のメガネを親指と中指で持ち上げるのがクセで、明治大正の文学青年みたいな人。
クールはクールだけど、冷たかったり嫌味だったりはせず、難しい本が苦手な僕に対しても『無理に読むことはない。読書は楽しんでこそだ』と微笑みかけてくれる優しい先輩。
間違っても、部室で後輩女子を包みこんじゃうような人じゃない。
ついさっきまでそう信じてた。
ちょっと裏切られたショックはあるけれど、ある意味でこれはチャンスだ。
文芸部の二年生はくらら先輩と怜先輩だけ。
一年生は西町さんと僕だけ。
三年生の先輩も二人いるけど引退状態。
もし怜先輩のスキャンダルが発覚したら……じゃない、部員四人のうち怜先輩と西町さんがくっついたら。
残りはくらら先輩と僕だけになる。
「――先輩、わたし、いつかは東京へ帰るから」
部室にそっと近寄る。
横開きのドアにはのぞき窓がついている。
いやいやダメでしょ。のぞきはよくない。
聞かなかったことにして帰ろう。そうしよう。
「――いまは、思い出をください」
西町さんの声音は真剣で、そこには身を切られるような切実さがあった。
ヒロインみたいだと、思った。
だからこそ邪魔しちゃいけない。
のぞき見なんてしちゃいけない。
そう思う一方で、僕の耳と心は西町さんの熱量に惹かれていた。
中腰で部室のドアにへばりつき、少しずつ腰を上げてのぞき窓に顔を近づける。
よくないとわかってはいるけれど、ほんのひと目だけ。
だから僕は、のぞき窓からそっと中を……。
「ひぇっ」
部室には西町さんがいた。
西町さんだけがいた。
西町さんは一人、サイズの大きな男子制服のブレザーをはおり自分自身を抱きかかえていた。
そして丈の余った袖を鼻先にやり、ブレザーの香りをテイスティングしていた。
そんな光景を見た僕は当然悲鳴をあげ、当然西町さんはこちらを見た。
のぞき窓越しに目があう。
「ぐぁ」
西町さんは、豆鉄砲を食らったアヒルのような呻き声をあげた。
僕の中の西町さん像がイメージが一瞬にして粉々になるような声だった。


