好きな人の好きな人を好きな人

 午後の授業の合間。十分の休み時間。
 たった十分しかないというのに、廊下は生徒たちで溢れている。

 移動教室というならわかる。
 トイレに行くのもわかる。
 でもわざわざ他のクラスにまで出向くのはわからない。

 休み時間なんだから休もうよ。
 僕だって普段なら環境音で耳を休めている。

 でも、いまは違う。休めていない。
 雑音だらけの廊下を、一年四組の教室へ向かっている。

 目の前にはコーイチの大きな背中。
 当然ながら、コーイチは休み時間を活動時間と認識しているタイプだ。

「邪魔するぞ、すまんな」

 ドア脇の女子にひと声かけ、一歩踏み込むコーイチ。

「岩切夏はいるか?」

 腹の底から響く声。
 グラウンドだったらいいけれど、教室では必要以上に響く。
 教室内の会話はぷつりと途切れ、注目が集まる。
 もちろんコーイチの斜め後ろに立つ僕にまで、視線のおこぼれがやってくる。

「俺だよ」

 と、窓の方から一人の男子生徒が歩み出てくる。

 スラリとした長身。
 制服を着ていてもわかる肩幅、腿の太さ。
 エアリーなミドルヘアをヘアバンドでアップにしている。
 うっすらと微笑んでいるような口元と、鋭い目つきのギャップ。

「お前か」

 コーイチの声音が少し鋭さを帯びる。
 歩み出てきた岩切くんは、先日食堂で希恵ちゃんに声をかけていたイケメンその人だった。

「何か用?」

 コーイチとまっすぐ向き合った岩切くんが、爽やかな笑顔を浮かべる。
 すごい。まるでビビっていない。

「突然すまんな。中学時代はジュニア・ユースにいたと聞いたが、本当か?」

 微かに頭を下げてから、コーイチは早速本題に入っていった。

 食堂でサッカー部復活に向けて話し合ったあの後、満は本当に有望なサッカー経験者を見つけ出してきた。
 プロクラブが持つジュニア・ユースにいたとなれば、その実力は折り紙つきだ。
 その話を聞いた直後、コーイチは僕を連れだして一年四組にまでやってきたというわけだ。

「……」

 仁王立ちのコーイチに相対する岩切くんは、一瞬だけ顔をしかめ、斜め上に視線を向けた。
 が、すぐに元通りの穏やかな表情を浮かべ、顎で廊下のほうを指した。

「ドアの前だと邪魔になるから、廊下に出ようか」

「そうだな」

 廊下の窓からは中庭を見下ろすことができる。
 さすがに授業間の十分休みに外へ出る生徒は少ない。

「岩切くん。いきなりでごめんね。僕は一年三組の前島環。上島中学校出身で、元サッカー部。よろしくね」

 どうにも剣呑な雰囲気になりつつあったので、クールダウンの意味もこめて自己紹介をしておく。

「よろしく。俺は岩切夏。中等部からの内部進学だよ。知ってるかもしれないけど」

 岩切くんは、小さくうなずき、柔らかい声音で応じてくれた。

「一年二組の蒲田航一郎だ。環と同じくカミチュー出身。遠衛でサッカー部を復活させたいと思っている」

 コーイチの意思表明を聞いた岩切くんは、ポケットに手を入れ、壁に持たれるように立った。

「さっきの質問だけど、ジュニア・ユースにいたのは確かだよ。でも、もうサッカーは止めたんだ」

「どうしてだ?」

 遠慮なく踏み込んでいくコーイチ。
 制服の裾をつかみ、「ちょっと」とたしなめる。

「深刻な理由じゃないから大丈夫だよ。怪我とか、家庭の事情とかじゃない。ただ単に飽きたんだ」

 目線を窓の外に向け、首を振る岩切くん。

「飽きた、だと?」

 心底わからないといった声音で復唱するコーイチ。

「……まあ、そういうこともあるか」

 しかしすぐに調子を変え、コーイチは「なるほどな」とうなずいた。
 こうした切り替えの早さがコーイチの美点だと思う。
 失点やミスの後でも、すぐ前向きになってくれるキャプテンは本当にありがたい。

「僕はジュニア・ユースがどんなか知らないけど、部活のサッカーはまた違うんじゃないかな。特に遠衛高等部なんてこれから部をつくっていく段階だし。岩切くんがサッカーに飽きてたとしても、これからはまた違う刺激があるかもしれないよ」

 コーイチをフォローするために、僕から提案してみる。
 岩切くんは少しの間黙ってから「いや」と応えた。

「環境じゃなくて、ボールを蹴ること自体に飽きちゃったんだよね。だから部活でも変わらないと思う」

「じゃあ仕方ないね」

 少し申し訳なさそうにする岩切くんに、これ以上はもう言えない。

「逆に俺からも訊いていいかな。何で俺を誘いに来たの? 俺、クラブを辞めて、部活が盛んじゃない遠衛で内部進学した人間だよ」

 それは確かに。
 満も言っていた。遠衛高等部を選ぶ時点で、もうサッカーをやる気はないだろうと。

「岩切がいれば勝てるからだ」

 コーイチは端的にそう答えた。
 歯切れよく、単刀直入で、迷いのない言葉。
 とにかくわかりやすい。

「だったら尚更やめたほうがいいよ。俺はチームを勝たせる選手じゃないからさ」

 と、岩切くんが大きくため息をついたところで、授業開始のチャイムが鳴った。

「じゃあ、これで。協力できなくて悪いとは思ってるんだよ」

 壁から背を離し、教室のドアへと体を向ける岩切くん。

「こちらこそいきなりすまなかったな。また来る」

 コーイチはそう言い残し、大股で去っていった。
 残された僕と岩切くんは、目を見合わせ苦笑いを交換した。

 岩切くんと別れ教室に戻ると、もう皆席について先生を待っているところだった。
 目があった希恵ちゃんが、小さく手を振ってくる。

「あ、しまった」

 その姿を見て、ふと思い出した。
 そうだ。何で岩切くんが希恵ちゃんに声をかけていたのか、聞こうと思っていたんだった。

 サッカーは止めたという岩切くん。
 だとしたら何故希恵ちゃんに幸クラブのことを訊いたのか。

 興味があるのは希恵ちゃん自身で、クラブのことは話しかけるきっかけ?

 そうじゃない。
 岩切くんは希恵ちゃんがクラブOGだと知っていた。

 誰かに聞いたからだ。
 彼は、サッカークラブに関係のある人間を探していた。

 サッカーにはもう飽きた。
 その言葉は本音に聞こえた。
 でも、きっと本心のすべてではない。