好きな人の好きな人を好きな人

 放課後。
 今日は日直だったので少し遅くなってしまった。
 気持ち早足で文芸部の部室に向かう。

「あ、環くん」

 文芸部の部室に入ると、西町さんがこちらを向いた。
 部室にいたのは西町さんだけで、くらら先輩や怜先輩の姿はなかった。

「先輩たち、いまは図書室に行ってるだけだよ。よかったね、環くん」

 嫌な感じに笑う西町さん。
 キミの考えなんて先刻承知といわんばかりの顔。

「そう。今日は日直だったから遅くなっちゃったんだよね」

 いちいち反応するとまたからかわれそうなので、適当な相槌で流して窓際へ向かう。
 開け放たれた窓から吹きこむ風が心地よい。
 放課後になったばかりだというのに、グラウンドにはもう人気がない。

「外なんか見ちゃって、どうしたの?」

 振り向くと、西町さんは文庫本を閉じ、こちらを見ていた。

「グラウンド、誰も使わないのもったいないなって思ってさ」

「そうだね」

 席を立った西町さんが、窓際にやってくる。

「入学してみてびっくりしたよ。サッカー部すらないなんて。このあたりはサッカーが盛んだと思ってたから」

「遠衛だけだよ。昨年廃部になったんだってさ。僕の仲間がいま復活させようと奔走してるよ」

「キミのお仲間、アツいね。環くんも協力してるの?」

「まあ、ボチボチと。僕も中学まではサッカー部だったしね」

「そうだったの? ちょっと意外かも」

 隣に立つ西町さんは「へえ」と目を見開いた。

「ポジションは?」

「ボランチだよ。えっと、守備的な中盤ね」

「大丈夫、わかるよ。わたし、サッカー見るの好きだし、中学まではフットサルもやってたからね」

「それこそ、ちょっと意外だよ」

 フットサルというのはサッカーのミニチュアみたいなスポーツだ。
 屋内、ハンドボールと同じくらいのコート、五人対五人、ボールは小さめの四号球。
 サッカーより手軽にできるから、一般参加の大会などもよく開催されている。
 サッカーとは違い、基本的にボディ・コンタクトは禁止ということもあり、女子のプレーヤもけっこういるとは知っていた。

 でもまさか、西町さんがプレーヤとしてボールを蹴っていたとは。
 本当に意外だ。
 僕の中ではまだストーカーよりお嬢さまのイメージが強いから。

「母方のお祖父ちゃんがイングランド人でね、生粋のロンドンっ子でグンナーなの。毎年アーセナルの公式ユニフォームをわたし宛に送ってくるんですよ。そんな英才教育のおかげで、気がついたらボール蹴ってたんだ。でも女子サッカーってプレーヤ人口少ないからね。手軽なフットサルをやっていたというわけ」

 情報量が多すぎる。
 少しつつくだけで、西町さんからはドバドバと情報が溢れ出てくる。

「西町さん、クォーターなんだね」

 髪や肌の色素が薄いのは、血筋から来ているのかもしれない。

 と、ちょうどそのとき部室のドアが開いた。

「あ、環くんも来てくれたんだね。一年生二人が参加率高くて、お姉さんは嬉しいよ!」

 親しみ、喜び、驚き、嬉しさ。
 種々の感情を織り込んだくらら先輩の声。

 今日は文芸部に来てよかった。
 これを聞かないと一日が始まらない。
 もう放課後だけど。

「こんにちは。先輩たちは、図書室に行ってたんですよね」

 各々の席に向かう先輩たちに問いかける。

「文芸誌の新刊を見に行ったんだが……今年度から買わなくなってしまったらしい」

「まーしょうがないよね。うちの学校で文芸誌を読むのなんて怜ちゃんくらいだし」

 しょんぼり声の怜先輩の肩を、くらら先輩がポンポンと叩く。
 その何気ないスキンシップが、どうしようもなく僕の心をざわつかせる。

「文芸誌って本屋さんだったら置いているものですか?」

 西町さんが小首を傾げつつ尋ねる。
 視線の向き先は怜先輩狙い撃ちで。

「そうだな。割とメジャーな雑誌だし、大きな本屋ならあるんじゃないかな」

 顎に手をやりながら怜先輩が応える。

「よければ明日連れて行ってもらえませんか? わたし、こちらの大きな本屋を知らなくて」

 うわ。西町さん、ぶっこんだな。

 跳ねるように明るく、そして甘えのこもった声。
 そんな声音は初めて聞いた。

 不意に、寒気がした。
 何だろうとあたりを見回す。

「ひぇ」

 口から出かけた悲鳴を、両手を抑えこむ。

 怜先輩の隣に立ったくらら先輩が、これまで見たことのない顔をしている。
 いつも浮かべている笑みが、そこにはない。
 一切ない。
 完全な真顔で、西町さんをじっと見据えている。

「明日か。そうだな。僕も早く読みたいし、ちょうどいいな」

 怜先輩が、顎に手をやりながらそう応える。
 くらら先輩の異変には気づいていないようだ。

 対する西町さんは……甘えの入った笑顔を浮かべながらも、ちらりちらりとくらら先輩の方に視線を遣っている。
 よく見ると足がプルプル震えている。
 捕食される寸前の子鹿のようだ。

「……僕も、一緒に行っていいですか? 最近本屋に行けてなくて」

 挙手しながらそう告げると、三人の視線が一気に僕に集まった。
 痛い痛い。刺さりそう。

「くらら先輩もいかがですか? せっかくですから部活動の一環ということで」

 なけなしの勇気を振り絞ってくらら先輩に水を向ける。
 能面のようだったくらら先輩の顔に、笑みが浮かんでくる。

「いいね、採用! 明日はお街の本屋さんにみんなで行くということで。英梨ちゃんもいいよね?」

 すぐ隣に立つ西町さんから「ひゅ」と息を吸いこむ音が聞こえてくる。
 わかるよ。
 無表情も怖いけど、いまの笑顔も超怖い。
 くらら先輩の可憐なお顔が浮かべていい笑顔じゃない。

 西町さんには悪いけど同情はできない。
 先輩の顔に、殺意の込められた笑みを浮かべさせたのはキミだから。
 むしろ重罪。もっと重い罰を受けるべき。

「わ、わーい。明日は文芸部全員でお出かけですね。タノシミダナー」

 平板な声音で殊勝な言葉を吐きながら、西町さんは自分の席に着いた。
 足が震えて立っていられないようだ。

「僕も楽しみです。お街のほうに行くのも久しぶりですし」

 当たり障りのない言葉をつなげつつ、僕も席に着く。

「……ねえ、環くん。『お街』ってどこのこと?」

 小さい声で西町さんが尋ねてくる。

「浜松駅のほう、市街地のことだよ。浜松だと『お街』と呼ぶんだ」

「そうか。西町さんは浜松に来たばっかりだったな。『お街』というのは、浜松市や静岡市で使われる方言みたいなものだ。東京では使われない言葉だろうな」

 と、怜先輩が説明を継げる。

「せっかくだ。『お街』と呼ぶ理由は西町さんに当ててもらおうかな」

 怜先輩は愉快そうにクイズなんて出し始めた。
 のんきすぎる。
 今の今まで目線の刺し合いがなされていた戦場で、怜先輩だけは座布団を敷いてお茶をすすっているようだ。

 対する西町さんは、問題に答えるどころではない。
 引きつった笑顔で視線をさまよわせている。

「ヒントを出そう。西町さん、中学のころ友だちとどこかへ遊びに行くときにはどう表現していた?」

「……あ。『吉祥寺へ行く』とか『新宿に行く』って言ってました」

 怜先輩の助け舟のおかげか、西町さんはようやく落ち着きを取り戻したようだった。

「正解。遊びに行く市街地の候補がいくつもあるから、具体的な地名を挙げざるを得ないんだ。一方の浜松や静岡ではそもそも選択肢がない。だから『お街』の一言で事足りるんだ」

 西町さんと僕は揃って「へー」と声を出した。

「さすが怜先輩。物知りですね」

 小さく拍手をして、先輩を持ち上げる。
 少しばかり大げさにはしているが、言葉に嘘はない。
 怜先輩は豊富な知識を持っているし、そしてただ単に知っているだけじゃなく、ちゃんと物事の背景まで見ていたり、それをわかりやすく説明したり。
 何というか知性的だ。

「ただ本で読んだだけだよ」
 と謙遜し肩をすくめる怜先輩の前に、くらら先輩が割りこんだ。

「そう、ただ本で読むだけではダメなのです。書を捨てよ、お街へ出よう!」

 可愛らしく拳をつきあげるくらら先輩。

 ようやく般若が引っ込んでくれた。
 いつもどおりの可憐な先輩だ。

 僕も、そして西町さんも「おー」と小さく拳を突きあげる。
 そんな僕らを見て、怜先輩は力なく「文芸部が書を捨てるな」とつぶやいた。

 よかった。
 これでようやく文芸部に調和がもたらされた。

 西町さんは、隣でぐったり背もたれに寄りかかっている。
 自業自得というやつだよ、西町さん。