少しずつ歩いているうちに、川べりにたどり着く。
「西町さんは。いつか東京に戻るの?」
「大学は向こうのを受けようかなって思ってるよ」
「何でこっちの高校に……いや、ごめん。いいや」
東京を離れ、わざわざ浜松の高校に通う理由。
特別な高校だというなら理由は想像できる。
全国でも屈指の進学実績だとか、芸術系の学科が有名だとか。
実際、遠衛には音楽科と美術科があり、そちらには県外からも入学者がいる。
学校のすぐそばには、地元を離れた生徒のための寮もあるらしい。
でも西町さんは僕と同じ普通科だ。
進路のためではない。
とすると、家庭の事情という可能性が高い。
それは多分、僕が聞いていいことじゃない。
「そんな気をつかうような理由じゃないよ?」
でも西町さんはあっけらかんとした笑い声を返してきた。
「うち、お父さんが建築士でお母さんがインテリア・デザイナーなの。どっちも会社勤めじゃないし、どこでも仕事できるんだよね。二人が出会ったのは東京での大学時代なんだけど、どっちも実家が浜松でね。『親も年だし、娘に地元のことも知ってもらいたいし』ってことで、わたしの中学卒業を機に引っ越してきちゃったってわけ」
西町さんは足許の小石をコツンと蹴りながらそう語った。
「まいっちゃうよね。わたしが通ってた聖マーガレット女学院って、小学校から中高大学まである一貫の女子校だったんだよ。中学卒業っていっても、実質学年が一つ上がるだけ。高校の三年間も、みんなと一緒だと思ってたのに」
「一人だけ向こうに残るっていうのは無理だったの?」
「大学生のお兄ちゃんはいまも東京のマンションに住んでるから、そこに同居って選択肢もあったんだけど……そんな話してたら、お父さんが悲しそうな顔になっちゃって」
西町さんには、けっこう親孝行な一面があるようだった。
「環くんは、くらら先輩とつきあえたらどうしたい?」
一拍おいて、西町さんは唐突にそう問いかけてきた。
「どうしたの、いきなり」
「告白して成功したら、おつきあいするでしょ。そしたらいつかは結婚?」
「……想像できない。まず成功のイメージわかないし。というか結婚は気が早すぎない?」
「わたしはね、怜先輩とつきあえたらすぐ別れるよ」
「はい?」
「だってわたしこっちに三年しかいないし。その間にロマンスがほしいだけ。ほら、少女漫画原作で、若手イケメン俳優と透明感あるアイドル女優が、ちょっと無理のある制服姿でこっ恥ずかしいセリフを叫んで、最後は切なく別れる典型的なデート・ムービーみたいなの。ああいうのに憧れてて」
「憧れてるわりにはディスるよね」
「悪口は愛あるがゆえだよ。旅の恥はかき捨てっていうでしょ? わたしにとって高校三年はちょっと長い旅なの。その間は友だちもいらない。向こうに戻ればみんないるし、孤独なほうがヒロインっぽいし」
「ちょっと待ってくれる? 理解が追いつかなくて」
「怜先輩とわたしはただの先輩後輩。そのまま二年半が過ぎて、そろそろ怜先輩の卒業が迫ってきたころ、クリスマスに両思いになって、でも怜先輩は受験ですぐ忙しくなって、しかも遠くの頭いい大学に受かっちゃう。で、三年生になったわたしは同じ大学に行くためがんばるんだけど、本当に大事なのは昔の友だちだって気づいて東京の大学を受けるみたいな」
「だから落ち着いて! アクセル踏まないで!」
油断した。
今日はしんみり気味だから忘れかけていたけど、西町さんは妄想暴走族だった。
「西町さんは、妄想はひどいけどヒロインになれる器だと思うよ。妄想はひどいけど」
「自分でもそう思う。わたしの境遇ヒロインっぽいよね。ちょっとした欠点も却って魅力を高めてるっていうか」
「ちょっとした?」
「環くん、恋愛経験は豊富? 誰かに告白されたことある?」
「どうして西町さんは急に話題を変えて僕を傷つけようとするの?」
「わたしはね、中学のとき待ち伏せで告られたこと何回もあるよ。高校でもそう。入学からまだ一ヶ月なのに、その間に告白してきた人、何人だと思う? 七人だよ、七人。このままだと週刊ペースかなって思ってたら増刊号まで出ちゃったの」
「人気が出たらしょうがないね」
「幼稚園や小学校の劇で、木の役ってなかった?」
「僕は草だったよ」
「草」
「ずっと中腰で辛かったな」
「それは草生えるね」
「何で西町さんはすぐに話題を変えて僕を傷つけるの?」
「歩いてたら道端の木や草にいきなり『好き』って言われたらどう思う? それで物語が始まる? 『これファンタジーな世界観だったの?』って戸惑うだけだよ」
「うぐっ」
どうしてこうも西町さんは的確に僕の心の弱いところを抉ってくるのだろう。
相手にとって唐突な片思い。
それはいままさに僕がくらら先輩に対してしていることで、そして、中学時代の。
部活、先輩、片思い。
そんな言葉のタグがついた黒い思い出は、まだ心の冷蔵庫でしっかり保存されている。
早く捨てたい。
もしくは二度と取り出せないよう冷凍したい。
「さっきはああ言ったけど、わたし全然ヒロインなんかじゃないんだよね」
西町さんはそうつぶやき、ローファーの靴先で短く駆られた芝生を撫でるように蹴った。
「怜先輩にとって、わたしいま草なんですよ」
そうか。
西町さんの言葉は自慢じゃなくて自虐だったんだ。
だから、心の同じところに傷を持つ僕もその自虐で傷ついている。
「先輩たち、仲いいよね」
そして僕がこうして自虐すれば、西町さんもまた心を痛めるのだろう。
「でもつきあってるわけじゃないみたい」
「え、そうなの?」
「って言ってほしそうだなって思っただけ」
前言撤回。西町さんは僕のように傷ついてはいない。
「ごめんごめん。わたしもまだちゃんと確かめられてないの。二人ともSNSはやってないみたいだし」
「何でわかるの?」
「わたし人のアカウント特定するの得意なんだ」
「西町さんはネットでもストーカーなんだね」
「わたしたち、いまのままでいいと思う?」
またもや西町さんは唐突な質問をしてきた。
クセなのかもしれない。
「お互いの秘密を守る協定は結んだけど、それだけじゃ足りないと思うの」
「守りだけじゃダメだってこと?」
「そういうこと!」
西町さんは力強く吠え、僕を指さした。
だんだん西町さんのクセというかペースがわかってきたかもしれない。
そのぶっ飛んだ思考についていけるようになってきた気がする。
「もっとアグレッシブに攻めていかないとですよ。わたしたちさ、利害が一致してるとと思わない?」
「……なるほど」
例えば僕がくらら先輩と恋仲になれたとしたら、それは西町さんの片思いの後押しになる。
逆もまた然り。西町さんの恋の成就は僕にとっても有益だ。
「お互いサポートできるポジションにいるよね。わたしは環くんがくらら先輩と近しくなれるように動けるし」
「僕は西町さんが怜先輩と仲よくなれるように動ける、と。でも具体的にはどうすればいいんだろう?」
「わかんない。でも作戦はこれからちゃんと立てていけばいいよ。いま大事なのは、やるか、やらないか」
西町さんはまっすぐな声を僕に投げかけてきた。
ああ、そうか。
今日はこれを言うために僕を寄り道に誘ったんだ。
西町さんは、ヒロインみたいな人だ。
『カワイイ』より『キレイ』。
その実、妄想癖があって、暴走して事故るような人。よくいえば行動する人。
利害が一致していると彼女は言う。
でも、どうかな。
西町さんは主人公だ。
現状をよしとしない。調和を乱すのをためらわない。
僕とは違う。
「……そうだね。うまくできるかはわからないけど、やってみようか」
僕にとって大事なのは調和だ。
和音。ハーモニー。
耳に優しく、居心地のよい音。
西町さんは文芸部の調和を崩そうとしている。
だったら僕がするべきことは、ただ一つ。
西町さんと手を組むふりをしつつ、彼女の手綱をひく。
これに尽きる。
だって西町さんはヒロインみたいな人で、妄想暴走変態リアクション芸人で、主人公だから。
「これからよろしくね。長くは続かない関係だと思うけど」
いつの間にか日は暮れていた。
あたりは薄暗くなり、濃かった影も夜に溶けている。
群青色の薄暮の中で、西町さんの切れ長の目だけが、爛々と輝いていた。
ゴールデン・ウィーク明けのとある放課後。
この日このときが僕たちの始まりになる。そんな予感がした。
「西町さんは。いつか東京に戻るの?」
「大学は向こうのを受けようかなって思ってるよ」
「何でこっちの高校に……いや、ごめん。いいや」
東京を離れ、わざわざ浜松の高校に通う理由。
特別な高校だというなら理由は想像できる。
全国でも屈指の進学実績だとか、芸術系の学科が有名だとか。
実際、遠衛には音楽科と美術科があり、そちらには県外からも入学者がいる。
学校のすぐそばには、地元を離れた生徒のための寮もあるらしい。
でも西町さんは僕と同じ普通科だ。
進路のためではない。
とすると、家庭の事情という可能性が高い。
それは多分、僕が聞いていいことじゃない。
「そんな気をつかうような理由じゃないよ?」
でも西町さんはあっけらかんとした笑い声を返してきた。
「うち、お父さんが建築士でお母さんがインテリア・デザイナーなの。どっちも会社勤めじゃないし、どこでも仕事できるんだよね。二人が出会ったのは東京での大学時代なんだけど、どっちも実家が浜松でね。『親も年だし、娘に地元のことも知ってもらいたいし』ってことで、わたしの中学卒業を機に引っ越してきちゃったってわけ」
西町さんは足許の小石をコツンと蹴りながらそう語った。
「まいっちゃうよね。わたしが通ってた聖マーガレット女学院って、小学校から中高大学まである一貫の女子校だったんだよ。中学卒業っていっても、実質学年が一つ上がるだけ。高校の三年間も、みんなと一緒だと思ってたのに」
「一人だけ向こうに残るっていうのは無理だったの?」
「大学生のお兄ちゃんはいまも東京のマンションに住んでるから、そこに同居って選択肢もあったんだけど……そんな話してたら、お父さんが悲しそうな顔になっちゃって」
西町さんには、けっこう親孝行な一面があるようだった。
「環くんは、くらら先輩とつきあえたらどうしたい?」
一拍おいて、西町さんは唐突にそう問いかけてきた。
「どうしたの、いきなり」
「告白して成功したら、おつきあいするでしょ。そしたらいつかは結婚?」
「……想像できない。まず成功のイメージわかないし。というか結婚は気が早すぎない?」
「わたしはね、怜先輩とつきあえたらすぐ別れるよ」
「はい?」
「だってわたしこっちに三年しかいないし。その間にロマンスがほしいだけ。ほら、少女漫画原作で、若手イケメン俳優と透明感あるアイドル女優が、ちょっと無理のある制服姿でこっ恥ずかしいセリフを叫んで、最後は切なく別れる典型的なデート・ムービーみたいなの。ああいうのに憧れてて」
「憧れてるわりにはディスるよね」
「悪口は愛あるがゆえだよ。旅の恥はかき捨てっていうでしょ? わたしにとって高校三年はちょっと長い旅なの。その間は友だちもいらない。向こうに戻ればみんないるし、孤独なほうがヒロインっぽいし」
「ちょっと待ってくれる? 理解が追いつかなくて」
「怜先輩とわたしはただの先輩後輩。そのまま二年半が過ぎて、そろそろ怜先輩の卒業が迫ってきたころ、クリスマスに両思いになって、でも怜先輩は受験ですぐ忙しくなって、しかも遠くの頭いい大学に受かっちゃう。で、三年生になったわたしは同じ大学に行くためがんばるんだけど、本当に大事なのは昔の友だちだって気づいて東京の大学を受けるみたいな」
「だから落ち着いて! アクセル踏まないで!」
油断した。
今日はしんみり気味だから忘れかけていたけど、西町さんは妄想暴走族だった。
「西町さんは、妄想はひどいけどヒロインになれる器だと思うよ。妄想はひどいけど」
「自分でもそう思う。わたしの境遇ヒロインっぽいよね。ちょっとした欠点も却って魅力を高めてるっていうか」
「ちょっとした?」
「環くん、恋愛経験は豊富? 誰かに告白されたことある?」
「どうして西町さんは急に話題を変えて僕を傷つけようとするの?」
「わたしはね、中学のとき待ち伏せで告られたこと何回もあるよ。高校でもそう。入学からまだ一ヶ月なのに、その間に告白してきた人、何人だと思う? 七人だよ、七人。このままだと週刊ペースかなって思ってたら増刊号まで出ちゃったの」
「人気が出たらしょうがないね」
「幼稚園や小学校の劇で、木の役ってなかった?」
「僕は草だったよ」
「草」
「ずっと中腰で辛かったな」
「それは草生えるね」
「何で西町さんはすぐに話題を変えて僕を傷つけるの?」
「歩いてたら道端の木や草にいきなり『好き』って言われたらどう思う? それで物語が始まる? 『これファンタジーな世界観だったの?』って戸惑うだけだよ」
「うぐっ」
どうしてこうも西町さんは的確に僕の心の弱いところを抉ってくるのだろう。
相手にとって唐突な片思い。
それはいままさに僕がくらら先輩に対してしていることで、そして、中学時代の。
部活、先輩、片思い。
そんな言葉のタグがついた黒い思い出は、まだ心の冷蔵庫でしっかり保存されている。
早く捨てたい。
もしくは二度と取り出せないよう冷凍したい。
「さっきはああ言ったけど、わたし全然ヒロインなんかじゃないんだよね」
西町さんはそうつぶやき、ローファーの靴先で短く駆られた芝生を撫でるように蹴った。
「怜先輩にとって、わたしいま草なんですよ」
そうか。
西町さんの言葉は自慢じゃなくて自虐だったんだ。
だから、心の同じところに傷を持つ僕もその自虐で傷ついている。
「先輩たち、仲いいよね」
そして僕がこうして自虐すれば、西町さんもまた心を痛めるのだろう。
「でもつきあってるわけじゃないみたい」
「え、そうなの?」
「って言ってほしそうだなって思っただけ」
前言撤回。西町さんは僕のように傷ついてはいない。
「ごめんごめん。わたしもまだちゃんと確かめられてないの。二人ともSNSはやってないみたいだし」
「何でわかるの?」
「わたし人のアカウント特定するの得意なんだ」
「西町さんはネットでもストーカーなんだね」
「わたしたち、いまのままでいいと思う?」
またもや西町さんは唐突な質問をしてきた。
クセなのかもしれない。
「お互いの秘密を守る協定は結んだけど、それだけじゃ足りないと思うの」
「守りだけじゃダメだってこと?」
「そういうこと!」
西町さんは力強く吠え、僕を指さした。
だんだん西町さんのクセというかペースがわかってきたかもしれない。
そのぶっ飛んだ思考についていけるようになってきた気がする。
「もっとアグレッシブに攻めていかないとですよ。わたしたちさ、利害が一致してるとと思わない?」
「……なるほど」
例えば僕がくらら先輩と恋仲になれたとしたら、それは西町さんの片思いの後押しになる。
逆もまた然り。西町さんの恋の成就は僕にとっても有益だ。
「お互いサポートできるポジションにいるよね。わたしは環くんがくらら先輩と近しくなれるように動けるし」
「僕は西町さんが怜先輩と仲よくなれるように動ける、と。でも具体的にはどうすればいいんだろう?」
「わかんない。でも作戦はこれからちゃんと立てていけばいいよ。いま大事なのは、やるか、やらないか」
西町さんはまっすぐな声を僕に投げかけてきた。
ああ、そうか。
今日はこれを言うために僕を寄り道に誘ったんだ。
西町さんは、ヒロインみたいな人だ。
『カワイイ』より『キレイ』。
その実、妄想癖があって、暴走して事故るような人。よくいえば行動する人。
利害が一致していると彼女は言う。
でも、どうかな。
西町さんは主人公だ。
現状をよしとしない。調和を乱すのをためらわない。
僕とは違う。
「……そうだね。うまくできるかはわからないけど、やってみようか」
僕にとって大事なのは調和だ。
和音。ハーモニー。
耳に優しく、居心地のよい音。
西町さんは文芸部の調和を崩そうとしている。
だったら僕がするべきことは、ただ一つ。
西町さんと手を組むふりをしつつ、彼女の手綱をひく。
これに尽きる。
だって西町さんはヒロインみたいな人で、妄想暴走変態リアクション芸人で、主人公だから。
「これからよろしくね。長くは続かない関係だと思うけど」
いつの間にか日は暮れていた。
あたりは薄暗くなり、濃かった影も夜に溶けている。
群青色の薄暮の中で、西町さんの切れ長の目だけが、爛々と輝いていた。
ゴールデン・ウィーク明けのとある放課後。
この日このときが僕たちの始まりになる。そんな予感がした。


