最初に違和感を覚えたのは、朝の教室だった。
チャイムが鳴り、席に着く直前、私は教室の後ろの窓際に視線を向けた。理由は分からない。ただ、そこに誰かが立っているような気がした。
チャイムが鳴り、席に着く直前、私は教室の後ろの窓際に視線を向けた。
理由は分からない。
ただ、そこに誰かが立っているような気がした。
半分だけ開いている窓の奥に、曇った空が広がっている。
それだけだった。
ーー気のせい。
そう思おうとしたが、胸の奥に小さな引っかかりが残る。
公園で蒼と話すようになってから、私は時々、こうして「いないはずの気配」を感じるようになっていた。
怖いわけじゃない。
ただ、現実とそうでないものの境目が、少しだけ曖昧になったような感覚。
「凪、聞いてる?」
私の席に来て話していた紗季が私の顔を覗き込んだ。
「あ、ごめん」
「最近ほんと上の空だね」
責める口調ではない。
それが余計に申し訳なかった。
「大丈夫?」
「、、、うん」
本当は「うん」なんて言える状態ではないのかもしれないけれど。
授業中、先生の声は耳に入ってくる。
でも、内容が頭に定着しない。
ノートは取っているのに、文字がどこか他人のものみたいに見える。
私はちゃんと、ここにいるはずなのに。
昼休み、教室のざわめきの中で、私は一人、窓の外を見ていた。
校庭では、男子生徒たちがサッカーをしている。
笑い声も聞こえる。
ーーみんな、現実を生きてる。
そんな当たり前のはずの事実に、急に距離を感じたのはなぜだろう。
「篠原」
背後から声をかけられ、肩が跳ねる。
三浦健太だった。
「これ、プリント」
「あ、ありがとう」
「顔色悪くない?」
「そう?」
「うん。なんとなく、そんな気がした」
「大丈夫だよ、私は」
「それなら、いいんだけど」
健太はそう言って自分の席に戻っていった。
顔色が本当に悪いのかはわからないけれど、表情が暗いのは確かだろう。
放課後、私は迷った末、公園へ向かった。
行かない選択肢もあった。
でも、足は自然とそちらに向いていた。
蒼がいるかどうかは、わからない。
それでも、なぜかいるような気がした。
街灯が灯り始めた頃、公園に着く。
ベンチに近づいた瞬間、私は立ち止まった。
「、、、やっぱり」
蒼はそこにいた。
昨日と同じ場所。
同じように、ベンチに腰を下ろしている。
「来ると思ってた」
蒼が言う。
「、、、どうして?」
「幽霊の勘だ」
「なにそれ」
私は苦笑した。
「便利そうだね、それ」
「便利って言われると微妙」
蒼は立ち上がり、私の前に立つ。
その瞬間、私ははっきりと気づいてしまった。
ーー影が、ない。
街灯の光を受けているはずなのに、蒼の足元には影が落ちていなかった。
「、、、蒼」
「なに?」
私は地面を指さす。
「影が、、、」
蒼は一瞬視線を下げ、それから小さく息を吐いた。
「気づいた?」
「、、、うん」
今まで私は、蒼の存在を「信じきらない」ことで、自分を守っていた。
冗談かもしれない。
錯覚かもしれない。
そう、逃げ道を用意していた。
でも、この光景は。
「俺の体に、手を伸ばしてみて」
蒼が、静かに言った。
「、、、手?」
「うん」
私は恐る恐る、手を伸ばす。
指先が、蒼の腕に触れるーーはずだった。
けれど、何にも触れることなく、蒼の体を通り抜けた。
空気を掴んだだけなのに。
不思議と、確かにそこに「形」があるように感じる。
冷たいわけでも、温かいわけでもない。
ただ、蒼という存在がこの空間にいる。そう感じた。
「、、、幽霊って嘘じゃないんだね」
声が震えた。
「最初から言ったでしょ」
蒼は困ったように笑う。
「信じてなかった」
「うん。知ってる」
私は手を下ろし、深呼吸をした。
逃げ場が、一つ消えてしまった。
「私にしか、見えないの?」
「今のところはそうだと思う」
「なんで私なの」
蒼はすぐに答えなかった。
「理由が欲しい?」
「、、、わからないのが、一番怖い」
「たぶん、君が境目にいたから」
「境目?」
「現実とここじゃない世界との間」
「ここじゃない世界?」
「まあ、簡単に言えば、あの世だね。凪、この世界からいなくなってしまえたら、、、とか考えなかったか?」
「あ、、、」
死にたいわけではない。
でも、消えてなくなれたらどんなに楽だろうかと、考えたことは何度もあった。
「だから、私が選ばれた?」
「選んだつもりはないよ」
「じゃあ、偶然?」
「それもなんか違う。偶然でもあり、必然でもある」
「どういうこと?」
「凪自身が、誰かに話を聞いて欲しいって、そう思ってたから」
胸の奥が、強く締め付けられた。
「蒼は、ここから動けないの?」
「基本はね」
「じゃあ、ずっと一人だった?」
蒼は少しだけ目を伏せた。
「時間の感覚が曖昧だから、どれくらいかはわからない」
私は、その言葉の重さを想像しようとして、やめた。
簡単に理解できるものじゃない。
「、、、私が来なかったら?」
「それでも、ここにいる」
それは、当たり前の事実なのに、胸が痛んだ。
「でも、、、」
蒼は続ける。、
「凪は来てくれた」
その言い方が、あまりにも自然で。
私は目を逸らした。
今まで閉ざされていた感情の扉が、開いてしまそうで。
蒼が幽霊であるという事実を否定することは、もうできない。
でも、蒼は確かにここにいる。
そして私は、確かに蒼と話している。
現実が、少しだけ形を変えた夜だった。
帰り際、私は振り返った。
「蒼」
「なに?」
「、、、明日も、来るかもしれない」
本当は分かりきっている。
私はきっと、明日もここに来る。
「"かもしれない"ね」
蒼は、そう言いながら笑った。
でも、その笑顔がどこか柔らかかったのを、私は見逃さなかった。
家に向かう道で、私は何度も足元を見た。
自分の影を確かめるように。
夜だから、見えにくいけれど。
私は、まだここにいる。
現実の側に、ちゃんと立っている。
家に着いても、すぐには玄関に入れなかった。
鍵を握ったまま、扉の前で立ち尽くす。
蒼が幽霊だという事実は、頭では理解している。
影が無かったこと。
触れられなかったこと。
あれは、錯覚でも夢でもなかった。
それなのに、蒼と別れ一人になると、急に心細くなった。
ーー私、今なにを信じてるんだろう。
玄関を開けると、いつもと同じ匂いがした。
変わらない日常が、そこにはある。
「おかえり」
母の声がリビングから聞こえた。
「ただいま」
いつも通りのやりとり。
それができる自分に、少し安心する。
部屋に戻り、制服を脱いでベッドに腰を下ろす。
スマートフォンを手に取るが、画面を見る気になれず、すぐに伏せた。
天井を見つめる。
今日一日の出来事が、映像として頭の中で何度も再生される。
影の無い足元。
すり抜けた指。
心臓が、遅れて強く脈打った。
ーー怖い。
今になって、やっとそう思った。
蒼が怖いわけじゃない。
現実が、今まで信じてきた形じゃなくなったことが怖い。
もし、幽霊である蒼が本当にここにいるなら。
もし、私にしか見えていないのなら。
私は今、いったいどこに立っているのだろう。
眠ろうとしても、目は冴えたままだった。
布団を被っても、安心できない。
私は起き上がり、机に向かう。
引き出しからノートを取り出し、ページを開いた。
白い紙を前にすると、少しだけ呼吸が整う。
蒼の足元に影が見られなかったこと。
蒼に触れようとして触れられなかったこと。
今日あった出来事を書いた。
ノートを閉じ、深く息を吐く。
私はまだ、整理ができていない。
ーーそれでも。
蒼の声を思い出すと、胸の奥が静かになる。
否定も肯定もせず、ただ私の話を聞いてくれた時間。
それは確かに、私を救っていた。
次の日の朝、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。
それももう、日常的になってしまった。
寝不足のはずなのに、頭は妙に冴えている。、
鏡の前に立つと、いつもと変わらない自分が映っていた。
幽霊を見た人間の顔には見えない。
学校へ向かう道で、私は何度も周囲を見回した。
蒼の姿を探しているわけじゃない。
ただ、世界が昨日と同じか確かめたかった。
なんて、何考えてるんだろう。
やっぱり、寝不足で疲れが溜まってるのかもしれない。
教室に入ると、朝の喧騒が迎えてくる。
机に座り、深く息を吸う。
ーー私は、ここにいる。
授業が始まり、ノートを取る。
昨日よりは、少しだけ集中できた。
昼休み、紗季が隣に座る。
「ねえ、凪」
「なに?」
「最近さ」
紗季は少し言い淀んでから続けた。
「雰囲気、変わったよね」
心臓が跳ねる。
「、、、そうかな」
「うん。あ、でも、悪い意味で言ってるんじゃないよ」
「じゃあ、どんな意味?」
「なんていうか」
紗季は顎に指を当てて考える。
「遠くを見てる感じ」
図星だった。
「心ここにあらず、みたいな?」
「それに近いね」
私は苦笑する。
「凪、大丈夫?」
「、、、たぶん」
本当は、わからない。
でも、今はそれ以上話せなかった。
放課後に近づくにつれて、胸がざわついてくる。
理由は、考えなくてもわかっていた。
私は今日も、公園へ向かうのだろうか。
自分に問いかけるまでもなく、答えは決まっている。
夕方、公園に着く。
昨日より少し早い時間。
蒼はいなかった。
もしかしたら、見えないだけなのかもしれないけれど。
だけど、それになぜかほっとしている自分がいる。
同時に、少しだけ寂しい。
ベンチに座り、空を見上げる。
薄い雲が流れている。
「、、、来ないなら、来ないでいいのに」
「それ、本心?」
背後から声がして、息が止まる。
振り返ると、蒼が立っていた。
「、、、いつから」
「さあ、いつでしょう」
相変わらず、曖昧な答え。
「今日は、いないかと思った」
「それは、少しだけ寂しかった?」
「、、、」
私は答えなかった。
否定もしなかった。
「、、、昨日のこと考えてた」
私がそう言うと、蒼は隣に座った。
「そりゃそうだ。普通じゃないもんな」
「うん。普通じゃない」
「公園に来たこと、後悔してる?」
私は首を横に振る。
「、、、怖いけど」
「うん」
「それでも、来てよかったって思ってる」
蒼は何も言わず、ただ頷いた。
それだけで、十分だった。
「凪」
「なに?」
蒼は前を見たまま言う。
「全部を受け入れなくてもいい」
私は、その言葉に救われた。
「逃げてもいい?」
「いいよ」
「疑っても?」
「もちろん」
蒼は、少し笑う。
「それでも話したくなったら、ここに来ればいい」
期限も、約束もない言い方。
それが、今の私にはちょうど良かった。
私は、蒼の横顔を見る。
確かに、そこに存在している。
でも、触れられない。
影も落ちない。
矛盾だらけなのに、嘘じゃない。
私はまだ、答えを出せない。
でも、出さなくていいのかもしれない。
ただ一つわかっているのは、この場所で、この時間だけは、私が「一人じゃない」ということ。
それが、現実でも、そうでなくても。
夜は、また静かに更けていく。
夜風が少しだけ冷たくなってきた。
私は両手を膝の上に置き、指先をぎゅっと組む。
「ねえ、蒼」
「なに?」
「私がさ、誰かに言ったらどうなると思う?」
蒼は少しだけ首を傾げる。
「俺のこと?」
「うん」
「信じてもらえない可能性が高いね」
「だよね」
苦笑が漏れる。
「心配されるかも」
「それは優しい人たちだ」
蒼はあっさり言った。
「でも、きっとうまく説明できない」
「しなくてもいい。凪がしたくないんだったら、しなくてもいいんだよ」
説明できないものを、どう扱えばいいのかわからない。
でも、説明しなきゃいけないとも限らない。
その事実が、少しだけ気持ちを軽くした。
「凪はさ」
蒼がゆっくり言う。
「俺がいることで、現実が壊れそうって思ってる?」
私は考える。
壊れそう、というより。
ずれている。
「なんだろう。少しだけ、傾いている感じ。」
「倒れそう?」
「、、、まだ、立ってるけどね」
「なら大丈夫」
蒼は即答する。
「倒れそうになったら、離れればいい」
「そんな簡単にできるかな」
「できるよ」
迷いのない声。
「凪は、ちゃんと現実側の人間だから」
その言葉に、胸がひりつく。
「、、、蒼は?」
「俺は幽霊だから。ただ、ここにいるだけ」
淡々とした言い方。
その距離が、急に寂しく感じた。
「蒼は、寂しくないの?」
「寂しいって感覚、もうあんまりわからない」
私は息をのむ。
「長く一人だとね」
蒼は、空を見上げる。
「慣れる」
慣れる、という言葉が重かった。
私は、慣れたくないと思った。
孤独に。
諦めに。
何も感じない状態に。
「私は、慣れたくない」
気づけば、口にしていた。
「なにに?」
「、、、一人に」
蒼は少しだけ目を細めた。
「だから、ここに来た?」
「うん」
それは、もう否定できない。
私は、蒼に会うためにここへ来ている。
怖さもあるのに、それでも。
「凪」
蒼の声が、いつもより静かだった。
「俺は、ずっといるわけじゃない」
心臓が強く跳ねる。
「、、、どういう意味?」
「時間は、現実とは違ってこっち側では曖昧だけど、、、」
蒼は言葉を選ぶ。
「変わらないものはない」
はっきりとは言わない。
でも、その含みだけで十分だった。
私は視線を落とす。
「それ、今言う?」
「今だから言う」
蒼は真剣な表情だった。
「凪がここにくる理由が、俺だけになったら困る」
その言葉に、胸が締めつけられる。
「なってないよ」
即座に否定する。
けれど、少しだけ嘘だった。
「ならいいんだけど」
蒼はそれ以上追及しない。
私は、自分の心の中を覗き込む。
蒼と話す時間は、確かに楽だ。
誰にも言えなかったことを言える。
でも、それだけにしておかなければいけない。
「私、ちゃんと学校行ってるし」
「うん」
「友達もいる」
「知ってる」
「だから、大丈夫」
自分に言い聞かせるみたいに言うと、蒼は少しだけ優しく笑った。
「そうやって確認できるなら大丈夫だ」
風が吹き、木々が揺れる。
公園の時計を見ると、思ったより時間が経っていた。
「そろそろ帰ろうかな」
「うん」
私は立ち上がる。
蒼も、同じように立つ。
でも、やっぱり音はしない。
「凪」
「なに?」
「明日も来る?」
少しだけ、いたずらっぽい声。
「、、、気分次第」
「そっか」
蒼はそう言って、小さく笑った。
その笑顔を見て、胸が少しだけ痛む。
ーー変わらないものはない。
さっきの言葉が、頭から離れない。
帰り道、私は空を見上げた。
月はまだ細い。
世界は一見変わっていないように見える。
信号も、街灯も、家の明かりも。
すべて昨日までと同じ。
変わったのは、私だ。
誰にも見えない存在を、私は知ってしまった。
家に近づくにつれ、現実の輪郭がはっきりしていく感覚がした。
私は、日常の中に戻れる。
戻らなければいけない。
でも。
心のどこかに、公園の静かさが残っている。
蒼の声が、まだ耳の奥にある。
私はまだ、どちらかを選んでいないということなのだろうか。
現実の世界と、蒼たちの世界。
ただ、両方の間に立っている。
でも今は、それでいいと思えた。
完全に理解しなくてもいい。
全部を信じなくてもいい。
それでも、あの時間が嘘じゃないことだけは、わかっている。
夜は静かに続いていく。
私はまだ、境目に立ったまま。
けれど、もう目を逸らしてはいなかった。
夜の空気は、昼間よりもずっと正直だ。
隠していた感情を、静かに浮かび上がらせる。
家に入ると、テレビの音がリビングから流れてきた。
「おかえり、遅かったね」
母の何気ない言葉に、少しだけ心が揺れる。
「ちょっと公園でぼーっとしてた」
完全に嘘ではない。
けれど、本当のことも言っていない。
「最近よく行くわね」
「うん。静かだから」
それ以上、会話は広がらなかった。
部屋に戻りドアを閉める。
ドアの閉まる音がやけに大きく響いた。
私はベッドに腰を下ろし、今日の蒼の言葉を反芻する。
ーー変わらないものはない。
当たり前のことだ。
季節だって、気持ちだって、少しずつ形を変える。
それなのに、どうしてあんなに胸がざわついたんだろう。
私はカーテンを少しだけ開ける。
窓の外には、街灯に照らされた道が見える。
私は机に向かい、ノートを開いた。
昨日書いたページの隣に、今日のことを綴る。
蒼が「ずっといるわけじゃない」と言ったこと。
私が少しだけ動揺したこと。
それを隠そうと、平気なふりをしたこと。
文字にすると、自分の弱さがはっきりする。
私はペンを止め、しばらく考える。
私は何を怖がっているのだろう。
蒼が消えること?
それとも、蒼に依存してしまう自分?
答えは、まだ出ない。
ただ一つ言えるのは、蒼と話す時間が、確かに私を軽くしているということ。
それは逃げなのか、救いなのか。
境界は曖昧だ。
翌日、教室の窓から入る光がやけに眩しく感じた。
紗季と他愛ない会話をしながらも、私は心のどこかで時間を気にしている。
放課後が近づくにつれ、意識がそわそわする。
でも今日は、すぐには公園へ向かわなかった。
一度、家に帰った。
制服のままベッドに寝転び、天井を見上げる。
——凪がここにくる理由が、俺だけになったら困る。
蒼の声が蘇る。
私は目を閉じる。
公園に行くのは、私の意思だ。
蒼に会うためでもあるけれど、それだけじゃない。
あの場所で、私は自分の本音を認められる。
誰にも見せていない部分を、そっと外に出せる。
それは、蒼がいるからこそできることかもしれない。
でも、蒼のためだけじゃない。
私は起き上がり、鞄を置いて部屋を出る。
「ちょっとまた出てくるね」
母は少し驚いた顔をしたが、何も言わなかった。
公園へ向かう道は、昨日と同じはずなのに、少しだけ違って見える。
私は歩きながら考える。
蒼が消える日が来るとしたら。
私はどうするのだろう。
想像するだけで、胸が締めつけられる。
でも同時に、思う。
それでも、会わなかったことにはしたくない。
公園に着くと、ベンチには誰もいなかった。
少しだけ深呼吸をする。
「今日は遅かったね」
声がして、私は振り向く。
蒼が、木のそばに立っていた。
「別に、毎日来るって決めたわけじゃないし」
「そりゃそうだ」
蒼は肩をすくめる。
私はベンチに座り、隣を軽く叩いた。
蒼は少し驚いた顔をしてから、そこに腰を下ろす。
触れられない距離。
でも、確かに並んでいる。
「私ね」
言葉を探しながら、続ける。
「蒼がいなくなるの、嫌だよ」
蒼は何も言わない。
「でも、それでここに来なくなるのも、嫌」
自分でもうまく説明できない。
蒼は静かに空を見上げる。
「凪は、ちゃんと考えてるね」
「考えないと、怖いから」
「怖いままでいいよ」
その言葉に、少しだけ目を見開く。
「無理に強くならなくていい」
蒼の声は、夜風よりも柔らかい。
私は膝の上で指を握る。
「蒼はさ」
「うん?」
「消えるの、怖くないの?」
しばらく沈黙が流れた。
やがて蒼は、静かに言う。
「怖いかどうかも、よくわからない」
正直な答えだった。
「でも、凪が前を向けるなら、それでもいい」
胸の奥がじんわりと熱くなる。
私は、まだ前を向けていない。
それでも、蒼はそう言う。
夜空には、昨日より少し丸い月が浮かんでいた。ら
私は、ゆっくりと息を吸う。
今はまだ、結論なんていらない。
消えるかもしれない未来も。
揺らいでいる現実も。
全部抱えたまま、ここにいる。
それでいい。
蒼の隣で、私は静かに目を閉じた。
風が頬を撫でる。
世界は少しずつ動いている。
私もその中にちゃんと立っている。
境目の上で揺れながら。
それでももう、一人ではなかった。
チャイムが鳴り、席に着く直前、私は教室の後ろの窓際に視線を向けた。理由は分からない。ただ、そこに誰かが立っているような気がした。
チャイムが鳴り、席に着く直前、私は教室の後ろの窓際に視線を向けた。
理由は分からない。
ただ、そこに誰かが立っているような気がした。
半分だけ開いている窓の奥に、曇った空が広がっている。
それだけだった。
ーー気のせい。
そう思おうとしたが、胸の奥に小さな引っかかりが残る。
公園で蒼と話すようになってから、私は時々、こうして「いないはずの気配」を感じるようになっていた。
怖いわけじゃない。
ただ、現実とそうでないものの境目が、少しだけ曖昧になったような感覚。
「凪、聞いてる?」
私の席に来て話していた紗季が私の顔を覗き込んだ。
「あ、ごめん」
「最近ほんと上の空だね」
責める口調ではない。
それが余計に申し訳なかった。
「大丈夫?」
「、、、うん」
本当は「うん」なんて言える状態ではないのかもしれないけれど。
授業中、先生の声は耳に入ってくる。
でも、内容が頭に定着しない。
ノートは取っているのに、文字がどこか他人のものみたいに見える。
私はちゃんと、ここにいるはずなのに。
昼休み、教室のざわめきの中で、私は一人、窓の外を見ていた。
校庭では、男子生徒たちがサッカーをしている。
笑い声も聞こえる。
ーーみんな、現実を生きてる。
そんな当たり前のはずの事実に、急に距離を感じたのはなぜだろう。
「篠原」
背後から声をかけられ、肩が跳ねる。
三浦健太だった。
「これ、プリント」
「あ、ありがとう」
「顔色悪くない?」
「そう?」
「うん。なんとなく、そんな気がした」
「大丈夫だよ、私は」
「それなら、いいんだけど」
健太はそう言って自分の席に戻っていった。
顔色が本当に悪いのかはわからないけれど、表情が暗いのは確かだろう。
放課後、私は迷った末、公園へ向かった。
行かない選択肢もあった。
でも、足は自然とそちらに向いていた。
蒼がいるかどうかは、わからない。
それでも、なぜかいるような気がした。
街灯が灯り始めた頃、公園に着く。
ベンチに近づいた瞬間、私は立ち止まった。
「、、、やっぱり」
蒼はそこにいた。
昨日と同じ場所。
同じように、ベンチに腰を下ろしている。
「来ると思ってた」
蒼が言う。
「、、、どうして?」
「幽霊の勘だ」
「なにそれ」
私は苦笑した。
「便利そうだね、それ」
「便利って言われると微妙」
蒼は立ち上がり、私の前に立つ。
その瞬間、私ははっきりと気づいてしまった。
ーー影が、ない。
街灯の光を受けているはずなのに、蒼の足元には影が落ちていなかった。
「、、、蒼」
「なに?」
私は地面を指さす。
「影が、、、」
蒼は一瞬視線を下げ、それから小さく息を吐いた。
「気づいた?」
「、、、うん」
今まで私は、蒼の存在を「信じきらない」ことで、自分を守っていた。
冗談かもしれない。
錯覚かもしれない。
そう、逃げ道を用意していた。
でも、この光景は。
「俺の体に、手を伸ばしてみて」
蒼が、静かに言った。
「、、、手?」
「うん」
私は恐る恐る、手を伸ばす。
指先が、蒼の腕に触れるーーはずだった。
けれど、何にも触れることなく、蒼の体を通り抜けた。
空気を掴んだだけなのに。
不思議と、確かにそこに「形」があるように感じる。
冷たいわけでも、温かいわけでもない。
ただ、蒼という存在がこの空間にいる。そう感じた。
「、、、幽霊って嘘じゃないんだね」
声が震えた。
「最初から言ったでしょ」
蒼は困ったように笑う。
「信じてなかった」
「うん。知ってる」
私は手を下ろし、深呼吸をした。
逃げ場が、一つ消えてしまった。
「私にしか、見えないの?」
「今のところはそうだと思う」
「なんで私なの」
蒼はすぐに答えなかった。
「理由が欲しい?」
「、、、わからないのが、一番怖い」
「たぶん、君が境目にいたから」
「境目?」
「現実とここじゃない世界との間」
「ここじゃない世界?」
「まあ、簡単に言えば、あの世だね。凪、この世界からいなくなってしまえたら、、、とか考えなかったか?」
「あ、、、」
死にたいわけではない。
でも、消えてなくなれたらどんなに楽だろうかと、考えたことは何度もあった。
「だから、私が選ばれた?」
「選んだつもりはないよ」
「じゃあ、偶然?」
「それもなんか違う。偶然でもあり、必然でもある」
「どういうこと?」
「凪自身が、誰かに話を聞いて欲しいって、そう思ってたから」
胸の奥が、強く締め付けられた。
「蒼は、ここから動けないの?」
「基本はね」
「じゃあ、ずっと一人だった?」
蒼は少しだけ目を伏せた。
「時間の感覚が曖昧だから、どれくらいかはわからない」
私は、その言葉の重さを想像しようとして、やめた。
簡単に理解できるものじゃない。
「、、、私が来なかったら?」
「それでも、ここにいる」
それは、当たり前の事実なのに、胸が痛んだ。
「でも、、、」
蒼は続ける。、
「凪は来てくれた」
その言い方が、あまりにも自然で。
私は目を逸らした。
今まで閉ざされていた感情の扉が、開いてしまそうで。
蒼が幽霊であるという事実を否定することは、もうできない。
でも、蒼は確かにここにいる。
そして私は、確かに蒼と話している。
現実が、少しだけ形を変えた夜だった。
帰り際、私は振り返った。
「蒼」
「なに?」
「、、、明日も、来るかもしれない」
本当は分かりきっている。
私はきっと、明日もここに来る。
「"かもしれない"ね」
蒼は、そう言いながら笑った。
でも、その笑顔がどこか柔らかかったのを、私は見逃さなかった。
家に向かう道で、私は何度も足元を見た。
自分の影を確かめるように。
夜だから、見えにくいけれど。
私は、まだここにいる。
現実の側に、ちゃんと立っている。
家に着いても、すぐには玄関に入れなかった。
鍵を握ったまま、扉の前で立ち尽くす。
蒼が幽霊だという事実は、頭では理解している。
影が無かったこと。
触れられなかったこと。
あれは、錯覚でも夢でもなかった。
それなのに、蒼と別れ一人になると、急に心細くなった。
ーー私、今なにを信じてるんだろう。
玄関を開けると、いつもと同じ匂いがした。
変わらない日常が、そこにはある。
「おかえり」
母の声がリビングから聞こえた。
「ただいま」
いつも通りのやりとり。
それができる自分に、少し安心する。
部屋に戻り、制服を脱いでベッドに腰を下ろす。
スマートフォンを手に取るが、画面を見る気になれず、すぐに伏せた。
天井を見つめる。
今日一日の出来事が、映像として頭の中で何度も再生される。
影の無い足元。
すり抜けた指。
心臓が、遅れて強く脈打った。
ーー怖い。
今になって、やっとそう思った。
蒼が怖いわけじゃない。
現実が、今まで信じてきた形じゃなくなったことが怖い。
もし、幽霊である蒼が本当にここにいるなら。
もし、私にしか見えていないのなら。
私は今、いったいどこに立っているのだろう。
眠ろうとしても、目は冴えたままだった。
布団を被っても、安心できない。
私は起き上がり、机に向かう。
引き出しからノートを取り出し、ページを開いた。
白い紙を前にすると、少しだけ呼吸が整う。
蒼の足元に影が見られなかったこと。
蒼に触れようとして触れられなかったこと。
今日あった出来事を書いた。
ノートを閉じ、深く息を吐く。
私はまだ、整理ができていない。
ーーそれでも。
蒼の声を思い出すと、胸の奥が静かになる。
否定も肯定もせず、ただ私の話を聞いてくれた時間。
それは確かに、私を救っていた。
次の日の朝、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。
それももう、日常的になってしまった。
寝不足のはずなのに、頭は妙に冴えている。、
鏡の前に立つと、いつもと変わらない自分が映っていた。
幽霊を見た人間の顔には見えない。
学校へ向かう道で、私は何度も周囲を見回した。
蒼の姿を探しているわけじゃない。
ただ、世界が昨日と同じか確かめたかった。
なんて、何考えてるんだろう。
やっぱり、寝不足で疲れが溜まってるのかもしれない。
教室に入ると、朝の喧騒が迎えてくる。
机に座り、深く息を吸う。
ーー私は、ここにいる。
授業が始まり、ノートを取る。
昨日よりは、少しだけ集中できた。
昼休み、紗季が隣に座る。
「ねえ、凪」
「なに?」
「最近さ」
紗季は少し言い淀んでから続けた。
「雰囲気、変わったよね」
心臓が跳ねる。
「、、、そうかな」
「うん。あ、でも、悪い意味で言ってるんじゃないよ」
「じゃあ、どんな意味?」
「なんていうか」
紗季は顎に指を当てて考える。
「遠くを見てる感じ」
図星だった。
「心ここにあらず、みたいな?」
「それに近いね」
私は苦笑する。
「凪、大丈夫?」
「、、、たぶん」
本当は、わからない。
でも、今はそれ以上話せなかった。
放課後に近づくにつれて、胸がざわついてくる。
理由は、考えなくてもわかっていた。
私は今日も、公園へ向かうのだろうか。
自分に問いかけるまでもなく、答えは決まっている。
夕方、公園に着く。
昨日より少し早い時間。
蒼はいなかった。
もしかしたら、見えないだけなのかもしれないけれど。
だけど、それになぜかほっとしている自分がいる。
同時に、少しだけ寂しい。
ベンチに座り、空を見上げる。
薄い雲が流れている。
「、、、来ないなら、来ないでいいのに」
「それ、本心?」
背後から声がして、息が止まる。
振り返ると、蒼が立っていた。
「、、、いつから」
「さあ、いつでしょう」
相変わらず、曖昧な答え。
「今日は、いないかと思った」
「それは、少しだけ寂しかった?」
「、、、」
私は答えなかった。
否定もしなかった。
「、、、昨日のこと考えてた」
私がそう言うと、蒼は隣に座った。
「そりゃそうだ。普通じゃないもんな」
「うん。普通じゃない」
「公園に来たこと、後悔してる?」
私は首を横に振る。
「、、、怖いけど」
「うん」
「それでも、来てよかったって思ってる」
蒼は何も言わず、ただ頷いた。
それだけで、十分だった。
「凪」
「なに?」
蒼は前を見たまま言う。
「全部を受け入れなくてもいい」
私は、その言葉に救われた。
「逃げてもいい?」
「いいよ」
「疑っても?」
「もちろん」
蒼は、少し笑う。
「それでも話したくなったら、ここに来ればいい」
期限も、約束もない言い方。
それが、今の私にはちょうど良かった。
私は、蒼の横顔を見る。
確かに、そこに存在している。
でも、触れられない。
影も落ちない。
矛盾だらけなのに、嘘じゃない。
私はまだ、答えを出せない。
でも、出さなくていいのかもしれない。
ただ一つわかっているのは、この場所で、この時間だけは、私が「一人じゃない」ということ。
それが、現実でも、そうでなくても。
夜は、また静かに更けていく。
夜風が少しだけ冷たくなってきた。
私は両手を膝の上に置き、指先をぎゅっと組む。
「ねえ、蒼」
「なに?」
「私がさ、誰かに言ったらどうなると思う?」
蒼は少しだけ首を傾げる。
「俺のこと?」
「うん」
「信じてもらえない可能性が高いね」
「だよね」
苦笑が漏れる。
「心配されるかも」
「それは優しい人たちだ」
蒼はあっさり言った。
「でも、きっとうまく説明できない」
「しなくてもいい。凪がしたくないんだったら、しなくてもいいんだよ」
説明できないものを、どう扱えばいいのかわからない。
でも、説明しなきゃいけないとも限らない。
その事実が、少しだけ気持ちを軽くした。
「凪はさ」
蒼がゆっくり言う。
「俺がいることで、現実が壊れそうって思ってる?」
私は考える。
壊れそう、というより。
ずれている。
「なんだろう。少しだけ、傾いている感じ。」
「倒れそう?」
「、、、まだ、立ってるけどね」
「なら大丈夫」
蒼は即答する。
「倒れそうになったら、離れればいい」
「そんな簡単にできるかな」
「できるよ」
迷いのない声。
「凪は、ちゃんと現実側の人間だから」
その言葉に、胸がひりつく。
「、、、蒼は?」
「俺は幽霊だから。ただ、ここにいるだけ」
淡々とした言い方。
その距離が、急に寂しく感じた。
「蒼は、寂しくないの?」
「寂しいって感覚、もうあんまりわからない」
私は息をのむ。
「長く一人だとね」
蒼は、空を見上げる。
「慣れる」
慣れる、という言葉が重かった。
私は、慣れたくないと思った。
孤独に。
諦めに。
何も感じない状態に。
「私は、慣れたくない」
気づけば、口にしていた。
「なにに?」
「、、、一人に」
蒼は少しだけ目を細めた。
「だから、ここに来た?」
「うん」
それは、もう否定できない。
私は、蒼に会うためにここへ来ている。
怖さもあるのに、それでも。
「凪」
蒼の声が、いつもより静かだった。
「俺は、ずっといるわけじゃない」
心臓が強く跳ねる。
「、、、どういう意味?」
「時間は、現実とは違ってこっち側では曖昧だけど、、、」
蒼は言葉を選ぶ。
「変わらないものはない」
はっきりとは言わない。
でも、その含みだけで十分だった。
私は視線を落とす。
「それ、今言う?」
「今だから言う」
蒼は真剣な表情だった。
「凪がここにくる理由が、俺だけになったら困る」
その言葉に、胸が締めつけられる。
「なってないよ」
即座に否定する。
けれど、少しだけ嘘だった。
「ならいいんだけど」
蒼はそれ以上追及しない。
私は、自分の心の中を覗き込む。
蒼と話す時間は、確かに楽だ。
誰にも言えなかったことを言える。
でも、それだけにしておかなければいけない。
「私、ちゃんと学校行ってるし」
「うん」
「友達もいる」
「知ってる」
「だから、大丈夫」
自分に言い聞かせるみたいに言うと、蒼は少しだけ優しく笑った。
「そうやって確認できるなら大丈夫だ」
風が吹き、木々が揺れる。
公園の時計を見ると、思ったより時間が経っていた。
「そろそろ帰ろうかな」
「うん」
私は立ち上がる。
蒼も、同じように立つ。
でも、やっぱり音はしない。
「凪」
「なに?」
「明日も来る?」
少しだけ、いたずらっぽい声。
「、、、気分次第」
「そっか」
蒼はそう言って、小さく笑った。
その笑顔を見て、胸が少しだけ痛む。
ーー変わらないものはない。
さっきの言葉が、頭から離れない。
帰り道、私は空を見上げた。
月はまだ細い。
世界は一見変わっていないように見える。
信号も、街灯も、家の明かりも。
すべて昨日までと同じ。
変わったのは、私だ。
誰にも見えない存在を、私は知ってしまった。
家に近づくにつれ、現実の輪郭がはっきりしていく感覚がした。
私は、日常の中に戻れる。
戻らなければいけない。
でも。
心のどこかに、公園の静かさが残っている。
蒼の声が、まだ耳の奥にある。
私はまだ、どちらかを選んでいないということなのだろうか。
現実の世界と、蒼たちの世界。
ただ、両方の間に立っている。
でも今は、それでいいと思えた。
完全に理解しなくてもいい。
全部を信じなくてもいい。
それでも、あの時間が嘘じゃないことだけは、わかっている。
夜は静かに続いていく。
私はまだ、境目に立ったまま。
けれど、もう目を逸らしてはいなかった。
夜の空気は、昼間よりもずっと正直だ。
隠していた感情を、静かに浮かび上がらせる。
家に入ると、テレビの音がリビングから流れてきた。
「おかえり、遅かったね」
母の何気ない言葉に、少しだけ心が揺れる。
「ちょっと公園でぼーっとしてた」
完全に嘘ではない。
けれど、本当のことも言っていない。
「最近よく行くわね」
「うん。静かだから」
それ以上、会話は広がらなかった。
部屋に戻りドアを閉める。
ドアの閉まる音がやけに大きく響いた。
私はベッドに腰を下ろし、今日の蒼の言葉を反芻する。
ーー変わらないものはない。
当たり前のことだ。
季節だって、気持ちだって、少しずつ形を変える。
それなのに、どうしてあんなに胸がざわついたんだろう。
私はカーテンを少しだけ開ける。
窓の外には、街灯に照らされた道が見える。
私は机に向かい、ノートを開いた。
昨日書いたページの隣に、今日のことを綴る。
蒼が「ずっといるわけじゃない」と言ったこと。
私が少しだけ動揺したこと。
それを隠そうと、平気なふりをしたこと。
文字にすると、自分の弱さがはっきりする。
私はペンを止め、しばらく考える。
私は何を怖がっているのだろう。
蒼が消えること?
それとも、蒼に依存してしまう自分?
答えは、まだ出ない。
ただ一つ言えるのは、蒼と話す時間が、確かに私を軽くしているということ。
それは逃げなのか、救いなのか。
境界は曖昧だ。
翌日、教室の窓から入る光がやけに眩しく感じた。
紗季と他愛ない会話をしながらも、私は心のどこかで時間を気にしている。
放課後が近づくにつれ、意識がそわそわする。
でも今日は、すぐには公園へ向かわなかった。
一度、家に帰った。
制服のままベッドに寝転び、天井を見上げる。
——凪がここにくる理由が、俺だけになったら困る。
蒼の声が蘇る。
私は目を閉じる。
公園に行くのは、私の意思だ。
蒼に会うためでもあるけれど、それだけじゃない。
あの場所で、私は自分の本音を認められる。
誰にも見せていない部分を、そっと外に出せる。
それは、蒼がいるからこそできることかもしれない。
でも、蒼のためだけじゃない。
私は起き上がり、鞄を置いて部屋を出る。
「ちょっとまた出てくるね」
母は少し驚いた顔をしたが、何も言わなかった。
公園へ向かう道は、昨日と同じはずなのに、少しだけ違って見える。
私は歩きながら考える。
蒼が消える日が来るとしたら。
私はどうするのだろう。
想像するだけで、胸が締めつけられる。
でも同時に、思う。
それでも、会わなかったことにはしたくない。
公園に着くと、ベンチには誰もいなかった。
少しだけ深呼吸をする。
「今日は遅かったね」
声がして、私は振り向く。
蒼が、木のそばに立っていた。
「別に、毎日来るって決めたわけじゃないし」
「そりゃそうだ」
蒼は肩をすくめる。
私はベンチに座り、隣を軽く叩いた。
蒼は少し驚いた顔をしてから、そこに腰を下ろす。
触れられない距離。
でも、確かに並んでいる。
「私ね」
言葉を探しながら、続ける。
「蒼がいなくなるの、嫌だよ」
蒼は何も言わない。
「でも、それでここに来なくなるのも、嫌」
自分でもうまく説明できない。
蒼は静かに空を見上げる。
「凪は、ちゃんと考えてるね」
「考えないと、怖いから」
「怖いままでいいよ」
その言葉に、少しだけ目を見開く。
「無理に強くならなくていい」
蒼の声は、夜風よりも柔らかい。
私は膝の上で指を握る。
「蒼はさ」
「うん?」
「消えるの、怖くないの?」
しばらく沈黙が流れた。
やがて蒼は、静かに言う。
「怖いかどうかも、よくわからない」
正直な答えだった。
「でも、凪が前を向けるなら、それでもいい」
胸の奥がじんわりと熱くなる。
私は、まだ前を向けていない。
それでも、蒼はそう言う。
夜空には、昨日より少し丸い月が浮かんでいた。ら
私は、ゆっくりと息を吸う。
今はまだ、結論なんていらない。
消えるかもしれない未来も。
揺らいでいる現実も。
全部抱えたまま、ここにいる。
それでいい。
蒼の隣で、私は静かに目を閉じた。
風が頬を撫でる。
世界は少しずつ動いている。
私もその中にちゃんと立っている。
境目の上で揺れながら。
それでももう、一人ではなかった。



