夜は、私にとって安全な時間でもあり、危険な時間でもあった。
誰にも見られないという意味では安心できるのに、考えなくてもいいことまで浮かび上がってくる。
部屋の灯りを消し、スマートフォンの画面だけを頼りに時間をやり過ごす。
動画を見ても、音楽を聴いても、心はどこか別の場所に置き去りにされたままだった。
眠れない夜が続いていた。
理由はわかっている。
わかっているからこそ、どうにもならなかった。
私は自分という存在をうまく認められずにいた。
学校では笑っている。
家では「大丈夫」と答える。
それなのに、胸の奥だけがずっと空洞のままだ。
誰かに話したい。
でも、誰に?
何を?
言葉にする前に、全てがほどけてしまいそうで、私は黙ることを選び続けてきた。
その夜も、同じだった。
気づけば私は、家を出ていた。
理由はない。
強いていうなら、ここではないどこかに行きたかっただけだ。
夜の公園は、昼間とは別世界のようだった。
ブランコは静止したまま、滑り台は影だけを伸ばしている。
街灯の下に落ちる光は、現実と夢の境目のようで、輪郭が曖昧だった。
私はベントに腰を下ろした。
冷たい感触が、じんわりと伝わってくる。
「、、、やっぱり、意味ないな」
誰に向けたわけでもない言葉が、夜に溶ける。
返事があるはずもない。
ーはずだった。
「意味ないってことはないんじゃない?」
声がした。
すぐ隣から。
心臓が、一泊遅れて跳ねる。
私は勢いよく顔を上げた。
そこには、男の子が座っていた。
全く気づかなかった。
足音もしなかったと思う。
年は、私と同じくらいに見える。
制服でもなければ、私服という感じもしない、季節感のない服装。
「、、、だれ?」
声が掠れたのが、自分でもわかった。
「ひどいな。いきなりそんな聞き方」
男の子は肩をすくめて、軽く笑う。
怖さよりも先に、困惑が勝った。
「ここ、誰もいなかったはず」
「そう?じゃあ、俺が今ここにいるのはどう説明する?」
言葉選びみたいな口調。
からかっているようにも聞こえた。
「、、、ついてきた?」
「いや、最初からいた」
そんなはずはない。
私は確かに、一人でベンチに座った。
「嘘」
「まあ、そう言うよね」
男の子は否定しなかった。
それが余計に気味が悪かった。
立ちあがろうとすると、足が少し震えた。
怖い、というよりも状況が飲み込めない。
「帰る」
「それ、正解かも」
あっさり言われて、逆に足が止まる。
「、、、何、それ」
「だって俺、普通じゃないし」
その言葉に、私は彼を見た。
普通じゃないってどういうことだろう。
「普通じゃないって?」
「うーん、説明すると長いんだけど」
男の子は少し考える素振りをしてから、笑って言った。
「俺、幽霊なんだよ」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
次に浮かんだのは、呆れだった。
「、、、冗談、きつい」
「だよね。そう言われると思った」
否定されることを前提にした口調。
怒る様子も、慌てる様子もない。
「そういうの、全然面白くないから」
私はそう言って、今度こそ立ち去ろうとした。
「待って」
呼び止める声は、意外と穏やかだった。
「信じなくていい。でも、少しだけ話そう」
「話すことなんてない」
「あるでしょ」
男の子は私の顔を見て、静かに言った。
「ここに来た理由」
胸の奥を、指でなぞられたような感覚がした。
「、、、決めつけないで」
「決めつけてない。ほんとのことだよ。それは、自分が一番わかってるはずだ」
私はベンチに戻るでもなく、立ったまま彼を見る。
近くで見ると、彼の表情は柔らかかった。
どこか、懐かしい気もする。
「幽霊っていうなら、成仏すれば?」
少し意地悪な言い方になったのは、動揺を隠すためだった。
「それができたら、苦労しない」
男の子は苦笑した。
「名前は?」
「聞くんだ」
彼は意外そうに言った。
「、、、一応」
「柏木蒼」
普通の名前なんだ。
「君の名前は?」
「篠原、凪」
気づけば自然と答えていた。
蒼は、私の名前を一度、口の中で転がす。
「凪か。綺麗な名前だな」
その言葉に、なぜか胸がざわついた。
夜風が吹き、木々が揺れる。
現実なのか、夢なのか、判断がつかない。
「ねえ、凪」
蒼はベンチの背もたれに身を預けながら言った。
「ここに来た理由は、言わなくてもいい。でもさ、」
視線が、真っ直ぐに私に向けられる。
「一人で抱え込むの、向いてないよ」
その一言で、私は何も言えなくなった。
信じられない存在。
あり得ない設定。
それなのに、その場を離れられなかった。
私はまだ知らなかった。
この夜が、私の日常を静かに壊し始めていることを。
信じるか、信じないか。
その選択すら、もう意味を持たなくなりつつあることを。
ただ一つ確かなことは、私はこの夜、一人ではなかったということだった。
「まあ、今日はもう遅いから帰りなよ」
蒼と別れたあと、私はしばらく公園の入り口に立ち尽くしていた。
足を一歩踏み出せば、家に帰れる。
それなのに、体が言うことを聞かなかった。
夜の空気は湿っていて、肌にまとわりつく。
ついさっきまで誰かと話していたとは思えないほど、世界は静まり返っていた。
ー幽霊。
口に出して見ると、やっぱり現実味がない。
信じられる理由なんて、どこにもなかった。
それでも、完全に否定しきれなかったのはなぜだろう。
家に着くと、家の灯りがついていた。
母はもう帰っているらしい。
私はなるべく音を立てないように靴を脱ぎ、自分の部屋へ向かった。
「おかえり」
廊下の途中で声をかけられ、心臓が跳ねる。
「、、、ただいま」
母はキッチンから顔を出し、私を一瞥した。
「遅かったね。どこ行ってたの?」
「ちょっと、散歩」
「夜に?」
一瞬、蒼の顔が浮かぶ。
私はそれを振り払うように言った。
「外の空気吸いたくなって」
「そう」
それ以上、母は何も聞かなかった。
その距離感に、少しだけ救われる。
部屋に戻り、ベッドに腰を下ろす。
天井を見上げると、白いシミがぼんやり浮かんでいた。
私は、自分の手のひらを見る。
さっき、蒼が座っていた場所の空気を思い出す。
何も触れていないのに、確かにそこに“誰か“がいた感覚。
「、、、バカみたい」
独り言は、誰にも届かない。
シャワーを浴び、髪を乾かしても、頭の中は静まらなかった。
ベッドに横になっても、眠気は来ない。
私はスマートフォンを手に取り、画面を眺める。
メッセージアプリには、クラスのグループ通知が溜まっていた。
『明日、提出あるから忘れないでー』
『体育、雨でもやるらしいよ』
どうでもいい会話。
それなのに、そこに自分の居場所があることを少しだけ確認できる。
画面を閉じた瞬間、胸の奥がひやりとした。
ーもし、明日も蒼がいたら?
そんな考えが浮かび、私は慌てて目を閉じた。
期待している自分が、なんだか少し怖かった。
次の日。
目覚ましの音で引き戻される。
鏡の前に立つと、顔色は思ったより悪くなかった。
ただ、目の奥に薄く疲れが溜まっている。
学校へ向かう道はいつもと同じ。
自転車の音、信号待ちの人混み。コンビニの前を通り過ぎる感覚。
それなのに、世界が違って見えた。
教室に入ると、朝のざわめきが私を包む。
机のカバンを置いた瞬間、声がかかった。
「凪、おはよ」
振り向くと、三浦健太が座っていた。
短く整えられた髪に、眠そうな目。
「おはよう」
「昨日、帰るの遅くなかった?」
「、、、見てたの?」
「たまたま見かけたんだよ」
軽い調子。
詮索する感じではない。
「大丈夫?」
その一言に、言葉が詰まる。
「うん」
反射的に答えた自分に、少しだけ嫌気がさした。
授業が始まり、ノートを取る。
黒板の文字を追いながら、私は何度も意識を飛ばした。
蒼の声。
蒼の笑い方。
あの、軽すぎる自己紹介。
放課後。
私は気づけば、昨日と同じ道を歩いていた。
理由は、考えない。
考えた瞬間、後戻りできなくなる気がしたから。
公園に入ると、ベンチが目に入る。
昨夜と同じ場所。
——いない。
当然だ。
そう思いながら、なぜか落胆する。
「来ると思った」
背後から声がして、息を呑む。
振り返ると、蒼がいた。
昨日と変わらない姿で。
「……なんで」
「なんで、とは?」
「……ここに」
「来る気がしたから」
なにそれ。
「俺が幽霊だって信じた?」
「信じてない」
「即答だね」
蒼は笑う。
私はベンチに座り、隣の空間を一瞥する。
蒼は、そこに自然に腰を下ろした。
誰かと並んで座る感覚。
それが、ひどく久しぶりだった。
「昨日さ」
私が口を開く。
「帰ってから、ずっと考えてた」
「うん」
「ありえないって思ってるのに、頭から離れなくて」
「そうだったんだ」
蒼の声は、軽いけれど真剣だった。
「信じるかどうかより、、、」
私は言葉を探す。
「……誰かが、私の話を聞こうとしてくれたことが」
そこで言葉が途切れた。
蒼は、何も言わない。
ただ、黙って待っている。
「それが、嬉しかった」
やっと絞り出した声は、小さかった。
「それでいい」
蒼は、あっさり言った。
「理由なんて、後付けでいい」
私は、初めてちゃんと彼を見た。
幽霊かどうかは、まだ分からない。
でも、この時間が嘘じゃないことだけは、否定したくなかった。
私は知らなかった。
この“曖昧なままの関係”が、これから私を救い、同時に深く傷つけることを。
それでも、私はこの夜を選んだ。
まだ、何も確かじゃないままで。
蒼と並んで座る時間は、思っていたよりも静かだった。
気まずさがないわけじゃない。
けれど、言葉を探して焦る感じもしない。
沈黙が、何かを隠すためのものじゃなく、ただ流れていくものとしてそこにあった。
「学校、どうだった?」
蒼が先に口を開いた。
「普通」
「それ、だいたい嘘のときの答えだよね」
「……失礼だな」
そう返しながら、私は少しだけ笑った。
笑ったこと自体に、自分で驚く。ここ最近、意識して笑うことはあっても、自然に口角が上がることは少なかったから。
「普通ってさ」
蒼は前を見たまま続ける。
「一番説明が難しい言葉だと思う」
「どういう意味?」
「何も起きてないようで、実はいろいろ起きてる」
私は膝の上で手を組み直した。
「……それなら、合ってるかも」
授業の内容、友達との会話、帰り道の空。
どれも昨日と変わらないはずなのに、胸の奥ではずっと何かがざわついている。
「蒼は?」
「俺?」
「……暇なの?」
我ながら、ひどい聞き方だと思った。
「まあね」
蒼は気にした様子もなく、軽く肩をすくめた。
「ここ、なんか落ち着くからよく来ちゃうんだよ」
公園を見回しながら、蒼が言う。
ブランコは風に揺れて、鉄の軋む音が鳴り響いている。
砂場は昼間の名残を残したまま、誰も触れない。
「私は、ここに来るの、夜ばっかり」
「知ってる」
「、、、え?」
「昨日言ってたでしょ。眠れないって。だから夜、ここに来たんだろ?」
言われて思い出す。
私は確かに、そんなことを口にした。
「覚えてたんだ」
「覚えてるよ」
蒼は即答だった。
それがなぜか、胸に引っかかる。
「なんで?」
「なんでって」
蒼は一瞬、言葉を探すように視線を逸らした。
「だって俺、凪の話、ちゃんと聞くって決めたから」
その言い方が、蒼らしくないほど真剣で。
私は目を伏せた。
ーー誰かが私の話を聞こうとしてくれている。
それだけで、人はこんなにも心が揺れるんだ。
「私さ」
気づけば口が動いていた。
きっとそれは、この人なら大丈夫だと、そう思えたからだ。
「自分が何に苦しんでるのか、うまく説明できない」
「うん」
「苦しんでる理由が分からないから、余計に嫌になる」
「なるほど」
「蒼は、なんでも分かったふうに言うね」
「分かってないよ」
「え?」
「分かってないから、もっと聞かせてほしい。凪のこと」
蒼は微笑みながら、そう言ってくれた。
私は息を吸って、ゆっくり吐いた。
「、、、夜になると、怖い」
「何が?」
「全部」
「全部、か」
言葉にした瞬間、ほんの少しだけ楽になる。
「考えたくないことが、勝手に出てくる。止めようとすればするほど、余計に」
「それはきっと、すごくつらいよね。って言っても、俺には凪の気持ちを完全に理解することはできないけど」
「ううん、そう言ってくれるだけど嬉しいよ」
自分の気持ちに寄り添ってくれる。
それが何より、私の心を救ってくれるような気がした。
「一つアドバイスするなら、戦い方が逆なんじゃないかな?」
「戦い方が、逆?」
「そう、考えたくないことを追い払おうとすればするほど頭から離れなくなる」
私は首を傾げる。
「じゃあ、どうすればいいの?」
「無視」
「そんなの、、、無理だよ」
「完全じゃなくていい」
蒼は私の方を見た。
「横に置いとく感じ」
横に置く。
それは、今まで考えたことのない発想だった。
「逃げてもいいってこと?」
「逃げるっていうより」
蒼は少し考えてから言う。
「距離を変える」
私はその言葉を、頭の中で何度も転がした。
距離。
近すぎて苦しいなら、少し離してみる。
ゼロにしなくてもいい。
でも、ついつい考えてしまうのだから、できるのか不安になる。
「、、、難しそう」
「だから、すぐできなくていい」
蒼は当たり前みたいに言った。
その言葉に、胸の奥がじんわり温かくなる。
「蒼はさ、」
私は尋ねる。
「いつも、こうやって人の話を聞いてるの?」
「いや、凪だけだよ」
蒼は、私を見たまま言った。
「誰でもいいわけじゃない」
視線が合い、私は慌てて目を逸らした。
ーーそれってどういう意味。
聞きたいのに、聞けない。
答えを知るのが怖かった。
「、、、私、そろそろ帰らないと」
私が立ち上がると、蒼も自然に立ち上がる。
「また来る?」
「、、、分からない」
それは私の本音だった。
「そっか」
蒼は、それ以上何も言わない。
公園を出る直前、私は振り返った。
「蒼」
「なに?」
「、、、ありがとう」
蒼は少し驚いた顔をしてから、微笑んだ。
「どういたしまして」
帰り道、夜風が頬に当たる。
心臓の鼓動は、さっきより落ち着いていた。
家に着くまで、蒼の言葉が何度も頭に浮かぶ。
距離を変える。
横に置く。
部屋に入り、机にカバンを置く。
窓の外は、さっきまでいた公園と同じ夜なのに、もう別の場所みたいだった。
私は、ノートを開く。
特に目的はない。
ただ、何かを書きたかった。
『夜が怖い理由』
そう書いて、ペンが止まる。
理由は、やっぱり分からない。
でも、分からないままでいいのかもしれないと、初めて思えた。
ノートを閉じ、深呼吸をする。
蒼は本当に幽霊なのか。
どこまで信じていいのか。
答えはまだ出ない。
それでも、私は気づいてしまった。
今日という一日が、昨日より少しだけ軽かったことを。
その変化を、私はまだ、名前で呼ばない。
けれど、確かにそこにあった。
夜は相変わらず長い。
それでも私は、いつもよりほんの少しだけれど、安心できたような気がした。
誰にも見られないという意味では安心できるのに、考えなくてもいいことまで浮かび上がってくる。
部屋の灯りを消し、スマートフォンの画面だけを頼りに時間をやり過ごす。
動画を見ても、音楽を聴いても、心はどこか別の場所に置き去りにされたままだった。
眠れない夜が続いていた。
理由はわかっている。
わかっているからこそ、どうにもならなかった。
私は自分という存在をうまく認められずにいた。
学校では笑っている。
家では「大丈夫」と答える。
それなのに、胸の奥だけがずっと空洞のままだ。
誰かに話したい。
でも、誰に?
何を?
言葉にする前に、全てがほどけてしまいそうで、私は黙ることを選び続けてきた。
その夜も、同じだった。
気づけば私は、家を出ていた。
理由はない。
強いていうなら、ここではないどこかに行きたかっただけだ。
夜の公園は、昼間とは別世界のようだった。
ブランコは静止したまま、滑り台は影だけを伸ばしている。
街灯の下に落ちる光は、現実と夢の境目のようで、輪郭が曖昧だった。
私はベントに腰を下ろした。
冷たい感触が、じんわりと伝わってくる。
「、、、やっぱり、意味ないな」
誰に向けたわけでもない言葉が、夜に溶ける。
返事があるはずもない。
ーはずだった。
「意味ないってことはないんじゃない?」
声がした。
すぐ隣から。
心臓が、一泊遅れて跳ねる。
私は勢いよく顔を上げた。
そこには、男の子が座っていた。
全く気づかなかった。
足音もしなかったと思う。
年は、私と同じくらいに見える。
制服でもなければ、私服という感じもしない、季節感のない服装。
「、、、だれ?」
声が掠れたのが、自分でもわかった。
「ひどいな。いきなりそんな聞き方」
男の子は肩をすくめて、軽く笑う。
怖さよりも先に、困惑が勝った。
「ここ、誰もいなかったはず」
「そう?じゃあ、俺が今ここにいるのはどう説明する?」
言葉選びみたいな口調。
からかっているようにも聞こえた。
「、、、ついてきた?」
「いや、最初からいた」
そんなはずはない。
私は確かに、一人でベンチに座った。
「嘘」
「まあ、そう言うよね」
男の子は否定しなかった。
それが余計に気味が悪かった。
立ちあがろうとすると、足が少し震えた。
怖い、というよりも状況が飲み込めない。
「帰る」
「それ、正解かも」
あっさり言われて、逆に足が止まる。
「、、、何、それ」
「だって俺、普通じゃないし」
その言葉に、私は彼を見た。
普通じゃないってどういうことだろう。
「普通じゃないって?」
「うーん、説明すると長いんだけど」
男の子は少し考える素振りをしてから、笑って言った。
「俺、幽霊なんだよ」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
次に浮かんだのは、呆れだった。
「、、、冗談、きつい」
「だよね。そう言われると思った」
否定されることを前提にした口調。
怒る様子も、慌てる様子もない。
「そういうの、全然面白くないから」
私はそう言って、今度こそ立ち去ろうとした。
「待って」
呼び止める声は、意外と穏やかだった。
「信じなくていい。でも、少しだけ話そう」
「話すことなんてない」
「あるでしょ」
男の子は私の顔を見て、静かに言った。
「ここに来た理由」
胸の奥を、指でなぞられたような感覚がした。
「、、、決めつけないで」
「決めつけてない。ほんとのことだよ。それは、自分が一番わかってるはずだ」
私はベンチに戻るでもなく、立ったまま彼を見る。
近くで見ると、彼の表情は柔らかかった。
どこか、懐かしい気もする。
「幽霊っていうなら、成仏すれば?」
少し意地悪な言い方になったのは、動揺を隠すためだった。
「それができたら、苦労しない」
男の子は苦笑した。
「名前は?」
「聞くんだ」
彼は意外そうに言った。
「、、、一応」
「柏木蒼」
普通の名前なんだ。
「君の名前は?」
「篠原、凪」
気づけば自然と答えていた。
蒼は、私の名前を一度、口の中で転がす。
「凪か。綺麗な名前だな」
その言葉に、なぜか胸がざわついた。
夜風が吹き、木々が揺れる。
現実なのか、夢なのか、判断がつかない。
「ねえ、凪」
蒼はベンチの背もたれに身を預けながら言った。
「ここに来た理由は、言わなくてもいい。でもさ、」
視線が、真っ直ぐに私に向けられる。
「一人で抱え込むの、向いてないよ」
その一言で、私は何も言えなくなった。
信じられない存在。
あり得ない設定。
それなのに、その場を離れられなかった。
私はまだ知らなかった。
この夜が、私の日常を静かに壊し始めていることを。
信じるか、信じないか。
その選択すら、もう意味を持たなくなりつつあることを。
ただ一つ確かなことは、私はこの夜、一人ではなかったということだった。
「まあ、今日はもう遅いから帰りなよ」
蒼と別れたあと、私はしばらく公園の入り口に立ち尽くしていた。
足を一歩踏み出せば、家に帰れる。
それなのに、体が言うことを聞かなかった。
夜の空気は湿っていて、肌にまとわりつく。
ついさっきまで誰かと話していたとは思えないほど、世界は静まり返っていた。
ー幽霊。
口に出して見ると、やっぱり現実味がない。
信じられる理由なんて、どこにもなかった。
それでも、完全に否定しきれなかったのはなぜだろう。
家に着くと、家の灯りがついていた。
母はもう帰っているらしい。
私はなるべく音を立てないように靴を脱ぎ、自分の部屋へ向かった。
「おかえり」
廊下の途中で声をかけられ、心臓が跳ねる。
「、、、ただいま」
母はキッチンから顔を出し、私を一瞥した。
「遅かったね。どこ行ってたの?」
「ちょっと、散歩」
「夜に?」
一瞬、蒼の顔が浮かぶ。
私はそれを振り払うように言った。
「外の空気吸いたくなって」
「そう」
それ以上、母は何も聞かなかった。
その距離感に、少しだけ救われる。
部屋に戻り、ベッドに腰を下ろす。
天井を見上げると、白いシミがぼんやり浮かんでいた。
私は、自分の手のひらを見る。
さっき、蒼が座っていた場所の空気を思い出す。
何も触れていないのに、確かにそこに“誰か“がいた感覚。
「、、、バカみたい」
独り言は、誰にも届かない。
シャワーを浴び、髪を乾かしても、頭の中は静まらなかった。
ベッドに横になっても、眠気は来ない。
私はスマートフォンを手に取り、画面を眺める。
メッセージアプリには、クラスのグループ通知が溜まっていた。
『明日、提出あるから忘れないでー』
『体育、雨でもやるらしいよ』
どうでもいい会話。
それなのに、そこに自分の居場所があることを少しだけ確認できる。
画面を閉じた瞬間、胸の奥がひやりとした。
ーもし、明日も蒼がいたら?
そんな考えが浮かび、私は慌てて目を閉じた。
期待している自分が、なんだか少し怖かった。
次の日。
目覚ましの音で引き戻される。
鏡の前に立つと、顔色は思ったより悪くなかった。
ただ、目の奥に薄く疲れが溜まっている。
学校へ向かう道はいつもと同じ。
自転車の音、信号待ちの人混み。コンビニの前を通り過ぎる感覚。
それなのに、世界が違って見えた。
教室に入ると、朝のざわめきが私を包む。
机のカバンを置いた瞬間、声がかかった。
「凪、おはよ」
振り向くと、三浦健太が座っていた。
短く整えられた髪に、眠そうな目。
「おはよう」
「昨日、帰るの遅くなかった?」
「、、、見てたの?」
「たまたま見かけたんだよ」
軽い調子。
詮索する感じではない。
「大丈夫?」
その一言に、言葉が詰まる。
「うん」
反射的に答えた自分に、少しだけ嫌気がさした。
授業が始まり、ノートを取る。
黒板の文字を追いながら、私は何度も意識を飛ばした。
蒼の声。
蒼の笑い方。
あの、軽すぎる自己紹介。
放課後。
私は気づけば、昨日と同じ道を歩いていた。
理由は、考えない。
考えた瞬間、後戻りできなくなる気がしたから。
公園に入ると、ベンチが目に入る。
昨夜と同じ場所。
——いない。
当然だ。
そう思いながら、なぜか落胆する。
「来ると思った」
背後から声がして、息を呑む。
振り返ると、蒼がいた。
昨日と変わらない姿で。
「……なんで」
「なんで、とは?」
「……ここに」
「来る気がしたから」
なにそれ。
「俺が幽霊だって信じた?」
「信じてない」
「即答だね」
蒼は笑う。
私はベンチに座り、隣の空間を一瞥する。
蒼は、そこに自然に腰を下ろした。
誰かと並んで座る感覚。
それが、ひどく久しぶりだった。
「昨日さ」
私が口を開く。
「帰ってから、ずっと考えてた」
「うん」
「ありえないって思ってるのに、頭から離れなくて」
「そうだったんだ」
蒼の声は、軽いけれど真剣だった。
「信じるかどうかより、、、」
私は言葉を探す。
「……誰かが、私の話を聞こうとしてくれたことが」
そこで言葉が途切れた。
蒼は、何も言わない。
ただ、黙って待っている。
「それが、嬉しかった」
やっと絞り出した声は、小さかった。
「それでいい」
蒼は、あっさり言った。
「理由なんて、後付けでいい」
私は、初めてちゃんと彼を見た。
幽霊かどうかは、まだ分からない。
でも、この時間が嘘じゃないことだけは、否定したくなかった。
私は知らなかった。
この“曖昧なままの関係”が、これから私を救い、同時に深く傷つけることを。
それでも、私はこの夜を選んだ。
まだ、何も確かじゃないままで。
蒼と並んで座る時間は、思っていたよりも静かだった。
気まずさがないわけじゃない。
けれど、言葉を探して焦る感じもしない。
沈黙が、何かを隠すためのものじゃなく、ただ流れていくものとしてそこにあった。
「学校、どうだった?」
蒼が先に口を開いた。
「普通」
「それ、だいたい嘘のときの答えだよね」
「……失礼だな」
そう返しながら、私は少しだけ笑った。
笑ったこと自体に、自分で驚く。ここ最近、意識して笑うことはあっても、自然に口角が上がることは少なかったから。
「普通ってさ」
蒼は前を見たまま続ける。
「一番説明が難しい言葉だと思う」
「どういう意味?」
「何も起きてないようで、実はいろいろ起きてる」
私は膝の上で手を組み直した。
「……それなら、合ってるかも」
授業の内容、友達との会話、帰り道の空。
どれも昨日と変わらないはずなのに、胸の奥ではずっと何かがざわついている。
「蒼は?」
「俺?」
「……暇なの?」
我ながら、ひどい聞き方だと思った。
「まあね」
蒼は気にした様子もなく、軽く肩をすくめた。
「ここ、なんか落ち着くからよく来ちゃうんだよ」
公園を見回しながら、蒼が言う。
ブランコは風に揺れて、鉄の軋む音が鳴り響いている。
砂場は昼間の名残を残したまま、誰も触れない。
「私は、ここに来るの、夜ばっかり」
「知ってる」
「、、、え?」
「昨日言ってたでしょ。眠れないって。だから夜、ここに来たんだろ?」
言われて思い出す。
私は確かに、そんなことを口にした。
「覚えてたんだ」
「覚えてるよ」
蒼は即答だった。
それがなぜか、胸に引っかかる。
「なんで?」
「なんでって」
蒼は一瞬、言葉を探すように視線を逸らした。
「だって俺、凪の話、ちゃんと聞くって決めたから」
その言い方が、蒼らしくないほど真剣で。
私は目を伏せた。
ーー誰かが私の話を聞こうとしてくれている。
それだけで、人はこんなにも心が揺れるんだ。
「私さ」
気づけば口が動いていた。
きっとそれは、この人なら大丈夫だと、そう思えたからだ。
「自分が何に苦しんでるのか、うまく説明できない」
「うん」
「苦しんでる理由が分からないから、余計に嫌になる」
「なるほど」
「蒼は、なんでも分かったふうに言うね」
「分かってないよ」
「え?」
「分かってないから、もっと聞かせてほしい。凪のこと」
蒼は微笑みながら、そう言ってくれた。
私は息を吸って、ゆっくり吐いた。
「、、、夜になると、怖い」
「何が?」
「全部」
「全部、か」
言葉にした瞬間、ほんの少しだけ楽になる。
「考えたくないことが、勝手に出てくる。止めようとすればするほど、余計に」
「それはきっと、すごくつらいよね。って言っても、俺には凪の気持ちを完全に理解することはできないけど」
「ううん、そう言ってくれるだけど嬉しいよ」
自分の気持ちに寄り添ってくれる。
それが何より、私の心を救ってくれるような気がした。
「一つアドバイスするなら、戦い方が逆なんじゃないかな?」
「戦い方が、逆?」
「そう、考えたくないことを追い払おうとすればするほど頭から離れなくなる」
私は首を傾げる。
「じゃあ、どうすればいいの?」
「無視」
「そんなの、、、無理だよ」
「完全じゃなくていい」
蒼は私の方を見た。
「横に置いとく感じ」
横に置く。
それは、今まで考えたことのない発想だった。
「逃げてもいいってこと?」
「逃げるっていうより」
蒼は少し考えてから言う。
「距離を変える」
私はその言葉を、頭の中で何度も転がした。
距離。
近すぎて苦しいなら、少し離してみる。
ゼロにしなくてもいい。
でも、ついつい考えてしまうのだから、できるのか不安になる。
「、、、難しそう」
「だから、すぐできなくていい」
蒼は当たり前みたいに言った。
その言葉に、胸の奥がじんわり温かくなる。
「蒼はさ、」
私は尋ねる。
「いつも、こうやって人の話を聞いてるの?」
「いや、凪だけだよ」
蒼は、私を見たまま言った。
「誰でもいいわけじゃない」
視線が合い、私は慌てて目を逸らした。
ーーそれってどういう意味。
聞きたいのに、聞けない。
答えを知るのが怖かった。
「、、、私、そろそろ帰らないと」
私が立ち上がると、蒼も自然に立ち上がる。
「また来る?」
「、、、分からない」
それは私の本音だった。
「そっか」
蒼は、それ以上何も言わない。
公園を出る直前、私は振り返った。
「蒼」
「なに?」
「、、、ありがとう」
蒼は少し驚いた顔をしてから、微笑んだ。
「どういたしまして」
帰り道、夜風が頬に当たる。
心臓の鼓動は、さっきより落ち着いていた。
家に着くまで、蒼の言葉が何度も頭に浮かぶ。
距離を変える。
横に置く。
部屋に入り、机にカバンを置く。
窓の外は、さっきまでいた公園と同じ夜なのに、もう別の場所みたいだった。
私は、ノートを開く。
特に目的はない。
ただ、何かを書きたかった。
『夜が怖い理由』
そう書いて、ペンが止まる。
理由は、やっぱり分からない。
でも、分からないままでいいのかもしれないと、初めて思えた。
ノートを閉じ、深呼吸をする。
蒼は本当に幽霊なのか。
どこまで信じていいのか。
答えはまだ出ない。
それでも、私は気づいてしまった。
今日という一日が、昨日より少しだけ軽かったことを。
その変化を、私はまだ、名前で呼ばない。
けれど、確かにそこにあった。
夜は相変わらず長い。
それでも私は、いつもよりほんの少しだけれど、安心できたような気がした。



