朝が来るたび、胸の奥が重くなる。
理由は分からない。
ただ、目を開ける瞬間から、今日という一日を生き抜かなければならないという事実だけが、確かな重みをもってのしかかってくる。
私は、枕元のスマートフォンが鳴る前に目を覚ました。
目覚ましを止める必要はない。
鳴る前に起きてしまうのは、もう珍しいことではなかった。
天井を見上げる。
白いはずの天井は、朝の薄い光に染まって、どこかくすんで見えた。
ーー今日も、始まってしまった。
布団から出るまでに、少し時間がかかる。
体が重いわけじゃない。
ただ、起きたいと思える理由が見つからない。
学校に行く。
授業を受ける。
帰ってくる。
それだけのことなのに、心はいつも抵抗する。
制服に袖を通し、洗面所で顔を洗う。
鏡の中の自分と視線が合う。
そこに映るのは、特別不幸そうでも、特別幸せそうでもない、どこにでもいそうな高校生の顔だった。
「…大丈夫」
声に出してみる。
でも、その言葉が自分自分に向けられたものだと実感できない。
誰か別の人に向けて言っているみたいで、虚しかった。
家の中は静かだった。
母はもう仕事に出ている。
机の上には、「凪へ。温めて食べてね」という置き手紙と、温め直せばすぐに食べられる朝食。
母の気遣いには気づいている。
でも、それに応える余裕すら、私にはなかった。
学校へ向かう道は、毎日同じだ。
信号の位置も、電柱の影も、春先に咲く花の場所も、全部知っている。
だけど、同じ景色を歩いているはずなのに、心だけがどこにもいなかった。
教室に入ると、ざわめきが耳に届く。
クラスメイトたちの笑い声、机を引く音、他愛ない会話。
私はその中に混ざらず、話しかけられたときだけ反応する。
「凪ちゃん、おはよう」
「おはよう」
私は、自分がいつから「静かな人間」になったのかを、正確には覚えていない。
もともと無口だったわけではない。
小学生の頃は、休み時間に机をくっつけて話す友達もいたし、学校帰りに寄り道をして笑い合った記憶も、確かに残っている。
ただ、それらは今の私にとって、遠い場所に置き去りにされた写真のようなものだった。
高校二年の春。
新しいクラス、新しい席、新しい顔ぶれ。
教室に流れる空気は、期待と不安が混じり合った独特のざわめきを帯びていた。
だが、私の胸の内に芽生えたのは、そうした前向きな感情とは別のものだった。
ーーまた、ここから始めないといけない。
そう思った瞬間、わずかな息苦しさが、喉に絡みついた。
私の席は、窓際の後ろから二列目だった。
黒板に近すぎず、かといって教室の中心でもない。
目立たず、埋もれやすい位置。
最初は出席番号順なので、毎年ほぼ同じ位置から一年が始まる。
それは私にとって都合が良かった。
誰かと頻繁に話さなくても、不自然に見えない場所だったから。
前の席には、髪を肩まで伸ばした女子生徒が座っていた。
名前は確か、「宮下結衣」。
入学式のときに、一度だけ話した記憶がある。
明るくて、声がよく通る子だった。
後ろの席には、スポーツバッグをいつも椅子に引っ掛けている男子ーー「高瀬航平」。
昼休みになると、クラスの中心で笑い声を上げるタイプの人間だ。
私は、彼らのことを「知っている」。
でも、それ以上でもそれ以下でもなかった。
授業が始まると、教室は次第に落ち着きを取り戻した。
チョークが黒板を滑る音、教科書を捲る音、誰かの咳払い。
そうした音のひとつひとつが、私の意識に淡く入り込み、そしてすぐに消えていく。
ノートはきちんと取っている。
板書も、話も、理解はできている。
それなのに、授業が終わるたび、何かが欠けているような感覚だけが残った。
昼休み。
クラスメイトたちは自然と小さな輪を作り、お弁当を広げていく。
「ねえ凪ちゃん、一緒に食べない?」
声をかけてきてくれたのは、前の席の宮下さんだった。
一瞬、胸の奥がざわつく。
「…ありがとう。でも、今日はいいかな。ごめんね」
私はそう答え、机の上にお弁当を取り出した。
宮下さんは少しだけ戸惑ったような表情を浮かべたが、すぐに「そっか。また今度一緒に食べようね」と笑って他の女子のもとへ戻っていった。
断った理由を、私自身もうまく説明できない。
嫌だったわけじゃない。
でも、誰かと並んで座り、何気ない会話を交わすことが、あまり得意ではなかった。
私は一人でお弁当を食べる。
教室の隅で、周囲の声をBGMのように聞き流しながら。
そのとき、不意に思い出してしまう。
ーーあのとき、どうしてあんなことを言ってしまったんだろう。
胸の奥に沈めていた記憶が、ふとした拍子に浮かび上がる。
私には、忘れられない過去があった。
それは、中学三年の冬。
親しかった友達との些細な言い争い。
感情的になっていたわたしは、思ってもいない言葉をぶつけてしまった。
「もう、一緒にいたくない」
それは、自分を守るための言葉だったはずなのに、相手の顔を歪ませ、関係を決定的に壊してしまった。
謝る機会はいくらでもあった。
だけど、私は動けなかった。
自分が悪いとわかっているからこそ、怖かった。
拒絶されるかもしれない未来を想像するだけで、身体が強張った。
そのまま時間だけが過ぎ、卒業の日を迎えた。
結局、私は何も言えないままだった。
ーー私が悪い。
ーー私があんなひどいことを言ってしまったから。
それ以来私は、人と関わるときに距離をとるようになった。
近づきすぎない。
期待しない。
踏み込みすぎない。
それが、誰も傷つけないための方法だと、いつの間にか信じ込んでいた。
放課後。
部活動に向かう生徒たちが教室を出ていく中、私は鞄を持って席を立った。
帰宅部である私は、まっすぐ家に帰ることが多い。
校舎を出ると、夕方の風が頬をなぞった。
空は淡い橙色に染まり、雲がゆっくりと流れている。
私はしばらく歩き続けて、ふと立ち止まった。
ーー今日、ちゃんと話した人、いたっけ。
名前を呼ばれたのは、昼休みの一度だけ。
それも、自分から距離を置いた。
誰かに必要とされていないわけではない。
頭では分かっている。
それでも、胸の奥に残る感覚は、どうしようもなく空虚だった。
家に帰ると、母はまだ仕事から戻っていなかった。
電子レンジで温めた夕食を一人で食べ、テレビをつけても、画面の内容はほとんど頭に入ってこない。
笑い声や効果音がただ流れていくだけ。
私は部屋に戻り、ベッドに横になる。
スマートフォンを手に取って、わけもなくメッセージアプリを開く。
特にやり取りする相手はいない。
通知欄は静かなままだ。
画面を伏せると、天井が視界に広がった。
ーー私、生きてる意味あるのかな。
その問いは、何度も心に浮かんで消えてくれない。
学校に行き、授業を受け、帰宅する。
日々は滞りなく進んでいる。
それなのに、自分がその中に存在している実感だけが、希薄だった。
泣きたいわけでも、死にたいわけでもない。
ただ、消えてしまいたい、そう思った。
誰かに話を聞いてもらえたら、少しは楽になるのかな。
意味のある言葉をもらえなくてもいい。
弱さをさらけ出さなくてもいい。
「ここにいる」と、誰かに認識してもらえたら。
それだけで、私の心は救われるのかもしれない。
夜、窓を少し開けると、外の空気が流れ込んできた。
遠くを走る電車の音、犬の鳴き声、風に揺れる木の葉の音。
それらが、私の孤独を際立たせる。
私は目を閉じた。
もし、誰かがーー
今の自分の話を、ただ黙って聞いてくれるとしたら。
その存在を、どれほど大切に思うだろう。
その夜、私はまだ知らなかった。
その「誰かに聞いてほしい」という想いが、ありえない形で叶えられる日が、すぐそこまで迫っていることを。
翌朝もまた、目覚ましが鳴るより少し早く目が覚めた。
カーテン越しの光は弱く、空はまだ白みきっていない。
私は布団の中で数秒だけ天井を見つめ、それからゆっくり身体を起こした。
眠りが浅かったわけではない。
ただ、目を閉じている間も、頭のどこかがずっと起きていた気がした。
昨日考えていたことが、整理されないまま底に沈んでいる。
洗面所で顔を洗い、鏡に映る自分を見る。
特別疲れているようにも、落ち込んでいるようにも見えないいつも通りの表情。
いつも通りの制服姿。
「…大丈夫」
昨日のように、小さくつぶやいてみる。
誰に聞かせるでもなく、確認するように。
朝食をとり、家を出る。
駅までの道は、通学中の学生で賑わっていた。
友達同士で話す声、笑い声、自転車のブレーキ音。
私はその中を歩きながら、自分だけが少し違う速度で進んでいるような感覚を覚えた。
学校に着くと、校門の前で高瀬が誰かとじゃれ合っていた。
目が合いそうになり、私は反射的に視線を逸らす。
だけど、向こうは私に気づいていないかもしれない。
でも、それでいい。
教室に入ると、すでに何人かが席についていた。
宮下さんがわたしに気づき、軽く手を振る。
「おはよう、凪ちゃん」
「おはよう」
声は思ったより自然に出てくれた。
それだけで、少しだけ安心する。
朝のホームルームが始まり、連絡事項が淡々と伝えられていく。
今日の放課後、文化祭の実行委員の集まりがあるらしい。
私は委員ではないが、クラスの装飾担当として呼ばれていた。
正直、気が進まない。
人が集まる場所は、どうしても気疲れしてしまう。
授業はいつもより長く感じた。
内容が難しくなったわけではない。
ただ、集中しきれず、ノートの端に意味のない落書きをしてしまう。
消しゴムで消して、また書く。
その繰り返し。
昼休み。
今日は一人で食べるのをやめてみようか、という考えが一瞬だけ浮かんだ。
宮下さんたちの方を見る。
楽しそうに話している輪の中に、自然に入れる気はしなかった。
タイミングが分からない。
話しかけ方も、話題の選び方も。
やっぱり昨日、断らなければよかったかな。
結局私は、いつもの席でお弁当を広げた。
選ばなかったというより、選べなかった。
それでも今日は、いつもと少しだけ違った。
高瀬が、前の席で友達とお弁当を食べていたのだが、不意に振り向き、私のお弁当を見て言った。
「それ、うまそうだな」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「…え?」
「いや、唐揚げ。うちのは冷凍食品だからさ」
「…そうなんだ」
それだけの会話。
数秒後には、高瀬はまた友達と別の話題に戻っていった。
なのに、その短いやり取りが、胸の奥に引っかかったままだった。
嫌な意味じゃない。
むしろ、その逆。
私はちゃんと、ここにいる。
そう思っていいのかもしれない、と一瞬だけ感じた。
放課後。
装飾担当の生徒が集められ、美術室へ向かう。
クラスの半分くらいほどの人数が参加していた。
私は隅の席に座り、指示を聞く。
作業は単純だった。
色紙を切り、文字を作り、模造紙に貼る。
誰かと密に話さなくても進められる仕事で、少しほっとする。
作業中、隣に座ったのは「佐々木真央」という子だった。
物静かな女子で、普段はあまり目立たない。
「ここ、こうした方がいいかな」
彼女は、私に意見を求めてきた。
私は模造紙を覗き込み、少し考えて答える。
「…文字、もう少し詰めた方がバランスいいかも」
「たしかに。ありがとう」
それだけ。
それだけなのに、不思議と心が落ち着いた。
誰かに必要とされるって、こういうことなのかもしれない。
大げさじゃなくていい。
役割が小さくてもいい。
作業が終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。
片付けをして、美術室を出る。
一人で校舎を歩く。
昼間とは違う、静かな空気。
足音がやけに響く。
私はふと、足を止めた。
誰もいない廊下。
窓の外には、街灯が点々と並んでいる。
胸の奥が少しだけざわついた。
ーーもし今ここで、誰かに話しかけられたら。
ありえない想像だと分かっている。
それでも、その考えは簡単には消えなかった。
私は鞄を握り直し、校舎を後にした。
夜風が頬に触れ、現実に引き戻される。
家までの道を歩きながら、私は考える。
今日一日を振り返って。
特別な出来事はなかった。
劇的な変化もない。
それでも、確かにいくつかの瞬間で、私は「独り」ではなかった。
それが、少しだけ怖い。
同時に少しだけ救いでもあった。
誰かと関わることは、また失う可能性を含んでいる。
でも、完全に閉じこもることも、私には向いていないのかもしれない。
家の前につき、私は空を見上げた。
星は見えない。
雲が低く垂れ込めている。
「…聞いてほしいな」
小さく、声に出した。
独り言だと分かっていても。
その言葉が、夜に溶けていくのを見届けながら、私は家のドアを開けた。
家に入ると、玄関の電気が自動で点いた。
その明るさに一瞬だけ目を細めてから、靴を脱ぐ。
足元に広がる床の冷たさが、外との境界線をはっきりさせた。
「おかえり」
キッチンの方から、母の声がした。
姿は見えないけれど、鍋のふたが触れ合う音や、換気扇の低い唸りが、そこに生活があることを伝えてくる。
「ただいま」
返事をしながら、私はリビングを通り過ぎて自分の部屋へ向かった。
今日は、話す元気があるわけでも、避けたいほど疲れているわけでもない。
ただ、今は一人でいたかった。
鞄を床に置き、制服のままベッドに腰を下ろす。
スカートの裾を直すことすら忘れて、私は壁に寄りかかった。
頭の中で、今日の出来事が断片的に浮かぶ。
教室のざわめき。
美術室の紙の匂い。
誰かの何気ない一言。
どれも些細なものなのに、全部が私の中に残っていた。
消えずに、沈まずに、ただそこにある。
私は机に向かい、引き出しを開けた。
中から取り出したのは、表紙が少し擦り切れたノート。
誰に見せるわけでもない、私だけのものだ。
ページをめくる。
そこには、短い文章や、意味のない単語、線だけのページが混ざっている。
感情が形になりきらなかった証拠。
今日の日付を書き足し、ペンを止める。
何を書けばいいのか、すぐには浮かばなかった。
しばらくして、私はこう書いた。
「今日は、誰かとちゃんと話した」
それだけ。
感想も、理由も続けなかった。
だけど事実として、それは確かだったから。
ペンを置き、椅子の背にもたれる。
天井を見上げると、小さなシミが目に入った。
いつからあったのかは分からない。
気にしたこともなかった。
今までは、見ようともしなかったものが、急に視界に入ってくる。
それが良い変化なのかどうかは、まだ判断できない。
夕食の時間になり、母に呼ばれて席につく。
食卓には、温かい湯気が立っていた。
「学校、どうだった?」
何気ない質問。
いつもなら、「普通」とだけ答えて終わる。
「……まあ、悪くはなかった」
そう言うと、母は少し驚いた顔をして、それから小さく頷いた。
「そっか」
それ以上、踏み込んではこない。
その距離感が、ありがたかった。
食事を終え、お風呂に入る。
湯船に浸かると、身体の力がゆっくり抜けていくのが分かる。
目を閉じる。
静かだ。
水の揺れる音と、自分の呼吸だけがある。
ふと、思う。
私はいつから、誰かに「聞いてほしい」と思うようになったのだろう。
昔は、こんな気持ちはなかった気がする。
少なくとも、こんなにはっきりとは。
湯から上がり、髪を乾かす。
ドライヤーの音が、考えを遮ってくれる。
部屋に戻ると、窓の外はすっかり夜だった。
私はカーテンを閉めず、そのまま外を眺める。
街灯の光が、道を照らしている。
そこを通る人影はまばらで、皆それぞれの目的地へ向かって歩いている。
私も、どこかへ向かっているのだろうか。
それとも、ただ時間の流れに乗っているだけなのか。
スマートフォンが震えた。
でも、誰かからのメールが来たわけではなかった。
画面を伏せ、ベッドに横になる。
眠るには、まだ少し早い。
私は目を閉じず、天井を見つめたまま、呼吸を整える。
考えすぎないように、何かを期待しすぎないように。
それでも、心のどこかで、確かに思っている。
もし、この静けさの中に、
私の言葉を受け止めてくれる存在が現れたら——と。
答えは出ない。
出なくていい。
私はただ、その思いを否定せずに抱えたまま、時間が過ぎていくのを感じていた。
理由は分からない。
ただ、目を開ける瞬間から、今日という一日を生き抜かなければならないという事実だけが、確かな重みをもってのしかかってくる。
私は、枕元のスマートフォンが鳴る前に目を覚ました。
目覚ましを止める必要はない。
鳴る前に起きてしまうのは、もう珍しいことではなかった。
天井を見上げる。
白いはずの天井は、朝の薄い光に染まって、どこかくすんで見えた。
ーー今日も、始まってしまった。
布団から出るまでに、少し時間がかかる。
体が重いわけじゃない。
ただ、起きたいと思える理由が見つからない。
学校に行く。
授業を受ける。
帰ってくる。
それだけのことなのに、心はいつも抵抗する。
制服に袖を通し、洗面所で顔を洗う。
鏡の中の自分と視線が合う。
そこに映るのは、特別不幸そうでも、特別幸せそうでもない、どこにでもいそうな高校生の顔だった。
「…大丈夫」
声に出してみる。
でも、その言葉が自分自分に向けられたものだと実感できない。
誰か別の人に向けて言っているみたいで、虚しかった。
家の中は静かだった。
母はもう仕事に出ている。
机の上には、「凪へ。温めて食べてね」という置き手紙と、温め直せばすぐに食べられる朝食。
母の気遣いには気づいている。
でも、それに応える余裕すら、私にはなかった。
学校へ向かう道は、毎日同じだ。
信号の位置も、電柱の影も、春先に咲く花の場所も、全部知っている。
だけど、同じ景色を歩いているはずなのに、心だけがどこにもいなかった。
教室に入ると、ざわめきが耳に届く。
クラスメイトたちの笑い声、机を引く音、他愛ない会話。
私はその中に混ざらず、話しかけられたときだけ反応する。
「凪ちゃん、おはよう」
「おはよう」
私は、自分がいつから「静かな人間」になったのかを、正確には覚えていない。
もともと無口だったわけではない。
小学生の頃は、休み時間に机をくっつけて話す友達もいたし、学校帰りに寄り道をして笑い合った記憶も、確かに残っている。
ただ、それらは今の私にとって、遠い場所に置き去りにされた写真のようなものだった。
高校二年の春。
新しいクラス、新しい席、新しい顔ぶれ。
教室に流れる空気は、期待と不安が混じり合った独特のざわめきを帯びていた。
だが、私の胸の内に芽生えたのは、そうした前向きな感情とは別のものだった。
ーーまた、ここから始めないといけない。
そう思った瞬間、わずかな息苦しさが、喉に絡みついた。
私の席は、窓際の後ろから二列目だった。
黒板に近すぎず、かといって教室の中心でもない。
目立たず、埋もれやすい位置。
最初は出席番号順なので、毎年ほぼ同じ位置から一年が始まる。
それは私にとって都合が良かった。
誰かと頻繁に話さなくても、不自然に見えない場所だったから。
前の席には、髪を肩まで伸ばした女子生徒が座っていた。
名前は確か、「宮下結衣」。
入学式のときに、一度だけ話した記憶がある。
明るくて、声がよく通る子だった。
後ろの席には、スポーツバッグをいつも椅子に引っ掛けている男子ーー「高瀬航平」。
昼休みになると、クラスの中心で笑い声を上げるタイプの人間だ。
私は、彼らのことを「知っている」。
でも、それ以上でもそれ以下でもなかった。
授業が始まると、教室は次第に落ち着きを取り戻した。
チョークが黒板を滑る音、教科書を捲る音、誰かの咳払い。
そうした音のひとつひとつが、私の意識に淡く入り込み、そしてすぐに消えていく。
ノートはきちんと取っている。
板書も、話も、理解はできている。
それなのに、授業が終わるたび、何かが欠けているような感覚だけが残った。
昼休み。
クラスメイトたちは自然と小さな輪を作り、お弁当を広げていく。
「ねえ凪ちゃん、一緒に食べない?」
声をかけてきてくれたのは、前の席の宮下さんだった。
一瞬、胸の奥がざわつく。
「…ありがとう。でも、今日はいいかな。ごめんね」
私はそう答え、机の上にお弁当を取り出した。
宮下さんは少しだけ戸惑ったような表情を浮かべたが、すぐに「そっか。また今度一緒に食べようね」と笑って他の女子のもとへ戻っていった。
断った理由を、私自身もうまく説明できない。
嫌だったわけじゃない。
でも、誰かと並んで座り、何気ない会話を交わすことが、あまり得意ではなかった。
私は一人でお弁当を食べる。
教室の隅で、周囲の声をBGMのように聞き流しながら。
そのとき、不意に思い出してしまう。
ーーあのとき、どうしてあんなことを言ってしまったんだろう。
胸の奥に沈めていた記憶が、ふとした拍子に浮かび上がる。
私には、忘れられない過去があった。
それは、中学三年の冬。
親しかった友達との些細な言い争い。
感情的になっていたわたしは、思ってもいない言葉をぶつけてしまった。
「もう、一緒にいたくない」
それは、自分を守るための言葉だったはずなのに、相手の顔を歪ませ、関係を決定的に壊してしまった。
謝る機会はいくらでもあった。
だけど、私は動けなかった。
自分が悪いとわかっているからこそ、怖かった。
拒絶されるかもしれない未来を想像するだけで、身体が強張った。
そのまま時間だけが過ぎ、卒業の日を迎えた。
結局、私は何も言えないままだった。
ーー私が悪い。
ーー私があんなひどいことを言ってしまったから。
それ以来私は、人と関わるときに距離をとるようになった。
近づきすぎない。
期待しない。
踏み込みすぎない。
それが、誰も傷つけないための方法だと、いつの間にか信じ込んでいた。
放課後。
部活動に向かう生徒たちが教室を出ていく中、私は鞄を持って席を立った。
帰宅部である私は、まっすぐ家に帰ることが多い。
校舎を出ると、夕方の風が頬をなぞった。
空は淡い橙色に染まり、雲がゆっくりと流れている。
私はしばらく歩き続けて、ふと立ち止まった。
ーー今日、ちゃんと話した人、いたっけ。
名前を呼ばれたのは、昼休みの一度だけ。
それも、自分から距離を置いた。
誰かに必要とされていないわけではない。
頭では分かっている。
それでも、胸の奥に残る感覚は、どうしようもなく空虚だった。
家に帰ると、母はまだ仕事から戻っていなかった。
電子レンジで温めた夕食を一人で食べ、テレビをつけても、画面の内容はほとんど頭に入ってこない。
笑い声や効果音がただ流れていくだけ。
私は部屋に戻り、ベッドに横になる。
スマートフォンを手に取って、わけもなくメッセージアプリを開く。
特にやり取りする相手はいない。
通知欄は静かなままだ。
画面を伏せると、天井が視界に広がった。
ーー私、生きてる意味あるのかな。
その問いは、何度も心に浮かんで消えてくれない。
学校に行き、授業を受け、帰宅する。
日々は滞りなく進んでいる。
それなのに、自分がその中に存在している実感だけが、希薄だった。
泣きたいわけでも、死にたいわけでもない。
ただ、消えてしまいたい、そう思った。
誰かに話を聞いてもらえたら、少しは楽になるのかな。
意味のある言葉をもらえなくてもいい。
弱さをさらけ出さなくてもいい。
「ここにいる」と、誰かに認識してもらえたら。
それだけで、私の心は救われるのかもしれない。
夜、窓を少し開けると、外の空気が流れ込んできた。
遠くを走る電車の音、犬の鳴き声、風に揺れる木の葉の音。
それらが、私の孤独を際立たせる。
私は目を閉じた。
もし、誰かがーー
今の自分の話を、ただ黙って聞いてくれるとしたら。
その存在を、どれほど大切に思うだろう。
その夜、私はまだ知らなかった。
その「誰かに聞いてほしい」という想いが、ありえない形で叶えられる日が、すぐそこまで迫っていることを。
翌朝もまた、目覚ましが鳴るより少し早く目が覚めた。
カーテン越しの光は弱く、空はまだ白みきっていない。
私は布団の中で数秒だけ天井を見つめ、それからゆっくり身体を起こした。
眠りが浅かったわけではない。
ただ、目を閉じている間も、頭のどこかがずっと起きていた気がした。
昨日考えていたことが、整理されないまま底に沈んでいる。
洗面所で顔を洗い、鏡に映る自分を見る。
特別疲れているようにも、落ち込んでいるようにも見えないいつも通りの表情。
いつも通りの制服姿。
「…大丈夫」
昨日のように、小さくつぶやいてみる。
誰に聞かせるでもなく、確認するように。
朝食をとり、家を出る。
駅までの道は、通学中の学生で賑わっていた。
友達同士で話す声、笑い声、自転車のブレーキ音。
私はその中を歩きながら、自分だけが少し違う速度で進んでいるような感覚を覚えた。
学校に着くと、校門の前で高瀬が誰かとじゃれ合っていた。
目が合いそうになり、私は反射的に視線を逸らす。
だけど、向こうは私に気づいていないかもしれない。
でも、それでいい。
教室に入ると、すでに何人かが席についていた。
宮下さんがわたしに気づき、軽く手を振る。
「おはよう、凪ちゃん」
「おはよう」
声は思ったより自然に出てくれた。
それだけで、少しだけ安心する。
朝のホームルームが始まり、連絡事項が淡々と伝えられていく。
今日の放課後、文化祭の実行委員の集まりがあるらしい。
私は委員ではないが、クラスの装飾担当として呼ばれていた。
正直、気が進まない。
人が集まる場所は、どうしても気疲れしてしまう。
授業はいつもより長く感じた。
内容が難しくなったわけではない。
ただ、集中しきれず、ノートの端に意味のない落書きをしてしまう。
消しゴムで消して、また書く。
その繰り返し。
昼休み。
今日は一人で食べるのをやめてみようか、という考えが一瞬だけ浮かんだ。
宮下さんたちの方を見る。
楽しそうに話している輪の中に、自然に入れる気はしなかった。
タイミングが分からない。
話しかけ方も、話題の選び方も。
やっぱり昨日、断らなければよかったかな。
結局私は、いつもの席でお弁当を広げた。
選ばなかったというより、選べなかった。
それでも今日は、いつもと少しだけ違った。
高瀬が、前の席で友達とお弁当を食べていたのだが、不意に振り向き、私のお弁当を見て言った。
「それ、うまそうだな」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「…え?」
「いや、唐揚げ。うちのは冷凍食品だからさ」
「…そうなんだ」
それだけの会話。
数秒後には、高瀬はまた友達と別の話題に戻っていった。
なのに、その短いやり取りが、胸の奥に引っかかったままだった。
嫌な意味じゃない。
むしろ、その逆。
私はちゃんと、ここにいる。
そう思っていいのかもしれない、と一瞬だけ感じた。
放課後。
装飾担当の生徒が集められ、美術室へ向かう。
クラスの半分くらいほどの人数が参加していた。
私は隅の席に座り、指示を聞く。
作業は単純だった。
色紙を切り、文字を作り、模造紙に貼る。
誰かと密に話さなくても進められる仕事で、少しほっとする。
作業中、隣に座ったのは「佐々木真央」という子だった。
物静かな女子で、普段はあまり目立たない。
「ここ、こうした方がいいかな」
彼女は、私に意見を求めてきた。
私は模造紙を覗き込み、少し考えて答える。
「…文字、もう少し詰めた方がバランスいいかも」
「たしかに。ありがとう」
それだけ。
それだけなのに、不思議と心が落ち着いた。
誰かに必要とされるって、こういうことなのかもしれない。
大げさじゃなくていい。
役割が小さくてもいい。
作業が終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。
片付けをして、美術室を出る。
一人で校舎を歩く。
昼間とは違う、静かな空気。
足音がやけに響く。
私はふと、足を止めた。
誰もいない廊下。
窓の外には、街灯が点々と並んでいる。
胸の奥が少しだけざわついた。
ーーもし今ここで、誰かに話しかけられたら。
ありえない想像だと分かっている。
それでも、その考えは簡単には消えなかった。
私は鞄を握り直し、校舎を後にした。
夜風が頬に触れ、現実に引き戻される。
家までの道を歩きながら、私は考える。
今日一日を振り返って。
特別な出来事はなかった。
劇的な変化もない。
それでも、確かにいくつかの瞬間で、私は「独り」ではなかった。
それが、少しだけ怖い。
同時に少しだけ救いでもあった。
誰かと関わることは、また失う可能性を含んでいる。
でも、完全に閉じこもることも、私には向いていないのかもしれない。
家の前につき、私は空を見上げた。
星は見えない。
雲が低く垂れ込めている。
「…聞いてほしいな」
小さく、声に出した。
独り言だと分かっていても。
その言葉が、夜に溶けていくのを見届けながら、私は家のドアを開けた。
家に入ると、玄関の電気が自動で点いた。
その明るさに一瞬だけ目を細めてから、靴を脱ぐ。
足元に広がる床の冷たさが、外との境界線をはっきりさせた。
「おかえり」
キッチンの方から、母の声がした。
姿は見えないけれど、鍋のふたが触れ合う音や、換気扇の低い唸りが、そこに生活があることを伝えてくる。
「ただいま」
返事をしながら、私はリビングを通り過ぎて自分の部屋へ向かった。
今日は、話す元気があるわけでも、避けたいほど疲れているわけでもない。
ただ、今は一人でいたかった。
鞄を床に置き、制服のままベッドに腰を下ろす。
スカートの裾を直すことすら忘れて、私は壁に寄りかかった。
頭の中で、今日の出来事が断片的に浮かぶ。
教室のざわめき。
美術室の紙の匂い。
誰かの何気ない一言。
どれも些細なものなのに、全部が私の中に残っていた。
消えずに、沈まずに、ただそこにある。
私は机に向かい、引き出しを開けた。
中から取り出したのは、表紙が少し擦り切れたノート。
誰に見せるわけでもない、私だけのものだ。
ページをめくる。
そこには、短い文章や、意味のない単語、線だけのページが混ざっている。
感情が形になりきらなかった証拠。
今日の日付を書き足し、ペンを止める。
何を書けばいいのか、すぐには浮かばなかった。
しばらくして、私はこう書いた。
「今日は、誰かとちゃんと話した」
それだけ。
感想も、理由も続けなかった。
だけど事実として、それは確かだったから。
ペンを置き、椅子の背にもたれる。
天井を見上げると、小さなシミが目に入った。
いつからあったのかは分からない。
気にしたこともなかった。
今までは、見ようともしなかったものが、急に視界に入ってくる。
それが良い変化なのかどうかは、まだ判断できない。
夕食の時間になり、母に呼ばれて席につく。
食卓には、温かい湯気が立っていた。
「学校、どうだった?」
何気ない質問。
いつもなら、「普通」とだけ答えて終わる。
「……まあ、悪くはなかった」
そう言うと、母は少し驚いた顔をして、それから小さく頷いた。
「そっか」
それ以上、踏み込んではこない。
その距離感が、ありがたかった。
食事を終え、お風呂に入る。
湯船に浸かると、身体の力がゆっくり抜けていくのが分かる。
目を閉じる。
静かだ。
水の揺れる音と、自分の呼吸だけがある。
ふと、思う。
私はいつから、誰かに「聞いてほしい」と思うようになったのだろう。
昔は、こんな気持ちはなかった気がする。
少なくとも、こんなにはっきりとは。
湯から上がり、髪を乾かす。
ドライヤーの音が、考えを遮ってくれる。
部屋に戻ると、窓の外はすっかり夜だった。
私はカーテンを閉めず、そのまま外を眺める。
街灯の光が、道を照らしている。
そこを通る人影はまばらで、皆それぞれの目的地へ向かって歩いている。
私も、どこかへ向かっているのだろうか。
それとも、ただ時間の流れに乗っているだけなのか。
スマートフォンが震えた。
でも、誰かからのメールが来たわけではなかった。
画面を伏せ、ベッドに横になる。
眠るには、まだ少し早い。
私は目を閉じず、天井を見つめたまま、呼吸を整える。
考えすぎないように、何かを期待しすぎないように。
それでも、心のどこかで、確かに思っている。
もし、この静けさの中に、
私の言葉を受け止めてくれる存在が現れたら——と。
答えは出ない。
出なくていい。
私はただ、その思いを否定せずに抱えたまま、時間が過ぎていくのを感じていた。



