凛とした光が、力強い炎が、鮮やかに色づく風が現れては、小さな粒になって消えていく。
 わたしはその光景に、思わず歓声をあげて手を叩く。なんて綺麗なのだろう。
 真っ白で大きなお城。しっかりと手入れされた華やかな庭園。ずらりと並んだ料理からは、美味しそうな匂いが漂ってくる。ドレスや煌びやかなローブで着飾った人々が、思い思いに楽しそうな表情を浮かべていた。
 夢のような空間に感動して、涙が出そうになる。
 会場の中心には、一段高くなった舞台のような場所があった。そこで、光や炎、風や水を呼び出してパーティーを盛り上げているみたいだ。
 今度は何が見られるのだろうと、わたしは身を乗り出す。
 登壇したローブ姿の数人が杖先を躍らせ、式のようなものを空中に描いていく。淡い光を放つ記号の羅列に、わたしは何故か懐かしさを覚える。
 そう、あれはまるで、プログラミングのコードみたいじゃないか。
「え?」
 プログラ……ミング?
 あっ!と思った瞬間、わっと頭の中に色々な情報が溢れてきた。
 右に左に駆け抜ける自動車の群れ。ぎゅうぎゅうの満員電車。そびえ立つビル群と狭い空。使い慣れたキーボード。
 わたしがたたくキーにあわせて、モニターに弾き出されるプログラミングのコードたち。
 そうだ、わたしは……ここで暮らす前は、あそこにいた。
 日本でSEをやっていた二十八歳で、仕事も、一人暮らしの生活も大変で、それで……それで、どうしたんだっけ?
 終電間際の帰り道に、なんだか全身がふわふわして、くるりと景色が回って……そこで記憶がぷつりと途切れている。
「クリス? ぼんやりして、大丈夫? 少し疲れちゃった?」
「あ……お気になさらず!」
 いや待て。せっかくお母様が気遣ってくれたのに。
 なんて他人行儀で、年齢にふさわしくない答え方をしているのだ。
 今のわたしは、二十八歳の限界SEだった『葛城美和』ではない。公爵家の末娘、四歳になったばかりのクリスティーナ・クレイマスターなのに。
「あらあら、うちのお姫様は緊張しているみたいね。少し静かなところでお休みしましょうか? それとも何か食べる?」
 お母様は、一瞬だけびっくりしたような顔はしたものの、ふんわりと笑ってくれた。
「食べるー!」
 今度は、今のわたしらしく、元気よく返事ができた。
 いきなり四歳の身体を手に入れた二十八歳としては、当然ながら大混乱だ。なにせお肌はぷるぷるだし、裸眼でも遠くがよく見える。この身体、すごい。
 永遠の若さを願う、いけない悪役の気持ちが少しだけわかってしまう。闇堕ちダメ、絶対。
 とにかく、状況を整理しないといけない。
 なだれ込んできた記憶。小さな身体。完全に別の世界で惜しげなく披露される魔法と、華やかなパーティー。つまり……つまり、どういうこと?
「でもクリスったら、お気になさらず、なんてどこで覚えたの? 急に大きくなったか、生まれ変わっちゃったんじゃないかと思ったわ」
 なんてね、とからかうように笑うお母様とは反対に、わたしは雷に打たれたような気持ちで、真顔になっていた。
 それだ、それしかない。
 わたしはこの世界に生まれ変わって、この瞬間に、前世の記憶を取り戻したのだ。
 難しい感覚だけど、四歳のわたしも、二十八歳のわたしも、どちらもわたしだと思う。
 多分、どちらかのわたしが見ている夢でもないはずだ。
 だって、お母様に取り分けてもらったこのパフェ、とっても甘くて美味しいし。
 わたしはこれまで残念ながら、味がする夢を見た記憶はないからね。これがもし夢なら、いつもこれくらい、しっかり味がする仕様にしていただきたいくらいだ。
 ふと、前世でパフェを食べ損ねた記憶が、波のように押し寄せる。
 寒空の中並んで、パフェ目当てに人気のカフェに入ったのに、わたしはなぜかビーフカレーを注文した。
 隣に座ったカップルが、やっぱりこの店はカレーだよね、なんて訳知り顔で微笑みあいながら、ふたりしてビーフカレーを大盛りで頼んでいたからだ。
 そんなことをされたらわたしだって、訳知り顔で大盛りカレーを頼んでしまうじゃないか。
 結果はお察し、お腹がいっぱいになりすぎて、肝心のパフェは注文すらできなかった。
 涼しい顔をして、パフェもしっかり完食していたおしゃれフードファイターのお兄さんお姉さん、お元気ですか。わたしは生まれ変わっちゃいました。
 これだけ鮮明な記憶があるのだから、やはり前世のわたしは存在しているはずだという確信が生まれる。
 よりにもよって、前世のお仕事と、魔法を呼び出すための式を紐づけて記憶を取り戻してしまうなんて、ワーカホリックにもほどがあるけどね。
 混乱はしているものの、少しだけ理解が追い付いてきて、わたしはあれこれ考える。
 せっかくだし、前世とは違う生き方をしてみたい。
 働くとしても無理はしないようにして、周りにもちゃんと頼っていこう。人生二回とも過労で倒れておしまいなんて、嫌だもの。
 キラキラしたくて働いていたのに、ギラギラした目でモニターを見つめるばかりだった、あの頃のわたしはもういない。
「そろそろお父様の出番よ。今年はエルドレッドのデビューも兼ねているから、一緒に応援しましょう」
 四歳と二十八歳が入り混じった記憶を、ザクザクと掘り返す。一気に溢れた二十八歳にだいぶ寄ってしまっているものの、さすがに家族の顔と名前くらいは覚えている。
 エルドレッドは十歳離れた兄、エル兄様の名前だ。
 ついでにおさらい。真剣な表情でエル兄様と一緒に出てきたのが、お父様のアレクシス。お母様の名前はハンナで、お母様とは反対側の隣にいるのがシェリル姉様だ。
 お父様は、アッシュブラウンの髪とグレージュの瞳をしている。ナイスミドルで大変よろしい。わたしはお父様の髪と瞳の色を受け継いでいるので、将来はきっと、いい感じに落ち着いたお姉さんになれるはずだ。
 反対に、エル兄様とシェリル姉様は、お母様の髪と瞳を受け継いでいる。
 つやつやに輝く金色の髪と、光の加減で何色にも見えるシルバーの瞳は本当に美しくて、整った容姿に華を添えている。
「あれ。お父様もエル兄様も、緊張してるみたい……?」
 ふたりを眺めていてふと、少し表情が硬いように見えた。
 心配になったわたしはお母様を見上げて、様子をうかがった。
「そうね、でもきっと大丈夫よ」
 視線に気付いたお母様が、笑顔で答えてくれる。
 わたしも、どうにか笑顔を返す。
 二十八歳のわたしにはわかってしまった。お母様の笑顔は作り笑いだ。
 なんだろう、始まる前から、諦めや不安が混じったような、もやもやした感じがする。
 並んだ時点で売り切れの予感を感じつつ、諦めきれずに並んだ限定ショコラがやっぱり売り切れで、しかもわたしの目の前で売り切れだった記憶が顔を覗かせる。
 あの時は、かわりに近くのお店でおせんべいを買って帰ったんだっけ。
 なんて繊細かつピンポイントな記憶を掘り起こしているのだ、わたしは。あのおせんべいはおせんべいで、美味しかったじゃないか。
 ショコラの気分を捨てきれなくて、黒糖味と胡麻味で色だけ合わせにいった残念な過去のことなんて、忘れてしまいなさい。
 わたしが微妙な空気と昔の記憶に混乱している間に、場がしんと静まり返った。
 さっきまでは、リズミカルな音楽の生演奏をバックに、魔法が披露されるたびに歓声が上がっていたはずだ。
 もしかして、お父様たちの魔法は特別で、じっくり観たいからとか?
 それにしては、空気が重たい気がする。
 期待と不安が入り混じる中、お父様とエル兄様が魔法の式を描き始めた。
 ふたりが描く魔法は、すごくわかりやすくて美しかった。
 家族だからなのか、他の魔法に比べて、ちゃんと読んで理解できそうな気がして、わたしは真剣に、記号の羅列を頭の中に焼き付けていく。
「……あれ?」
 描かれた式が美しいと思ったからこそ、発動した魔法を少し残念に感じてしまった。
 ふたりが杖をかざした先で、むぐむぐと粘土質の土がうごめく。
 這い上がるように、なんなら少し苦しそうに、もごもごと膨らんでいく土の塊は、これまで披露された魔法のような華やかさには欠けていると言わざるを得ない。
「あ、でもすごい!」
 過程はともかく、完成したクレイマスター家の紋章は荘厳な雰囲気で、それぞれの角がしっかりと立っていて、とても立派なものだった。
「ふん、なんとも品がないな」
 後ろから、棘のある声が響いた。
 くすくすと嫌な感じの笑い声があちこちから漏れて、心がざらつく。そんな言い方をしなくてもいいのに。
 ふたりの魔法に視線を戻せば、紋章がひび割れて、ほろほろと崩れていくところだった。
「見て、枯れていくわよ」
 また別の、毒をはらんだ言葉が飛んできて、さらに場の冷笑を誘う。
 わたしはなんだか、頭の奥がチカチカするようだった。
 エル兄様はうつむいてしまい、お父様がその肩に手をやる。
「もう少し、場をわきまえてほしいものだな」
「ええ、本当に」
 もう我慢できない。場をわきまえるのは、そちらの方じゃないか。
「ふたりとも、少し言いすぎではないか?」
 わたしが身を乗り出しかけたその時、別の声が遠慮がちにたしなめた。
「アレクシスとその息子、エルドレッドだったか。見事な造形であった」
「ありがとうございます、陛下」
「……ありがとうございます!」
 陛下……ということは、声をかけてくれたのは、この国の王様らしい。
 エル兄様がぱっと表情を明るくして、わたしもなんだか嬉しくなる。
「あら、陛下はお優しいこと」
「ドリス・ハリケーン……口がすぎると言っている」
「うふふ、これは失礼」
 嫌味な女の人……ドリスは、確か風魔法を使っていた。
 目鼻立ちのはっきりした美人で、淡い緑に色づいた風魔法も、とっても素敵だと思ったのに、すっかり印象は最悪だ。
「クレイマスター領では、領民は肩を落とし、畑は痩せ、公爵家のある都市ですら埃と泥にまみれているとか。爵位を返上し、わがレイジングフレアに任せていただければ、半年で暮らし向きを変えてみせるものを」
「やめないか、サディアス・レイジングフレア」
「ならば率直に申し上げる。この俺とクレイマスターの、この国への貢献度が同等であると、陛下は本当にお考えか?」
「それは、しかし、今この場では関係が……」
 最初に棘のある声をあげた嫌な人、サディアスの言葉に、陛下がごにょごにょと口ごもる。
 なんとなくパワーバランスが見えてきて、めまいがしてきた。
 残念ながら、我らがクレイマスター家は、公爵家の中で底辺扱いされているみたいだ。
 陛下はかばおうとしてくれたものの、まだ王子様でも通じるくらいにお若いからか、完全に侮られている。
 この世界の貴族社会にも、派閥争いや権力争いがあるらしい。まああるか、あるよね。
 ドリスとサディアスの言葉を聞いているだけで、胸の奥がチクチクするし、だんだん腹が立ってきた。
「……お父様とエル兄様の魔法が一番だったのに」
 素材の違いはあるにせよ、少なくとも、紋章の仕上がりは一番だった。
 つい、ぽつりと口に出してしまったわたしは、サディアスとばっちり目が合った。
 逆立った真っ赤な髪と瞳が、まるで燃えているようだ。新しい獲物を見つけたと言わんばかりに、サディアスが口角を持ち上げる。こんなにわかりやすく、まったく笑っていない笑顔を作れるなんて、ある意味では才能かもしれない。
 ほら、笑って。楽しいパーティーだよ。なんて言い出せる空気では、もちろんない。


「一番とは大きく出たな」
「やめてあげなさいよ、まだほんの子供じゃない」
 フォローしてくれたように見えて、ドリスの声色はすごく意地悪だ。いいぞもっとやれ、としか聞こえない。
「そこまで言うなら、未来ある優秀な若者に、自慢の魔法を披露してもらおうではないか」
「お待ちください、どうしてそうなるのですか。この子はまだ四歳になったばかりで、魔法なんて!」
 お母様が、慌てて割って入ってくれる。しかし、サディアスの表情は変わらない。
「そうか? 俺がその歳の頃には、手のひらに炎を浮かべる程度はこなしてみせたものだがな。まあ仕方ないか、先ほどの長男殿であの程度……無理を言ったな、忘れてくれ」
「うふふ、こんな小さな子を泣かせちゃダメよ?」
 サディアスとドリスが、顔を見合わせてにやにやと笑う。
 別にわたしのことはいい。
 魔法のない世界から生まれ変わって、記憶を取り戻したばかりだ。お母様が言う通り、魔法を使った記憶はないし、どの程度の魔法の才能があるかなんてわからない。
 でもこれは、我慢できそうにない。
 どの場面を思い出しても、とっても優しくて温かい記憶しか浮かんでこないエル兄様を、大切な家族を馬鹿にするのは許せない。
「わたし、やります! んんんんん……!」
 お父様とエル兄様が、ついさっき描いていた魔法式を必死に思い出す。
 杖は持っていないので、右手の人差し指を杖がわりにして、空をなぞる。
 指先から生み出された光が、今にも消えそうにゆらゆらと揺れた。
 消えないで。頑張って。お願い。
 わたしは、震える指先で魔法を発動するための式をどうにか紡いでいく。
 できた。確か、こんな感じだったはず。完成した式が、それをなぞるようにきらめく。
 プログラミングのコードを、上から順番に実行していくみたいに。
 いける。わたしは、ありったけの気持ちを込めて叫んだ。
「てえい!」
 ――ぺちゃ。
「あ……」
 わたしの生まれて初めての魔法は、ぶっつけ本番にもかかわらず、確かに発動した。
 ただし残念ながら、どう見ても、大成功といえるものにはならなかった。
 それは、小さな泥の塊だった。
 わたしの指先から放たれ、湿り気のある残念な音を立てて地面に落っこちた塊は、塊の形すら維持できずにでろでろと崩れていく。
「はっはっは! 随分と見事な魔法じゃないか! 将来が楽しみだな!」
「ちょっと、かわいそうでしょ? うふふふふ」
 すかさず、サディアスとドリスが高笑いする。
 顔が真っ赤に染まっているのが、自分でもわかる。はずかしい。悔しい。今すぐ消えてしまいたい。
 自分の気持ちを無視して、震える指先がぼやける。ぽろぽろと大粒の涙がこぼれてきた。
 やっぱり、前世でも垢ぬけきれなかったわたしが、ちょっと生まれ変わったからって、そんなに何もかもうまくいったりはしなかったのだ。
 家族のみんなに、余計に恥ずかしい思いをさせてしまったに違いない。
 誰に笑われるより、わたしはそれが悔しくて、悲しくて、うつむいてしまった。
「クリス」
 わたしの肩に、そっとやわらかい手が置かれる。お母様だ。
「……ごめんなさい」
 うつむいたまま、ぽたぽたと落ちる涙の隙間を縫って、どうにか口を動かす。
 本当はもっと、色々と言い訳をしたい。でも今は、これ以上何かを言おうとしたら、声を上げて泣いてしまいそうだった。
「あなたは素晴らしいわ、本当よ」
 しかし、かけられた言葉は、想像をはるかに超えた優しさに満ちていた。
「……え? でも、わたし、できなくて」
「そんなことはないわ。誰にも習っていないのに、初めての魔法を成功させたんですもの」
「母さんの言う通りだ。父さんは嬉しくて、感動して……あうう」
「お父様ったら。お母様も私も我慢してるのに、そんな大泣きしないでよ!」
「そういうシェリルだって、今にも泣きそうじゃないか。あの魔法式は、さっきの余興で父さんと僕が使ったものを真似してみたんだよね? たった一回見ただけなのにすごいよ!」
 おそるおそる顔をあげると、そこには家族みんなの笑顔があった。
 お父様は周りの目を気にせず大泣きしているし、お母様も涙をそっとハンカチで拭っている。エル兄様はくしゃくしゃの笑顔で喜んでくれているし、シェリル姉様も、平気なふりをしているけど目じりに涙が溜まっている。
 心の底から、わたしが初めての魔法を使ったことを喜んでくれているのがわかる。
「わたし……わたし……うわあああああああん!」
 こらえきれなくなったわたしは、声をあげて泣いた。
 悔しさと恥ずかしさが消えたわけじゃない。
 でもそれ以上に、この家族のもとに生まれ変われてよかったと思った。
 安心と嬉しさと温かさに触れて、涙が止まらなくなった。
「ふん……あんなもので家族揃って大泣きとは。とんだ茶番だ。まあいい、これで自分たちの立ち位置も再確認できただろう」
「なんだか、しらけちゃったわね」
 サディアスとドリスが、冷ややかな視線を投げて去っていく。
 ふたりが去っても、まだ泣いているお父様を、エル兄様とシェリル姉様が構っている間に、お母様がわたしの前にしゃがんで、そっと頭を撫でてくれた。
「クリス、大丈夫?」
「……うん」
「あなたが家族のためを思って頑張ってくれたことが、お母さんは一番嬉しいわ」
「父さんもだ! 父さんもそれが……ひぐっ……嬉しくて……ぐす!」
「あなた? そろそろ泣き止んでくださいな」
「はい、ワカリマシタ」
 わたしとお母様のやり取りに、涙を盛り返しかけていたお父様は、お母様の一言でぴしゃりと泣き止んだ。お母様、すごい。
 エル兄様がお父様を慰めて、その間にシェリル姉様が、わたしに飲み物を勧めてくれた。
 本当に仲がよくて、お互いを尊重していて、成長や勇気を喜んでくれる。
 このとっても素敵な優しい人たちが、今日みたいな不遇な扱いを受けないために、わたしに何かできるだろうか。
 わたしの二回目の人生は、とってもふわふわして温かい素敵な気持ちと、前世を含めても五本の指に入る悔しさが入り混じる中で幕を開けた。


 実に興味深い余興だった。
 いいや、あの宴の席自体は、いつも通り変わり映えのしないものではあったか。
 自身の家柄が上に立つべきと信じて疑わない、光の王家にさえ尊大な態度を見せる、派手さと勢いしか能のない火のレイジングフレア。
 火の勢いが強いとみて、軽率に尻尾を振る風のハリケーン。
 燃費の悪さ、使い勝手の悪さ、そして派手さに欠けることで必要以上に委縮し、いいように言われたままのクレイマスターも、自身の主催したパーティーで、公爵家の争いを御しきれない光の王もそうだ。
 変わり映えがしないという意味では、静観していたこの俺も、向かいで茶をすする水の女公爵も、人のことを言えた義理ではないか。
 思わず漏れそうになったため息を隠すように、ティーカップを手に取った。
「先日は、非常に興味深い余興でしたわね、お気付きになりまして?」
「なんのことだ、ヘヴィーレイン」
「まさかですわ。闇の公爵デイビス・ダークナイト様ともあろうお方が、お気付きになられなかったとでもおっしゃるのかしら?」
 試すような大袈裟な口ぶりは、明らかに俺が気付いていることを前提にしたものだ。
 女狐め、こちらから言わせようとせず、さっさと切り出せばよいものを。
 どうせ、考えていることは同じであろうが。
 だからこそ俺は、今日ここに来たのだ。この女も気付いているという確証を得るために。
「回りくどい言い方をする。貴様が言っているのは最後のアレだろう、パトリシア・ヘヴィーレイン」
 返事のかわりに、パトリシアはすうと目を細めた。もちろん、目の奥は笑っていない。
「陛下はもちろん、火も風も、当事者のはずの土の皆様すら、気付いていらっしゃらないご様子だったでしょう? まさかわたくしだけなのかしらと、この国の公爵家そのものに失望するところでしたの」
 ああよかった、とさして安心などしていなさそうに言って、パトリシアが茶を一口含む。
 水の公爵家を名乗るだけあって、ここの水で淹れた茶は旨い。
 お茶請けにと出された菓子は甘すぎて好かないが、パトリシアが自信ありげに振る舞う程度には、高価なものではあるのだろう。これが、俺が甘いものは好かないと知っていて出しているのでなければ、もう少し好感が持てたものを。
「今年の茶もいい出来のようだな」
「露骨にはぐらかされるのね、いじわるなお方」
 どの口が言う。ひとつやり返した気がして、ふんと笑みが漏れる。
 たまには、その余裕ぶった表情を崩してみるといい。
「わたくし、パーティーの後で確かめてみましたの」
「……ほう?」
 俺があえて話を逸らしたのが、お気に召さなかったらしい。
 パトリシアはティーカップを完全に置いて、俺に向き直った。
「舞台の上に、乾きかけた泥がそのまま残っていましたわ」
 土の魔法にも種類がある。
 すべてが、あの余興でクレイマスターの親子がやったように、紋章を象るようなゆっくりしたものばかりではない。
 ものによっては土をえぐり、泥を飛ばすこともあるかもしれない。
「舞台が削れた様子はありませんでしたわ。いいお天気でしたから、舞台に上がる時にどこかから付いたものでもなさそうでしたの」
 俺が頭の中に浮かべた根拠の薄い仮説を、パトリシアが先回りして潰してくる。
「魔法はあくまで魔法。世界に存在するものの姿を借りて現れ、消えていくもの」
 こんなところで復唱してみせるまでもない。誰もが知っている一般常識だ。
「ところが……ですわね?」
 仕方なく頷く。
 クレイマスターの末娘、クリスと呼ばれていたか。
 おそらく魔法の教育などいくらも受けていないであろう、幼いあの娘が咄嗟に使った魔法は、冗談にもならないとんでもないものだった。
 我ながら馬鹿げた考えだと思ったが、俺もパトリシアと同じように確かめたのだ。
 魔法はあくまで魔法。世界に存在するものの姿を借りて現れ、消えていくもの。
 あの娘の魔法は確かに、それを覆していた。
「気を付けておく必要がありそうだな」
「まあ怖い。例えそうだとしても、あのレベルなら様子を見てもよろしいのではなくて?」
「本質がわかっていないな、ヘヴィーレイン。魔法の完成度は問題ではない」
 パトリシアは、楽しそうに目の端だけで笑った。
「どの程度、様子を見ようとお考えなのかしら? まさか、攫ってこいとはおっしゃらないでしょう?」
「まさかだな。機会があればもう少し間近で見て、話を聞ければとは思うが」
「間近で話を……ということは?」
「冗談はほどほどにしろ」
 間近で見て話をするために、攫ってくるのでは?
 そう言いたげなパトリシアを一蹴して、カップの底に残った茶を一気に飲み干した。
「では失礼する」
「もう少しゆっくりされていかれませんこと? 名目は、自領発展のための他領視察でしょう? まっすぐ私のところへ飛んでいらして、他に何も見ずに帰られたのでは、あらぬ噂が立ちましてよ?」
「問題ない。そんな噂が万が一立った時のために、その言い訳を用意しているのだからな」
「頑固なお方ですわね、お帰りの際はお気をつけて」
「誰に言っている」
「誰にでも言いますのよ、このセリフは。社交辞令ってご存知かしら? あなたの場合は、早すぎるお帰りにもお気をつけて、と皮肉を込めたつもりですけれど」
「……失礼する」
 つれないのね、と笑ったパトリシアに背を向ける。
 確認は取れた。響いているかは別にして、パトリシアが人攫いだとかの強硬手段に出ないよう牽制もした。
 ひとまずは、じっくり様子を見させてもらうとしよう。六大属性のパワーバランスに影響を及ぼしかねないイレギュラーではあるが、さて。


「クリスお嬢様、今日はどちらへお出かけしましょうか? ハンナ様より、日が暮れる前までなら自由にしてよいと仰せつかっております」
 専属メイドのソニアが、てきぱきとお出かけの準備を整えてくれる。
 おそらく二十歳くらいの若さながら、熟練のメイドらしい素晴らしい手際だ。
 ソニアは、くりくりしたブラウンの髪と、髪と同じ色の大きな瞳がとってもかわいい子なのだけど、侮るなかれ。
 クレイマスターに来る前は冒険者としてならしていたらしく、槍の達人なんだとか。
 その名残なのか、半分くらいが鎧になっているような、個性的なメイドファッションに身を包んでいる。
 ちなみにソニアは、公爵家専属ではなくわたしの専属メイドだ。
 専属どころかメイドにもあまり免疫のない、二十八歳のわたしが恐れ多すぎて萎縮していたら、すかさず、「なんだかお元気がありませんね? もしやお身体の調子が? いけません、お医者様を!」と駆け出してしまったので、頑張って堂々とするように心がけている。
「本日のお出かけは、パーティーで大活躍されたご褒美を兼ねているのでしょうね。私も、クリス様の勇気と気品に溢れたかわいらしいお姿、是非とも拝見したかったです……!」
 とろけそうな笑顔とオーバーリアクションで褒められすぎて、なんだか恥ずかしい。
 それもこれも、お父様が屋敷中のみんなに、パーティーでの出来事を触れ回ったからだ。
 おかげで、帰ってきてから一週間が経とうとしているのに、ことあるごとにパーティーの話が登場してくる。
 家のためを思って必死になってくれた勇気! 四歳の若さで初めての魔法! かわいい! 天才! 素敵!
 正直なところ、恥ずかしすぎてほどほどにしてほしい気持ちはある。
 だけど、それを話す家族のみんなも、聞いている執事やメイドたちも、自分のことのように嬉しそうにしてくれるので、もうやめてと言うのは忍びない。
 前世が天涯孤独に近かったわたしとしては、とても新鮮な温かさだ。
「さあ、支度ができましたよ。なんておかわいいんでしょう!」
「ありがとう。あのね、今日はなるべく色んなところをお散歩したいんだ」
「かしこまりました。地の果てまで……はハンナ様に怒られてしまいそうですが、可能な限りお供しますとも!」
 将来を見据えて、元二十八歳の社会人の目線で、クレイマスターを知っておきたいの。
 とは言えないので、あいまいな笑顔を返して部屋を出た。
「お出かけかい、クリス?」
「うん、エル兄様はお勉強?」
 難しい内容がパンパンに詰まっているぜ、と言いたげな、分厚い本を抱えたエル兄様に挨拶をする。さっきすれ違ったシェリル姉様も、魔法の訓練なの、とわくわくした顔をしていた。
 もう少し大きくなったら、わたしもお勉強や魔法の訓練が始まるのかな?
 頑張ってね、とエル兄様に手を振って玄関を出ると、庭の一角でメイドたちが洗濯物を干しているところだった。
 わたしたちが住んでいるのは、領地内のいわゆる首都の位置づけになる城塞都市だ。
 四方を高い壁に囲まれていて、公爵家の屋敷は都市の中央にある、大きな庭付きの建物だ。敷地内には、壁の向こうまで見渡せそうな高い塔まである。
 現代日本の感覚からすると、わたしの身体の小ささを差し引いても、公爵邸の敷地自体がかなりの広さに感じる。
 だから、庭の一角といってもかなり広いし、大人が数人がかりで洗濯物をあれこれするスペースくらいは、十二分にあるのだ。
「クリス! お散歩、気をつけて楽しんできてちょうだい。ソニア、この子をお願いね」
 軽く挨拶して通りすぎようと思ったら、メイドたちの輪の中心にいたのはお母様だった。
シンプルな白のブラウスとアースカラーのスカート姿で、ヒールの低い動きやすそうな靴を履いている。
 パーティーの時の綺麗なドレスとは、また違った良さがあってよく似合っている。
 お母様は、慣れた手つきでお父様のものと思われるシャツのしわを、ぽんぽんとはたいてひょいと干しながら、笑顔を向けてくれた。
「ハンナ様! はい、この命に代えましても!」
「大袈裟なんだから。ふたりとも、無事に帰ってきてちょうだい」
「はい! この命に代えましても!」
 慌ててひざまずいたソニアは、不意を突かれたようですっかり緊張していた。
 その証拠に、お母様が冗談めかして返事をしても、同じセリフを復唱してしまっている。
 お母様が、さっきよりいたずらっぽく笑う。 
「命をかけなくてはいけないような場所に、クリスを連れていかないでちょうだいね?」
「ひええ、もちろんでございます!」
 ソニアが慌てて立ち上がる。
 満足そうに頷いたお母様に見送られて、わたしたちは重そうな門の外に出た。


 ここから先がいよいよ、城塞都市本番だ。
 公爵邸からは、都市の四方にそれぞれ一本ずつ、大きな道が伸びている。道の両側に窮屈そうに並ぶ建物はどれも古びた石造りで、歴史を感じる佇まいだ。
 背の高い建物は公爵邸の他には数軒くらいのもので、城塞都市の外壁がしっかり見える。
 人通りはそれなりに多いけど、がやがやした感じがするのはお店の多い南側だけだ。
 確か西側は主産業の鍛冶とか工芸の工房、北側は騎士たちの詰め所や訓練所、右側は城塞都市内で暮らす人たちの家があるはずだ。
 南側以外にお店がないわけではないし、南側に住んでいる人もいるからざっくりしたエリア分けだけどね。
 四本の大きな道は、そこかしこで横道に入れるようになっていて、大小さまざまな細い道が入り組んで張り巡らされている。
 ソニアと一緒でも、基本的には横道には入らないようにと言われているから、場所によっては治安に不安があるのかもしれない。
 城塞都市の外には広大な草原と畑が広がっていて、民家が点在している。
 草原をある程度歩けば川がある。ただし、川の水は畑や生活用水には使いにくいらしくて、全体的に水は貴重だ。
 川の向こうや、反対側に草原を抜けた先は、どの方角も山道だ。王都のパーティーから帰ってくる時も、馬車で山道を越えてきた。
「クリスお嬢様、お父様ですよ。ご挨拶されていかれますか?」
 ソニアに言われた方に目を向けると、野菜を売っているらしいお店の中に、シャツの袖をまくったお父様の姿があった。
 お父様と、数人の大人たちの前には、いくつかの木箱が置かれている。
 わたしたちに気付いたお父様が、手を止めてこちらにやってきてくれた。
「やあクリス、お散歩かい?」
「うん! お父様はお仕事中?」
「そうだよ。近くでとれた作物の品質を、実際に見ておきたくてね」
 木箱の中には、城塞都市の近くでとれた作物が入っているらしい。
 よく見ると、土のついた手で汗をぬぐったのか、お父様の鼻の頭に少し土がついている。
「何がとれたの?」
「まあ、色々かな。さて、それじゃあ戻るとするよ」
「お父様、頑張ってね!」
「クリスに応援してもらったからには、いつもの十倍は頑張れそうだ!」
 袖をまくりなおして戻っていったお父様に手を振って、また歩き始める。
 公爵邸を出てすぐの時より人通りが無秩序になって、だんだんと活気が増してきた。
 ガレージショップのような、開放的なお店が多くなってくる。
 外壁に近づくにつれて、城塞都市の外から来る人たちのための、賑やかなお店が増えていくイメージなのかもしれない。
「クリスお嬢様、お疲れではありませんか?」
「大丈夫だよ。あ、ソニアが疲れたなら少し休む?」
「いいえ、私は大丈夫です。このソニア、クリスお嬢様の健脚ぶりに感服いたしました……いつの間にか、こんなにも成長なされていたんですね!」
 ソニアに言われて、自分でも首を傾げる。わたしの身体は、確かに四歳児のはずだ。
 あまり気にせず屋敷から歩いてきたけど、普通の四歳児はどれくらい歩けるものなのか。
 前世の記憶を思い出してからというもの、なんだか身体が軽くなったような気はしていた。
 気のせいではなく、体力がついているなら喜んでいいのもしれない。ただ、あまり四歳児の常識から外れた目立ち方はしたくない。
「言われてみたら、ちょっと疲れたかな?」
「そうですよね! 少し休憩しましょう!」
 なんとなく、取り繕ってしまった。
 ソニアのホッとしたような表情を見るに、わたしがテンション任せに無理をしているように見えたのかもしれない。つまりはそれが、ソニアから見た四歳児の常識的な範囲なのだろう。
 個人的にはまだまだ大丈夫そうだけど、少し気を付けよう。
 ソニアが選んでくれた、カフェのようなお店でお茶を飲みながら、わたしはこの間のパーティーを思い出していた。
 ――領民は肩を落とし、畑は痩せ、公爵家のある都市ですら、埃と泥にまみれているとか。
 サディアスが陛下に向けていた、棘のある言葉だ。
 自分の属性をよく見せて、他の属性を蹴落とすようなやり方はどうかと思ったし、あれは言葉だけの、マウントの取り合いだと思っていた。
 しかし、残念ながらそこには、いくらかの真実が含まれているようだった。
 領民が肩を落としているわけではない。活気だってある。
 問題なのは街並みとか、並んでいる品物の質とか、そちらの方だ。
 公爵邸を出てからここまで、ずっと大きな道を歩いてきた。
 道の両側に並んでいたのは、よくいえば歴史のありそうな建物ばかりだった。正直に言えば、できるだけ早い内に補修をした方がよさそうに見えた。
 石畳で出来ている道路だって、そこかしこが欠けて、土がむき出しになっている。
 店先に並ぶ野菜や果物も、あまり新鮮そうには見えない。
 反対に、外からやってきたであろう商人たちの品物はつやつやとしていて、それをどうにか値切れないかと、頭を下げる人たちの姿も多く見かけた。
「寄ってみたのは失敗だったか。値切れ値切れとうるさいったら。貧乏公爵ってのは本当だぜ、さっさと他所に行くか」
「残念魔法の貧乏公爵サマには、ご挨拶もいらねえか。やはり、魔法の質は領地の質だな」
 こんなやり取りが、外からやってきた商人たちから聞こえてくる始末だ。
 考えてみれば、お父様とお母様を見かけたタイミングも気になった。
 この世界の常識が違う可能性はあるし、わたしのイメージだけではあるけど、公爵やその妻が、領民に混じって土だらけの作物を検分したり、メイドに混じって洗濯物を干したりはしない気がする。
「ソニア、お家に帰ろう」
「もうよろしいのですか? まだまだ、お店を回る時間はありますよ」
 この世界の魔法を、もっと知りたい。
 貴族の集まるパーティーでも、商人たちの会話でも、この世界で鍵を握るのは魔法だ。
 今のわたしが、クレイマスターのためにできることはほとんどない。
 そもそもこの世界の常識とか、社会が回る仕組みをまだ知らないし、もし知っていたとしても、四歳児がそれを語りだしたところで、きっとちゃんと聞いてはもらえない。
 しかしそれが、魔法ならどうだろう。
 四歳のわたしがすごい魔法を使えたら、家族の役に立てるのではないだろうか。
 せっかく生まれ変わって素敵な家族にも恵まれたのに、地味だとか貧乏だとか、あれこれ言われたままじゃ嫌だもの。
 前世では、わたしってこうだよね、と少し諦めているところがあった。
 しかし今回は、まだ四歳だ。四歳で諦めてしまうのは早すぎる。
 なんたって、仕上がりはともかく、魔法自体は使えたのだ。
 仕組みがプログラミングに近いものなら、教本みたいなものもあるだろう。
 それを読んで学んでいけば、ちゃんとした魔法だって使えるはずだ。
「ソニア。わたし、勉強したい。だから帰ろう」
「四歳にしてみずからお勉強を!? ご立派です、クリスお嬢様……お供いたします!」
 直感的にわたしのノリにまるっと乗ってくれるソニアは、とてもありがたい存在だ。
 わたしたちはカフェを出ると、足早に帰路についた。


 クレイマスター家では、魔法教育は七歳からと決められている。
 これは、過去に現れた悪しき魔法使いの傾向に由来する。その多くが、幼少期から魔法に触れていたというのだ。
 中には、産声がわりに魔法を撃ちあげたスーパーベイビーもいたとかいないとか。なにそれこわい、母子ともにご無事でしたか?
 とにかく、お酒は二十歳になってから、魔法は七歳になってから、というわけだ。
 このルール自体は、わからない話ではない。
 才能ある魔法使いは、幼い頃から魔法が使える。
 そうすると、この世界における魔法至上主義の基準にしたがって、ちやほやされる。
 結果的に天狗になって、悪い道に進んでしまうと。あるある。よくある。
 その点、わたしについてはご安心あれ。なんといっても、中身は成人済みなのだ。
 そもそもわたしの魔法の才能は、この間のパーティーでお察しレベルだ。天狗になれるほどのものは持っていないし、七歳まで魔法禁止にする必要はないと思うのよ。
「それで、そんなに膨れて僕のところに来たんだね」
「お父様もお母様も、あんなに褒めてくれたのに。いざお勉強したいって言ったら七歳まで待ってね、はひどいと思うの」
「きっと心配しているんだよ。かわいいクリスが、悪い子になっちゃうんじゃないかって」
「じゃあエル兄様は、七歳より前に一度も魔法を使ったことはない? 神様とご先祖様と、わたしに誓って?」
「ええ!? まあうん、こっそり練習はしてた……かな?」
「ね! でしょ!? 七歳より前に魔法を使っても、エル兄様はこんなに素敵でカッコよくて優しいお兄様に育っているじゃない」
「クリスにそこまで言ってもらえると、照れちゃうな」
 エル兄様が、まんざらでもない顔になる。もう一押しだ。
「だからお願い。エル兄様のご本を、ないしょでちょっとだけ見せてほしいの!」
「そうだね、ちょっとだけなら」
「ストップ! お兄様、甘すぎるでしょ! 理由があるから禁止されているのに」
 惜しい、あと一息だったのに。
 お母様譲りの芯の強さと突っ込みスキルを持つ、シェリル姉様のご登場である。
 あまり無理を言って、ふたりがお父様とお母様に怒られるのは本意ではないし、出直すしかないか。一ページだけでも見せてもらえたら、さっと覚えて検証するのに。
「クリスも、急にどうしたの? この間のパーティーから、すごくハキハキしゃべるようになった気がするし、お母様の話じゃないけど、なんだか急に大人になったみたい」
「え! お、おとなに!? いくつくらいに見えます!?」
 またしても、わたしは何を口走っているのか。あまりにストレートに言い当てられて、あわあわと手を振るわたしを見て、シェリル姉様が小さく噴き出した。
「冗談よ! 私も初めてパーティーに出た後はそうだったし、背伸びしたい気持ちもわかるわ、おませさん!」
 え、かわいい。
 背伸びしたい気持ちもわかるけど、なんてそれこそおませな言い方をしているシェリル姉様だって、まだ十歳なのに。
 突然の尊さのシャワーに涙腺が崩壊直前のわたしを、まさしく背伸びしたい子供がうるうるしていると思ってくれたのか、シェリル姉様がわたしの頭にそっと手を置いた。
 これもきっと、お母様の真似をしているのだと思うだけで、尊すぎる。大粒の涙が、ここから出せと叫びちらす。
「お父様とお母様に、絶対ないしょにできる?」
「……シェリルだって、クリスに甘いじゃないか」
 苦笑いのエル兄様と満足げなシェリル姉様を順番に見て、わたしはこくこくと頷く。
「絶対ないしょにする」
「わかった。ご本は貸してあげられないけど、もう使っていないノートを一冊だけ貸してあげる。一番最初に使った、簡単な魔法が書いてあるから」
 わあ、と大喜びするわたしに、ただし、とシェリル姉様が人差し指を立てる。
「みんながクリスを心配しているんだってことは、忘れないでね?」
「わかった。悪い子にならないように頑張る」
「クリスが無理をしすぎて具合が悪くなっちゃうのも、みんな心配するからね」
「……無理もしないようにする」
 シェリル姉様とエル兄様の優しい忠告に、わたしは素直に応じた。
 クレイマスター家の地位向上を目指したいので、なんていきなり言い出してもびっくりされるだけだし、何をどこまでできるのかも、まだわからない。
 今はただ、ふたりの優しさに甘えつつ、家族に迷惑や心配をかけないようにしようと素直に思った。
 シェリル姉様からノートを借りて、お礼を言って自室に戻る。
 ノートと言っても、現代日本のようにきちんとしたものではない。少しごわごわした質感の紙束を、ざっくり糸で綴じたものだ。
 しかし、それが逆にいい。このレトロな感じ、かなり好きかもしれない。
 ソニアにも、シェリル姉様にノートを借りた話はないしょにしてもらうようお願いをして、部屋から締め出した。
 兄妹で会話している時は少し離れてもらっていたし、何のノートを借りたかは話していない。それでも、わたしがノートを広げて魔法を唱え始めれば、ソニアの立場上、ないしょにしておくわけにはいかないだろう。
 ソニアは、嘘が得意なタイプには見えない。シェリル姉様との秘密の約束だから、とノートを借りた話そのものをないしょにしておいてもらう方が、彼女の精神衛生上にもよさそうだ。
 ノートを借りるついでに、シェリル姉様に魔法の基礎も教えてもらった。基礎というか、概念というか。
 魔法は基本的に、属性ごとに伝わる魔法式を覚えて、なぞることで使えるようになる。
 この魔法式の形はこういう魔法、というのを覚えるのがメインで、あとはその通りに魔力でなぞる流れを、経験でつかんでいくのだという。
 ふむふむと大人しく聞いていたものの、正直言って怖すぎやしませんか。
 個人的に、プログラミングで一番怖いのは、ちゃんと動いてくれない時ではない。なんだかわからないまま、動いてしまった時だ。
 よくわからないまま動いてしまったら、どこかで変な動きをし始めても直せないじゃない。だって、わからないんだから。
「よかった……なんとなく読めそう」
 ノートを開いてみて、その心配はどうやら杞憂に終わってくれそうだった。
 わたしが最初に開いたページは、簡単な土の塊を出す魔法の式だ。読んでいくと、魔法を使うための大きな式の中に、いくつかの細かい式が書いてある。
 魔法式の起動処理、流した魔力に見合う土の塊を作る処理、作った土の塊を出力する処理、最後に魔法の効果をクリアする処理……大体こんな感じだ。
 魔法式の構築にどこかで失敗したら、処理をクリアして終了する処理がところどころに入っているから、暴発したりもしなさそう。プログラミングでいうところの、エラー処理だね。
 シェリル姉様はまだ十歳だ。まずは魔法式を形で覚えて、魔力を流す感覚を身に着けているところなのかもしれない。
 前世のプログラミングと違うのは、式をなぞるのに魔力が必要なところだ。
 こればかりは、キーボードを叩けば完成、というわけにはいかない。
 魔法を動かすエネルギーである、魔力を扱う感覚や経験を磨いていく必要がある。
 最初の数年は、魔力を扱う感覚を磨くことに重点を置いた、教育方針なのかもしれない。
 わたしは、前世の知識のおかげで、魔法式をすんなり読めている。言ってみれば、座学だけは中級者から入れている状態だから、アプローチが違って当然だ。
「次の魔法がこれで……その次がこれ、と。起動する処理がいくつかあって、最初に魔法の系統を決めてるっぽい?」
 魔力を流す処理にも、種類がある。決まった量しか魔法式に流れないように指定されているものもあれば、魔力を流した量によって出力される魔法の威力が変わるものもある。
 自分で流す魔力の量を指定できる方が、当然ながら自由度は高いけど、扱いが難しそうだ。
 このノートは初心者用だけあって、土の塊を出すよとか、土を板状にして出すよとか、そういう魔法が載っている。
 お父様やエル兄様がパーティーの余興でやっていたような、自由に形をデザインできる魔法は、どうしているのだろう。
 どういう処理にするか、自由に書いていける書き方があるのかな。それか、紋章を作るための個別の式があるとか?
「やば、おもしろい……もっと知りたい! 捗っちゃう!」
 前世から、コツコツ学んでいくのは好きだった。
 なんとなく式が読めるのも手伝って、わたしは時間を忘れてノートの解読に没頭した。そしてその中で、さっそくいくつかの課題に気がついた。
「最後に必ず、全部クリアしてるみたい?」
 土の塊を作るとか、土を変化させて石にするとか、基本的な魔法が書かれているだけあって、仕組みは単純なものが多い。
 ただし、どの魔法も最後は、発動した後でクリアするように指定されている。
「初心者向けのお勉強用か、貴族社会だからかな?」
 きっとそうだ。パーティーの余興で、お父様とエル兄様が作った紋章もそうだった。
 あの場で見た、他の属性の魔法も同じだったはずだ。
 考えてみれば、魔法を発動した分だけ、その場に炎とか土の塊がわいわい残っていたら、後片付けが大変だ。
 発動後に消えてくれる魔法から学んでいくのは、貴族社会の理に適っているのだろう。
「ああでも、うずうずする。これとこれを書き換えたらいいと思うんだよね……!」
 やっちゃう?
 やっちゃいますか?
 無理をしないと約束した手前、ないしょのないしょになってしまうけど!
 よし、クリアする処理は取ってしまおう。
 だって、すぐに消えてしまったら、細かい精度がわからないじゃない?
 それに、手元に自分が作ったものがあった方が、実感が湧いて嬉しくなるし。
 どうせなら、他にも気になっている処理があるから、そちらも色々試してみたい。
 土を固める処理は、魔力を流した時に自動でやってくれていそうだから、省略したい。
 無駄な繰り返し処理も、消してしまいたい。
 ああ、自分用のノートが欲しくなってきた。
 まだ意味がわからない、おまじないみたいな記号があるから、他の魔法式と見比べて意味を調べておきたいし、どの処理がどういう意味なのかをきちんと整理したい。
 変更した履歴を残しておきたいし、魔法式を書き換えるにしても、ノートはいる。
 お絵描きしたいからノートが欲しいと言えば、買ってもらえるだろうか。
 わたしは、シェリル姉様から借りたノートを引き出しにしまって、部屋を飛び出した。