*
月曜日もよく晴れたいい天気になった。
昼休みになるのを今か今かと待ち、窓から廊下に差し込む太陽の光を踏みながら屋上へ向かう。
鍵のかかっていない扉を開き、真っ直ぐに塔屋の梯子を上がった。
予想通り、光合成中の加原くんがいた。
ワイシャツの首元からのびた花はつぼみがなく、全てが開花したようだった。
太陽に花を向けてるため、猫背になりあぐらで座る顔は影になっている。
私は加原くんの目の前まで歩み寄り、腰を下ろした。
「……なんで来た」
「お金、結局払わなかったなって」
そう、昨日は加原くんを呼び止める間もなくて、結局お金を渡せなかったのだ。
封筒を見た加原くんは、大きなため息をついた。
「そっちかよ……いいよ、食事作ってもらったし、コップ割ったし」
なんとなく予想していた答えに、一度封筒を引っ込める。「じゃあ、味覚を譲るかどうかの話だけど」と切り出せば、目に見えて加原くんが動揺した。
「……それはNGで終わりだろ」
「いや、譲るのもいいかなと思って来たよ」
「はあ? 頭おかしいんじゃね」
猫だったら、全身の毛を逆立ててただろうな、というくらい加原くんは怒りを露わにした。
私を睨みつけ、犬歯が見えるくらい歪んだ口から、唸り声まじりの声が出ている。
「本当だよ」
「……分かった。調べたんだろ。種を植えたって味覚を譲ることなんてできないって。だからそんな落ち着いていられるんだな! 人ごとだと思って――!」
「あ、やっぱりそうなんだ。調べても全然それらしいものが出てこなかったから、もしかしてと思ったんだ。でも、譲ろうと決心したのは本当だよ」
「ははっ、口ではなんとでも言えるよな。もういい、出ていけよ」
「まあもう少し聞いてよ。調べ方が悪いのかなと思ってね、一応準備はしてみたんだよ」
「準備?」
頭を抱えてうなだれた加原くんは、私を見ようともしない。
「ゴムをね、食べようとしてみたの」
「は?」
「最初は幅広のゴムを洗ってお皿にのせたのをお箸で食べてみようとしたの。口に入れて噛んだけど、飲み込むのは無理だった」
「マジで?」
「砂もきれいに洗ったのを口に含んでみたけど、ジャリジャリして気持ち悪くて飲み込めなかった。何回うがいしてもなかなか細かい砂がとれなくて――」
「なんで……」
「加原くんの立場を知りたかったのもあるけど……印象に残りたかったのもあるかも。こんなことするの私くらいでしょって」
「だろうな……頭のネジ飛びすぎ」
「それくらい、加原くんのこと好きなのも私だけだと思う」
半笑いだった加原くんが目を見開いた。
中途半端にあいた――私を揶揄おうとしてたんだろう――口元を閉じるのを忘れたみたい。
「味覚があげられるなら、いいなって思ったんだ。それで加原くんの罪悪感につけこめるなら。ずっと一緒にいてくれるならそれでもいいなって」
腕に残った痕が薄くなるのを残念に感じるたび、舌を指で押さえられたのを思い出してドキドキした。
怖すぎて、じゃない。
背徳感が半端ないのに、その先を知ってみたいような魅力があった。
緑の瞳がこのまま私だけを見てくれるなら、味覚を差し出すのもありだなと思うくらいには。
味覚がなくなったら大変なのにね。
花のない私は光合成ができない。なのに口から栄養を摂らないといけない。弁当屋の手伝いはできるかもだけど、継ぐのは難しいだろう。
加原くんが言っていた通り、栄養士の夢だって諦めないといけない。
それでも、今後の人生投げ打っても、独占したくなってしまった。
ただこの寂しそうで強がりな彼を慰めてあげたいと思った。
「それに……味覚をあげたら、卵焼きの味、ちゃんと知ってもらえるかなぁって。私は、おばあちゃんの味もお母さんの味も知っている。自分でも作れるものは増えてきたし、レシピを見れば大体味の想像ができるようになって来たんだよ。だから、加原くんが私の料理の味を知ってもらえたら、そっちの方がよかった」
泣くつもりは全然ないのに、両目から涙があふれてきた。
たしかに、今あるものを失うのは怖いと思った。
食べることが苦痛になるのは、砂やゴムを口に含んでも現実味がうすかった。
けれどそれ以上に、期待した。
加原くんがなんでも食べられるようになったら、何を作ろうって。
まずハンバーグのリベンジ。
揚げ物もいいな。
おばあちゃんに仕込まれた煮物だって譲れない。
茶色いお弁当が至高だと、身をもって知ってほしい。
そうして幸せ太りさせて、この姿もカッコいいねと笑いかけたかった。
「でもそっか……無理なんだね」
ああ、まばたきしても追いつかない。
涙がおちそうで上を向いた。
だから一瞬、理解が追いつかなかった。
私の体が何かに包まれていて――それが加原くんの両腕で、抱きしめられていることに。
「俺も……卵焼きの味をちゃんと知りたかった。ごめん、あれはただの八つ当たりだ。いつか菜絆が作る料理を食べる男ができると思ったら、すんげえむかついて……悔しかった」
「……本当に?」
驚いた拍子に涙が引っ込んだ。あの態度の変化は、そういう気持ちの変化があったということ?
「本当だよ。今までは知らないものは仕方ないって思えた。でもあの卵焼きは――あの味を知りたかった」
「俺、今まで何度も普通になりたいと思ってきたけど、あの時が一番強く思った。普通になりたい。人生を花に左右されない自由が……欲しかった」
ここにいるのにどこかへ行ってしまいそうな心細さを覚えて、慌てて加原くんを抱きしめ返した。
手のひらに背中の花びらの感触が伝わる。想像よりもずっと硬くてしなやかだ。
「菜絆が初めてなんだよ。俺を見てくれたのは」
「そうなこと」
「あるんだよ。みんな腫れ物みたいに俺へ接する。それか花のおまけ扱いだ。花がきれいで、それを飾る花瓶が自分好みだと尚いいくらいの認識だ。それに花は枯れるから、期間限定のうちに堪能しないとみたいな奴らばっかりだった」
思わず、加原くんの背中に回した腕に力を込めた。そんな透明人間みたいな扱いをされてきたなんて。
一人の人間で、個性があるのに。こんなに傷ついていたんだ。
「けど菜絆は俺の将来を考えてくれた。……信じられるか? どうしたら花が長持ちするか聞かれたり試されることばっかだったんだ。花が枯れた後の生活を考えて行動してくれたのは初めてだ。しかも金まで払おうとして。バカで可愛くて……最高だなって思った」
「……ねえ、なんだか私のことが好きみたいに聞こえるよ」
「そうだよ。菜絆が好きだ。あーあ、諦めてやる予定だったのに。俺なんかに目をつけられて可哀想に」
「何が幸せかは私が決めるんだよ」
「そうか」
「うん」
加原くんの腕が緩んだのを感じて私もそれにならうと、今度は両頬に手が添えられた。
額同士を触れ合わせ、悩ましげな声で「種、植えられたらいいのに」と加原くんがつぶやいた。
その瞳は昨日とは全然違う色合いで、影になるはずの一番奥で水面みたいに光がきらめいている。
「じゃあ私が植えてあげるよ」
「は?」
私の思惑が悟られる前に、加原くんの両頬を捕まえて、その唇に自分のものを押し付けた――はずが、ちょっとずれて鼻の頭にキスしてしまった。
「……下手くそ」
「ファーストキスなんだから、仕方ないじゃん」
「へー初めてなんだ」
捕食者みたいに目を細めた加原くんが、仕返しと言わんばかりにキスしてきた。
しかも唇の柔らかさに驚いているうちに、ついばむように何度もされる。
まるで好きだという想いを植えつけるみたいだった。
月曜日もよく晴れたいい天気になった。
昼休みになるのを今か今かと待ち、窓から廊下に差し込む太陽の光を踏みながら屋上へ向かう。
鍵のかかっていない扉を開き、真っ直ぐに塔屋の梯子を上がった。
予想通り、光合成中の加原くんがいた。
ワイシャツの首元からのびた花はつぼみがなく、全てが開花したようだった。
太陽に花を向けてるため、猫背になりあぐらで座る顔は影になっている。
私は加原くんの目の前まで歩み寄り、腰を下ろした。
「……なんで来た」
「お金、結局払わなかったなって」
そう、昨日は加原くんを呼び止める間もなくて、結局お金を渡せなかったのだ。
封筒を見た加原くんは、大きなため息をついた。
「そっちかよ……いいよ、食事作ってもらったし、コップ割ったし」
なんとなく予想していた答えに、一度封筒を引っ込める。「じゃあ、味覚を譲るかどうかの話だけど」と切り出せば、目に見えて加原くんが動揺した。
「……それはNGで終わりだろ」
「いや、譲るのもいいかなと思って来たよ」
「はあ? 頭おかしいんじゃね」
猫だったら、全身の毛を逆立ててただろうな、というくらい加原くんは怒りを露わにした。
私を睨みつけ、犬歯が見えるくらい歪んだ口から、唸り声まじりの声が出ている。
「本当だよ」
「……分かった。調べたんだろ。種を植えたって味覚を譲ることなんてできないって。だからそんな落ち着いていられるんだな! 人ごとだと思って――!」
「あ、やっぱりそうなんだ。調べても全然それらしいものが出てこなかったから、もしかしてと思ったんだ。でも、譲ろうと決心したのは本当だよ」
「ははっ、口ではなんとでも言えるよな。もういい、出ていけよ」
「まあもう少し聞いてよ。調べ方が悪いのかなと思ってね、一応準備はしてみたんだよ」
「準備?」
頭を抱えてうなだれた加原くんは、私を見ようともしない。
「ゴムをね、食べようとしてみたの」
「は?」
「最初は幅広のゴムを洗ってお皿にのせたのをお箸で食べてみようとしたの。口に入れて噛んだけど、飲み込むのは無理だった」
「マジで?」
「砂もきれいに洗ったのを口に含んでみたけど、ジャリジャリして気持ち悪くて飲み込めなかった。何回うがいしてもなかなか細かい砂がとれなくて――」
「なんで……」
「加原くんの立場を知りたかったのもあるけど……印象に残りたかったのもあるかも。こんなことするの私くらいでしょって」
「だろうな……頭のネジ飛びすぎ」
「それくらい、加原くんのこと好きなのも私だけだと思う」
半笑いだった加原くんが目を見開いた。
中途半端にあいた――私を揶揄おうとしてたんだろう――口元を閉じるのを忘れたみたい。
「味覚があげられるなら、いいなって思ったんだ。それで加原くんの罪悪感につけこめるなら。ずっと一緒にいてくれるならそれでもいいなって」
腕に残った痕が薄くなるのを残念に感じるたび、舌を指で押さえられたのを思い出してドキドキした。
怖すぎて、じゃない。
背徳感が半端ないのに、その先を知ってみたいような魅力があった。
緑の瞳がこのまま私だけを見てくれるなら、味覚を差し出すのもありだなと思うくらいには。
味覚がなくなったら大変なのにね。
花のない私は光合成ができない。なのに口から栄養を摂らないといけない。弁当屋の手伝いはできるかもだけど、継ぐのは難しいだろう。
加原くんが言っていた通り、栄養士の夢だって諦めないといけない。
それでも、今後の人生投げ打っても、独占したくなってしまった。
ただこの寂しそうで強がりな彼を慰めてあげたいと思った。
「それに……味覚をあげたら、卵焼きの味、ちゃんと知ってもらえるかなぁって。私は、おばあちゃんの味もお母さんの味も知っている。自分でも作れるものは増えてきたし、レシピを見れば大体味の想像ができるようになって来たんだよ。だから、加原くんが私の料理の味を知ってもらえたら、そっちの方がよかった」
泣くつもりは全然ないのに、両目から涙があふれてきた。
たしかに、今あるものを失うのは怖いと思った。
食べることが苦痛になるのは、砂やゴムを口に含んでも現実味がうすかった。
けれどそれ以上に、期待した。
加原くんがなんでも食べられるようになったら、何を作ろうって。
まずハンバーグのリベンジ。
揚げ物もいいな。
おばあちゃんに仕込まれた煮物だって譲れない。
茶色いお弁当が至高だと、身をもって知ってほしい。
そうして幸せ太りさせて、この姿もカッコいいねと笑いかけたかった。
「でもそっか……無理なんだね」
ああ、まばたきしても追いつかない。
涙がおちそうで上を向いた。
だから一瞬、理解が追いつかなかった。
私の体が何かに包まれていて――それが加原くんの両腕で、抱きしめられていることに。
「俺も……卵焼きの味をちゃんと知りたかった。ごめん、あれはただの八つ当たりだ。いつか菜絆が作る料理を食べる男ができると思ったら、すんげえむかついて……悔しかった」
「……本当に?」
驚いた拍子に涙が引っ込んだ。あの態度の変化は、そういう気持ちの変化があったということ?
「本当だよ。今までは知らないものは仕方ないって思えた。でもあの卵焼きは――あの味を知りたかった」
「俺、今まで何度も普通になりたいと思ってきたけど、あの時が一番強く思った。普通になりたい。人生を花に左右されない自由が……欲しかった」
ここにいるのにどこかへ行ってしまいそうな心細さを覚えて、慌てて加原くんを抱きしめ返した。
手のひらに背中の花びらの感触が伝わる。想像よりもずっと硬くてしなやかだ。
「菜絆が初めてなんだよ。俺を見てくれたのは」
「そうなこと」
「あるんだよ。みんな腫れ物みたいに俺へ接する。それか花のおまけ扱いだ。花がきれいで、それを飾る花瓶が自分好みだと尚いいくらいの認識だ。それに花は枯れるから、期間限定のうちに堪能しないとみたいな奴らばっかりだった」
思わず、加原くんの背中に回した腕に力を込めた。そんな透明人間みたいな扱いをされてきたなんて。
一人の人間で、個性があるのに。こんなに傷ついていたんだ。
「けど菜絆は俺の将来を考えてくれた。……信じられるか? どうしたら花が長持ちするか聞かれたり試されることばっかだったんだ。花が枯れた後の生活を考えて行動してくれたのは初めてだ。しかも金まで払おうとして。バカで可愛くて……最高だなって思った」
「……ねえ、なんだか私のことが好きみたいに聞こえるよ」
「そうだよ。菜絆が好きだ。あーあ、諦めてやる予定だったのに。俺なんかに目をつけられて可哀想に」
「何が幸せかは私が決めるんだよ」
「そうか」
「うん」
加原くんの腕が緩んだのを感じて私もそれにならうと、今度は両頬に手が添えられた。
額同士を触れ合わせ、悩ましげな声で「種、植えられたらいいのに」と加原くんがつぶやいた。
その瞳は昨日とは全然違う色合いで、影になるはずの一番奥で水面みたいに光がきらめいている。
「じゃあ私が植えてあげるよ」
「は?」
私の思惑が悟られる前に、加原くんの両頬を捕まえて、その唇に自分のものを押し付けた――はずが、ちょっとずれて鼻の頭にキスしてしまった。
「……下手くそ」
「ファーストキスなんだから、仕方ないじゃん」
「へー初めてなんだ」
捕食者みたいに目を細めた加原くんが、仕返しと言わんばかりにキスしてきた。
しかも唇の柔らかさに驚いているうちに、ついばむように何度もされる。
まるで好きだという想いを植えつけるみたいだった。


