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卵焼きが完成した。ふわっふわの自信作だ。
「これが卵焼き。砂糖入ってるから甘い匂いするでしょ」
「……食べてみようかな」
「え? 無理しなくていいよ」
「いや、少しだけ」
本気で言ってるの? それとも営業トーク? あっけに取られていると、加原くんは卵焼きの角を切り分けようとした。
やっぱりお箸は苦手なのか手こずっている。しかも焼きたてだから、重なった卵の層がボロボロに崩れてしまう。
「端より真ん中の方が柔らかいよ。お箸かして。私が切るよ」
お箸を受け取り、卵焼きを真ん中から半分に切る。
さらにやわらかそうな部分を一口大に切り分けてからお箸を渡そうとしたら、ちょっと口を曲げて不満げに加原くんが言った。
「食べさせてよ」
「え?」
「せっかくだから」
せっかくだからって……何!?
え、あ、お金払ってるから? レンタル彼氏させてやるって言いたいのかな?
「あー……のさ、手をつないだときも言いかけたんだけど、スキンシップ? みたいなことはやるつもりなくて」
「こんなのスキンシップって言えないだろ。触ってないんだし」
いやまって。加原くんは「あーん」しろって言ってるんだよね? そりゃたしかに触れ合ってるわけじゃない。でもこんなの、下手なスキンシップよりも恥ずかしいと思うんだけど!
だけど言えない。食べさせてあげるの、嫌じゃない私がいるから。
あんなに食に興味なさそうだった加原くんが私が作ったものを私の手で食べるって、つまりそれはもう餌付け? 離乳食? ともかく彼の記憶に残っちゃうルートじゃないか。
今後もう関わりがなくなっても、今日のことを思い出す……その一助になるならいいかなと思ってしまう。
「冷めるんじゃない?」
立ち上がった加原くんが、ニッと挑発的に笑って側に近づいてきた。
業務用の大きな作業台は、前のめりにならないと相手の口に箸は届かない。
だからわざわざこっちにきたんだ。
なんなんだ今日のやる気は。お金のあるなしでそんなに態度かわるわけ? お金って怖いなぁ。
なのに隣に立った加原くんは、純粋にこの状況を楽しんでいるようにも見える……ような。うーんやっぱり分からない。
(あーもう! 本人がいいって言うなら、細かいことは考えないでおこう!)
「っ、はいどーぞ!!」
なんかもうヤケだった。卵焼きを一口分つまんで口元に運ぶ。加原くんはためらいなく口を開けた。
一瞬、目を見開いたような気がするけれど、口元は動いて噛んでいるのがわかる。しばらくすると喉が動いて、きちんと飲み込めたみたいだ。
「食えた」
「本当? よかったー!」
「なんでそんな喜べんの」
「え、だって屋上での塩対応を思うと嬉しくて。作ってよかったなーって」
砂かゴム噛んでるみたいっていう人が食べられるものを作り出せた。それは思っていた以上の達成感がある。
初めての瞬間に立ち会ったんだ。なんかもうこれ本当に離乳食じゃん。
「俺……卵焼きとか、普通っぽいの食えたんだな」
何度もまばたきをくり返す加原くんの様子が驚きをあらわしているようで、なんだか今まで見たどの顔よりも素っぽい気がするのも嬉しい。
「……そうだよ! 探せばもっとあるかもしれないよ。茶碗蒸しもできるし……おでんの大根とか! コンビニで買ってこようか?」
「いや……とりあえず茶碗蒸し食うわ」
すごい。あれだけ食べ物を拒否してた加原くんが食べるって言ってる。
うれしい。たとえこれが営業トークだとしてもいいやって割り切れるくらいに。
程なくして完成した茶碗蒸しも加原くんは食べてくれた。
「同じ卵だけど確かに匂いが違う。卵焼きよりいろいろ混ざってる」
「でしょ? それが好みに合わなければ一応卵液だけのも作ってみたけど……」
「……比較してみたい」
「!」
もう、顔のニヤケが止まらない。相当キモい顔になってると思う。
だって比較するくら食べてくれるなんて思わなかった。卵最高だよ。ありがとうニワトリさん。
「……なに笑ってんだよ」
「え、だってこんなに嬉しいことないよ。私おいしいもの食べるのが好きだけど、同じくらい自分が作ったものをおいしそうに食べてもらえるのも好きだから」
「ふーん……作る機会あるんだな」
「だからこのお店を手伝ってるんだってば。今は卵焼きとマカロニサラダの2つだけど、もっとたくさん担当させてもらえるようになりたいんだ」
「……そうかよ」
加原くんの声が細く掠れるように小さくなった。そのままうつむいて、前髪で顔が隠れてしまう。
「……大丈夫? いろいろ食べてくれたのは嬉しいけど、無理させちゃったかな。水飲む? 冷たいのがいいかな。あったかいお茶も入れられるよ?」
部屋の中だと髪は揺れないし、蛍光灯の光じゃ金色に透けたりしない。
だから加原くんの表情を盗み見ることができなくて、感情が読み取れない。
ちょっと、いやだいぶ距離が近づいたように思えたのに(たとえお金の力だとしても)、それが全部リセットされた気分になる。
返事が返ってこないからとりあえずお水を用意することにする。
コップを用意していると、ゆらりと人の気配が近づいてきた。
相手はもちろん加原くんなのだけど、さっきまでとはなんだか雰囲気そのものが違う。
いつの間にかパーカーの間から背中の花がのぞいているし。
まるで――姿を現した花に操られているんだと言われたら納得してしまいそうだ。
ふいに腕が掴まれて、その拍子にコップを落としてしまった。
当然割れてしまったそれを片付けようと腕を離してもらうよう伝えたのに、掴まれたまま動けない。
「……加原くん?」
「光輝」
「え?」
「俺が菜絆って呼んでるのに、いつまでも苗字で呼ぶの?」
「ええ?」
どういうこと? どうしたんだろう。
名前呼びなんて、考えたこともなかった。だって加原くんが私の名前を呼ぶのだって、この1時間だけの特典だと思ってたし。
私から呼ぶのは嫌がるだろうなって先入観もあった。今までの態度を思い返せば、私の判断は妥当だと思う。
なのに、なんで拗ねたみたいに言うんだろう。
「呼んで」
「あの」
「呼べよ」
「こ、光輝くん……?」
加原くんが顔を上げた。今までにないくらい近く――互いの瞳に映り合うくらい至近距離なのに、その緑色は今まで見たどの時よりも底知れない深い色をしていた。
「やっぱりどこか具合悪い? とにかく一度座って――」
「菜絆はさ、」
なんだろう。両方の口角は上がっているのに眉尻は下がっている……無理やり笑顔を作っているような複雑な表情を目の当たりにして、私は動きを止めてしまった。
「そんなに食べ物の味を知ってほしいなら、菜絆の味覚をくれよ」
「くれって……どういう」
「種を使えばできる。――なあ、覚悟はある?」
サワサワと擦れた音が聞こえて、それがパーカーの下からのぞいた花たちが擦れて出た音だった。
もしかして加原くんの感情や体調によって花も動きが出るんだろうか。
むしろ花が成長しようとするから、加原くんは突然しんどそうな様子になってしまったんだろうか。
「……どういうこと?」
「背中の花ってさ、枯れたら種をつけるらしいんだよ。その種を植えると植えた場所の感覚が宿主のものになるわけ。つまり」
腕を握る力がまた強くなった。でも痛みをさほど感じない。
それよりも目の前の加原くんに意識が集中していて、緊張で背中にじんわり汗が浮かぶのを自覚する。
同じ目線。影の深くなる瞳はますます感情が読めない。なのに悲しいくらい綺麗だ。
私の腕を押さえているのとは反対の手の親指で、加原くんは私の下唇を撫でた。
予想外の接触にびっくりして「ひぇ」と言葉にならない声が出た。
開いた口から人差し指が差し入れられ、舌の中心をぐいと押される。
えづきそうになって後ろに下がるけど、加原くんの指はそのまま、何かを押し入れるみたいに指先に力が入ったままだ。
やめてと言えない代わりに足をもつれさせながら後退を続けていると、背中が冷蔵庫についた。
ジーッという中のものを冷やしている電気の音がする。
もう私に逃げ場なんてないのに、加原くんは鼻先が触れそうなくらい近くまで顔を寄せてきた。
その瞳には、口を開けた間抜けな私が写っている。ひどく滑稽だ。
一度目を細めてから、加原くんはさっきまでのアンバランスな笑みが嘘みたいに、精巧に作られたお面みたいに、とても綺麗に微笑んだ。
「ここに種を植えたら、俺に味覚が芽吹くわけ。すごいよな。最後の最後まで寄生に特化してんだぜ、この花」
背中をチラリとうかがいながら説明する声は次第に温度をなくしていく。
「あ……うぇ」
舌を押さえる腕を力一杯叩いたら、やっと口から指が出ていった。咳き込む。
息が整うのを待って、言葉を選んでゆっくりと尋ねてみた。
「それは……私の味覚が一生なくなるってこと?」
「詳しくは知らないけど、そうなんじゃない? まあどうせそんなの選ばないよな。味覚がなくなったら、普段の生活は困るし、栄養士にだってなれないしな」
自嘲する加原くんは、自分の言葉で傷ついているみたいだった。
慰めたいけれど、なんて言葉をかけていいのか分からない。
だってこんな、味覚を譲るとかどうとか、そんなこと簡単に判断できないし、答えることができない。
大体私だってけっこう混乱してるんだ。
何がどうしてこんな流れになっちゃったんだろう。
ここに入ってきた時よりもよっぽど重い空気をやぶったのは、消え入るような加原くんの声だった。
「……帰る。もし譲ってくれる気になったら、屋上に来て」
それだけを言い残すと重たい足取りで出ていってしまった。
冷蔵庫に背中を預けたまま、ずるずると座りこむ。
加原くんに握られていた腕はうっすらと赤い痕になっていた。
本当なら恐怖するような場面で、その痕なんて忌まわしく思ってもおかしくないはずなのに――なぜだかひどく切なくて愛おしく感じてしまう。
変なの。
加原くんにとって私なんかどうでもいい存在で、お金を積まなきゃ相手にする価値もないんだろうなって考えていたのに。
必死に至近距離まで寄ってきて触れられたことに、今さら鼓動が激しくなる。
「光輝くん……」
下の名前をつぶやくと、まるで空きっ腹に飴玉を舐めたみたいな幸福感がじんわり全身を巡っていくのがわかった。


