「はい。オススメのやついくつか!」

 週末、僕の部屋に入るや否や飛鳥は数冊の本を取り出した。
 ローテーブルの上に並べられた小説の書き方といったハウツー本はどれも読み込まれた跡がある。お礼というわけではないけど、氷を入れた麦茶のグラスを差し出すと飛鳥はグイっと半分くらい飲み干した。七月の夏空はジリジリと貫くような日差しが支配している。一時間も外にいたら干からびてしまいそうだ。

『別にいいけど、文芸部の部室に入れるわけにもいかないし、やるなら瑛士の部屋ね』

 小説の書き方を教えてほしいと頼むと、少し考え込んだ飛鳥はそんな条件を提示した。別に断る理由はなくて、早速飛鳥が来てくれたわけだけど、僕の部屋を興味深そうに眺めている飛鳥を見ると少しソワソワしてしまう。飛鳥が僕の部屋に来るのなんて、小学生の時以来かも。

「瑛士の部屋、久々だけど変わってないね」
「あの頃より、本はだいぶ増えてると思うけど」
「それも含めて変わらないってこと!」

 飛鳥は楽しそうに僕の本棚を眺めている。特に見られて困るような本はないのだけど、どうにも落ち着かない。本棚にどんな本があるかは持ち主の人となりをよく表していると思う。日頃から本を読む人の場合は特に。本棚に興味津々の飛鳥から意識を置くべく、持ってきてくれた本を手に取ってみる。目次を眺めるとストーリーの組み方からキャラの作り方、書き方のルールまで色々あるようだ。
 読み込んでしっかり勉強したいけど、初めて書くことと〆切までの期間を考えると、ある程度のところで見切りをつけないといけなさそうだ。

「こうしなきゃいけないってルールはないから、そんなに細かく読み込まなくても大丈夫。瑛士だったら、困ったときに参考にするくらいでいいんじゃない?」

 パラパラとページ時を捲っているうちに、いつの間にか飛鳥が本棚から僕の隣に戻ってきていた。

「僕だったら?」
「だって、生きたお手本を一杯読んできてるし。それが一番大事かもってくらいだよ」

 確かに、これまで読んできた本の数なら飛鳥以上だろう。だけど、それは本を書こうと思って読んできたわけではないし、僕が書こうとしているのはこれまで読んだことの無いものだ。飛鳥と話して、見つからないなら書けばいいとは思ったものの、最初の一歩は踏み出せていない。

「楽な気持ちで書きなって! 楽しんで書くのが一番だから!」

 飛鳥が僕の肩をポンポンと叩く。その動作が懐かしい。
 同級生との関係を上手く作れずに悩む僕を、飛鳥はそうやって励ましてくれた。正直、飛鳥がいなかったら今もこうして学校に通えていたかはわからない。
 そんな飛鳥の言葉に頷いて、パラパラとめくりながらとりあえず気になったところに付箋を貼っていく。そんな僕を見てか、飛鳥も自分が持ってきた本を一冊手に取るとぱららっと捲り始めた。

「にしても、急にどうしたの? これまで書こうと思ったことなんてなかったじゃん」
「読みたい本が見つからないなら、書くしかないかなって」
「どんな話?」
「ありきたりな高校生の、ありきたりな高校生活の話」
 
 すっと息を呑む声。パラパラとページが捲れる音が止む。
 不思議に思って隣を見ると、本を捲る手を止めた飛鳥がすうっと目を細めて僕を見ていた。じいっと何かを探るような、訝しむようなそんな視線。

「それって、ルカちゃんの関係?」
「え……?」
「『普通の人達が、普通に過ごす小説』って、前にルカちゃん言ってたよね。偶然とは思えないんだけど」

 部屋に来た時とは打って変わって、飛鳥の声には険があった。
 楢崎さんが読みたい本を僕が書く。別に何も悪いことをしていないはずなのに、なんだか後ろめたい気がしてすぐに答えることができない。
 答えあぐねているうちにぐっと肩を押されて飛鳥に押し倒される。床に倒された僕に覆いかぶさるように両手をついた飛鳥の顔がすぐ前にある。ギュッと閉じてから開かれた瞳は大きく揺れていた。

「なんで。私がずっと、傍に居たのに」
「飛鳥……?」
「ズルいよっ……! 急に来て、全部持ってっちゃうなんて」

 ぽたり、と雫が頬に落ちてくる。
 そんな飛鳥の濡れた頬に手を伸ばすことも――話しかける事すら、僕はできなかった。

「瑛士は私が夢みたいなこと言い出してもバカにしないで応援してくれるし、応援って言葉だけじゃなくて困ったら助けてくれるし。私にとって小説を書くってことは、瑛士と一緒に何かを創り上げることで。すごいワクワクしたし、結果が出たら認められたみたいで凄い嬉しかった」

 知らなかった。全然わかってなかった。
 僕のためだと小説を書き始めた飛鳥には感謝していたし、飛鳥が書いた話を最初に読めるのは特権だと思ってた。
 資料探しに手伝うのは僕にできる数少ないことだと思ってた。飛鳥がどんな気持ちで小説を書いていたのか――僕は全然気づいていなかったし、気づこうともしなかった。

「私は、瑛士が好き」

 僕にとって一番傍に居てくれた人のはずなのに、僕は何も気づいてなかった。
  
「一緒にいると楽しくて。一緒に夢を見れて。ずっと一緒にいたいって、本気で思ってる」

 飛鳥の声が部屋の中で木霊する。一言ごとに言葉の重みが突き刺さる。

「本当は、私たちで書いた話が本になったときに伝えたかったの。こんな風に、伝えるつもりじゃなかった……!」

 息が苦しい。本当に僕は何も考えてなかった。
 何も考えずに小説の書き方を教えてほしいなんて飛鳥に頼んで。
 飛鳥の想いに気づかず、こんなにも追い込んでしまった。

「あのさ、瑛士。私と付き合ってくれたら小説の書き方教えてあげるって言ったら、どうする?」

 飛鳥の瞳に挑戦的な色が宿る。
 きっと、飛鳥もわかっているんだろう。
 飛鳥の告白に、こんなにも胸が痛いのは。
 
「……ごめん」

 僕が、その告白を受け止めることができないから。
 きっと、飛鳥と付き合って過ごす日々は僕には勿体ないくらい明るい世界なんだと思う。
 だけど、飛鳥の告白を聞いて思い浮かべてしまったのは、試験前のあの日、握りしめた楢崎さんの手の感触と、泣きながら笑って頷いた顔だった。
 後三ヶ月でいなくなってしまうとわかっているのに、日に日にその存在が僕の中で大きくなっている。右手で楢崎さんの手を取った僕が、左手で飛鳥の手を握りしめることはできない。
 
「ざんねん」

 一筋の涙とともにぽつりと零した飛鳥が、ふっと口元を緩めて勝気な笑みを浮かべる。

「ここで瑛士がOKしたら、『バカにすんな』ってひっぱたいてやろうと思ったのに」
「飛鳥……」

 さっと身を起こした飛鳥はそのまま立ち上がると、残った麦茶を豪快に飲み干した。
 大きく息を吐き出すと、びしっと僕に指を突きつける。

「小説の書き方教えるって話、なしで。こうなった以上、私と瑛士はライバルだから!」

 飛鳥の存在に僕は何度も救われてきた。だから、そんな恩知らずな僕は何を言われても仕方ないし──縁を切られるくらい覚悟をしていた。
 だけど、飛鳥はこんな僕のことをライバルだと言ってくれる。対等な存在だと認めてくれる。やっぱり、飛鳥は僕なんかには勿体ない人だと思う。
 
「見てなさい。ここで私を振ったこと、後悔するような小説を書いてみせるから!」

 高々と宣言した飛鳥は最後にニッと笑って僕の部屋を後にした。一人になった室内には、飛鳥が持ってきた「小説の書き方」の本が残されている。本当に、敵わない。
 本をそっと手に取ってめくる。さっきは気づかなかったけど、何度も読んだだろうページに跡が残っていた。これを辿れば、僕にも飛鳥のような小説が書けるだろうか。

「よし、やろう」

 一人の部屋で、声を出す。言い訳はなしで最後までやりきろう。
 飛鳥のライバルとして恥ずかしくないように。そして、今日この日を後悔しないために。