六月下旬になると、翌週からの期末テストに向けて図書館はいつもより少し賑わいをみせる。部活が活動休止になり、いつもほとんど人のいないテーブルのあちこちで教科書や問題集が広がる。
 そんな中、楢崎さんはカウンターに一番近い定位置でいつものように本を読んでいた。

「勉強しなくていいの?」

 この時期は「図書館では静かに」という標語には「できるだけ」という文字が付く。楢崎さんのところまで近づいて話しかけると、楢崎さんはきょとんとした顔を上げた。

「やっても、あんま意味ないしねー」

 僕の知ってる限り、楢崎さんの成績は可もなく不可もなく。あ、でも、英語の成績は良かったっけ。とにかく、単にテストの成績に重きを置いてないのかもしれないし、僕がとやかく言うことでもないのだけど、どうしても気になってしまう。
『部活、入らないんだ?』
『……入っても、あんまり意味ないしねー』
 四月、ここで出会った時に楢崎さんが口にした言葉。あのときはわからなかったけど、今回は諦めではなく、どこか達観した気配を感じた。

「今は本を読んでたいなーって。どうしても見つけたい本があるし」
「見つけたい本?」
「うん。ありきたりな私たちが、ありきたりに過ごす話」

 そう語る楢崎さんの表情は大真面目だった。唇がきゅっと結ばれ、瞳がブレることなく僕を見据えている。

「……すぐに見つけるのは、難しいんじゃないかな」

 僕も手伝うよ、みたいな耳触りのいい言葉を伝えたかった。だけど、本気の相手に無責任なことは言いたくない。

「これまで楢崎さんが読んできた以上に何も無い小説ってなると、図書館にあるとかないとかって話じゃなくて、そもそもあるのかどうか……」
「イキッチがいうならそうなのかもだけど。それでも、あと三ヶ月は頑張って探してみたい」
「三ヶ月?」

 今度の楢崎さんの声はどこか追い込まれている感じがした。急に出てきた期間を繰り返すと、楢崎さんはハッと息を呑む。揺るぎなかった瞳が戸惑うように揺れていた。
 次の瞬間、楢崎さんが弾かれたように立ち上がった。椅子が床と擦れる音で視線が僕たちに集まって、微かに胃の奥が重くなる。
 
「ね、イキッチ。ちょっと外行こうよ」
「外?」
「いつもは外にいるみんなが図書館にいるんだから、私たちは逆に外に出てみたくない?」

 逆に、と言っても試験勉強のために図書館にいるのに対して、僕たちが外に出る理由はない。だけど、楢崎さんは手早く荷物をまとめて図書館の外へと歩き出してしまう。
 その後を追いかけると、梅雨晴れした夏空の日差しが容赦なく照りつけてきた。眩しそうに手をかざした楢崎さんだったけど、そのままグラウンドの方に歩き出す。隣に並んで歩くとすぐにポロシャツに汗がにじんできた。
 楢崎さんは手をぎゅっと握りしめて無言で歩く。その視線は何かに悩むように空と地面を行ったり来たりする。
 結局、一言も話さないままグラウンドの端まで歩き、ひっそり佇むブナの木の下で立ち止まった。

「暑いね」

 なんでもない一言。だけど、楢崎さんは泣きそうな顔で笑っていた。そして、その顔を隠すようにぐいっと木陰から覗く青空を見上げる。
  
「この暑さも、もしかしたらこれで最後になるかもしれなくて」
「それって……」
「あたしの家、親が二人ともなんか土地の歴史みたいなのの研究者でさー。その土地で実際に暮らさないといけないって言ってあちこち住み歩いてるの」

 それじゃあ、部活やテストに意味がないと言っていたのは、どうせすぐに引っ越して全部やり直しになるって意味で。
 フライング気味の無邪気な蝉の声が響く。楢崎さんは初めから限られた期間しかここには居ないってわかってたんだ。

「じゃあ、三ヶ月後っていうのは……」
「また転校。笑っちゃうよねー」

 全然笑えない。楢崎さんの声だって、震えてた。
 口がからからに乾いて、うまく言葉を紡げない。

「転校って、どこに?」
「……イギリス、だって」

 くらりとしたのは暑さのせいじゃない。三ヶ月後後。僕たちはいくつもの空と海で隔てられる。その果てしなさは同じ街でずっと生きてきた僕には想像もできなかった。

「ホント、そこどこって感じ。そのせいで学校以外でも英語勉強させられたし」
「また、帰ってくるんだよね?」
「──わかんない」

 夕立の直前の空みたいに、震える楢崎さんの声が湿り気を帯びていた。

「お父さんがイギリスの大学の先生になるみたいで。もしかしたら、もうずっと向こうにいるつもりなのかも」

 湿り気を帯びた空気は重く、息が苦しい。ちらりと顔を上げた楢崎さんの視線の先の蒼空は、一体どこまで続いているんだろう。
 空にも海にも壁はないはずなのに、僕たちの間のどうしようもないほど高い壁となっている。
 
「引越しはすっかり慣れちゃって。気がついたら無意識にできるようになってたんだ、限られた期間を限られた人たちとそれなりに仲良くするの。それを繰り返してるうちに、いつの間にか大人になるんだって思ってた」
 
 今度は地面に視線を向けた楢崎さんは手を後ろで組んで足元の石を蹴り飛ばす。穴が空いたスカスカの石はぽーんと空に打ちあがって見えなくなった。石を追うように目をすっと細めた楢崎さんは、じとりと重い息を吐く。

「だから、同じ友だちと三年間同じ学校で過ごすのってあたしの憧れでさー。特別な事件も人生を変えるような出会いも起こらない普通の日常を本の中だけでも味わえたらなーって」

 ずっと同じ街にいても人と触れ合うことのできない僕と、人と触れ合う術は持っているのに同じところに留まれない楢崎さん。
 正反対の僕らだけど、みんなにとってありきたりな日が特別だってことだけは一緒だった。

「最初は、本を読めるようになったら引っ越しばかりでも寂しくないかなってだけだったけどねー。まったく、誰のせいでこうなっちゃったのかなー?」

 お茶目な口調をつくりながら潤んだ瞳で僕を見つめる楢崎さんが、どうしようもなくいじらしく見えて。だからこそ胸がズキズキと鈍い痛みを発している。
 この痛みの原因は、まだ言葉にはなっていない。言葉にしてはいけない。そうなれば、後戻りできないところまで踏み込んでしまいそうだから。
 
「別れることになるってわかってたなら、こんな風に仲良くなんてなりたくなかった」

 重荷になりたくないと、そう思った。一緒にいることができないなら、せめて楢崎さんが後ろ髪を引かれずに旅立てるように。
 だから、できる限り突き放すように言い放つ。言葉を紡ぎながら、僕の胸の奥の方がきりりと悲鳴を上げていた。 

「あたしだって、一人でも本を読めるようになったら寂しくないかなって思ってたのに。いつまでたってもイキッチなしじゃ本読んでても楽しくないし。どうしてくれるのさぁ……!」

 だけど、楢崎さんは頬を濡らしながら笑っていた。心にもない言葉に、心がこもってないことなんてあっさりと見抜かれていた。
 カウンターの近くのテーブルで楢崎さんが本を読んでる光景は、とっくに僕の中で日常になっていた。誰もいない図書館が僕にとって当たり前だったはずなのに、その光景が戻ってくることがとても怖い。
 それくらい、楢崎さんはかけがえのない存在になっていた。

「転校はもう確定なの? 楢崎さんだけこっちに残ったりは……」
「もう手続きとか色々進んでるんだって。私を住まわしてくれるような親戚とかもいないし、ね」

 僕が思いつくことなど、楢崎さんはとっくに何度も考えてきたんだろう。
 僕たちには、まだ変えることができないものが多すぎて。 
 だから、僕がせめてできることは──踏み出せ、と臆病な自分に命じる。小さく息を吸って、固く握りしめられたままの楢崎さんの手を取った。パッと目を見開いた楢崎さんに、精一杯の笑みを浮かべてみせる。
 
「絶対見つけるから。みんなにとってはありきたりで、楢崎さんにとって大切な物語を」
 
 楢崎さんの瞳から堰を切ったように雫が溢れだす。こくりと頷く楢崎さんの顔は涙でぐしゃぐしゃだったけど、目が離せないくらい眩しかった。