「ねー、イキッチー」

 六月のはじめ、しとしとと降る雨も図書館の中では関係なく──お馴染みの顔しかないのも相変わらず──読み終えた本をパタリと閉じた楢崎さんが顔を上げた。

「普通の人達が、普通に過ごす小説ってないのかなー?」

 記憶を巡らせば思い当たる節がないわけではない。ただ、基本的には登場人物や背景に一癖があったり、読者をあっと言わせるどんでん返しが仕込まれているものが多い。本当に何でもない人たちの何でもない日常を描いた作品というのはどれだけあるだろうか。

「公募とかコンテストだと、『編集部がまだ見たこともない作品』みたいな謳い文句が結構よくあってね」

 僕より先に口を開いたのは、新しい資料を探しに来ていた飛鳥だった。今は大型船の構造や船員の役割についての文献を楢崎さんがいるのとは別のテーブルの上に広げている。
 楢崎さんが来るようになってから、飛鳥も資料を読み込むときは図書館に来ることが増えた。一人じゃない方がきやすいのか、あるいは図書館は本を読む場所だってことを再認識したのかも。
 
「誰でも書ける作品とか、誰かが書いたような作品ってあまり評価されないのかなって。だから、少なくともデビュー目指してる人とか、そういう人の一作目だと奇抜な設定が目立つんじゃない?」
「なるほどねー。さすがアスカ」
「それに、山谷少ない日常の話で面白いって思ってもらうのって大変だから。誰でも書けるけど、誰も書こうと思わないくらい難しいのかな……なんて」

 そこまで語った飛鳥はどこか照れくさそうに資料に目を落とした。 
 絵や音楽、声優といった要素のあるマンガやアニメと違い、小説にあるのは基本的に文字だけだ。日常の中の非日常を描いたとしても、それで読者を惹きつけるというのは難しいのかも。

「誰でも書けるお話、かあ……」

 独りごちる楢崎さんはぼんやりと雨模様の窓の外に視線を向ける。わかったけどわからないといった感じの表情。
 求める本が見つからないせいか、最近の楢崎さんは時折物憂げに外を見ていることがある。
『私はありきたりなハッピーエンドも嫌いじゃないかなって!』
 二ヶ月前、初めて本を読み終えた楢崎さんの言葉が今も頭に残っている。
 何となく、楢崎さんには探し求めている本がある気がする。そして、僕はまだその本を見つけられていない。スタンダードな展開の王道的な青春物を読んでもらったこともあるけど、めぼしい反応はなかった。
 楢崎さんの言う『ありきたり』は僕らが思うものとは多分少し違っていて。これだ、と思うような小説はそう簡単には見つからないだろう。

「イキッチ、どうしたの? あたしのことじっと見ちゃって」

 いつの間にか楢崎さんの顔は外から僕の方に向いていて、ドキリとした弾みでカウンターに膝をぶつけてしまう。
 ぶはっと吹き出した楢崎さんはそのままにへらっと笑みを浮かべ、読書を中断された飛鳥からはジトッとした視線が飛んでくる。

「雨、やまないなって外見てただけだから」
「ホントにー? 誤魔化さなくたってあたし怒らないよー?」
「こんなところで嘘つかないよ」

 楽しそうにニヤニヤしている楢崎さんから逃げるように手元の原稿に視線を下ろす。飛鳥の小説も全体がだいぶ仕上がってきて、原稿も厚みが増していた。
 まあ、ゆっくりと見つけていけばいいのかもしれない。受験が近づいたらのんびり図書館ってわけにもいかないだろうけど、あと一年間くらいある。
 それに、その先。僕らが同じ学校じゃなくなっまとしても、本を通じて繋がることだってできるかもしれない。