「やっほー、イキッチ」

 飛鳥から原稿を受け取った日の放課後、図書館のカウンターの中で目を通していると手をヒラヒラと振りながら楢崎さんが入ってきた。通学用の鞄を手に持っているし、帰りがけに立ち寄った感じだろうか。

「もしかして、もう読み終わった?」
「ううん、まだ半分くらい」

 そう答えた楢崎さんはカウンターではなく、カウンターに一番近いテーブルに腰掛けると、鞄からピンク色の表紙の小説を取り出した。その半分くらいのところに青色の栞が挟まっている。
 
「ここで読んでいい?」
「それはもちろん、いいけど……」
 
 図書館で本を読むことを止める理由はどこにもない。どこにもないけど、どうして急に図書館で読もうとしたんだろう。
 楢崎さんは僕の答えを聞くと早速本を読み始めてしまい、尋ねるタイミングを見失う。わざわざ読んでいるところを邪魔してまで聞くようなことでもないし、一つ息をついて手元の原稿に視線を落とした。
 物語はヒロインがロンドンにある航空博物館に訪れるところから始まる。そういえばこの前の年末、飛鳥は家族とイギリス旅行に行ってたんだっけ。そこで着想を得てきた話なのかもしれない。ヒロインは博物館で地元の少年や留学中の日本人大学生などと出会いを繰り広げていく。
 一通り登場人物が出そろい、物語が拡がり始めたところで原稿は終わっていた。この先どんな展開になるのか予想がつかないし、わざわざ航空博物館を物語の起点にしたからには飛行機も重要な役割を果たすのだろう。初校ということで細かな粗はあったけど、続きが気になる物語だった。

「あ……」

 一気に読み終えて顔を上げると、いつの間にか楢崎さんが両肘をテーブルについて掌に顎を乗せ、じっとこっちを見ていた。

「えっと、ごめん。また呼びかけに気づかなかったりした?」
「え、違う違う。何か読んでるときのイキッチ、いい顔してるなって」
「……そうかな?」
「そうそう。教室いる時よりも活き活きしてるって絶対」

 楢崎さんが何か言いたそうに口を開けては閉じることを何度か繰り返す。教室でも図書館でもいつも笑っていた顔がいまはどこかしょんぼりとして見えた。やがて、意を決したようにきゅっと口を結ぶ。
 
「ごめんね」
「えっと?」
「昼休み、急に手振ったりして」 

 パチンと両手を合わせた楢崎さんが本当に申し訳なさそうな顔をしてペコリと頭を下げる。
 昼休み、楢崎さんが僕に手を振ってからの一部始終。楢崎さんが全部見てただろうことは予鈴が鳴った時の視線で気づいていたけど、僕からそれを口にするつもりはなかった。でも、それで楢崎さんが罪悪感を覚えたりするのも違うと思う。
 
「いや、気にしないで。僕の方が変なだけだから」
「変って、そんなつもりじゃっ」
「人見知りって言葉で合ってるのかわからないけど、昔から視線が集まるのが気分悪くなるくらい苦手で。成長すれば僕もみんなみたいに普通に話せるようになると思ってたけど、変わらなくて」

 手元の原稿と、その脇に積み上げられた本を見る。これまで読んできた本の厚さは、それがそのまま僕が誰かと向き合うことから逃げてきた時間だった。

「昔はみんなと話せるように頑張ってた頃もあったけど、全然だめで。いつからか諦めて、ずっと本を読むようになってた。初めはただ本が好きだったはずなのに、今は僕にとっては手放せない盾みたいなもので」

 小学生の頃は周りの人たちが僕に合わせてくれていた。中学生になって周りの人が変わって、どうにか合わせようとしているうちに何度も体調を崩した。
 だから、頑張ることを辞めた。本好きの変わった奴とか、ネクラとか。そういう風に格付けされて、僕に話しかけてくる人が減ればいいと思ってた。本を人との壁にして、その世界に逃げ込んだ。

「楢崎さんはいい顔してるって言ってくれたけど、僕にはそこしか居場所がないだけなんだ。だから、楢崎さんは凄いと思う。すぐにみんなと仲良くなって、それに、新しいことにもチャレンジしたり」

 新しいことを始めるのは、エネルギーがいることだと思う。何かを人に聞くことって、勇気がいることだと思う。
 だから、新しい場所で新しい人間関係を作って、新しいことをはじめようとしている楢崎さんは、凄いと思う。
 
「すごくなんてないよ。本を読みたいって思ったのも、それなら一人でもできるかなって思っただけだし。あたしは、自分が苦手な事を苦手だって言えるイキッチがカッコイイって思っちゃう。あ、そーだ」

 席を立った楢崎さんはとととっとカウンターまで駆け寄ってきて、グイっと身を乗り出してきた。
 
「ね、視線が集まるのが苦手ってことは、今こうして話してる分には大丈夫なんだよね?」
「ま、まあ、一応」

 不意打ちのように顔を寄せられてドギマギしてしまっているけど、昼休みみたいな不快な感じではない。僕の答えに楢崎さんはニッと頬を持ち上げた。

「じゃあさ、あたし、今日から放課後はここで本を読む。いいでしょ?」
「いい、けど。なんで?」

 図書館で本を読むのを僕がどうこう言えることじゃないけど、本ならどこでも読める。僕は普段閲覧できない本を引っ張り出して来て読んだりしてるのと、時々飛鳥が資料を探しに来るから図書館にいるだけで。実際、先週の楢崎さんは家とかで読んでいたはずだ。
 
「本なら一人で楽しめるって思ってたけど、週末にこれ読んでるときに考えてたのって、イキッチに早く感想話したいなーってことで。それに、次に何読めばいいかもわからないし。そんな感じでまだ一人だけじゃ楽しめないから、しばらくはイキッチに手伝ってほしいなーって」

 どう、と首を傾げてくる楢崎さんに、すぐには答えることができなかった。僕はただ楢崎さんにお勧めできそうな本を紹介しただけで、それ以上の特別なことをしたわけじゃない。だから、楢崎さんの言葉の意味がピンとこない。だけど、そうやって考えている間に楢崎さんは「どう?」ともう一段階身を乗り出してくる。その顔がすぐ目の前に迫っていた。

「僕でいいなら、いいけど」

 なんか逃げ腰な回答になってしまったけど、楢崎さんは身を起こして「うしっ!」と手元でガッツポーズをつくった。なんでそんな風に無邪気に笑うんだろう。ぐるぐるとした思考は堂々巡りで答えに辿り着けそうにない。

「じゃさ! さっきからそれ、凄い気になってたんだけど」
「これ?」

 楢崎さんが指さしたのは僕の手元の原稿。飛鳥が書いた初稿だった。

「イキッチ、凄いいい顔で読んでたから。そんなに面白いの?」
「面白い、けど。うーん。これは……」

 僕に対して渡してくれた未公開の原稿を見せてしまうのは気が引けるし、飛鳥に対して不義理な気がした。
 でも、瞳をきらきらと輝かせている楢崎さんの想いも無下にはできない。どうすればいいかな、と視線を彷徨わせると、カウンターの影に置いていたスマホが目に入った。

「これは難しいけど、代わりに──」