「イキッチーっ!」

 楢崎さんの本を選んでから数日、金曜日の図書館に楢崎さんの声が響いた。楢崎さんがカウンターに駆け込んでくるとゴツンと鈍い音がする。膝を打ったらしい楢崎さんが涙目になっていた。
 
「図書館ではお静かに」
「わ、ごめん。でもでもっ、我慢できないって!」

 楢崎さんが両手で大事そうに抱えていた文庫本を突き出してくる。もちろん、この前貸した短編集だった。

「あんなに仲のよかった二人が別れなきゃいけないなんてー! 悲しすぎるじゃんよー……」

 楢崎さんが話しているのは短編集の最後に収められている表題作のことだった。爽やかなタッチで描かれる青春恋愛かと思いきや、主人公は演劇という自分の夢と家族、ヒロインとの間で悩み、最後には自分の夢を選んで旅立っていく。短編とは思えないほどの練り込まれた重厚なストーリーが魅力の作品だった。

「あー、もう。表紙見てたら、思い出してまた……うぐっ、ひぐっ」
 
 作品を知らなければただ爽やかな印象の表紙を彩る蒼は、主人公とヒロインを別つ空と海であるとともにヒロインが流す涙も表しているらしい。その本を握る楢崎さんの手にギュッと力がこもる。その瞳は仄かに潤んで見えた。

「ねえ、イキッチ。この二人、このあと幸せになるんだよね……?」
「残念だけど、続きを書いた作品はないんだ」

 作品は二人が再会を誓いつつ別れたところで終わる。続編を望む声は多いらしいけど、僕はこの作品はここで終わっているからこそいいと思う。

「だから、続きは楢崎さんが自由に描いていいんだよ」

 やがて二人が再会するのか、あるいはそれぞれの道で頑張っていくのか、僕たちは自由に思いを巡らすことができる。こうなってほしい、きっとこうなるはずだ。読んだ人それぞれの希望を引き出すところまでを含めて、この作品は完結する。

「自由に、描く……」
「あ、ごめん。なんか、カッコつけすぎたかも」
「ううん。そっか、自由に考えていいんだー……。いいね、うん。めっちゃいい!」

 楢崎さんの瞳がきらりと光って見えたのは、溜まった涙と明かりの関係なのかもしれない。だけど、その笑顔は確かに眩しくて、その表情に目を奪われる。時が止まってしまったみたいに顔を動かすことができない。

「ん、イキッチ、どうかした?」
「あ、いや。その話が気に入ったなら、同じ作者の長編がいくつかあるよ」
「え、ほんと! めっちゃ気になる!」

 楢崎さんの声で我に返って、時計の針が動き出す。なるべく楢崎さんを見ないようにしながらカウンターを出て、この前と同じく小説コーナーに向かう。短編集の表題作を書いた作者の作品はいくつかあるけど、表題作が気に入ったならこの前出たばかりのやつが合うかも。

「今度の表紙はピンクだね」

 楢崎さんに渡した本は桜の舞い散る木の下で笑い合う主人公とヒロインが描かれている。

「あ、でも。これも幸せそうな瞬間に見えて実は……ってやつ?」
「さあ、今度はどうでしょう?」
「えっ、なにそれー! 教えてよー! あ、いや、やっぱ教えなくていい!」

 貸出カウンターに向かう間、楢崎さんは賑やかに物語の展開を予想していた。これまで全然本を読まなかったとは思えないくらいのめり込んでる。読書なんてありふれた行為のはずなのに、なんだか秘密の仲間を見つけたみたいな感じ。
 この前と同じように手続きをして新しい本を渡す。楢崎さんは手元の本と、返却した短編集を何度か見比べてから、今度は僕の顔を覗き込む。
 
「えっと?」
「イキッチはさ。あの二人が別れた後、どうなったと思う?」

 さっきの短編集の話だと気づくのに、少し時間が掛かった。僕は会話の流れを汲むのがうまくない。
 それはさておき、物語の続き。カウンターの上に置かれた蒼い短編集の表紙をじっと見てみる。その先が気になる終わり方だっただけに、僕もいくつかのパターンを考えたことがあるけど、その中でも一番しっくりくるのは。

「二人は多分それぞれ自分の道を進んだんだろうなって。主人公の夢にかける想いは本物だったし、悩みに悩んで選んだ結論だから。それに、大人になって再会っていうのもちょっとありきたりかもだし」

 この作者は読者があっと驚くような設定を用意して、さらにそこから予想を裏切る展開を積み上げる名手だった。仮に将来の話が書かれるとして、大人になった二人が再会してハッピーエンドみたいな展開にはしないだろうと思う。
 顔を上げると、楢崎さんと目が合った。その瞳はすうっと吸い込まれてしまいそうになるほど透き通っていた。でもそれは笑顔じゃなくて、表情までもが透明で。

「ふうん。イキッチが言うなら、それが正解なのかなー」
「あ、いや。正解とかは……」

 僕が言い終わるより前に、新しく借りた本を抱きしめた楢崎さんはパタパタと図書館の出口の方に駆け出した。
 正解なんてない。たったその一言が続けられない。無表情から薄らと感じた失望。もう一度それを向けられるのが怖かった。
 だけど、楢崎さんの方が途中で足を止めて、くるりと振り返る。

「でも、私はありきたりなハッピーエンドも嫌いじゃないかなって!」

 にっと笑った楢崎さんは目元にブイサインを当てて、ぱっと身を翻すとそのまま走っていった。
 ありきたりなハッピーエンド、か。考えたこともなかった。
 いつの間にか、小説の最後には誰もが驚くような結末が待ち受けているのだと、そんな固定観念に縛られていたのかもしれない。
 もう一度、読んでみようか。楢崎さんが返却して置いていった短編集をそっと手に取ってみる。