「よ、よし。じゃあ、開くよ」
九月末、図書館のカウンターでスマホの画面を楢崎さんと二人で見つめる。
八月のどうにか書き上げた僕の初めての小説「冴えない日々の磨き方」を送ったコンテストの結果発表が今日だった。
大賞になれば、書籍化。そうすれば、楢崎さんの夢をかなえることができる。間もなくイギリスへと旅立ってしまう楢崎さんと僕にとって最初で最後のチャンスだ。
震える指で結果発表のページをタップして、恐る恐るスライドさせる。
「っあー。ダメかぁ……」
大賞として一番上に掲載されていたのは僕の作品ではなかった。そんなに甘くないことはわかっていたけど、二ヶ月近く全力で書き続けたから、もしかしたらという思いがあった。大賞作品の講評には「意外な着眼点」、「予想外の展開」、「衝撃のラスト」といったフレーズとともに絶賛されている。
これはこれでいつか作品化されたら読もうと思いながら、ページをスライドさせる。一次審査を通過した作品には講評がつくってことだったし、自分の作品がどの程度認められたかは知りたかった。
「あ、この最終選考のところにあるの、アスカの作品じゃない?」
楢崎さんの言葉に指を止める。確かに、最終選考に残った作品の中に飛鳥のペンネームが載っていた。今頃飛鳥は文芸部の部室で悔しがってるのかもしれないけど、自分も書いてみて改めてそのすごさを実感する。本命で春から書いていた長編は結果発表がまだだし、もしかしたらもしかするのかも。
再びページをスライドさせていくけど、二次審査通過作品のところにも僕の作品は載っていなかった。箸にも棒にもかからなかったのか、そもそもきちんと申し込むことさえできていなかったのか。
「あっ! 今っ! 今ちらっと見えた!」
諦めかけたところで響いた楢崎さんの声に指を止め、急いでページを遡る。一次審査通過作品の下の方に「冴えない日々の磨き方」という僕の作品が載っていた。そこには大賞作品の五分の一くらいの長さの選評が添えられている。
『筆者の教養の高さ、よく本を読んでいることが分かる作品だった。ただ、それだけであり、展開や登場人物に見るところがなかったのが残念』
容赦ない。けど、的確なコメントだと思う。強張っていた肩や背中からがくりと力が抜ける。ないなら書けばいい、なんて言うのは簡単だけど、それが世の中に受け入れられるかはまた別の話だ。
「楢崎さん、ごめん。約束、守れなかった」
試験前のあの日、みんなにとってありきたりで、楢崎さんにとって特別な話を見つけると約束した。
結局、手元に残ったのはつまらないと切り捨てられた原稿だけだ。もっといい選択肢があったんじゃないかと、胸の奥が苦しくなる。せめて、執筆に当てていた時間を楢崎さんの思い出の為にもっと有意義に使えたんじゃないか。
視界が滲む。約束を破ったのは僕の方なのに、僕が泣くなんて最低だ。だけど、胸の奥から這い上がってきた無力さが、無念さがガンガンと頭を揺らし続ける。
「ね、イキッチ。それ、あたしにくれない?」
楢崎さんが指さしたのは、カウンターの脇に積んでいた推敲用の原稿だった。最後の最後まであれこれ直していたから、用紙には無数の書き込みが残っている。書籍でもなければ綺麗でもない紙の束。
原稿を渡すと、楢崎さんは大事そうに一枚目に書かれたタイトルの文字を撫でる。コンテストからすれば数ある中編小説の一つに過ぎなかったわけだけど、僕にとっては楢崎さんとの半年分の思い出が詰まった作品だ。
「やっぱりあたし、大好きだよ」
「一応、楢崎さんの希望に沿って書けたとは思うから……」
原稿から僕へと視線を移した楢崎さんは一瞬きょとんとしてから、くすりと笑みをこぼす。
「違うってば、もー。あたしが言ってるのはイキッチのこと!」
楢崎さんが座ったままの僕に正面から飛び込んでくる。背中に回された手がぎゅっと僕を引き寄せる。
「今までさ、どうせすぐに引っ越すからってそれなりに上手く人と付き合ってきて。でも、やっぱりそれだと本気で寄り添ってくれる人っていないっていうか」
耳元で響く楢崎さんの声はどこか自嘲気味で、痛みが伴っていて。その手が一瞬強張って、吐き出された息とともに力が抜ける。
「だから、イキッチが本気で私が読みたい本を探そうとしてくれて、見つからないなら書くために夏休み全部つぎ込んでくれて。アスカが夢中になるのもわかっちゃうよねーって」
「えと、飛鳥のこと……」
「何も聞いてないけど、見てたらわかるよー。気づいてなかったのはイキッチくらいじゃない?」
イタズラっぽく笑う楢崎さんだったけど、実際に気づいていなかった僕としては黙って頷くしかない。
「ほんとは、わかってるんだ。あと少しでいなくなっちゃうあたしより、イキッチはアスカと一緒にいた方が幸せになれるって。でも、イキッチと本を読む時間が凄い楽しくて。それに、お祭りでイキッチが言ってくれたことが凄い刺さって」
「お祭りで?」
「『今日のことは、僕たちだけの秘密にしたい』って。これまで誰かと秘密と共有したことなんてなかったから、そっか、あの景色はあたしたちだけのものなんだって思ったら、嬉しくて、苦しくて、幸せで、切なくて。あー、あたし、どうしようもないくらいイキッチのこと好きなんだなって」
ぎゅうっと楢崎さんの腕に力が込められて、僕もようやく楢崎さんの背中にそっと腕を回す。
「最初は変わった人だと思ってたけど、楢崎さんは本を読むしかない僕を認めてくれて。気がついた時には、本を読んでる楢崎さんが傍に居るのが日常になってた」
今まで、本は一人で読むものだった。楢崎さんは僕なしでも本を読めるように頑張っていたけど、その時間が深まる程、楢崎さんと本を読むことが当たり前の景色になっていった。
「だから、いつまでだって待ってる。そんな日常が帰ってくる日を」
「ホントにいいの? いつになるかわからないし、イキッチの傍にはアスカもいるのに」
「もう決めたんだ。それに、今更飛鳥のところに行ったらひっぱたかれちゃうよ」
ぷはっと吹き出した楢崎さんにつられて僕も笑う。
それから、すんと楢崎さんが鼻を鳴らす。その頬がそっと僕に寄せられる。その温もりを忘れてしまわないように、僕は腕に力を込めた。
「実はね。ちょっとだけイキッチの作品が大賞に選ばれなくて良かったって思ってるの」
「え、どうして?」
「だって、世界であたしたちだけしか知らないお話って、凄い素敵でしょ?」
腕を解いて立ち上がった楢崎さんは真っ赤な瞳を一度拭うと笑顔を浮かべて僕に手を差し出す。
その手を取って立ち上がると、そのままぐいっと引き寄せられる。ぶつかる、と思った瞬間、楢崎さんはゆっくりと瞳を閉じた。
「だから、最後にもう一つだけ。あたしたちだけの秘密を──」
ありきたりじゃない僕たちは、最後のお別れに普通の恋人みたいなキスをした──
九月末、図書館のカウンターでスマホの画面を楢崎さんと二人で見つめる。
八月のどうにか書き上げた僕の初めての小説「冴えない日々の磨き方」を送ったコンテストの結果発表が今日だった。
大賞になれば、書籍化。そうすれば、楢崎さんの夢をかなえることができる。間もなくイギリスへと旅立ってしまう楢崎さんと僕にとって最初で最後のチャンスだ。
震える指で結果発表のページをタップして、恐る恐るスライドさせる。
「っあー。ダメかぁ……」
大賞として一番上に掲載されていたのは僕の作品ではなかった。そんなに甘くないことはわかっていたけど、二ヶ月近く全力で書き続けたから、もしかしたらという思いがあった。大賞作品の講評には「意外な着眼点」、「予想外の展開」、「衝撃のラスト」といったフレーズとともに絶賛されている。
これはこれでいつか作品化されたら読もうと思いながら、ページをスライドさせる。一次審査を通過した作品には講評がつくってことだったし、自分の作品がどの程度認められたかは知りたかった。
「あ、この最終選考のところにあるの、アスカの作品じゃない?」
楢崎さんの言葉に指を止める。確かに、最終選考に残った作品の中に飛鳥のペンネームが載っていた。今頃飛鳥は文芸部の部室で悔しがってるのかもしれないけど、自分も書いてみて改めてそのすごさを実感する。本命で春から書いていた長編は結果発表がまだだし、もしかしたらもしかするのかも。
再びページをスライドさせていくけど、二次審査通過作品のところにも僕の作品は載っていなかった。箸にも棒にもかからなかったのか、そもそもきちんと申し込むことさえできていなかったのか。
「あっ! 今っ! 今ちらっと見えた!」
諦めかけたところで響いた楢崎さんの声に指を止め、急いでページを遡る。一次審査通過作品の下の方に「冴えない日々の磨き方」という僕の作品が載っていた。そこには大賞作品の五分の一くらいの長さの選評が添えられている。
『筆者の教養の高さ、よく本を読んでいることが分かる作品だった。ただ、それだけであり、展開や登場人物に見るところがなかったのが残念』
容赦ない。けど、的確なコメントだと思う。強張っていた肩や背中からがくりと力が抜ける。ないなら書けばいい、なんて言うのは簡単だけど、それが世の中に受け入れられるかはまた別の話だ。
「楢崎さん、ごめん。約束、守れなかった」
試験前のあの日、みんなにとってありきたりで、楢崎さんにとって特別な話を見つけると約束した。
結局、手元に残ったのはつまらないと切り捨てられた原稿だけだ。もっといい選択肢があったんじゃないかと、胸の奥が苦しくなる。せめて、執筆に当てていた時間を楢崎さんの思い出の為にもっと有意義に使えたんじゃないか。
視界が滲む。約束を破ったのは僕の方なのに、僕が泣くなんて最低だ。だけど、胸の奥から這い上がってきた無力さが、無念さがガンガンと頭を揺らし続ける。
「ね、イキッチ。それ、あたしにくれない?」
楢崎さんが指さしたのは、カウンターの脇に積んでいた推敲用の原稿だった。最後の最後まであれこれ直していたから、用紙には無数の書き込みが残っている。書籍でもなければ綺麗でもない紙の束。
原稿を渡すと、楢崎さんは大事そうに一枚目に書かれたタイトルの文字を撫でる。コンテストからすれば数ある中編小説の一つに過ぎなかったわけだけど、僕にとっては楢崎さんとの半年分の思い出が詰まった作品だ。
「やっぱりあたし、大好きだよ」
「一応、楢崎さんの希望に沿って書けたとは思うから……」
原稿から僕へと視線を移した楢崎さんは一瞬きょとんとしてから、くすりと笑みをこぼす。
「違うってば、もー。あたしが言ってるのはイキッチのこと!」
楢崎さんが座ったままの僕に正面から飛び込んでくる。背中に回された手がぎゅっと僕を引き寄せる。
「今までさ、どうせすぐに引っ越すからってそれなりに上手く人と付き合ってきて。でも、やっぱりそれだと本気で寄り添ってくれる人っていないっていうか」
耳元で響く楢崎さんの声はどこか自嘲気味で、痛みが伴っていて。その手が一瞬強張って、吐き出された息とともに力が抜ける。
「だから、イキッチが本気で私が読みたい本を探そうとしてくれて、見つからないなら書くために夏休み全部つぎ込んでくれて。アスカが夢中になるのもわかっちゃうよねーって」
「えと、飛鳥のこと……」
「何も聞いてないけど、見てたらわかるよー。気づいてなかったのはイキッチくらいじゃない?」
イタズラっぽく笑う楢崎さんだったけど、実際に気づいていなかった僕としては黙って頷くしかない。
「ほんとは、わかってるんだ。あと少しでいなくなっちゃうあたしより、イキッチはアスカと一緒にいた方が幸せになれるって。でも、イキッチと本を読む時間が凄い楽しくて。それに、お祭りでイキッチが言ってくれたことが凄い刺さって」
「お祭りで?」
「『今日のことは、僕たちだけの秘密にしたい』って。これまで誰かと秘密と共有したことなんてなかったから、そっか、あの景色はあたしたちだけのものなんだって思ったら、嬉しくて、苦しくて、幸せで、切なくて。あー、あたし、どうしようもないくらいイキッチのこと好きなんだなって」
ぎゅうっと楢崎さんの腕に力が込められて、僕もようやく楢崎さんの背中にそっと腕を回す。
「最初は変わった人だと思ってたけど、楢崎さんは本を読むしかない僕を認めてくれて。気がついた時には、本を読んでる楢崎さんが傍に居るのが日常になってた」
今まで、本は一人で読むものだった。楢崎さんは僕なしでも本を読めるように頑張っていたけど、その時間が深まる程、楢崎さんと本を読むことが当たり前の景色になっていった。
「だから、いつまでだって待ってる。そんな日常が帰ってくる日を」
「ホントにいいの? いつになるかわからないし、イキッチの傍にはアスカもいるのに」
「もう決めたんだ。それに、今更飛鳥のところに行ったらひっぱたかれちゃうよ」
ぷはっと吹き出した楢崎さんにつられて僕も笑う。
それから、すんと楢崎さんが鼻を鳴らす。その頬がそっと僕に寄せられる。その温もりを忘れてしまわないように、僕は腕に力を込めた。
「実はね。ちょっとだけイキッチの作品が大賞に選ばれなくて良かったって思ってるの」
「え、どうして?」
「だって、世界であたしたちだけしか知らないお話って、凄い素敵でしょ?」
腕を解いて立ち上がった楢崎さんは真っ赤な瞳を一度拭うと笑顔を浮かべて僕に手を差し出す。
その手を取って立ち上がると、そのままぐいっと引き寄せられる。ぶつかる、と思った瞬間、楢崎さんはゆっくりと瞳を閉じた。
「だから、最後にもう一つだけ。あたしたちだけの秘密を──」
ありきたりじゃない僕たちは、最後のお別れに普通の恋人みたいなキスをした──



