「イキッチー! こっちこっち!」
午後六時。バスから降りると、人波の向こうからスピーカーから流れる祭囃子とともに楢崎さんの声が聞こえてきた。ぴょんぴょんと跳ねているのか、声の方からは指先がちょんちょんと見え隠れしている。隙間を縫ってそちらに進むと、目の前に現れたのは浴衣姿の楢崎さんだった。薄い水色の生地に青い朝顔があしらわれた浴衣は楢崎さんを華やかに彩っている。
「あれー。じっと見ちゃって、どしたの?」
楢崎さんはちょっと照れくさそうにしながらもニコニコと距離を詰めてくる。そういえば、夏休み中も図書館に来るときは制服だったから、制服以外の楢崎さんって初めて見る。小首をかしげる楢崎さんに視線が吸い寄せられる。確信犯じゃん、こんなの。
「えっと、すごい似合ってる」
どうにかその言葉を伝えると、楢崎さんはその顔にも花を咲かせる。
そのままぱっと僕の手を取ると、屋台が連なる通りの方へと僕の手を引いて歩き出した。大勢の人がいるはずなのに周りの人は全然視界に入らなくて、宵闇に照らされて蒼く浮かぶ朝顔しか見えなかった。
「わわっ、楢崎さん?」
「ほら、時間は有限だよ。行こっ。イキッチ!」
僕たちは普通の高校生活を体験するために夏祭りに来たはずなのに、こんなの全然普通じゃない。
ドキドキとうるさい心臓の音に蓋をしながら、楢崎さんに手を引かれるまま屋台を巡る。紐を引くタイプのくじ引きに自信満々で挑戦した楢崎さんが一番小さなポケットティッシュを引き当てたり、射的で一個も景品を落とせなかった僕の代わりに挑んだ楢崎さんが最後の一発でキャラメルの箱を落としたり。
「あっ、あれおいしそう!」
いい香りがするたびに楢崎さんは屋台に向かって突進していくから、いつの間にか僕らの両手は綿あめやたこ焼き、フランクフルトといった食べ物でいっぱいになった。ご機嫌な様子でりんご飴を舐める楢崎さんに思わず見とれてしまって、それがバレて「りんご飴がおいしそうだった」なんて言い訳をしたら、ニヤリと笑った楢崎さんがりんご飴をスッと差し出してきたり。
「どう。小説のネタになりそう?」
「えっと、これって普通の高校生の日々に入れちゃっていいのかな?」
「なるほどー。まだ足りないと」
「そういうわけじゃ、って、楢崎さん!?」
何故か嬉しそうにぴょんと跳ねた楢崎さんはタタタっと走って行ってくるりと振り返り、片目に指を当てて、んべっと舌を出す。
「ほら、いっぱい思い出──じゃないや、ネタ探さないと!」
ああ、そうだ。楢崎さんにとっては、次にいつこんな夏祭りに来られるかわからないんだ。
小さく息を吸って、楢崎さんの後を追う。手招きする楢崎さんに導かれて、祭囃子の音が遠くに聞こえた。
普通の高校生活とか、小説のネタとか、今この瞬間はどうでも良くて。
今夜は、楢崎さんが精一杯の思い出を作れるように頑張ろう──と思ったのだけど。
「イキッチ、大丈夫。顔色悪いよ?」
三十分ほどたった頃、楢崎さんが心配そうに僕の顔を覗き込む。歩きまわって疲れたとはまた違う感じ。その原因はわかってる。
「大丈夫。ちょっとした人酔いみたいな感じだから……」
楢崎さんが全面に立ってくれていたからあまり気になっていなかったけど、人が多いところとか、人の視線が集まるような場所は苦手だった。流石にあちこち巡り続けているうちに、許容量を超えてしまったらしい。頭が重く、肩の辺りが鈍い痛みを発していた。
「全然大丈夫に見えないって! 一杯楽しんだし、今日はもう帰ろ──」
バス停の方に向かって僕の手を引こうとする楢崎さんの手を僕の方へと引き返す。
「大丈夫。ちょっと人の少ないところで休めば、よくなるから」
「でも……」
「境内の方なら、そんなに人は多くないと思う。っとと」
入口とは反対に奥の方へと歩き出そうとして、ふらついてしまう。
さっと楢崎さんが隣に並んで支えてくれる。楢崎さんの為に、なんて思ってたのに情けない。
楢崎さんは迷うように通りの奥と手前を交互に見て、僕の手を引いて境内の方へと導いた。
思った通り境内に向かうにつれて人はまばらになっていって、本殿に続く大きく長い階段の途中で楢崎さんと少し隙間を空けて腰を下ろす。
ゆっくりと深呼吸すると、夏の夜のしっとりとした空気が胸いっぱいに入り込んできて少し落ち着いた。
「ごめん。せっかくのお祭りだったのに」
「ううん、すっごい楽しかった。憧れだったんだー、こんな風に誰かとお祭りを巡るの」
ぎゅっと膝を抱えた楢崎さんが眩しそうに屋台の方を眺める。夜に沈んだ街並みで屋台の列が夜空に浮かぶ天の川のように賑やかに明るい。楽しかった。またこうやって楢崎さんと出かけてみたい。だけど、タイムリミットは着々と迫っている。
天の川に引き裂かれても、一年に一度は会える織姫と牽牛の方が恵まれて見えてしまう。
「イキッチはどう? 小説に書けそうな話は見つかった?」
「えっと。今日のことは、小説には書かないと思う」
「えー、なんで?」
覗き込んでくる楢崎さんの視線から逃げるように顔を逸らす。
「今日のことは、僕たちだけの秘密にしたいな、って」
すっと息を呑む音が聞こえてきた。さっきまでとは違う理由で顔が熱い。楢崎さんの顔を見ることができない。
恥ずかしさと不安。小説のネタの為にとやってきたのに、気持ちわるいとか思われたかもしれない。
少しだけ間があって、右肩に温もりと重みを感じる。半人分の隙間を埋めた楢崎さんと触れているところがどうしようもないくらいに熱を発していた。
「いいねっ、それ」
右耳を楢崎さんの声がくすぐる。
「それなら今日はもうちょっとだけ。このまま、あたしたちだけの思い出を」
午後六時。バスから降りると、人波の向こうからスピーカーから流れる祭囃子とともに楢崎さんの声が聞こえてきた。ぴょんぴょんと跳ねているのか、声の方からは指先がちょんちょんと見え隠れしている。隙間を縫ってそちらに進むと、目の前に現れたのは浴衣姿の楢崎さんだった。薄い水色の生地に青い朝顔があしらわれた浴衣は楢崎さんを華やかに彩っている。
「あれー。じっと見ちゃって、どしたの?」
楢崎さんはちょっと照れくさそうにしながらもニコニコと距離を詰めてくる。そういえば、夏休み中も図書館に来るときは制服だったから、制服以外の楢崎さんって初めて見る。小首をかしげる楢崎さんに視線が吸い寄せられる。確信犯じゃん、こんなの。
「えっと、すごい似合ってる」
どうにかその言葉を伝えると、楢崎さんはその顔にも花を咲かせる。
そのままぱっと僕の手を取ると、屋台が連なる通りの方へと僕の手を引いて歩き出した。大勢の人がいるはずなのに周りの人は全然視界に入らなくて、宵闇に照らされて蒼く浮かぶ朝顔しか見えなかった。
「わわっ、楢崎さん?」
「ほら、時間は有限だよ。行こっ。イキッチ!」
僕たちは普通の高校生活を体験するために夏祭りに来たはずなのに、こんなの全然普通じゃない。
ドキドキとうるさい心臓の音に蓋をしながら、楢崎さんに手を引かれるまま屋台を巡る。紐を引くタイプのくじ引きに自信満々で挑戦した楢崎さんが一番小さなポケットティッシュを引き当てたり、射的で一個も景品を落とせなかった僕の代わりに挑んだ楢崎さんが最後の一発でキャラメルの箱を落としたり。
「あっ、あれおいしそう!」
いい香りがするたびに楢崎さんは屋台に向かって突進していくから、いつの間にか僕らの両手は綿あめやたこ焼き、フランクフルトといった食べ物でいっぱいになった。ご機嫌な様子でりんご飴を舐める楢崎さんに思わず見とれてしまって、それがバレて「りんご飴がおいしそうだった」なんて言い訳をしたら、ニヤリと笑った楢崎さんがりんご飴をスッと差し出してきたり。
「どう。小説のネタになりそう?」
「えっと、これって普通の高校生の日々に入れちゃっていいのかな?」
「なるほどー。まだ足りないと」
「そういうわけじゃ、って、楢崎さん!?」
何故か嬉しそうにぴょんと跳ねた楢崎さんはタタタっと走って行ってくるりと振り返り、片目に指を当てて、んべっと舌を出す。
「ほら、いっぱい思い出──じゃないや、ネタ探さないと!」
ああ、そうだ。楢崎さんにとっては、次にいつこんな夏祭りに来られるかわからないんだ。
小さく息を吸って、楢崎さんの後を追う。手招きする楢崎さんに導かれて、祭囃子の音が遠くに聞こえた。
普通の高校生活とか、小説のネタとか、今この瞬間はどうでも良くて。
今夜は、楢崎さんが精一杯の思い出を作れるように頑張ろう──と思ったのだけど。
「イキッチ、大丈夫。顔色悪いよ?」
三十分ほどたった頃、楢崎さんが心配そうに僕の顔を覗き込む。歩きまわって疲れたとはまた違う感じ。その原因はわかってる。
「大丈夫。ちょっとした人酔いみたいな感じだから……」
楢崎さんが全面に立ってくれていたからあまり気になっていなかったけど、人が多いところとか、人の視線が集まるような場所は苦手だった。流石にあちこち巡り続けているうちに、許容量を超えてしまったらしい。頭が重く、肩の辺りが鈍い痛みを発していた。
「全然大丈夫に見えないって! 一杯楽しんだし、今日はもう帰ろ──」
バス停の方に向かって僕の手を引こうとする楢崎さんの手を僕の方へと引き返す。
「大丈夫。ちょっと人の少ないところで休めば、よくなるから」
「でも……」
「境内の方なら、そんなに人は多くないと思う。っとと」
入口とは反対に奥の方へと歩き出そうとして、ふらついてしまう。
さっと楢崎さんが隣に並んで支えてくれる。楢崎さんの為に、なんて思ってたのに情けない。
楢崎さんは迷うように通りの奥と手前を交互に見て、僕の手を引いて境内の方へと導いた。
思った通り境内に向かうにつれて人はまばらになっていって、本殿に続く大きく長い階段の途中で楢崎さんと少し隙間を空けて腰を下ろす。
ゆっくりと深呼吸すると、夏の夜のしっとりとした空気が胸いっぱいに入り込んできて少し落ち着いた。
「ごめん。せっかくのお祭りだったのに」
「ううん、すっごい楽しかった。憧れだったんだー、こんな風に誰かとお祭りを巡るの」
ぎゅっと膝を抱えた楢崎さんが眩しそうに屋台の方を眺める。夜に沈んだ街並みで屋台の列が夜空に浮かぶ天の川のように賑やかに明るい。楽しかった。またこうやって楢崎さんと出かけてみたい。だけど、タイムリミットは着々と迫っている。
天の川に引き裂かれても、一年に一度は会える織姫と牽牛の方が恵まれて見えてしまう。
「イキッチはどう? 小説に書けそうな話は見つかった?」
「えっと。今日のことは、小説には書かないと思う」
「えー、なんで?」
覗き込んでくる楢崎さんの視線から逃げるように顔を逸らす。
「今日のことは、僕たちだけの秘密にしたいな、って」
すっと息を呑む音が聞こえてきた。さっきまでとは違う理由で顔が熱い。楢崎さんの顔を見ることができない。
恥ずかしさと不安。小説のネタの為にとやってきたのに、気持ちわるいとか思われたかもしれない。
少しだけ間があって、右肩に温もりと重みを感じる。半人分の隙間を埋めた楢崎さんと触れているところがどうしようもないくらいに熱を発していた。
「いいねっ、それ」
右耳を楢崎さんの声がくすぐる。
「それなら今日はもうちょっとだけ。このまま、あたしたちだけの思い出を」



