「瑛士! ヘルプっ!」

 放課後の静かな図書館に飛鳥の切羽詰まった声が響く。
 声に一歩遅れてバタバタと図書館に駆け込んできた飛鳥は、僕のいる貸出カウンターに真っすぐ向かってきた。

「図書館ではお静かに」
「誰もいないんだからへーきへーき!」

 飛鳥の言う通り図書館には僕以外の姿はない。うちの高校はほとんどの生徒が何かの部活に入っていて、放課後の図書館が盛り上がるのは部活が休みになる試験前位だった。
 飛鳥は僕の視線を追うように図書館をくるりと眺めてからハッとした顔になり、両手をパチンと合わせて僕を拝みだす。

「って、そんなことしてる場合じゃなくて。助けて、全然いい資料が無くて!」

 幼馴染の飛鳥は文芸部で小説を書いている。中学生の頃から学生向けの大会や、投稿サイトのコンテストで何度も入賞している幼馴染は、高校で文芸部に入って一年でぐんと力をつけた。最近はとある文藝賞の公募に向けて長編の構想を練っていたはずだけど。

「知らない分野の話なんて書かなきゃいいのに」
「ありきたりなテーマで書いても印象に残らないもん。どんなテーマを見つけ出すかも腕の見せ所ってね!」

 そういうものなのだろうか。言葉にできないもにょりとした感じが胸の奥をぐるぐるとするけど、それは僕が書く側ではなく読む側だからかもしれない。実際にそのスタンスで書いて、あちこちで賞を獲っている飛鳥が方が説得力がある。喉の方に上がってきそうなぐるぐるを押し戻すように飲み込んだ。

「それで、今度は何の資料が欲しいの?」
「第二次世界大戦期のイギリスの航空機について」
「それは、また……」

 随分とニッチだと思った。
 飛鳥が書こうとしているのは青春小説と訊いていたけど、八十年近く前のイギリスの飛行機の話がどう青春に繋がるのか、僕には皆目見当もつかなかった。高校生が第二次世界大戦の頃にタイムスリップするとしても、それがイギリスである必要はないだろうし──あ、なるほど、こんな感じで興味を引けるのか。

「さすがにうちの図書館にはない感じ?」
「えっと。ピンポイントのは無理だけど、参考になりそうなのはあったと思う。ついてきて」

 記憶を手繰りながらカウンターを出る。ちょっとの間無人になるけど、つい半月前に新年度が始まったばかりのこの時期に図書館に来るのは飛鳥くらいだから問題ない。
 世界史コーナーの本棚を辿り、目当ての本を取り出す。イギリスとドイツの戦争の流れを纏めて分析した書籍で、兵器についても詳しくまとまっていたはずだ。
 それから、海外文学のコーナーでもう一冊。イギリス軍の爆撃機の搭乗員が主人公の小説を取り出して飛鳥に渡す。

「わあ、味のある表紙」
「有名な映画監督が描いた表紙だよ。中に図解とかもあるから参考になると思う」
「流石は瑛士! 今回のは流石にダメかと思ってた」
「ドンピシャじゃないけどね。それで足りなかったら言って。県立図書館とかにある本調べとくから」

 飛鳥を連れてカウンターに戻り、バーコードを読み取って貸出手続きをしてから本を再び飛鳥に渡す。飛鳥は二冊の表紙を見つめてから本をぎゅっと胸に抱いた。

「ありがと。ホント、本に詳しい瑛士が図書委員にいてくれて助かってるからっ!」

 口角をくいっと上げた飛鳥が本を抱いたまま、カウンター越しに身を乗り出すようにしてぐいっと顔を寄せてくる。

「だから楽しみにしててね。お礼に絶対面白い話書くから!」

 パチリと不器用なウィンクを残して、来たときと同じように飛鳥が図書室を出ていく。唯一の音源かいなくなると、静寂を取り戻した図書館に一人取り残された。
 読みかけていた本に視線を落とす。江戸時代の遣欧使節団の旅路を追った一冊。 
 家に一人でいることが多かったからか分からないけど、物心ついた時には本を読むのが好きだった。新書から小説、図鑑までなんでも読み漁って、親からも「虫だってもう少し食べるものを選ぶ」なんて言われる始末だ。
 そんな僕にとって、所蔵されている本を整理する"名目"で普段は表に出ていない本まで読める図書委員は天職だった。この本もそんな一冊だ。

「おーい」

 書かれた年代は古いし、筆者の心情が多分に入っているけど、半分小説のようにも読めて面白い。当時、欧州を訪ねることになった少年たちは何を思い、何を感じたのか。

「もしもーし」

 僕にとって、本は栄養みたいなものなのだと思う。普通に生きていたら知らない世界や感情が蓄積して、骨や身になっていく感覚。
 そう考えると、物語を書く側の飛鳥は料理人みたいなものなのかも。自分が提供した具材がどう料理されて出てくるか待ってるって考えると、なんだか面白い。

「ねえってば!」

 大きな声でハッとして顔を上げると、女子がじろっと呆れたような目で僕を見ていた。髪形に制約のないうちの高校でも珍しい明るい髪色。名前は確か──

「楢崎、瑠華さん?」
「おー、覚えてたんだ」
「一応、高校で転校生ってのも珍しいし」

 半月前、始業式の日に教室の前に姿を見せた楢崎さんの印象は大きかった。明るい髪はもちろんだし、にっと勝ち気に笑って自己紹介をする姿は、たぶん僕と正反対の人間なんだろうなってすぐに分かった。
 その直感は間違ってなかったようで、半月の間で楢崎さんはすっかりクラスの中心に立っていた。

「っていうワリに疑問形だったじゃん」
「人の名前と顔覚えるの、苦手で」
「あー、わかる」

 本に出てくる人物の名前ならすぐに覚えられるのに、現実世界の名前と顔を一致させるのは中々上手くいかない。
 本当に分かっているのか、にへらっと笑った楢崎さんはカウンターの中の僕の手元をのぞき込む。

「イキッチは──」
「イキッチ?」
「壱岐瑛士だからイキッチ。いいっしょ?」

 どやっと笑った顔で軽く胸を張る楢崎さんが、本当に人の名前と顔が一致させるのが苦手なのかは疑わしい。教室で目立たないはずの僕のフルネームを普通に覚えていて、するりと距離を詰めてくる。

「それで、イキッチは教室でもいつも本読んでるよね」
「ごめん」
「あー、いやいや。謝んないでよ。あたしも本でも読んでみたいなーと思ってるんだけど、今まで全然読んでこなかったせいで、何から読めばいいかわからなくて。イキッチなら詳しそうだなって」

 人を見かけで判断するのはよくないんだろうけど、楢崎さんが本を読みたいっていうのがなんだか意外だった。
  
「それで、わざわざ図書館まで?」
「休み時間に話しかけたら邪魔しちゃいそうだし、変な噂たてられても面倒だしねー」

 確かに教室で楢崎さんが僕に話しかけたりしたら、周りは勝手にざわざわしそうだからその配慮はありがたかった。それに、放課後にわざわざ人気のない図書館まで来るあたり、それだけ本気で本を読みたいって思ってるのかも。
 僕の頭の中で勝手に抱いていた楢崎さんへのイメージをカチカチと何段階か修正する。
 
「あと、毎日部活に誘われるの面倒で、逃げてきちゃった」

 楢崎さんが後ろ手を組んでぺろっと下を見せる。
 そういえば、今日の昼休みも楢崎さんのところにはクラスの内外から部活のお誘いが来ていた気がする。
 
「部活、入らないんだ?」
「……入っても、あんまり意味ないしねー」

 答えるまでの一瞬の間に何か含みがある気がしたけど、それに踏み込めるほど僕たちの関係は近くない。
 それに、殆どの人が部活に入ってるってだけで、帰宅部がいないわけではないし、図書委員なんて肩書で放課後まで図書館に入り浸ってる僕だって似たような存在だろう。

「それよりっ! あまり本とか読まなかった人にもオススメな小説、教えてよっ!」

 パチンと両手を合わせた楢崎さんはその話は終わりとでも言わんばかりにさっきまでより一段と明るい声を出す。
 僕としても世間話よりは本の話のほうがしやすいから、その切り替えはありがたかった。

「マンガとかドラマでもいいんだけど、好きなジャンルってある?」

 カウンターを出ながら尋ねると、楢崎さんは顎に指を当てて首をかしげる。

「んー。たまに見たりはするけど、好きなジャンルって言われるとわかんないなー」
「それなら、この辺でどうかな?」

 小説コーナーでも新し目の本が並ぶ一角から文庫本を取り出して楢崎さんに渡す。短い時間で読める短編がまとめられたアンソロジー。児童文学というくくりだけど、大人にも人気なシリーズだし、まず読んでみるってことにもちょうどいいと思う。

「わ、キレーな表紙……! なんか映画のポスターみたい」

 本を受け取った楢崎さんはじいっと表紙に見入っている。表紙には、表題作のクライマックスのワンシーンが鮮やかに描かれている。空と海を描く深い蒼をバックに見つめ合う演劇部の主人公とヒロイン。話を読む前と読んだ後では表紙の見え方も変わってくるのだけど、もちろん、それは楢崎さんには黙っておくのだけど。
 
「ありがと。めっちゃ大事にする」
「いや、二週間後までには返してね」
「あ、そうだった」
 
 楢崎さんはさっきよりずっと自然にペロッと舌を出してから、フフンとハミング交じりで図書館を出て行った。何となく、その背中から目が離せない。
 本を探して渡すということは飛鳥に対して何度もやってきたし、飛鳥以外の人にもしたことはあるけど。あんなふうに無邪気に瞳をキラキラさせて喜んでもらえたのは初めてかもしれない。
 多分、楢崎さんは誰にでも、何にでもそうなんだろう。だから人を惹き寄せて、自然とその真ん中に立っている。

──入っても、あんまり意味ないしねー。

 だから、部活に入らないか聞いた時の楢崎さんの言葉が印象に残っていた。らしくない、というか。
 もちろん、僕はそれを判断できるほど楢崎さんのことを知ってるわけじゃないけど。
 一つ息をついて遣欧使節団の本を再び手に取ってみたけど、読んでも読んでも頭に入ってこなくて、ひたすら同じページの端から端を繰り返し読み続けた。