夜風の中で、君に伝えたいこと。

「むしむしするなぁ」
 私はそう一人ごちながら、空を見上げた。空を灰色で埋め尽くしている雲が持ってきた湿気と夏の暑さのせいで、ここが蒸し風呂なのではないかと思う。部活が終わる六時から、十分ほどが過ぎている。運動部は制服に着替える時間もあるから、遅くなっているのかもしれない。
 私が時間を気にしている原因は、やることがないことだった。本を読もうとも考えたのだが、先ほどぽつっと何か降ってきたような気がして、読むのがはばかられた。スマホも先生にいじっているところを見られたら怒られるし、結局やることが空と裏庭の観察くらいしかなくなってしまった。
「そういえば、裏庭のこと、あんまりじっくりみたことなかったな」
 私はあたりを見渡した。桜の木が真ん中にあって、それを取り囲むようにベンチが四つ置かれている。そのうちの一つに座ると、みしっと音がした。雨風にさらされているからか、結構ぼろい。買い換えたほうが良いのではないだろうか。
 視線を後ろに巡らせると、花壇にある花が目についた。生物委員会の人たちがほかのところにあるウサギ小屋のウサギ、各クラスに置かれている水槽の魚の世話とともに、たまに手入れされているらしい。いくつか花があるが、枯れかけのものや全盛期のもの、目が少し出ているものなど様々だ。ざっと見る限り六種類くらいはありそうだ。少し身をひねって目を凝らす。さすがに文字は読み取れないが、花の前にプレートが刺さっている。あれに名前が書いてあるに違いない。
「ごめん、おそくなって!」
 声がして、慌てて身を元に戻す。するとまた、みしっとベンチがきしんだ。駆け込んできた涼風くんは足を止め、じっとベンチを見つめた。やがて、涼風くんと私は、顔を見合わせる。
「……これ、生徒会に買い替えを要求してもいいんじゃない? 使ってるうちに壊れちゃいそうだね」
「ほんと、私もそう思う」
 私たちは同時に笑った。私は立ち上がって、周りを見渡す。私が座っていたところは花壇も見えないし、涼風くんが私の前方に立っていることからわかる通り、入り口から見えやすい。それよりは、より裏庭の奥に近い右側のベンチに座ったほうがいいかもしれない。
「涼風くん、そっちのベンチに座らない? 部活終わったばっかりだし、ずっと立ってると疲れちゃうだろうし」
 私の提案に、涼風くんはにっこりとほほ笑んだ。それは、教室でよく見る笑みだ。
「ありがとう。お言葉に甘えさせてもらおうかな」
「どうぞどうぞ」
 涼風くんが座ったのと反対側の端に、私も座った。私は桜の木を見上げる。青々とした葉っぱが風で揺れている。私は涼風くんが話し始めるのを待とうと、しばらくぼーっとしていたが、涼風くんは話し出そうとはしなかった。顔を元に戻して隣をちらりとみると、彼は少し俯いて、桜の木の根っこのほうをぼんやりと見ていた。その横顔が、すごく疲れているように見えて、私は事情を直接聞くべきではないように思った。
「ね、涼風くんってさ、好きなこととかある?」
 私はそう切り出した。まだお互い、あまり話したこともない。だから、まずは自己紹介代わりに、趣味の話をしたらよいかと思ったんだ。涼風くんは顔をあげて、私のほうをみた。気遣ったことがばれてしまったのかもしれない。彼は申し訳ないと言いたげな表情を浮かべたのだ。
「僕は……」
 涼風くんは話そうとしてくれたが、言葉が続かないようだった。小さなため息とともに、また顔がうつむいてしまう。すごく疲れているんだ。そう思う。話すことすら億劫で、でも、誰かに助けを求めたくて。ぐちゃぐちゃな気持ちの時は、私にもある。
 そんなとき、私は……どうしていただろう。少し考えて、すぐに答えが見つかった。私は天黎という優しい親友がいる。だから、天黎に隣に来てもらう。そして天黎は、私が話せない時。いつも、笑わせてくれるんだ。悩みを話さなくても済むように、関係ないことを話そうとしてくれる。
「私はね、犬が好きなんだ。ほら、犬派、猫派どっち? っていう議論があるでしょ? 猫は引っ搔くっていうからちょっと苦手で、あ、でも犬も嚙んじゃうかぁ」
 精一杯の面白みを持たせようと、私は言葉を並べた。私はジョークとか冗談とか、そういうことを言うのが上手じゃないし、そうであることも見抜けない。人を笑わせることもやったことがないし、そもそもこの方向で正解なのかも危うい。私が涼風くんの返答を待ちながらうんうん勝手に悩んでいると、
「僕は、鳥かな」
 涼風くんがつぶやいた。私は悩むのをやめて、首をかしげる。
「鳥? 飼ってたりするの?」
「母方の祖母が飼ってるんだ。写真、見る?」
「え、いいの? 見てみたい!」
 食いついてみると、涼風くんが、くすりと、少し笑ってくれた。スマホを取り出して写真を探しながら、涼風くんは私に話題を振ってくる。
「夜見さんは、鳥、好き?」
 鳥かぁ。私が見ている鳥は、たまに庭に遊びに来る鳥たちだ。お父さんは名前を知ってるみたいだけど、私はスズメと鳩、それにカラスくらいしかわからない。あ、昔、ルリコンゴウインコ、っていうのは聞いたかも。
「どうだろう。いつも空飛んでるところしか見たことないし、誰かに触らせてもらったこともないし……私が知ってる鳥の名前も少なくて、スズメとか、鳩とか、カラスとかぐらいで……」
「鳥って少し珍しいよな。僕も祖母のところとか、外でしか見たことがないよ。……あ、見つけた。この動画を見てみてよ」
 涼風くんがスマホを差し出してくれる。私はそれを食い入るように見つめる。おなかから下がコバルトブルーで、おなかから上がレモン色のインコだ。ぴょん、ぴょん、と机の上を飛び跳ねて、ぱたぱたと羽を動かして、画面に入り込んできた、おそらく涼風くんの手だと思しきものに留まる。カメラを向いて、鳥特有の動かし方で首をかしげて、
『トウカ! オニク、タベル?』
 私は思わず吹き出してしまった。インコは言葉を覚えると聞いていたけれど、まさかこんな言葉を覚えているなんて。私が声を抑えて笑い続けていると、隣で涼風くんが恥ずかしそうに笑う。
「ばあちゃんの言葉、覚えちゃったんだよ。僕がばあちゃんの家に行くといつも、『透海、お肉食べる?』っていうからさ」
 涼風くんのおばあちゃんのモノマネが先ほどのインコそっくりだったものだから、私はもっと笑ってしまう。ツボにはまってしまったのか、笑いが止まらない。目じりににじむ涙をぬぐいながら、私は涼風くんに尋ねる。
「インコのお名前は?」
 ようやく笑いが収まった私は、涼風くんの表情を見てみた。さっき俯いていた時と比べると、顔色も少しマシになっているようだ。そんなことを考えて少し口元が笑みを形作る。すると、涼風くんは少し真顔になった。何かやっちゃったかな。不安になっていると、彼はにやりとわらってみせる。
「トリニク」
 トリニク。不思議な名前だな。
「トリニクちゃんっていうのか……って、え?」
 一瞬納得しかけてから、待てよ、と思った。何かが引っかかる。どこかで聞いた響きのような……トリニク……漢字は……。
 え、ちょっと待って。
「もしかして、スーパーで売ってる鶏肉?」
「そうそう」
  こくこくと頷いて見せる涼風くん。
「え、ええっ!?」
私は思わず涼風くんのスマホを握りしめながら、涼風くんに詰め寄った。
「それはさすがにインコちゃんかわいそうじゃない!?」
 しばらく真顔の涼風くんをじっと見つめていたら、やがて涼風くんが笑い出した。私は混乱して、一度身を引く。涼風くんは笑いをおさめぬままに、
「……夜見さん、冗談だよ?」
「……はい?」
「本当の名前は、ウミだよ」
「……えぇっ!? トリニクって、ジョークだったの!?」
「だから、そういったじゃん」
「う、嘘つきー!!」
 私は思わず叫んだ。涼風くんの笑いが一層大きくなる。悔しくなって、もー! と大声で再び叫んだ。そして私も笑い始めてしまう。しばらく二人で笑っていると、私の胸の中はだんだんすっきりしてきた。涼風くんも、自然に笑ってくれているようだ。二人とも笑いをおさめるころには、ここに来てからかなり時間がたっていた。私は涼風くんに尋ねてみることにする。
「どう? ちょっと楽になった?」
 涼風くんを助けたい。その思いで、私は今日ここに来た。インコの話をして、お互いに笑いあっただけだったけど、これで助けになれたのかな。こんなことしかできなくても、いいのかな。私の不安を感じ取ってくれたのか、涼風くんはにっこりと笑う。
「うん。なんでだろう、夜見さんと話すときは、気負わなくて済むから、気が楽だな」
 その言葉を聞いて、私は嬉しくなる。役に立てたんだ。こんな私でも、涼風くんの役に立てたんだ。私たちは立ち上がって、裏庭の入口のほうへ歩いていく。
「また、困ったときは言ってね。何でも話、聞くから!」
「……ありがとう。じゃあ、もう遅いし、解散だね。引き留めて、ごめんね」
「ううん、気にしないで。じゃあ、また明日」
「うん、またね」
 涼風くんと手を振って別れた。私は嬉しくてしかたがなかった。だから、気づかなかった。一番最後に、涼風くんの表情が、少しだけ翳っていたことを。