夜風の中で、君に伝えたいこと。

「灯鞠っ」
 誰かが名を呼ぶ声で、私はぼんやりと視線を上げる。どれくらい、経ったんだろう。あの後、確かこの遊具の中に逃げ込んで、息ができなくて、怖くて。ただひたすらに体を抱えて、助けてって呟きながら、ガタガタ体が震えるのを止められなくて……
 耳の中に残る強い風の音以外、何も聞こえない。網膜に焼き付く外を吹き荒れる風の姿以外、ほとんど見えない。五感が麻痺して、何も感じられなくて……そんな中、その声だけが、私に届いた。
「たす……けて……」
 かすれる声で、うわごとのようにつぶやく。体が勝手に、そう動く。まるで、玻璃の中にいるみたいだ。現実の世界にある自分の体に、命令を下すことができない感覚。私って、どういう風に体を動かしていたっけ……
「灯鞠、しっかりしろ、灯鞠」
 誰かが私の体を揺さぶる。その声は、涼風くんでも一条くんでも天黎でもなく……誰だ。私は何とか目に力を込める。少しずつ、体の制御権を取り戻そうとする。
「灯鞠、灯鞠!」
 ようやく、視界が開ける。風の姿以外のもの。こちらを覗き込む、ウルフカットの少女の顔……
「咲妃莉?」
 なんで、咲妃莉がこんなところにいるんだろう。なんで、そんなに泣きそうな顔をしているんだろう。なんで、私にかまうんだろう。頭がぼんやりして、うまく思考がまとまらない。何とか体を起こし、頭を振る。それでも、あまりすっきりしなくて。
「夜見さん……」
 聞きなれた声。そちらに視線を向けると、涼風くんもいて。心配そうに、こちらを覗き込んでいる。私はあまり見ない二人に組み合わせをぼーっと見ていて、段々と思い出す。今日は、涼風くんに学校に来てって言われてて、そこで咲妃莉と話す予定で、それで私は家を出て、強風に対する恐怖が現れて……
 ゴォォォォーーーッ!!!
ひときわ大きな風が、轟音を奏でた。電線が鋭く唸り、軽いものは舞い上がり、転がりながら地面を叩きつける。木の枝が折れる音まで聞こえてくる。
「ぁぁっっ」
 聲にならない悲鳴が、口から洩れる。
「落ち着いて、落ち着くんだ、灯鞠!」
「大丈夫だよ、夜見さん」
 悲鳴を上げる私に、咲妃莉が呼び掛ける。涼風くんが私に覆いかぶさるように、私の視界を奪う。私は咲妃莉の手を強く握って、ただ幼い子供のように、悲鳴を上げ続けた。

 轟音が鳴りやみ、ひゅうううううっ、という音だけが残る。ひときわ強い風の音を聞いたからか、この風の音を聞いていても、先ほどのような強い恐怖は沸いてこなかった。もう……疲れた。心が抜け殻のようになって、考えることを拒否する。でも、今この状況は、私に考えることをやめさせてくれない。
「……落ち着いた?」
「……うん」
 涼風くんが優しい声音で問うてくれる。私は正直にそれにこたえると、目の前で私から視線を外している咲妃莉を見た。私が叫んでいる間、咲妃莉は私がつかんでいる手を振りほどこうとしなかった。私が自然と離すまで、なされるがまま。
 不器用で言葉を言い出せない私の背を、涼風くんの優しい笑顔がそっと押してくれる。大丈夫。そう、視線が私に語り掛ける。私は少し状況が変わってしまったけど、勇気を出して、咲妃莉に向かう。
「咲妃莉」
 名を呼んだ。咲妃莉の少し不機嫌そうな顔が、私をとらえる。びくっ、と体が震えるが、私は咲妃莉への恐怖を押さえつける。今から仲直りをしたいのに……怖がっちゃ、だめだ。私はすう、と息を吸い込む。ぎゅっと目をつぶって、言う。

「ごめんなさいっ」

 私が、ずっと言いたかったことだった。

 たったこれだけのこと。でも、咲妃莉に……ずっと、伝えられなかったこと。

「私が悪かったの。馬鹿で、自己中で、自分勝手で他人の言なんて少しもわかってなくて、そのくせうぬぼれて、何でも三人ならできるって勝手に思い込んで……だから、咲妃莉と天黎が喧嘩したのも、私のせい。咲妃莉を問い詰める資格なんてほんとはなくて、私はただ、謝らなきゃいけなかったのに……」
 後悔が胸の中で渦を巻く。どうしようもない過ちをしたのだ。あの日。天黎を傷つけて、咲妃莉を傷つけて、そして……私自身も、傷ついて。
「馬鹿だよね……高校生になるまで、気づかないなんて」
 他人の言には聡いつもりだった。でも、それも結局うぬぼれに過ぎなくて。私は、これっぽちもわかっちゃいなかった。涼風くんと咲妃莉は、静かに私の話を聞いている。私は、咲妃莉の顔も、涼風くんの顔も見れない。ただ目をぎゅっとつぶって、必死に言葉を紡いだ。
 これが……最後の、チャンス。

「私が嫌いなら、嫌いでいい。でも———もう一度だけ、話してほしい。一緒に話す時間を、一回でいいから取ってほしい。そして、一日、一時間でもいいから———普通の友達に、戻りたい。できることなら仲直りをして、もっと一緒にいたい。見ないふりされるのは、見ないふりするのは———苦しいんだよ」

 言い切った。私が言いたいこと、すべて。言葉を切って、あふれる涙をぬぐおうともせずに、咲妃莉を見つめる。咲妃莉は静かに、私を見返す。
 私の手に、誰かのぬくもりが重なった。見なくてもわかる。涼風くんの手。涼風くんが、よく頑張った、とほめてくれている。私は、その手を握り返す。

「それが……」

 咲妃莉が、言う。

「それが、灯鞠が伝えたかったっていうこと?」

 私は頷いた。咲妃莉はなおも真顔で、私を見つめていたが……
「なにそれ」
 吐き捨てた。咲妃莉の瞳に映るのは、ひどい軽蔑の色で。
「そんなこと……いまさら謝らないでよ。もう、遅すぎるんだよ。いつもいつもいつも、全部灯鞠は気づくのが遅い。行動に移すのも遅い。ずっとうじうじ考えて、そのくせいらないところで勝手な努力して……」
 吐き出される言葉は、ひどく冷たい。私は、悟る。ああ、もう……だめだ。本当に、これ以上、咲妃莉の心に言葉は……
「それは本心とは違うだろう」
 低い声が、遊具の中で反響した。涼風くんが、咲妃莉を静かに見つめながら、放ったのだ。咲妃莉は、すっと目を細める。
「ねえ、灯鞠。いつからそんな器用になったの……? 透海を取り込むなんて、そんなに、そんなことまでして何がしたいの……? ボクにはわからない。わかりたくもない」
「立水さん」
「透海は口を出さないで」
「いやだ」
 涼風くんと咲妃莉が、にらみ合いを始める。私の心は、どんどん凍てついていって。もう、終わりだ。本当に、終わりにしなきゃいけないんだ。もうこれ以上……咲妃莉を私に、しばりつけるわけにはいかない。
「諦めちゃだめだ」
 涼風くんが言う。
「なにを言って」
「二人とも、諦めるな!!!」
 涼風くんが、叫ぶ。咲妃莉は顔を歪め、私は茫然として、涼風くんを見る。いつの間にか、彼の顔は泣き出しそうなほどに歪んでいて。
「夜見さんはもっと食らいつくんだ。立水さんと仲直りしたいなら、それくらいで折れちゃだめだ」
 涼風くんが、必死に言葉を紡いでくれる。
「立水さんも、そんなに冷たくしなくたっていいじゃないか。本心を曝け出して、ちゃんとぶつかってくれ」
 懇願するような響きを孕みながら、その声は遊具の中を踊るように響く。
「頼む……」
 その涼風くんの様子を見ていて、ゆらり、と私の中で何かが揺らぐ。その揺らぎはだんだん大きくなって、私の体に火をつけて……
「お願い」
 自然と、願いは口から転び出る。
「お願い、咲妃莉」
 咲妃莉を見つめる。ひどくゆがんだ、美しい、でも懐かしい、その顔を。
「お願い。許さなくていいから。私と……ちゃんと話して」
 必死に記憶を探る。咲妃莉の好きなものを思い出したかった。咲妃莉の好きな……好きな……

 ああ。見つけた。

 私は、歌を歌った。ずっと昔に、私が歌っていた曲。咲妃莉が唯一、褒めてくれた曲。

「灯鞠……」
 咲妃莉の顔がさらに歪んで、ぽろり、と涙が零れ落ちて。私はボリュームを上げる。風の音が、いつの間にか、私が歌う歌の伴奏と化す。その歌は、友情をひたすらに、愚直に歌った歌だ。ずっと君が大好きで、でも、その思いを素直に口にすることができなくて。だから、歌の中の自分は、歌を作ったのだ。君に届く歌を。その中に……ただ二つの、純粋な感情をこめて。
 私は歌い終わると、改めて咲妃莉の顔をまっすぐに見た。自然と、私たちは笑っていた。歌は……やっぱり、すごい。こうして、咲妃莉と私の壁を……薄くできるのだから。

「ありがとう、そして……大好きだよ」

 ああ、やっと言えた。私はそう思って、目を伏せる。静かな時間が流れ、そして———

「ははっ」

 乾いた笑いが、咲妃莉の口から洩れる。私は、目を見開いた。目の前で、咲妃莉が笑っている。仕方なさそうな笑顔で。

「ボクも……本当は、好きだよ」