夜風の中で、君に伝えたいこと。

 あの日から、もう一か月くらい経って、十一月。冬の予感が迫ってきて、肌寒い日も増えてきた。そして、その寒さは、私たち四人の中にもあった。RUINですら、まだ一度も話してない。いや、挨拶とか、それくらいはする。涼風くんも一条くんも、目が合えばちゃんと挨拶はしてくれるし、涼風くんがクラスの用事を頼むときは、ちゃんと目を見て話してくれる。
 でも……私はどこか、よそよそしさを感じてしまう。四人で集まることは、夢のまた夢のように感じてしまう。いや……あの夏の記憶は、すべて夢だったんじゃないかとすら、考えてしまう。
「灯鞠。今日はどうするの? 部室?」
 誰かが私の机の前に立った。顔を上げると、そこには天黎がいた。ああ、と私はつぶやいて、反射的に外を見た。天気は雲が多めの晴れ。そんなに暑くなくて、風も弱くて過ごしやすい。だから、いつもの場所に、四人で……
そこまで考えて、気づいた。もう、裏庭はないんだと。少し沈んだ気分のまま、立ち上がる。
「購買行ってから、部室行く」
「わかった」
 天黎は、私がぼーっとしていても、悩んでいても、何にも言ってこなかった。文句を言うでも叱るでもなく、いつも通りに接してくれる天黎に、やっぱり私だけがおかしいんじゃないかって、思う。私だけが過剰に気にしてて……

 もしかしたらみんなにとっては、そんなに大したことじゃなかったのかもな、とか。

 考えても仕方がないことなのに、私は勝手にそう考える。



「……灯鞠ちゃん」
 ふと、名前が呼ばれて振り返る。気づけば私は、部室にいて。気づけば、カレーパンを手に持っていた。そして後ろに立っているのは、ビニール袋を手に提げた、柚月先輩だった。
「ふぇっ、柚月先輩!?」
驚く私に、柚月先輩は、こちらを見て困ったように首をかしげた。さらりと長いストレートのロングヘアが揺れる。先輩は私が持っているカレーパンに視線を向ける。
「さっきから、ずっとカレーパンもって黙り込んで動かないから……私、さっきまで天黎ちゃんの隣でしゃべってたんだけど」
「え……? 今来たんじゃなくて?」
「そろそろ帰ろっかなって思って」
 私はまたぼんやりしてしまっていたらしい。スマホの日付を確かめると、まだついさっきの記憶は今日だったのだとわかった。空を見ても雲が多い晴れだし。きょろきょろしながら状況を確かめている私に、柚月先輩は心配そうな表情を向けてきた。
「あの……灯鞠ちゃんの様子が最近おかしいって、皆から聞いてるよ。大丈夫?」
 夏まで文芸部の部室によく来てくれていた先輩方は、さすがにもう大学受験の勉強をしなくてはならない。だから、なかなか部室で会う機会もなかった。だから、私はびっくりしたわけだけど……久しぶりに会うのに、こんなに心配されているなんて。私は少し不甲斐なくて、うつむいた。すると、柚月先輩が私のほうに来て、隣に座ってくれる。帰るって言ってたのに。私のために。
「灯鞠ちゃん、大切な人がいたんだって?」
 はっ、と目を見開く。隣を見ると、天黎がこちらを見ていた。私と目が合うと、天黎は小さくうなずいた。天黎が、柚月先輩に話したんだ。あのね、と柚月先輩が話し始めるので、私は先輩のほうを見る。柚月先輩は、どこか遠くを見るように、ぼんやりと視線を漂わせている。
「私も……灯鞠ちゃんみたいに、悩んだことがあるんだ」
 唐突の告白だった。私は目を見開いて、柚月先輩を見つめた。視線に気が付いた柚月先輩は、こちらを見て、にこりと笑う。
「私、恋愛小説を書いてたでしょ? それくらい、恋愛小説が好きなんだ。だから、かな。私は、恋愛小説みたいな恋に憧れててね。好きでもないかっこいい先輩に、想いをはせたりしてたの」
 好きでもない人に、想いを馳せられるものなのか。私が少し疑問に思っていると、柚月先輩はすぐに伏線を回収してくれる。
「本当は馳せてなんかいなかった。そう振舞っていただけだったの。私が本当に好きなのは……」
 わかるでしょ、と言いたげに、柚月先輩は私に向けて首をかしげた。私はうなずく。柚月先輩が彼氏持ちであることは結構有名だ。なぜかって、柚月先輩は学校内でも結構有名な美人だし、相手がサッカー部のキャプテンで、生徒会の人なのだから。
「私は、生徒会長だったから、その先輩のことを考えてた。でも、それじゃダメだろって言ってくれたのが、あの人だったの。お前は本当にあの先輩のことが好きなのかって、好きなんだったら今すぐ告って来いよって。無茶でしょ、そんなの。でも、そこで気づいたの。これは恋じゃなくて、ただ自分が主人公みたいになりたかったんだって。で、気づいたらあの人に夢中ってわけ」
「十分恋愛小説みたいじゃないですか」
 私は思わず微笑みながらそう意見した。でしょ、って、柚月先輩はおかしそうに、かわいらしく笑う。だからさ、と息を吐いて、先輩は天井のほうを見上げた。天井の先、空を見ているのか、柚月先輩は手を伸ばす。
「本当に好きなら、その人のことをずっと考えていい。その人にどんなことをしたいか、よく考えればいい。でも、もしそれがただの自己満足なら……灯鞠ちゃんのためにならないから、やめたほうがいい。あー、違うな、本当はこういうの言いたいんじゃなくて……」
 髪をくるくるいじりながら、柚月先輩は目を閉じて考え込む。その隣で、私は今先輩が言ってくれたことを考えた。私は、涼風くんのことが、本当に好きだろうか。
……わからない。
 それが、率直な感想だ。守りたい、それが恋心というのなら。私は、涼風くんに恋してる。好きになってる。でも、もしこれがただの自分のエゴなら? 自分のわがままなら? いや……そもそも、恋心って何? 好きって何? どこまでが好きで、どこまでが恋なの?
「よしっ」
 錯綜していた私の思考を断ち切るように、柚月先輩が声を上げた。私は一度考えるのをやめて、柚月先輩を見た。先輩は、私に向けて微笑みかける。
「さっき言ったことも、私の言いたいことだよ。灯鞠ちゃんには、ちゃんと自分の心と向き合ってほしいと思う。だって、今の灯鞠ちゃんは、正直に言うと、逃げてるように見えるから」
 先輩の言葉に、ぐっとのどが詰まったような感覚に陥った。反射的に涙がこぼれようとするので、踏ん張った。それでわかった。私は、本当に逃げてるんだって。
 でもね、と言って、柚月先輩は膝立ちになった。そして、私の前に移動してくると、そっと私の手を取った。柚月先輩の手から、温かさが感じられて、私はあふれてくる涙が抑えられなかった。悲しいわけじゃないのに。うれしいわけじゃないのに。涙腺が、おかしくなってしまったみたいだった。天黎も、私のほうににじり寄ってきてくれる。柚月先輩は私を責めるでもなく、ただじっと、見つめてくれる。
「灯鞠ちゃん。灯鞠ちゃんは、すごく優しい子だよ。周りの人のことを良く考えてくれるし、いつも一生懸命だし。私たちも後輩たちも、みんな灯鞠ちゃんのことが好きで、助けてもらってる。だからね……一人で、そんなになるまで悩まなくていいんだよ。天黎ちゃんとか、音恋ちゃんとか。私たち先輩も、後輩が真剣に悩んでるんだもん、ちゃんと話を聞く」
 やがて先輩は、私のことを抱きしめてくれる。泣きじゃくる私の頭を、優しくなでてくれる。こんな優しい先輩を、私なんかが持っていていいのだろうか。頼ってもいいのだろうか。
「私……そんな、いい人じゃ、ない、です……頼る、資格は……」
 いくつも思い浮かぶ失敗の数々と、言われてきた言葉。思い出しただけで、もっと泣いてしまう。こらえきれなかった。わあああっ、と声をあげて泣いた。何も考えられなくて、ただ申し訳なさと、自分に対する怒りだけがこみあげてきて。
 なんでもっと涼風くんに向き合えなかったのだろう。なんであの時、ちゃんと涼風くんを止められなかったのだろう。もっと何か、言葉はかけられたはずなのに。
 でも、その原因もわかるのだ。すべては……私のせい。私が過去に犯した失敗のせいだ。だから、私は自分を責められずにはいられなかった。
「大丈夫……大丈夫だよ、灯鞠ちゃん……自分を、責めないで……」
 何度も何度も、柚月先輩はそう言ってくれる。いつも大好きな、信じている先輩だけど、今日だけはちゃんと信じることができなかった。
「灯鞠……あの、先輩。また後で……」
 天黎が何か言っているのが聞こえた。でも、その言葉は聞き取れなかった。やがて、柚月先輩が私から離れた。人とふれあっていたからだろうか。急にその場の空気が、冷たくなったように感じて。
「じゃあ……また後でね」
「はい、ありがとうございました、先輩」
 柚月先輩が部屋から出ていく。私と天黎、二人だけになった。まだ泣くのをやめられない私を、天黎は一度抱きしめてくれた。そして彼女はすぐに私から離れてしまう。そして、スマホを操作して誰かに連絡し始めた。
「天黎……」
「今、クラスの人にこの後の授業休むって先生に言っておいてって、連絡した。今のままじゃ、灯鞠、勉強もろくに身に入らないだろうし。その顔じゃ、クラスメイトに顔向けできないでしょ」
 天黎が連絡を終えて、スマホをポケットにしまう。私はうなずいた。はぁ、とため息をついて、天黎は私の隣に座った。そして、何かを口ずさみ始めた。良く知らない歌。でも、不思議と安心する歌。私は膝を抱えて座りながら、うつむいて、額を膝のてっぺんにつける。天黎の歌が、空気に溶けていく。