「で、ここはこう整理すると……ほら、円の方程式になるだろ?」
「えーっと……うん、確かに」
「じゃあ、今度はこっちの問題で同じことやってみて」
「はい! えーっと……これどうなってるの!? 全然形違う……」
あの日から、一か月くらい経って、もう十月だ。朝や昼休み、部活終わりなど、涼風くんが暇なときに裏庭で勉強を教えてもらうことにしているのだけれど、なかなか効果は芳しくない。やっぱり納得はするのだけど、応用ができないのだ。涼風くんの説明は丁寧でわかりやすい。解く過程を丁寧に書いてくれるので、私でも思考が追いやすい。でも、次の日になったり、別の問題になったりするとわからなくなる。
私が悲鳴を上げると、涼風くんが苦笑しながらまたノートに書いて解き方を教えてくれる。そして、私たちが勉強している向かい側からも、教える声が聞こえてくる。
「んで、ここは腎臓計算の……」
「あ、俺腎臓計算の公式わかんねえ」
「はいはい、じゃあ教科書見てちゃんと覚えるよ」
「俺、暗記苦手なんだけど……どうやって暗記してんの、お前は?」
「寝る前に読むと効果的って聞いたことあるから、一応夜に読んでるけど」
少し離れたところでは、天黎が一条くんに勉強を教えている。私たちはそれぞれ一緒に行動することが多いので、せっかくだしと、天黎が一条くんに言ったのだ。涼風くんも一条くんに勧めたから、今こうして一緒に勉強してる。天黎は楽しそうに教えてるから、いい時間になってるな、と思う。
さっき教えてもらっていた問題が終わり、涼風くんがお昼にしようと言ってくれたので、私たちはお弁当を食べ始めた。前では、まだ一条くんが腎臓計算の問題に苦戦していた。
「は? 公式使うって……」
「そ。公式使ってここをこうやってやると……ほら、これがでた」
天黎はさらさらとノートに計算式を書いて、一条くんに見せている。私は一度覗こうかとも考えたが、やめた。私が見ても、またわかんない問題だからとダメージを受けてしまいそうだ。二人がいろいろ議論しながら解いているのに対し、私たちは特に何も話してない。何か話題を……と考えて、一つ思いついた。
「あの……涼風くん、最近はどう? ずっと教えてもらってばっかで、あんまりちゃんと話せてなかったし」
私がそう切り出すと、涼風くんはにっこりとほほ笑んだ。そこに陰りはない……ように見える。
「大丈夫。最近は教えるのが楽しかったし、気にしなくて大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」
その言葉を聞いて、なぜか心臓が早鐘を打ち始めた。私はそっか、とはにかむように笑って、そっと視線をそらした。気まずい……わけじゃない。むしろもっと……一緒にいたい。でも、話そうとすると、涼風くんの優しい言葉を聞くと、なぜか胸が締め付けられる。やっぱりこれは……恋をしているのだろうか。
「そういう夜見さんこそ、大丈夫? ずっと勉強漬けで、しんどくない?」
涼風くんが心配そうにそう逆に問いかけてくれる。私は一瞬強がろうかとも考えたけど……相手は涼風くんだし、弱音を少しくらい吐いてもいいかな、と思ったので、正直に、
「しんどいよ」
と答えた。すると、涼風くんは困ったように眉を下げた。私はでも、と言って微笑みを浮かべてみた。
「涼風くんに教えてもらってるから……一人で勉強するよりはずっとまし。少しだけど、わかってきてる……と思うし」
「それは、強がりじゃなくて?」
涼風くんが即座に問い返してくる。その瞳には、真剣な光が宿っていた。きっと、天黎が前に言ってたことを気にしてるんだ。私は直感的に理解した。涼風くんはまじめな性格っぽいから。天黎が大丈夫じゃなくても大丈夫と言ってしまう、と言っていたのを思い出したんだろう。私は少し悩んだ。
「今は、本当にそう思ってる。でも試験の時には……わからなくなってるかもしれない」
私の恐怖の原因はそこだ。私は一度、試験で頭が真っ白になったことがあった。何もわからなくなってしまった。解き方も、公式も、全部。そこから、怖くなった。また間違える。また解けなくなる。また。また。
「……そっか」
涼風くんはただそういった。そして、ポン、ポン、と私の頭をやさしくなでてくれた。涼風くんはあの日以来、そういうスキンシップを取るようになった。こういうことを言ったら子供じみたように思われるだろうけど、私としては誰かに触れられるのはほっとする。でも……ああ、ちょっと聞いてみてもいいかもしれない。
「ねえ……スキンシップを取ってくれるようになったのは、なぜ?」
私が尋ねると、涼風くんははっとしたように手を引いた。そして、恥ずかしそうに笑う。なぜかその顔が、お姉ちゃんの顔と被って見えた。
「えーっと……直莉に似てるから……って、悪い意味じゃなくて。その……今まで勉強を教えてきた女子って、直莉だけだからさ。なんか、直莉に教えるのと同じようにやっちゃうんだよな……。直莉は、そうして褒めると喜ぶから」
涼風くんは、穏やかな顔つきで話してくれた。そこで、お姉ちゃんとデシャヴって見えたのは、涼風くんがお兄ちゃんとしての顔をしていたからだ、と気づいた。涼風くんは話し終えてから、はっとしたような顔で、私を見る。
「あ……もしかして、いやだった?」
私は即座に首を振った。振ってしまった、と振った後に気づいた。でも、自分の行動を取り消すことはできない。私は少し恥ずかしくなりながら、涼風くんを見上げる。
「私は……スキンシップを取るの、嫌いじゃないから……」
「わ、灯鞠ちゃん、めっちゃかわいいこと言うじゃん」
突然、一条くんの声が割り込んできた。びっくりして彼のほうを見ると、ちょうど天黎が一条くんのおなかを肘で突っついたところだった。
「光海!」
「いや、ごめん。つい」
すると、涼風くんがははっ、と笑った。いたずらっぽい笑みで、一条くんを見つめたが、彼はそこから何も言わなかった。でもなぜか、一条くんには彼の言わんとしていることが分かったらしく、少し口をもごもごさせた後に、そっぽを向いた。事情が分からない私としては、首をかしげるしかない。
「光海って、こんなに軽い人だったっけ」
天黎のため息交じりの言葉に、涼風くんはうーん、と考えこむ。
「そんなことは……あるかも。テニスの試合であった女の子たちと結構話してるし」
「あれはお前のファンだろうが!」
涼風くんのジョークとも真実ともつかない言葉に、一条くんが即座に突っ込みを入れた。涼風くんと一条くんの会話は、時々すごく面白い。私は思わず、声を上げて笑ってしまった。すると、なぜか天黎がつられたように笑いだし、みんなで笑いあった。
「あー、楽しい……」
私は笑いが収まると、そう桜の木を見上げながらつぶやいた。ほかの三人もつられるように桜を見上げる。もう秋の終わり。少し茶色くなってきた葉が、はらりと落ちる。
「……いつまでも、この時間は続けたいなぁ」
涼風くんが、しんみりとそう呟く。私は目を閉じる。たった三か月だけだけど、すごく楽しい。自然と、口元が笑みを作る。
「そうだね」
「私もずっと続けたいな」
「俺もだなぁ……」
天黎と一条くんまでしんみりと呟いてしまうものだから、私は再び面白くなって笑い出してしまった。
……もしかしたら、この時すでに。私たちは、この時間が壊れることを、どこかで分かっていて、恐れていたのかもしれない。
そして時間が壊れることを知ったのは……一週間後の、帰りのホームルームでのことだった。
「えーっと……うん、確かに」
「じゃあ、今度はこっちの問題で同じことやってみて」
「はい! えーっと……これどうなってるの!? 全然形違う……」
あの日から、一か月くらい経って、もう十月だ。朝や昼休み、部活終わりなど、涼風くんが暇なときに裏庭で勉強を教えてもらうことにしているのだけれど、なかなか効果は芳しくない。やっぱり納得はするのだけど、応用ができないのだ。涼風くんの説明は丁寧でわかりやすい。解く過程を丁寧に書いてくれるので、私でも思考が追いやすい。でも、次の日になったり、別の問題になったりするとわからなくなる。
私が悲鳴を上げると、涼風くんが苦笑しながらまたノートに書いて解き方を教えてくれる。そして、私たちが勉強している向かい側からも、教える声が聞こえてくる。
「んで、ここは腎臓計算の……」
「あ、俺腎臓計算の公式わかんねえ」
「はいはい、じゃあ教科書見てちゃんと覚えるよ」
「俺、暗記苦手なんだけど……どうやって暗記してんの、お前は?」
「寝る前に読むと効果的って聞いたことあるから、一応夜に読んでるけど」
少し離れたところでは、天黎が一条くんに勉強を教えている。私たちはそれぞれ一緒に行動することが多いので、せっかくだしと、天黎が一条くんに言ったのだ。涼風くんも一条くんに勧めたから、今こうして一緒に勉強してる。天黎は楽しそうに教えてるから、いい時間になってるな、と思う。
さっき教えてもらっていた問題が終わり、涼風くんがお昼にしようと言ってくれたので、私たちはお弁当を食べ始めた。前では、まだ一条くんが腎臓計算の問題に苦戦していた。
「は? 公式使うって……」
「そ。公式使ってここをこうやってやると……ほら、これがでた」
天黎はさらさらとノートに計算式を書いて、一条くんに見せている。私は一度覗こうかとも考えたが、やめた。私が見ても、またわかんない問題だからとダメージを受けてしまいそうだ。二人がいろいろ議論しながら解いているのに対し、私たちは特に何も話してない。何か話題を……と考えて、一つ思いついた。
「あの……涼風くん、最近はどう? ずっと教えてもらってばっかで、あんまりちゃんと話せてなかったし」
私がそう切り出すと、涼風くんはにっこりとほほ笑んだ。そこに陰りはない……ように見える。
「大丈夫。最近は教えるのが楽しかったし、気にしなくて大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」
その言葉を聞いて、なぜか心臓が早鐘を打ち始めた。私はそっか、とはにかむように笑って、そっと視線をそらした。気まずい……わけじゃない。むしろもっと……一緒にいたい。でも、話そうとすると、涼風くんの優しい言葉を聞くと、なぜか胸が締め付けられる。やっぱりこれは……恋をしているのだろうか。
「そういう夜見さんこそ、大丈夫? ずっと勉強漬けで、しんどくない?」
涼風くんが心配そうにそう逆に問いかけてくれる。私は一瞬強がろうかとも考えたけど……相手は涼風くんだし、弱音を少しくらい吐いてもいいかな、と思ったので、正直に、
「しんどいよ」
と答えた。すると、涼風くんは困ったように眉を下げた。私はでも、と言って微笑みを浮かべてみた。
「涼風くんに教えてもらってるから……一人で勉強するよりはずっとまし。少しだけど、わかってきてる……と思うし」
「それは、強がりじゃなくて?」
涼風くんが即座に問い返してくる。その瞳には、真剣な光が宿っていた。きっと、天黎が前に言ってたことを気にしてるんだ。私は直感的に理解した。涼風くんはまじめな性格っぽいから。天黎が大丈夫じゃなくても大丈夫と言ってしまう、と言っていたのを思い出したんだろう。私は少し悩んだ。
「今は、本当にそう思ってる。でも試験の時には……わからなくなってるかもしれない」
私の恐怖の原因はそこだ。私は一度、試験で頭が真っ白になったことがあった。何もわからなくなってしまった。解き方も、公式も、全部。そこから、怖くなった。また間違える。また解けなくなる。また。また。
「……そっか」
涼風くんはただそういった。そして、ポン、ポン、と私の頭をやさしくなでてくれた。涼風くんはあの日以来、そういうスキンシップを取るようになった。こういうことを言ったら子供じみたように思われるだろうけど、私としては誰かに触れられるのはほっとする。でも……ああ、ちょっと聞いてみてもいいかもしれない。
「ねえ……スキンシップを取ってくれるようになったのは、なぜ?」
私が尋ねると、涼風くんははっとしたように手を引いた。そして、恥ずかしそうに笑う。なぜかその顔が、お姉ちゃんの顔と被って見えた。
「えーっと……直莉に似てるから……って、悪い意味じゃなくて。その……今まで勉強を教えてきた女子って、直莉だけだからさ。なんか、直莉に教えるのと同じようにやっちゃうんだよな……。直莉は、そうして褒めると喜ぶから」
涼風くんは、穏やかな顔つきで話してくれた。そこで、お姉ちゃんとデシャヴって見えたのは、涼風くんがお兄ちゃんとしての顔をしていたからだ、と気づいた。涼風くんは話し終えてから、はっとしたような顔で、私を見る。
「あ……もしかして、いやだった?」
私は即座に首を振った。振ってしまった、と振った後に気づいた。でも、自分の行動を取り消すことはできない。私は少し恥ずかしくなりながら、涼風くんを見上げる。
「私は……スキンシップを取るの、嫌いじゃないから……」
「わ、灯鞠ちゃん、めっちゃかわいいこと言うじゃん」
突然、一条くんの声が割り込んできた。びっくりして彼のほうを見ると、ちょうど天黎が一条くんのおなかを肘で突っついたところだった。
「光海!」
「いや、ごめん。つい」
すると、涼風くんがははっ、と笑った。いたずらっぽい笑みで、一条くんを見つめたが、彼はそこから何も言わなかった。でもなぜか、一条くんには彼の言わんとしていることが分かったらしく、少し口をもごもごさせた後に、そっぽを向いた。事情が分からない私としては、首をかしげるしかない。
「光海って、こんなに軽い人だったっけ」
天黎のため息交じりの言葉に、涼風くんはうーん、と考えこむ。
「そんなことは……あるかも。テニスの試合であった女の子たちと結構話してるし」
「あれはお前のファンだろうが!」
涼風くんのジョークとも真実ともつかない言葉に、一条くんが即座に突っ込みを入れた。涼風くんと一条くんの会話は、時々すごく面白い。私は思わず、声を上げて笑ってしまった。すると、なぜか天黎がつられたように笑いだし、みんなで笑いあった。
「あー、楽しい……」
私は笑いが収まると、そう桜の木を見上げながらつぶやいた。ほかの三人もつられるように桜を見上げる。もう秋の終わり。少し茶色くなってきた葉が、はらりと落ちる。
「……いつまでも、この時間は続けたいなぁ」
涼風くんが、しんみりとそう呟く。私は目を閉じる。たった三か月だけだけど、すごく楽しい。自然と、口元が笑みを作る。
「そうだね」
「私もずっと続けたいな」
「俺もだなぁ……」
天黎と一条くんまでしんみりと呟いてしまうものだから、私は再び面白くなって笑い出してしまった。
……もしかしたら、この時すでに。私たちは、この時間が壊れることを、どこかで分かっていて、恐れていたのかもしれない。
そして時間が壊れることを知ったのは……一週間後の、帰りのホームルームでのことだった。



