夜風の中で、君に伝えたいこと。

 かたかたとパソコンのキーを叩く音。ぱらりとページを捲る音。とんとんと机を叩く音。さらさらと紙に書く音。ぱちんとオセロをひっくり返す音。
 色々な音、だけれども静かな音が、六月の蒸し暑い空気なんか知らないくらい、クーラーが効いている教室に満ちている。この教室は、作法室と呼ばれるもので、ここで書道の授業をやっていたらしい。だから、教室の三分の二くらいはフローリングの床ではなく、畳になっている。残りの三分の一はフローリングで、黒板や教壇が置かれている。
 書道の授業は、今はここではなく普通の教室の方で行っているため、もう本来の用途では使われていない。だから、この部屋を使うのは、この部屋にいるのは、文芸部員だけ。ここは、私が所属する文芸部の部室なのだ。
「あー、ミスった! 四隅取られたー!」
 静かな空気を食い破るように、親友の声が響いた。私は今、目の前にいる親友とオセロをしている。
 文芸部といっても、常にお話を書いているわけではない。この部活のいいところは、何をしてもいいところだ。一年に数回、部誌というものを出版する時はみんなで作業をするけれど、それ以外の時は各々の好きなことをやっている。畳の上に、大きな丸テーブルが置かれている。その周りに各々の家から持ってくる座布団を敷いて、その上に座って何かをする。
 真面目に小説を書く人もいれば、読書をする人もいるし、何か音楽を聴いている人もいれば、宿題をやっている人もいる。私たちみたいにオセロとか、あとはカードゲームをする人もいる。
 ずっと畳の上で座っているのは疲れることもあるから、と昔の先輩が用意したハンモックと、疲れた時に眠れるように、とふかふかの座布団がいくつか部屋の隅にある。
「お疲れ、天黎(あめり)
 そう私は適当に親友に言葉をかけ、無常にオセロの玉をひっくり返す。今、盤の上のほとんどの部分が、私の黒い色に染まっていた。天黎はやる気を無くしたらしく、机に突っ伏した。
 私は時計を見て、まだ結構時間がある事に気づき、窓の外を見た。やることがない時、私はぼーっとすることが多い。頭を空っぽにすることはリラックスする事に役立つ。と言うことを、何かのサイトで見た気がする。だから、私は疲れた時に、頭を空っぽにするためにぼーっとする。
 電子ケトルがぷぴー、と音を立てて、部員のうちの一人が立ち上がってそちらに向かった。作法室は学校の果てのような場所にあるため、教師も顧問が戸締りをしに来るくらいしか来ない。だからよく、まめな先輩がお茶を入れてくれる。たまに持ち寄られるお菓子をみんなで食べることもある。今日は何か食べれるのかな、と考えていると、
灯鞠(ひまり)、暇?」
 天黎の声にそちらを向く。天黎は体を起こして頬杖をつきながら、私を少し恨めしい様な表情で見てきた。オセロで負けたことがよほど悔しいらしい。そこまで根に持たなくていいでしょ、と思いつつ、私は肩をすくめる。
「暇なのは天黎の方でしょ。オセロやるくらいなんだし」
「私に付き合う灯鞠も暇って事でしょ」
 即座に切り返され、そっと視線を逸らす。
「……まあ、そうとも言うかもしれないけど」
「よし!」
 私が曖昧に言葉を返していると、天黎は急に機嫌を直して立ち上がった。みんなが作業の手を止めて、天黎を見る。本を読んでいた、部長である柚月(ゆづき)先輩はゆっくりと首を傾げた。そして、みんなを代表して質問する。
「どうしたの、アメリちゃん?」
「柚月先輩、灯鞠連れて外散歩してきて良いですか?」
「良いよ〜」
 柚月先輩は天黎の考えを聞くと、にこにこ笑いながらすぐに頷いた。天黎はありがとうございます! と元気よく礼を言うと、私の方に回ってきた。
「灯鞠、行くよー」
「ちょっと、天黎……まあ、いっか」
 天黎に引っ張られる様にして立つと、私は柚月先輩と視線を交わし、笑った。柚月先輩と私は仲良くさせてもらっているため、よく視線が合うし、よく笑いあうことが多い。きれいな柚月先輩とこうして笑いあえるのは、文芸部員の特権だ。
「じゃあ、行ってきます」
「いってらっしゃい」
 柚月先輩は微笑んで、手を振ってくれた。他の部員も、頷いたり手を振ってくれたりしてくれる。天黎も元気よく挨拶をすると、私の手を引っ張って学校の中を歩いていく。
「どこに行くつもりなの?」
「裏庭かなぁ。あそこ、全然人来ないから良いんだよねー」
 天黎はほとんど考える時間を取らずに答えた。どうやら彼女の中では最初から行く場所が決まっていたらしい。
 天黎は私をいろいろなところへ連れて行ってくれる。休み時間も、部活の時も、下校の時も、休日も。どこかに行く時は大抵天黎の提案で、私はついていくだけのことが多い。ふと、私はケトルのことと、お菓子のことを思い出した。きゅう、とおなかが鳴る音がする。
「天黎、お腹すいた」
「あ、私も。帰りに購買に寄ってお菓子買う?」
「いいね。差し入れどうする?」
「うーん、今月のお財布事情は厳しめです」
「私も……」
 二人でクスッと笑って、結局差し入れはしない事にした。人といると気疲れしてしまうけど、天黎といる時は全然そんなことがない。
 昇降口でローファーに履き替えて、あまり人が寄り付かない裏庭へと歩いていく。裏庭は、校舎の裏にあるところで、入り口は駐輪場の少し手前にある。あまり手入れが行き届いていないため、草がぼうぼうに生えている。だんだんとそちらに近づいていくにつれて、雑草の背丈が高くなっていく。雑草を踏みしだきながら、私たちは歩く。天黎はその道中も楽しみたいらしく、にこにこしながら提案してくる。
「灯鞠、しりとりしよ」
「わかった。じゃあ、しりとり」
「リス」
「雀」
「目薬」
「理科」
「ちょ、勉強の話題出さないでよ!」
「しりとりだからなんでも良いじゃん」
「そうだけど!」
 些細なことで軽い言い合いをしながら、私たちは裏庭に差し掛かる。ざく、と私が茎がしっかりしている雑草を踏み、ふと下を向いたとき。

「わかった、わかったから落ち着いて、兄貴」

 聞いたことがある声が響いた。私は弾かれたように顔を上げた。この場所で響くはずがない声だった。響くはずがないというか……響くだなんて思っていなかった。それは天黎も同じらしく、目を見開いていた。
「あれ、この声……もしかして、涼風?」
「だよね……」
 私と天黎は顔を見合わせて、同時に裏庭の方を向いた。

 涼風透海(すずかぜとうか)。うちの学年で、ちょっとした有名人である、男子だ。

 先ほど思っていなかった、といったのは、彼がテニス部に所属しているからだ。テニスコートは、駐輪場を超えて、体育館を超えた先にある。学校の敷地を考えると、裏庭とテニスコートは正反対の位置にあるのだ。それに、人気者の彼がわざわざ裏庭に行くとは思えない。聞き間違いだろうか。
「覗く?」
「言い方……」
 ニヤリと笑った天黎によって放たれた言葉に、私は少し眉を寄せた。でも、気になるのも事実だし、裏庭は学校の関係者なら自由に出入り可能だ。もし本当に涼風くんなら、なぜここにいるのかも聞いてみたい。
「行ってみよう」
「よし来た!」
 天黎は私の提案にガッツポーズをすると、自然に私の方へ手を伸ばしてくる。私もそっとその手を握った。緊張しているからか、お互い、手を握る力が少し強い。私と天黎は忍び足で裏庭の入り口に近づくと、そっと裏庭の様子を覗き込んだ。
 そこにいたのは、やはり涼風くんだった。彼は、誰かと電話しているように見える。此方に背を向けているせいで、その表情は読み取れない。
「ああ、今日もすぐ帰るから。……うん……わかった、チョコレート買ってくから」
 クシャ、と彼が髪をかき乱す。つま先が土を蹴り、石ころが地面から飛び出すように跳ねる。
「……そうか、よかった。……あー、真に受けるな。アイツのことだから、そんなに深く考えてないよ」
「なんだか、大変そうだねぇ」
 天黎がこそっと呟きを漏らした。私は頷いた。さっき聞こえた時、涼風くんは兄貴って言っていた。でも、今の彼の言葉は、電話の相手をあやしているように聞こえるのだ。そして、彼が行っているあのしぐさ。物に当たっているようにも見えるのは、こちらも気のせいなのだろうか。なんとなく、目が離せない。
「……ああ、じゃあ、また後で」
 彼はスマホを耳元から離して、画面を操作した。そして、手近にあった壁に寄りかかって、深くため息をついた。手が、体のわきでぎゅっと握りしめられて。
「……くそ」
 涼風くんの口から、低い言葉が漏れた。私はえ? と思わず声をあげてしまう。弾かれたように、涼風くんがこちらを見た。私は瞬発力がないから、あたふたしているところを見られてしまう。天黎はといえば、私からパッと手を離して、壁に張り付いて息を潜めている。
「あ……夜見(よるみ)さん」
 涼風くんに名前を呼ばれた。仕方なく、私は涼風くんの方に歩いていく。えへへ、と力なく笑みを浮かべながら、申し訳ない気持ちで、せめて誠意を示そうと、涼風くんの瞳をじっと見つめる。
「ごめん、なんか、盗み聞きしちゃって……」
「あ……い、いいよ、気にしないで」
 そう言う彼の笑顔は、どこか引き攣っているように見えた。そして、なぜかはわからないけれど、私にはその笑顔が、作り笑いだとわかった。
 私の胸の中に、先ほどの違和感がむくむくと実体化した。気になる。放っておけない。そんな声が頭の中で響く。しばらく二人とも何も言わなくて、なぜか少しずつ焦りを感じ始めて。私の口から飛び出たのは、
「その……大丈夫?」
 率直すぎる言葉だった。こう言う時、なんで文芸部のくせに語彙力がないんだって、自分を恨む。私の言葉は、涼風くんの表情を余計にこわばらせてしまったのだから。
 彼は、行き場のない視線を彷徨わせて、やがて俯いた。
「……今聞いたこと……誰にも言わないで」
 低い声で、彼はそう私に念押しをした。今聞いたこと、それは誰かとの電話だろうか、それともその後に漏らした呟きだろうか。どちらにせよ、私の返答はひとつしかなかった。
「うん」
 彼は緩慢な動作で顔を上げて、力ない笑みを浮かべた。いつも浮かべてるキレイな微笑みではなく。キュッと胸が詰まるような感じがした。
「ありがとう」
「とうかー! そろそろ練習戻ってこーい」
 涼風くんを呼ぶ声が、涼風くんの言葉に被せるように響いた。彼はそっと私から距離を取る。緩慢な動作で手を挙げて、ゆっくりと歩きだす。振り向いて、微笑む。
「じゃあ……またね、夜見さん」
「うん……頑張ってね、涼風くん」
「ありがとう」
 その言葉とともに浮かんだのは、いつもの微笑みだった。そして彼は再び私に手を振ると、駆け出していった。私はその場に取り残された。
 さあっ、と風が駆け抜けた。スカートがはためき、髪が顔にかかる。深呼吸をして、心の中にある迷いと向き合う。
「灯鞠」
 名前を呼ばれて、振り向けば、天黎がこちらを見ていた。こちらの考えなんかお見通しだと言いたげに、腰に手を当てている。
「天黎」
 私の声が震えていることに、気づかれただろうか。天黎は仕方がなさそうな笑みを浮かべた。
「相変わらず、優しいね」
 そこに皮肉が混じっていることに、私が気づかないはずもない。せめて気丈な声を出そうと、
「うるさいなぁ」
 そっけなく言ってみる。天黎は私の方に歩いてきて、私をぎゅっと抱きしめてくれる。すぐ他人の感情に影響される、そんな自分が少し嫌いだった。
「……一緒に考えてあげる」
「……相変わらず、優しいね」
「うるさい。私のこれは、灯鞠限定だから」
「そっか」
 しばらく、私たちはそのままでいた。お互いの体温が一緒になるまで。