主演に抜擢された。明日はその収録だ。
初めてアニメという文化に触れた二十年前の俺に、声優を目指して養成所に通い始めた十年前の俺に少しは誇れる自分になれただろうか?
「ただいま」
情報解禁に合わせ、報告がてら数か月ぶりに実家へと足を運んだ。しかし、玄関には両親どちらの靴もなかった。
リビングのテレビはスピーカーがまた新しい物になっていた。ファイリングされた大量のSDカードとCDが並ぶ棚から、一枚のDVDを探し出して再生する。永遠に色褪せない名作の懐かしいオープニングが流れ出した。
「カラオケ、修斗も来いよ。帰宅部だし暇だろ?」
新学期の放課後早々、辻浦に絡まれた。肩を組まれ、目が逃がさないぞと語っている。
決して暇だから帰宅部なのではない。夢のために声優養成所に通っているからだ。しかし、今日はレッスンが休みの日だから、付き合ってやるのもやぶさかではない。
「親睦会の幹事手伝えってか?」
「話が早くて助かる」
辻浦に連行され、総勢十八人でカラオケに向かう。
「楽しみだねー」
後ろの方から信楽聖奈が友達と話している声がする。大勢の中にいても、信楽の声だけは色がついているからすぐにわかる。
自己紹介で初めて声を聞いた瞬間、赤い光が見えた。共感覚者を自称するつもりは毛頭ないが、彼女の声には色がついている。信楽聖奈の声の“赤”に脳を焼かれた。土壇場参加の理由の半分は、彼女の歌声も美しい赤なのかという好奇心だった。
カラオケボックスに着くと、パーティールームに案内された。着席するや否やデンモクを回されたので昔流行ったサッカーアニメの曲を入れた。女子がJ-popを歌う傍ら、辻浦がフードを端末で注文している。
「なあ修斗、ポテト二皿でいいと思う?」
「いいんじゃね?」
辻浦の相談に乗っているとあっという間に曲が終わり、聞き覚えのある曲のイントロが流れ始める。去年流行ったアニメのOPだ。顔を上げて画面を見る。
「おっ、アニメ映像」
映像に見入っている間に辻浦は注文を終えていた。その次の次くらいの曲順で俺に順番が回ってきた。懐かしい選曲で程よく盛り上げ、仕事完了。十八人もいれば次の順番はしばらく回って来ないだろう。
「桐原歌上手いねー、イケボじゃん」
「さんきゅ」
隣でデンモクをいじっていた女子に褒められた。一言だけの会話を終えると、フードが来たので受け取った。辻浦と二人で皿を並べ、おしぼりと割り箸をみんなに回す。そうしている間にも曲は進んでまたアニソンが流れた。
「おい、修斗。手、止まってんぞ」
「あ、ごめん」
フードの到来に育ち盛りの面々が盛り上がる中、曲が終わる。みんながポテトを取りあって騒いでいるので、辻浦がマイクを掲げて声を張った。
「次、誰?」
画面には昨クールの覇権アニメのOPのタイトルが表示されていた。大ヒットして、アニメが終わっても街中でよく流れている。超高音域のサビの難易度の高さゆえカラオケで歌うと大抵事故になるが、誰が入れたんだろう。
「マイクこっちお願い」
赤い光が見えた。信楽が手を挙げている。マイクが信楽の手に渡ったところでイントロが流れた。
信楽が声を発した瞬間、空気が目に見えて変わった。今まで赤く光っていた信楽の声は、より鮮烈な青い光に変わった。衝撃というには生ぬるい電撃が全身を駆け巡った。青い光の中、信楽の背中に翼が見えた。地上に舞い降りた歌姫、歌うために生まれてきた天使……信楽聖奈を陳腐な言葉でしか表現できないことが悔しかった。
サビに入るとその“青”はいっそう輝きを増した。高音域が出るとか出ないとかそんな次元の話ではなかった。歌いこなすだけではなく、歌を自分のものにして唯一無二たりえる力。彼女は持って生まれた存在だ。
歌が終わって気づいたが、みんなポテトを食べる手が止まっていた。彼女の歌に聞き入っていたようだ。たった四分で彼女は俺だけではなく、この場の全員を魅了した。
「信楽さんうますぎ! 天才!」
みんなが口々に彼女を褒める。俺はただひたすら余韻に浸っていた。
「ねえ、次これ歌ってよ」
信楽にリクエストが殺到したのは言うまでもない。早口かつ音域の広さが異常で人間が歌うことが想定されていないボカロ曲が予約された。
何曲かの後にまた信楽にマイクが渡る。今度は信楽の翼が緑色に光った。息をするのも忘れるくらいに美しいライトグリーンだった。
その後も信楽は様々な色の光を放ちながら歌った。ある曲では紫色の、ある曲では金色の光が見えた。信楽聖奈は虹のような歌姫だった。
永遠に続いてほしいと思った時間はフリータイムの終了とともに終わり、流れ解散となった。大多数が駅に向かう中、反対方向に歩く信楽を気づけば追いかけていた。
「信楽さん!」
自分でも声が上ずってしまったのが分かった。信楽が首だけ振り返る。目が合った瞬間、冷静になった。わざわざ後をつけて、俺は何を言おうとしていたんだろう。下手なことを言えばストーカーだ。
うまく声が出なかった。落ち着け、俺。仮にも声優の卵だろ。そういうセリフだと思えばいい。台本に「歌うまいね」と書いてある状態をイメージしろ。脳内でアニメ調にデフォルメされた俺がしゃべる口の動きに合わせて、素直な感情を乗せる。
「お疲れ。信楽さん、歌上手いんだね」
うまく言えた。少なくとも、この言い方そのものは不快感を与えてはいないだろう。しかし、これを言ったあとのことはまったく考えていなかった。ただ衝動的に、詩の感想を彼女に伝えたいと思った。自分でも馬鹿げていると思う。俺の緊張をよそに、信楽が踵を返して二歩俺の方へと歩み寄った。
「嬉しい、ありがとう」
信楽の声のトーンが上がり、赤色の彩度が二段階明るくなる。
「私も桐原君の声、好きだよ」
続く言葉に世界が色づいた。夜の闇が一瞬で赤い光に包まれた。世界中から信楽の声以外のすべての音が消えて、信楽の声だけが脳の奥でリフレインした。
声は俺のアイデンティティーだ。俺の存在全てが肯定されたような気がした。
「桐原君ってアニメ好きなの?」
「うん」
「だよね! アニソンに反応してたし」
カラオケでの一挙一動を見られていたことに気恥ずかしさを覚えた。
「嬉しいなー、同じクラスにアニメ語れる人いて。桐原君もバス?」
「いや、俺は徒歩通」
「そっか、残念」
答えた後に信楽の質問の意図に気づいた。帰り道でアニメを語ろうと誘ってくれていたのに断るような形になってしまった。
「いや、もう暗いしバス停まで送るよ。家、そっちの方だし」
「ほんと? ありがとう」
本当は遠回りになるが、おそらくアニメ好きで話が合いそうな信楽と話がしたかったのでバス停に向かって歩き出す。春アニメの話題は想像以上に盛り上がった。繁華街を抜けて河原に出ると、ライトアップされたグラウンドでおじさん集団がサッカーをしていた。あまり上手くはない。おそらく実業団ではなく、仕事帰りの社会人サークルだろう。
「今日はありがと! また今日みたいに一緒に話そ!」
別れ際、バスに乗り込む際に信楽がそう言って手を振った。次の機会があるかなんてわからないのに、俺はこうしてまた信楽と話すのが無性に楽しみだった。
いつになるかわからないと思っていた“次”は予想外にすぐ訪れた。翌日の夕方、養成所のレッスンが終わると偶然信楽と出会った。学校と養成所はそう遠く離れていないので信楽がここにいることは不思議なことではないが、何か運命めいたものを感じた。
「お疲れ。部活帰り?」
「部活は入ってないよ。あそこのボイトレ教室に通ってるの。桐原君は家、この辺なんだっけ?」
そう言って信楽が向かいのビルを指さした。この間、徒歩通学だと言ったことを覚えてくれていることが嬉しかった。
「うん、この辺。てか、信楽さんボイトレ通ってたんだ。道理で歌、神懸かってると思った」
「嬉しい、ありがと!」
信楽はそう言って笑った。
「もっと言って!……なんちゃって」
悪戯っぽく舌を出す。歌っている時の信楽は人間離れした風格があるのに、普段の信楽はお茶目な面もあるのだなと意外に感じた。
「実際、お世辞抜きに俺、信楽さんの歌好きだよ」
「ありがと! 桐原君イケボだから褒められると耳の保養って感じ」
俺が信楽を褒めたはずなのに、気づけば俺が褒められていた。
「どうも……」
「実は今まで誰にも言ってないんだけどね、私、ネットで歌い手やってるの」
「え、何て名前?」
「巴セナ。ほら、これ」
信楽はスマホで配信用アカウントを見せてきた。かなりの頻度で投稿しているようだ。登録者数は千くらいだ。もっと多くてもいいだろ。信楽ほどの逸材が埋もれていていいはずがない。
「まだ数字全然取れてないけど、いつかは世界中の人が私の歌、聞いてくれたらいいなって思ってるんだ。って、調子乗りすぎちゃったかな? 桐原君なら私の夢、笑わないで聞いてくれる気がしたから」
「笑わないよ。信楽さんなら絶対、夢叶えられるよ」
信楽の目を見て、はっきり言った。
「俺も、声優目指してるんだ」
隠しているつもりはなかったが、わざわざ友人に言ったこともない。でも、信楽なら絶対笑わないという核心があった。何より、彼女の声には俺と同じような大きな志がこもっていた。
「すごい、天職だね! 桐原君なら絶対なれるよ」
初めて信楽の声を聞いた時よりもさらに強く心臓を鷲掴みにされた。
「ありがとう」
信楽の声が発する熱に浮かされて、それだけ言うのがやっとだった。
どちらからともなく、昨日と同じようにバス停へと歩き出した。河原のグラウンドでは昨日より少し年齢層の高いおじさんたちがサッカーをしていた。信楽と話すのは楽しかった。信楽の歌声はもちろん最強だけれど、信楽が普通に話している声も好きだからだ。
「じゃあ、桐原君は中学の時から養成所通ってるんだ。私も中学からボイトレ通ってたからもしかしたらニアミスしてたかもね」
「バスで? 遠くない?」
「ちょっと遠いけど、地元に音楽教室みたいなところないから。バスで三十分の距離でこんなに違う? ってくらい栄え方違うもん」
バスの終点が示す地名は、畑と田んぼしかない村という印象だ。
「本当に田舎だよ。通ってた小学校、今年の春に廃校になっちゃったし。正式には合併らしいんだけど」
信楽は自分の地元がいかに田舎かをものすごい熱量で語った。
「まあ、人はあったかくて優しくて、いいところなんだけどね」
バスが来たので信楽が会話を閉じた。
「あのさ、今日教えてもらったアカウントで載せてた歌、聞いてもいいかな?」
別れ際、バスのステップを上る信楽の背中に問いかける。
「大歓迎!」
信楽は振り返ってそう答えると小さく手を振った。
家に帰って、さっそく巴セナのアカウントを検索し、アップされている最新の曲を聴いた。僕の好きなアニメソングのカバー。やっぱり彼女の歌には色がついている。俺は既に巴セナのファンになっていた。
バズには至っていないものの、俺と同じように巴セナに脳を焼かれたファンは多いようだ。一度掴んだファンは離さない魅力が彼女の声にはある。コメント欄ではファンマークをつけた古参ファンが「セナちゃん神」と大量のハートマークとともにコメントしていた。
巴セナの歌を聞いて心が動かされた。それを伝えるための文章を個人ラインのトーク欄に下書きしたが、どうにも気持ち悪かった。俺は文章を書くのが苦手だ。言葉を選ぶことと、それに気持ちを乗せて話すことは別の才能が必要だと思う。
迷った末、信楽に電話をかけた。文字だけのコミュニケーションよりもちゃんと今の気持ちを伝えられる気がしたからだ。
「もしもし、信楽さん? 今、大丈夫?」
「桐原君? どうしたの?」
「聞いたよ、巴セナの歌。すっごくよかった。この間生歌タダで聞かせてもらったの申し訳ないくらいだわ」
「えー、嬉しい。私こそ、声優の卵と電話なんかしてたら未来のファンに怒られちゃうかも」
「いや、声優だって電話くらいするだろ。歌手の卵の歌に対応すんのってシチュエーションボイスとかじゃね?」
「やっば。そんなんされたら惚れちゃいそう。私、声フェチなんだよね」
「え、今の振り?」
フレンドリーな女子の言葉はどの程度真に受けていいかいまいちよくわからない。声が好き、とか言われたら勘違いして暴走する男も少なくないだろう。
「え、いいの?」
たぶん、実際にそれっぽいことを言ってもドン引きはされなさそうだ。信楽は耳がいい。信楽から客観的な感想をもらえたら、今後の演技に役立てることができるのではないだろうか。
「あ、じゃあ、デートに誘うってシチュでいいっすか」
「うん」
あまり生々しくないものを選んだ。息を整えて、全力の演技をする。
「セナちゃん、次のオフ遊びに行かない? 二人きりで、さ」
スマホの向こう側から、キャーという声と手足をバタバタさせているような音がした。
「破壊力やっば! これは沼るって!」
信楽の言葉で、俺は自分の声に自信が持てた。信楽の声にはそういう魔力があるようだ。
「え、ちなみに今のセナちゃんは、巴セナに対してですか? 信楽聖奈に対してですか?」
電話の向こうで悶えているような口調で質問される。その言葉に、ほんの少しだけ欲が出た。先ほどと同じ声で押してみた。
「巴セナに対してだって言ったら、カラオケで俺のために歌ってくれる?」
またもキャーキャーという声が聞こえた後、しばらくして小さな声で聞かれた。
「これ、本気にしてもいい?」
つまり誘いはOKということ。巴セナの歌声聴き放題のボーナスタイムが降ってきた。
「もちろん」
いつもの俺の素の口調で答えた。約束成立。通話を切った後も、信楽が放つ赤い光の余韻が残っていた。
翌週、放課後約束通りに信楽聖奈改め巴セナの歌を堪能した。日の入り前に切り上げて、いつものようにバス停まで信楽を送る。あの後二回ほど帰宅時間がかぶり、その時もそうしていたからだ。
「やあ、最高だった。やっぱセナちゃんしか勝たんわ。あ……ごめん」
今日に至るまで巴セナのアップした歌を何度も聞いて来た。コメント欄では大体下の名前で「セナ様」「セナちゃん」と呼ばれていたからそれにつられてしまった電話で感想を伝えるときは気を付けていたけれど、つい気が抜けてしまった。これはセクハラになるかもしれない。
「謝んないでいいよー。名前呼びの方が好きだし」
焦る僕を信楽が笑い飛ばし、ほっとする。
「じゃあ、聖奈って呼ぶわ」
ちゃん付けはガチ恋っぽいし、様付けしているところをクラスメイトに聞かれでもしたら正気を疑われる。
「いいよ。私も修斗って呼んでいい? あれ、桐原君って芸名どうする予定なんだっけ? そっちで呼んだ方がいい?」
「修斗でいいよ。本名のままでいくつもりだし」
そう答えた瞬間、いつものグラウンドからサッカーボールが飛んでくるのが見えた。咄嗟に信楽に当たらないように庇い、ボールをトラップする。
「あっぶね。大丈夫だった?」
「うん、ありがと」
グラウンドの方を見ると今日は老若男女が入り混じった社会人サークルらしき団体がサッカーをしていた。
「すみませーん!」
母と同年代くらいのおばさんが大きな声で叫んだ。俺はグラウンドに向けてボールを蹴り返した。またボールが飛んできてはたまらないので、グラウンドの前を足早に通り抜ける。
「サッカーうまいんだね」
「幼稚園から十年やらされてたからな」
「やらされてた……?」
つい、口が滑った。しかし、これは俺の声優を目指すきっかけにも関わってくる話だ。お互い夢を追いかけている身としてはいつか話すことになるだろう。
「少し、時間ある?」
聖奈が頷く。河原に腰掛けて、沈む夕日を眺めながら昔話を始める。
「元々は親父が幼稚園から大学までずっとサッカーやってたんだ。プロになりたかったんだって。今はメーカー勤めだけど」
この話も当然今まで誰にも話したことはない。同じく夢追い人の聖奈だから話せることだ。
「よくあるじゃん。自分が叶えられなかった夢を子供に代わりに叶えてもらうってやつ。シュートって名前も俺の親父の夢の残骸みたいなもん」
サッカーをする前提で名づけられた名前が嫌いだった。子供を使って敗者復活戦をする父を軽蔑していた。
「親父いい大学の体育会出てるからさ、ドがつくほどのホワイト企業で、基本定時帰りなんだよ」
少し離れたグラウンドに目を向ける。ボールは飛んでこない距離だが、「ナイスシュート!」と盛り上がる声が聞こえてくる。
「この辺、社会人のサッカーサークル多いだろ。サッカーやろうと思えばいつだってできるのに、親父がサッカーの話をするときは全部過去形なんだよ。夢だった、全国大会に行きたかった、あの頃は楽しかった、って」
サッカーを語る父はみっともない負け組だった。それでも父を心の底からは嫌いになれなかった。
「たぶん俺、親父と同じ職業目指せって言われたら受け入れてたと思うんだよな。詳しいこと知らないけど、親父特許何個も取っててさ。仕事の話してる親父は生き生きしてた」
思い出の中の父は小学校の自由研究を手伝ってくれた。「修斗は発明の天才だな」と褒めてくれた。自由研究では毎年賞をとれた。親子ともども運動よりは科学の方面に才能があったのだと思う。
「でもさ、親父に言われて始めたとはいえ、スポーツやってりゃ負ける悔しさとかからは逃れられないわけで」
昔取った杵柄で体育の授業程度なら「サッカーの上手い人」でいられる。でも、クラブでは後から入ってきた人に抜かれる劣等感を抱くことも多々あった。
「幼稚園の終わりくらいの頃から、サッカーのアニメやってたの覚えてる?」
「うん、内容全部は覚えてないけど」
「そこにはさ、親の期待背負ってサッカーしてる子とか、負けて悔しがってる子とか、俺みたいな子がいた。すっげー共感した。悩んでるの俺だけじゃないんだ、って救われた」
テレビの中に広がる世界は単なる絵じゃなかった。彼らの人生が交差して紡がれる物語に没頭した。
「最後の方には親にサッカーやること反対されてる子が親を説得するシーンとかもあってさ。俺、それ見て勇気が出たんだ。声優になりたいって、親に言えた」
人の人生を変えるのは文字か、声か。俺は声だと思う。目から入る情報よりも耳から入る言葉の方が脳に直接届くような気がする。少なくとも、あの頃泣いていた俺にとってはそうだった。
「だから、今度は俺が声優になって、俺の声でどこかで悩んでる子たちの心を救いたい。文字が読めない子とか、漫画買う金ない子も含めてな」
「素敵な夢だね、修斗ならできるよ。あ、ごめん……名前呼び、やっぱり嫌だよね?」
「いや、今は親父とも和解してるし。その辺の生い立ち全部ひっくるめて俺だから、声優は本名でやろうと思ってる。だからいいよ、修斗で」
「修斗は強いね」
聖奈に人生を肯定された。また少し強くなれた気がした。話してよかったのだと思う。
「聖奈はどうして歌手になりたいって思ったか聞いてもいい?」
「最初のきっかけはおばあちゃんが褒めてくれたからかな。聖奈ちゃんはお歌が上手ねって。五歳の時に死んじゃったんだけどね」
触れてはいけないことに触れてしまったのだろうか、言葉を失った。
「うちは親両方ともものすごく忙しかったから、ほとんどおばあちゃんに育てられたようなもので。結構寂しさを抱えた子供だったわけですよ。あ、親と仲悪いわけじゃないよ。録音機材とかお願いすれば何でも買ってくれるし、ボイトレ教室だって通わせてくれてるし」
聖奈が慌てて親をフォローした。
「で、私の場合は心を救ってくれたのが音楽だったんだよね。だから、私も音楽で世界の誰かの心を救いたいの」
「そっか。似た者同士だったんだな、俺たち」
聖奈が夢を語ったときに湧いた親近感の正体が分かった。承認欲求に基づいた夢ではなく、かつての自分と同じように、世界のどこかで悩んでいる誰かの心を救うという夢。
「絶対、お互いに夢叶えような」
握り拳を聖奈の方に突き出してグータッチを求める。俺の手に聖奈の手がこつんと触れた。
制服が夏服になるころには、電話で話すことも帰り道におしゃべりをすることも日課になっていた。巴セナのチャンネルの登録者数は着実に増えてはいるが、決定的なバズはない。アーティストの道は運が絡む世界だ。特にネットの世界では、いくら実力があっても埋もれてしまう人もいる。
「でもさ、そういうの全部実力でぶち抜いていくのが主人公ってものでしょ?」
そう力強い声で言ってのける聖奈を心底尊敬していた。聖奈は絶対に音楽で世界を救う歌手になれると信じていた。眩しいくらいの“赤”にあてられて俺もいっそうレッスンに身が入った。
「修斗は最近どう? なんかそわそわしてる感じするけど」
実力があるのに巡り合わせが悪い聖奈とは対照的に、俺は千載一遇のチャンスが目の前に到来していた。秋アニメ『ドクター・ゼータ』に出演する。しかも、奇跡的にネームドの役をもらうことができた。その収録が三日後に迫っている。
「もしかして主役決まったとか?」
「そうだったらよかったけど、仮にそうなったらプレッシャーで死ぬわ……」
半分嘘だ。既にプレッシャーに押しつぶされかけている。緊張でろくに眠れていない。元々主人公のゼータ役のオーディションを受けていて、ゼータ役は別の人に決まったが、声が別の役のイメージにぴったりだということでアルという少年の役に抜擢された。
「既に目にクマできてるけど」
「正直、プチ不眠症」
「まあ、言えないこともあるよね」
聖奈も芸能界進出を目指しているということもあり、理解が早くて助かる。それ以上詳しくは聞いてこなかった。
「ねえ、この後時間ある?」
バス停につくなり、突然質問される。レッスンはないし、このまま家に帰って自主練をしても行き詰まる予感しかしなかった。
「うん、平気」
「じゃあ、ちょっと付き合ってよ」
「どこに?」
「元気が出る、とっておきの場所!」
聖奈に連れられてバスに乗る。聖奈は優しい。俺が悩んでいるのを察して、理由も聞かずに励ましてくれる。
聖奈の声は聴いていて元気が出る。ただ、聖奈と話していて楽しいのはそれだけが理由ではない。夢の本質が同じだけあって、聖奈とは価値観が合う。だから、話していて楽しい。それが夢の話でも、アニメの感想や考察でも、教室で起こった他愛のない出来事の共有であっても。
守秘義務さえなければ、真っ先に聖奈に話して相談したと思う。俺は巴セナのファンであり、巴セナは同じ夢を見る同志だ。そして、信楽聖奈は俺の友達だ。
『ドクター・ゼータ』は異世界転生する医者の物語だ。俺が演じるアルは同じ病気の少女に恋する少年患者。出番は第一話だけだが、重要な役だ。俺なりに原作と台本を読み込み、アルという人間を解釈して演技に落とし込んだ。ただ、はじき出した答えが正解なのか分からない。俺は恋をしたことがないからだ。収録日が間近に迫り、自信がなくなって不安に襲われている。
車窓からは手を繋いで歩く学生カップルが見える。彼らなら、正解がわかるんだろうか。聖奈の横顔をちらっと見る。聖奈は恋をしたことがあるのだろうか。
頭の中がぐるぐるしているうちに、終点に着いた。聖奈に連れられて辿り着いた先は小学校。おそらく廃校になったという聖奈の母校だろう。聖奈は躊躇なく校門に入っていく。
「入っていいの?」
「うん。二月までは取り壊さないで、思い出の場所的な感じで開放するんだって」
よく見ると校庭で子供が遊んでいるし、校舎に入れば色々な教室から談笑している声がする。
「ここ、穴場なんだよ」
聖奈が案内したのは屋上だった。先客はいない。
「目、瞑ってみてよ」
言われるがままに目を瞑る。視覚をシャットアウトすると聴覚がより鋭敏になる。名も知らない鳥の声。風で木々がざわめく音。時折、子供たちが「鬼切った」と叫んでいる。懐かしい響きだ。少しの間、音の波に身をゆだねた。
「なんか、癒されない? こういう音って」
聖奈に突然声をかけられる。しかし、その声も自然と調和していた。
「うん、癒される。今夜はよく眠れるかも」
少しだけぼんやりした頭のまま答える。
「私の昔話、するね。寝ちゃってもいいよ。親が忙しいから、放課後は学童にいたんだ」
仲が良かった友達の話、優しい先生の話、合唱コンクールの話……。夢現で聖奈の生まれ育った街の音を聞きながら、聖奈の昔話を聞けば頭に情景が浮かぶ。聖奈の思い出の物語のはずなのに、なぜかそこに俺がいた。これが現実ならよかったのに。もしも聖奈と幼馴染になれていたら。もっとたくさん聖奈と話ができた。もっと早く出会いたかった。
ふっと突然眠気が消える。目を開けて、はっきりとした意識で聖奈を見つめると聖奈が視線に気づいた。
「起きた?」
「おかげさまで。だいぶ回復しました」
「じゃあ今から少しだけ、未来の話をするね」
聖奈はそう前置きをした。
「そう遠くない未来に修斗はアニメの主演声優になって、そのアニメで私が主題歌を歌う。そんな未来があったら素敵じゃない?」
それが実現するかはわからない。でも、もしそれが叶ったとしたら、これほど素敵なことはないと思う。二人で力を合わせて誰かの心を救う未来、声の力で一緒に世界を変える未来。
「うん、いつか……な」
「っていっても、私は修羅の道三歩進んで二歩下がってる状態だけどねー」
「いやいや、聖奈が先にプロになってるかもしれないじゃん。案外、一年後にはアニソン歌って紅白出てたりしてな」
綺麗な約束だけれども、聖奈が妙に弱気なのが気になった。
「いやー、厳しいよ。私、作詞作曲の才能はないもん。イメージに合う曲ドンピシャで作れる人には勝てないっしょ」
聖奈の言うことには一理あった。巴セナのアップしたカバー曲に比べて、オリジナルソングは目に見えて再生数が低く反応が悪い。聖奈の歌唱力のおかげで聴けるクオリティではあるが、聖奈の魅力を生かしているとは正直言い難い。
「あはは、茨の道ですよー。歌えるだけじゃなくて曲もちゃんと作れないと必要とされないよね」
「そんなことない。誰かに届く言葉を考える原作者や脚本家と、それを演じる声優にどっちが上とか下とかないだろ。音楽だって、作詞作曲する人と、それを歌って誰かに届ける人に優劣つけるなんてナンセンスじゃね?」
俺は聖奈の目を見てハッキリ言った。
「それに聖奈の才能は本物だから、聖奈の歌声に惚れて聖奈のための曲を書いてくれる人といつか必ず出会えるはずだ。それに、ネットからシンガーソングライターとして成り上がらなくたって、オーディションとかいくらでも方法はある」
声に自然と感情がこもった。しばらくの沈黙のあと、聖奈が呟く。
「そうだよね」
その声には、いつもの聖奈の色が宿っていた。希望の色。未来の色。この夕焼けと同じ赤。
「諦めるなんて、私らしくないよね! 自分を信じなきゃダメだよね! うん、何年先になっても絶対私、プロになる。それで修斗が主役のアニメの主題歌を歌って、世界中の人を音楽で救う!」
その声を聞いて確信した。聖奈は絶対にこの未来を有言実行すると。
「だから修斗は夢の先で待っててね」
そして俺も目が覚めた。大事なのは自信だ。そして、それは今の俺に足りなかったものだ。
「そしたら私、必ずその夢を運命にするから」
せっかくのチャンスに怖気づいている場合ではない。自分の練習の成果に自信を持て。
「運命は自分で作るものでしょ?」
聖奈がそう言った瞬間、風が木々を揺らす音がして、それに合わせて聖奈のポニーテールが揺れた。直後にアニメのエンディングのように音楽が流れ始めた。初めて聞くメロディが屋上に設置されたスピーカーから流れている。
今なら何でもできる気がした。無敵感に満ち溢れていた。俺は今の聖奈の声とそれに連なる一連の音を生涯忘れないだろう。
「これね、校歌。最終下校時刻のチャイムはこの音なんだ」
どこかノスタルジックに響く音。夕日の中でポニーテールを揺らして笑う聖奈は美しかった。愛しいと思った。
ようやく気付いた。俺は聖奈が好きだ。
最初は声が好きなだけだった。巴セナの歌声を純粋に綺麗だと思い、推し活の真似事をしていた。それがいつからか「声を聞いていて楽しい」から「話していて楽しい」に変わっていた。もっと一緒に話したい。もっと同じ時間を過ごしたい。一秒でも長く一緒にいたい。いつしか俺は信楽聖奈という一人の人間に恋をしていた。
恋を知った俺は無敵だった。面白いくらいに知ったばかりの恋という感情を演技に反映することができた。収録で演技を絶賛された。いいことの連鎖は続く。プロデューサーの目に留まり、また新しい役のオファーをもらった。レギュラー出演ではなく一話限りの出演だが、重要な役どころだ。
聖奈の方も吹っ切れたようで、投稿する歌のクオリティはさらに上がった。再生数、登録者数ともに伸び率が上がっている。
あっという間に夏休みに入った。夏休みには何度も小学校の屋上に誘われた。朝の暑さがマシな時間帯のうちに日傘をさして屋上に集まって、昼になったら冷房の効いた室内に移動する。蝉の声や風鈴の音をバックにおしゃべりをするだけの幸せな時間。四十五分おきに流れる通常のチャイムも、俺たちの学校とメロディが同じでも音色が違った。
「私さ、秋にオーディション受けるんだ。アニソン歌手募集ってやつ」
毎年大手プロダクションがやっている超大型オーディション。これに勝つことは間違いなく夢への最短ルートだろう。
「応援してる」
今はお互いの夢にとって一番大事な時期だ。だから、恋心を自覚しても告白はしなかった。
午後五時半の最終下校時刻のチャイムのメロディに合わせて校歌を小さな声で口ずさむ聖奈が夏の思い出の象徴だった。好きだという言葉が溢れないようにこの夏の僕は必死だった。
新学期が始まるのと、巴セナの歌の再生数が急に跳ねて、登録者数が一気に倍増したのはほぼ同時だった。この機会を逃すまいと聖奈は毎日投稿をしている。
「あ、聖奈。ちょっといい?」
昼休み、放課後の予定を聞こうとして聖奈を呼び止めた。しかし、聖奈は足を止めることなくそのまま教室から出て行ってしまった。あれ? 無視された? 俺、何かした? 急に不安になった。
しかし、翌日それは俺の杞憂だったと知る。
「修斗、今日一緒に“秘密基地”に行こうよ」
聖奈の方から誘われた。
「毎日投稿あるのに大丈夫?」
「大丈夫! もうできてて予約投稿設定もばっちり!」
聖奈がそう言うので、一緒に小学校の屋上に行った。春にはたくさんいた人たちも、一般開放が何か月も続けば次第に来なくなり今はほとんど見かけない。その影響もあって、聖奈はこの場所を秘密基地と呼ぶようになった。人の声が聞こえなくなり、自然の音だけが聞こえる屋上に寝転んで目を閉じる。
「こうして、綺麗な音の中で目閉じて、音だけを感じてる瞬間って一番幸せだよね」
聖奈の声が上からではなく至近距離から聞こえる。目を開けて隣を見ると、すぐそばに寝転んだ聖奈の顔があった。その状況にドキッとする。距離が近すぎる。
「確かに」
それだけ答えて顔をそむけた。俺にとって一番綺麗な音は聖奈の声だ。いつか街角のラジオから聖奈の歌声が流れるようになったら、それはきっと素晴らしい世界なのだろう。
九月は聖奈に振り回されっぱなしだった。秘密基地での距離が異様に近い。肩が触れるくらいの距離に座り込まれては、耳のいい聖奈に心臓の音が聞こえないかひやひやする。
なのに、教室では避けられている気がする。聖奈から普通のクラスメイトのノリで話しかけられることはあるけれど、こちらから話しかけてもスルーされることもある。
嫌われたのかと不安になるが、この秘密基地でのフレンドリーさ加減から見るとそういうわけではないと思いたい。もしかして、クラスメイトに妙な噂を立てられないように警戒しているのだろうか?
お互い目指しているところは人気商売だ。聖奈はガチ恋勢も多いし、男性声優にはほぼ必ずリアコがつく。そうなるとスキャンダルはご法度だ。
「情報解禁になったから言うけど、明日の『ドクター・ゼータ』に出てます」
「えー! ついにデビューじゃん! おめでとう! え、嬉しすぎるんだけど!」
聖奈が俺に顔を一層近づけて目を見開く、俺の成功を自分のことのように喜んでくれる声には一点の曇りもない。
「実は私も報告があってね、最終選考進出しましたー!」
「すごいじゃん! おめでとう。いつ?」
「十一月の始め!」
オーディションを順調に勝ち進む聖奈と、声優としてデビューした俺。お互い大事な時期だから、気をつかってくれているのだろう。勝手にそう納得した。
十月一日、ついに『ドクター・ゼータ』が放映される。映像、音響、俺たちの演技、すべてが絡み合って一つの作品として世に出る。
画面の中で俺が、いや俺が演じたアルがしゃべっている。今、悩んでいる誰かはアルを見て、アルの声を聞いて何を感じるのだろうか。俺は誰かを救えるのだろうか。かつて泣いていた俺の心を救ってくれた人たちに少しは近づけたのだろうか。
間違いなく俺の人生のターニングポイントとなった三十分はあっという間だった。放送終了後も、しばらくは放心状態だった。
ポケットの中でスマホが振動していることに気づき、我に返る。着信画面には聖奈の名前が表示されていた。
「修斗ぉ! やばかったぁ。めっちゃ泣いたぁ」
通話を繋ぐと聖奈の泣き声が聞こえた。感動した、すごかった……単純な言葉を何度も繰り返された。いつも深い考察をしている聖奈からの、ストレートな感想。嬉しかった。
聖奈の心を動かすことができた。いや、心を動かされたのは俺の方だ。聖奈の言葉は俺にとって最高のモチベーションとなった。
これに胡坐をかくことなく、このチャンスを生かして世界を変える声優になってやる。それが俺の夢だ。そして、その夢への大きな一歩を踏み出した。
「聖奈、明日話があるんだ。秘密基地で会える?」
それにあたって、ちゃんとけじめをつけようと思う。
翌日、学校に行くと何もかもが昨日とは違った。地上波アニメにがっつり出演したとなるとクラスメイトに大騒ぎされた。男子からも女子からも質問攻めに合い、辻浦からは共演した女性声優のサインをねだられた。
「そういうの禁止なんだよ。俺のサインで我慢しとけ。将来値上がりすっから」
「ふうー! 言うねー! かっけえ!」
俺の軽口一つに歓声が上がる。人だかりの後ろの方で聖奈が小さく拍手をしていた。いくらクラスメイトに騒がれようと、俺には聖奈しか見えていなかった。
放課後、先生に捕まって聖奈よりも一本後のバスに乗る羽目になってしまった。
「ごめん、遅くなった」
息切れしながらいつもの屋上に辿り着く。
「ううん、今来たとこ。なんちゃって」
鮮やかできらきらした声で、悪戯っぽく聖奈が笑った。見下ろした校庭には人どころか犬や猫すらいない。屋上に来るまで、校舎内でも誰とも合わなかった。正真正銘の二人きりだ。
誰かが来る前に、俺の決意が鈍る前に言わなければいけないと思った。俺は一日で学校の有名人になった。聖奈もいずれ有名になるだろう。そうしたら、こうして会うことも難しくなる。今日が最後のチャンスかもしれない。
「俺、聖奈が好きだ」
のんびりと腰掛けている聖奈の目の前に立って、静かに告げた。涼しい風が吹き抜けた。まばらに色づいた木々がかすかに揺れた。
「え? 今なんて? よく聞こえなかったんだけど……」
「はぐらかすなよ」
木々のざわめきは俺の声を掻き消すほどのものではなかったはずだ。逃げないでくれ。これ以上俺の心をかき乱さないでくれ。
しゃがんで聖奈と目線を合わせ、改めて言う。
「最初は聖奈の声に惹かれた。聖奈の声は色がついてて、光ってるみたいで、ずっと特別だった。聖奈の歌に心全部持っていかれて、もっと声が聴きたいって思って、気づいたら聖奈のこと追いかけてた」
あの日、聖奈の歌の迫力に頭を殴られたような衝撃を受けた。
「最初は声が聴きたいだけだったのに、めちゃくちゃ話が合うから話してて楽しくて、もっと一緒にいたいって気持ちに変わってた。声だけじゃなくて中身も全部好きになった。誰かのために生きるって夢を持ってるところとか、そのためにまっすぐに努力してるところとか尊敬してるんだ。そんなかっこいい聖奈が、俺の声を褒めてくれたから、俺、この先どんなに辛いことがあっても頑張れる気がした」
聖奈が運命は自分で作るものだと言ってくれたから、俺は運命を手繰り寄せられた。
「今は大事な時期だからお互い恋愛に現を抜かしてる場合じゃないってわかってる。俺たちの夢にとってスキャンダルは致命的になるって知ってる。だから聖奈が俺のこと避けてるのも、俺たちの夢のためだって頭では理解してる」
今日を境に、俺は雑念を捨てる。そのけじめをつけるためにここに来た。
「だから、今すぐに付き合おうなんて言わない。俺たちがお互いもっと実力つけて、ちゃんと夢を叶えて、ちょっとやそっとの恋愛じゃびくともしないくらいビッグになったら、その時は恋人になってくれませんか?」
この気持ちは十年経とうが二十年経とうが変わらない。夢を叶えた未来で、俺は聖奈と恋がしたい。
一秒が永遠にも感じられる。聖奈の答えをじっと待った。こういう時に限っていつの間にか風はやんで、鳥も空気を読んだのかやたら静かだ。
「えー、避けてるつもりなんてなかったんだけどなあ。こういうの慣れてないからなんて答えればいいか分かんないや」
聖奈は肩をすくめて歯切れ悪く言った。視線も泳いでいる。
「だから、はぐらかすなって。イエスかノーかで答えてほしい」
ノーならノーでいい。聖奈が好きになってくれるような立派な男になれるよう努力するだけだ。お互いに夢を叶えた後、改めて告白した時にOKがもらえるような人になればいい。でも、生殺しだけは辛い。
聖奈の指先が俺の両頬に触れた。
「だーかーらっ、修斗が初恋だからこういう時どうしたらいいかわかんないって言ってんの!」
目の前で無数の光が弾けた気がした。聖奈が俺の頬を両手で挟んで顔を引き寄せる。頭が真っ白になる。心臓が壊れそうなくらいにドクドクと鳴り響く。
「だって修斗、私の言いたいこと全部言っちゃうんだもん。私が言うことなくなっちゃうじゃん」
一歩間違えたら唇が触れてしまいそうな距離で、聖奈が頬を赤らめてはにかむ。
「私もまったく同じ気持ち。今は声だけじゃなくて修斗の全部が好き」
半年間俺を魅了し続けた声で、聖奈が俺に「好き」と言った。聖奈の紡ぐ言葉ひとつひとつがリフレインする。
「絶対に二人でこの恋を運命にしようね」
運命は自分で作るもの、聖奈が教えてくれたことだ。俺たちは二人なら無敵だ。
「うん」
気持ちが通じ合った。俺たちの心は最初から一つだった。それだけで十分だ。
キスはしなかった。いつものように肩を寄せ合って、夢が叶った未来に胸をはせながらおしゃべりをする。手を握る代わりに、お互いの小指だけを絡めた。
いつもの秘密基地でいつもと同じように話をする。でも、それは今までで一番幸せな時間だった。指切りの代わりに絡めた小指をずっと離さなかった。あの日、俺に恋心を気づかせた鐘が鳴るまで。
それから数日間、他のクラスや学年から俺を見に来る生徒が後を絶たなかった。何かと落ち着かない日々だったが、聖奈はいつも通りだった。しいて言うならば、バス停まで一緒に歩く時の物理的な距離が縮んだくらい。顔が近くなると、意外と睫毛が長いんだな、とか色々なことに気づいてまた意識してしまった。
半月もすれば、俺に対する芸能人フィーバーも落ち着いた。ちょうどそのころ、聖奈がポニーテールをやめて髪を下ろすようになった。最近肌寒いので仕方ないことではあるが、聖奈が髪を結びなおす仕草も好きだったのだと今更気づいた。
「オーディションに専念するから、しばらく歌みた上げるのお休みするかも」
「いいんじゃね? そっち一本に絞る方が勝率高いっしょ」
巴セナの投稿がパタリと途絶えた。あれもこれもと欲張って全部中途半端になるより、目の前にある夢へのチケットを掴むことに全力投球する方がいい。背水の陣で戦う聖奈はかっこいいと思った。神格化しすぎるのもよくないが、巴セナというミューズは絶対に勝てると信じている。
「頑張れよ、聖奈」
だから、秘密基地に行く時間がなくなっても応援する。ボイトレもさらに遅くの時間までやるようになったらしく、帰りの時間がかぶらなくなった。でも、オフの日はバス停まで一緒に帰ったし、家で通話もしていたから寂しくはなかった。
そんな日々が続き、十一月も終わりに近づいていた。オーディションの詳しい日程は聞いていない。終わったのか、受かったのか、落ちたのか。俺からは聞けなかった。守秘義務があるかもしれないし、落ちていたとしてそれを言葉にすることに抵抗があるのは俺が一番よくわかっていたからだ。両親への落選報告は苦手だ。
珍しく聖奈が学校を休んだ。体調不良なのかオーディション絡みの用事なのか分からなかったので、「大丈夫?」と一言だけメッセージを送ったが既読無視状態のまま帰りのホームルームの時間になった。担任の言葉が右耳から左耳に抜けていく。
「で、ここから大切な話だ。本日を持って、信楽聖奈が転校することになりました」
「はあ⁉」
突然の爆弾発言に、俺は思わず立ち上がった。椅子が倒れた音も霞むくらい大きな声が出た。こんなの青天の霹靂だ。
「桐原、座りなさい。みんなも静かに。なんでも親御さんの仕事の都合で海外に行くそうで。信楽の意思を尊重して今日まで言わなかったけど、まさか最終登校日に休むとは……先生も驚いてます」
かつてないほど教室はざわついている。収拾がつかないままチャイムが鳴りだすが、そんなことは知ったことではなかった。転校なんて聞いてない。しかも海外だなんて。俺は立ったまま固まっていた。それどころか女子たちまで立って身を乗り出して騒ぎ始めた。
「以上でホームルームを終わります。あー、慌ただしくてすまん。以上!」
担任は大きめの声でそう言うと教室を出ていった。慌ただしいどころの騒ぎではない。泣き出す女子もいれば、今まで黙っていた担任への暴言を吐く女子もいる。「信楽のことちょっといいなって思ってたのに」と言い出す男子まで現れる。その間、俺はずっと呆然と立ち尽くしていた。
「修斗お前どうしたん? もしかして信楽のこと好きだったん?」
辻浦の言葉に反応する余力もなかった。
「あー、俺帰るわ。また明日な」
期待していた反応を得られなかった辻浦は気まずそうにフェードアウトしていった。それを皮切りに何人かが帰り始める。そのタイミングでポケットのスマホが振動した。
聖奈からかもしれない。俺は急いで画面を確認する。
「秘密基地で待ってる」
メッセージは聖奈からだった。
「おい、聖奈! 色々言いたいことあんだけど」
待ち合わせ場所に着くと聖奈が駆け寄ってきた。手を合わせて上目遣いでまくしたてられる。
「ごめんね! 親の転勤自体は前から決まってたんだけど、ついていくかは本当に直前まで決められなかったの。修斗ならわかってくれるよね?」
わかる。その意味も、はっきりした言葉を使わない心理も。オーディションに受かったなら意地でも一人で日本に残る、ダメなら両親と海外に行く。つまり、今年はダメだったのだ。
「行くなよ……来年があんだろ」
未成年が一人で残るなんてあまり現実的でない。わかってはいるけど懇願してしまう。
「それもそうなんだけど、行先ウィーンなんだよね。ベートーヴェンの聖地じゃん? 『田園』とかそこで生まれた曲だし。だから、音楽の勉強するならいい環境かなって」
罰が悪そうにうつむいて言われた。行先も初耳だった。
「聖奈、ドイツ語喋れんの?」
「挨拶しかわかんない! でもNo problem! 音楽は世界の共通言語だからね!」
聖奈は親指を立てた。呆れた。行き当たりばったりがすぎるだろ。一周廻って笑えて来た。
「ははっ、聖奈らしいわ」
聖奈はそういう人だ。どんな状況でも自分の手で未来を切り開く人だ。だから、俺が欠けるべき言葉は「行くな」じゃない。
「ビッグになって帰って来いよ。そっちに俺の名前も声もバンバン届くくらい俺も頑張るからさ」
「うん、修斗なら絶対なれるよ。たくさんの人を救える声優に」
聖奈がそう言ってくれるならなれる気がする。いや、なる。俺の声で世界を救う。
「これ、餞別。家で聴いてね」
SDカードを渡された。これを渡すために呼び出されたのだろうか。
「スマホ海外用に変えるからラインアカウントも消えちゃうかもしれないし、たてこんでるから巴セナのアカウントも更新できなくなっちゃうだろうけど、アーカイブはちゃんと残すから、たまには聴いてよ」
「毎日聴くっての。最後列彼氏面オタク舐めんな」
「なにそれ」
「なんなら見送りも行くつもりだけど」
「えー、野暮でしょ。縁もゆかりもない空港でバイバイなんてさ。最後は思い出の場所で締める方がよくない?」
芸術の世界に生きる者として、粋であるか否かは重要なファクターだ。聖奈は骨の髄までエンターテイナーなのだろう。また聖奈を深く尊敬した。
「それもそうだな。野暮だからさよならも言わない。次会うときは歌手と声優として、何かのアニメで待ち合わせな」
「やっぱり修斗はかっこいいね。うん、私もさよならは言わない」
聖奈は噛みしめるように呟いた。
「最後に修斗の声聞けて良かった。今までありがとね」
そう言って手を振ると聖奈は屋上を去った。階段を駆け下りていく音だけが響いていた。追いかけるのは無粋だと思った。次に会うときは、二人の夢が叶うときだ。
家に帰って、パソコンにSDカードを差し込む。Mp3ではなく高音質のwavファイルのデータが一つだけ入っていた。ヘッドホンをつけてメッセージを再生する。
「Hi, Shuto! 聖奈です」
クリアな音声が耳に飛び込んでくる。だいぶ高性能なマイクでバイノーラル録音したのだろう。まるで聖奈が目の前にいるかのように鮮明な声だ。
「まず初めに。ありがとう。修斗がいたから私はまっすぐ前だけを見て夢に生きられたよ。修斗と同じ夢を見て、たくさん勇気をもらって……一人で夢を見ていた時の私じゃ絶対知らなかった世界を見せてくれた」
世界を教えてくれたのは聖奈の方じゃないか。あの日君が俺を秘密基地に連れて行ってくれなかったら、今の俺はいない。
「世界にはたくさんの音が溢れてるけど、私は修斗の声が一番好き。だからね、いっぱい歌を褒めてくれた人はいたけど、修斗が私の歌を褒めてくれた時が一番嬉しかった。あの日、声をかけてくれてありがとう。私の歌、好きって言ってくれてありがとう」
いつの間にか頬を涙が伝っていた。馬鹿、泣かせんなよ。
「だから、一生のお願い。私の声をずっと好きでいて。修斗が好きになってくれた今この瞬間の十七歳の私の声を忘れないで」
言われなくたって忘れるもんか。次に聖奈の声を聴くとき、聖奈は何歳になっているんだろう。声は顔ほどでもないが緩やかに変わる。でも、何歳の聖奈の声も、俺はきっとまた好きになる。その時の聖奈の声も、十七歳の聖奈の声も死ぬまで愛し続ける。
「忘れないように、時々は聴いてね。巴セナの歌も、信楽聖奈のこのメッセージも。約束だよ」
聴くなって言われたって勝手に聴いてやる。
「Lebe wohl, Shuto. Ich liebte dich.」
たぶん、ドイツ語だよな。最後にかっこつけやがって。聖奈の声だから許される行為だ。そこらの人間がやったらただのキザになる。
大体、ドイツ語で言われてもスペルがわからないと意味が調べられない。Lebe wohlは「さよなら」だろうか? 文脈的にギリギリ「ありがとう」もありえるか? 周期表の語呂合わせで知ったがリーベはドイツ語で愛と言う意味だ。後半部分はたぶん、「愛してる」だろう。
「ウィーンより愛を込めて、なんちゃって」
少しの間の後、その言葉でメッセージが終わった。
「これ収録してんの日本だろうが」
思わず呟く。
「See you, Sena. I love you.」
意趣返しの愛の言葉は聖奈には届かない。でも、いつか俺の声を届けてみせる。聖奈が世界中のどこにいても。