エイプリルフール。
それは、ちょっとした冗談や嘘を言ってもいい日。元々海外の風習だったのが、大正時代とかそのへんに日本に渡ってきたものらしい。国や地域によってはもう少しルールが厳密で、午前中にだけ嘘をついてもいいけれど、午後に嘘をついたらみんなに叱られてしまう日でもあると聞いている。
クリスマスやお正月のように、大きな盛り上がりがあるわけでもない。
多くの日本人にとってはなんとなく、ちょっとしたジョークで身内を揶揄う日、くらいでしかないだろう。
でも、私にとっては。
「……やだな」
机の上。私は机の上に置いた一枚の葉書を見つめて、ぽつりと呟いていた。
「ほんと、やだな……」
それは、今年ある人物から貰った年賀状。倉敷《くらしき》家の一家が、家族全員の名前を並べて送ってきたものだった。倉敷家は、小学生の時うちの近所に住んでいた一家である。私が小学校六年生になってすぐ、家族そろって遠い地方に引っ越してしまったのだ。昔は、私もこの一家に年賀状を出していた。次男の倉敷愛斗が、半ば幼馴染のような関係だったからである。向こうの方が一つ年下であったけれど。
彼等は幼い頃から、我が家に年賀状を送ってきてくれていた。両親も、家族ひとまとめの年賀状を毎年を送っているはずだ。私が〝個人的に〟葉書を送るのをやめても、一応家族同士の縁は切れていない。ちょっと変わり者の一家で、毎年家族の写真ではなく愛犬のゴールデンレトリーバーの写真ばかり送りつけてくるため、彼等の現在の姿や近況はほとんどわからなかったけれど。
「はあ……」
三月も残りわずか。
もうすぐ四月になり、学生にとっては新学期が巡ってくる。今年で大学二年生になる私も例外ではない。
それなのに、今の時期にもなって机の上に年賀状を出し、ため息をついているにはそれなりに理由があるのだった。
もうすぐ、憂鬱すぎるあの日がやってくる。エイプリルフール。忘れようにも忘れられない、とても大事な日が。
そして私にとっては、重くのしかかる『罪を犯した日』が。
「どうしよう」
年賀状には、倉敷家の現在の住所と電話番号が書かれている。そして、時々彼等と電話でやり取りをしているらしい母から、つい昨日こんなことを言われたのだった。
『愛斗くん、東京の大学合格したんですって。今年から、東京で一人暮らしするみたいよ。またこの町に来るんですって!』
***
倉敷愛斗。
私にとっては、幼馴染というより弟に近い存在だった。何故なら幼い頃から長身で喧嘩が強かった私と違い、彼は女の子のように小柄で、華奢で、可愛らしい顔立ちをしていたのだから。
ついでに、ちょっと女の子っぽい服が似合う子だった。別に本人が性的少数者とかそういうのではなくて、単に己に似合う服が好きだっただけなのだろうと思われる。正直、女の子の私よりずっとふわふわのピンクのワンピースが似合う子で、ちょっとだけ嫉妬していたのを覚えているのだ。
『やーい、あいちゃんおかまー!ばーかばーか!』
『てめえら、いい加減にしろよ!』
愛斗はいじめっ子たちに『愛ちゃん』と女の子みたいなあだ名をつけられて、追いかけまわされることが少なくなかった。そのたびに彼等をぶっ飛ばして愛斗を守るのが私の役目である。
それも仕方ないことではあったのだろう。愛斗は人を殴れるような少年ではなかったし、他のどんな子供達よりも体が小さくて、ついでに病弱だったのだから。
『ごめんね、ごめんねユリちゃん。僕、弱くてごめんね。いっつも助けてもらってごめんね……』
幼稚園生の時。そうやって泣く愛斗の頭をいつも撫でながら私は言ったのである。
『気にすんなよ。愛斗は、愛斗でいいんだ。自分らしくいればそれでいいんだって、戦隊ヒーローも言ってたし!』
彼は、自分が守らなければいけない。それは義務感であり、同時に使命感でもあった。可愛らしい愛斗の姿と臆病な性格にちょっとモヤることがあっても、彼を守れる自分のことは好きで、正直浸っていたように思うのである。
愛斗を守れるのは自分だけ。だから自分がいつもしっかりしていなければいけない。これは、自分にしかできないこと。そんな仕事を与えられている己が、どこか誇らしくもあったのだ。
いつからだろう。段々と、愛斗に対して愛しさよりも苛立ちが勝るようになったのは。
『そこの可愛いお嬢ちゃん、デート?今日レディースデーだけどこのメニューとかどう?』
『え』
今でこそレディースデーというのは減ってきているが(LGBTQ配慮もあるのだろう)、少なくとも当時は近くのカフェなんかでそういうサービスをしていることも少なくなかった。近所には小学生でも入れるような安いカフェや駄菓子屋があり、私達もよく利用していたのである。
ある日、愛斗と一緒にカフェに入ると、アルバイトらしきおじさんが愛斗にそう声をかけてきた。私と愛斗がデートに見えた、というのはいい。フレンドリーな接客のお店だったので、親し気に店員さんが声をかけてくるのはいい。でも。
そのおじさんは、愛斗を女の子だと思い、私のことを男の子だと思ったのだ。愛斗は困惑していたし、私は想像以上にショックをうけていた。いくら小学生で、私の方が愛斗より大きかったといってもだ。
小学校四年生くらいになると、女の子は第二次性徴で胸が膨らみ始める。実際、友達の中にはあっという間に胸が大きくなった子がたくさんいたのだ。
しかし、私はそうではなかった。悲しいかな、大学生になった今でもほぼまな板の状態である。当時は完全なAAカップ。柔道を習っていたせいで体格も肩幅が広く、身長も大きくなっていたし、女の子らしい肉がつかない自分に少し悩みを感じていたのだ。
無論、今思うとあれは私にも原因はある。着心地良いからとボーイッシュな服装ばかり好んでいたのだから。それに、髪の毛も今とは違ってベリーショートだった。そんな私と一緒にいるのが、セミロングの髪型が可愛らしい、美少女めいた顔立ちの愛斗だったなら余計男の子に見えても仕方ないことだっただだろう。
しかし、当時はそういうことを客観的に見ることができなかった。愛斗は「おじさん見る目ないね」「僕なんかよりユリちゃんのがずっと可愛いよ」と慰めてくれたが、全然聞こえなかったのである。
そもそも、愛斗が女の子に勘違いされるのも、私が男の子に間違われるのも、その日が初めてのことではなかった。
別に、必要以上に女の子らしくなりたいわけではない。乙女なキャラなんてガラでもない。それでも、積もり積もった感情は膨れ上がる一方。どうして私が欲しいものを、愛斗が全部持っていってしまうんだろうと、そんなことを思ってしまうのである。
だから。
四月一日。エイプリルフールであるのをいいことに、私は愛斗に酷いことを言った。
この日なら、悪口を言っても嘘ということにできる。誤魔化しがきく。そう思ったから。
『愛斗なんかきらい!女の子っぽい姿もムカつく、うざい!だいっきらい!私より可愛いとは言われて調子乗んな!!』
公園で遊んだその日、わざとそんな言い方をした。正直、当時の私にとっては本心に近い言葉だったのである。それでも――すぐに「嘘だよ」と誤魔化すつもりだった。そのつもりで言ったはずだった。
ほんのちょっと。ほんのちょっと魔が差して、「嘘だよ」というのが遅れてしまっただけで。それで。
『ご、ごめん。ごめんね、ユリちゃん。ごめんね……』
『え!?あ……あ、いや……!』
私が次の言葉を言うよりも前に、愛斗は泣きそうな顔で謝ってきて、そのまま家に逃げ帰ってしまったのだった。やらかした、と気づいた。本当はすぐに追いかけていって、「あれはエイプリルフールのジョークだよ」と言わなければいけないと知っていた。
それなのに。余裕がなかった私は、彼を追いかけることを放棄したのである。気まずかったのもあるし、本当にイライラしていたのもある。謝るのは新学期になってからでもいい。それまでの間、あいつも悪いことをしたと反省すればいいのだ、と意地の悪いことを考えたのだ。
それが間違っていた。
じりじりと先延ばしにして、愛斗を避けている間に――彼は家族ごと、地方に引っ越してしまったのだから。
***
――私が酷いことを言ったってこと。……あいつ、家族に言わなかったんだろうな。
ゴールデンレトリーバーの年賀状を見ながら、私は思う。
――あんなこと言ったって知ってたら……家族の年賀用なんか、送られてくるわけないし。むしろ、私のこと恨んでてもしょうがないし。
小学生だった。幼かった。けれどそんな言葉で、何もかも許されるわけでないということくらいわかっている。彼を守る立場に誇りを感じていたはずなのに、むしろ彼の存在に助けられたことが何度だってあったはずなのに。ほんの一時の感情で、本人が何も悪くないと知りながら全てをぶち壊してしまった。
遠い遠い、エイプリルフール。人を傷つけるような嘘ならば、本来言ってはいけない日。ましてやそれが、嘘に見せかけた真実であるなら尚更に。
――愛斗がまた、この町に来る。……会うかもしれないんだ、あいつと。
うちの両親は、私がやらかしたことを知らない。そして私もずるずると一人で罪悪感を抱えたまま大学生になってしまった。
近くに住むのならば、彼は挨拶をするために家を訪れるかもしれない。小学生の時に私が言ったことなんかとっくに忘れているかもしれない。今更気にしてないよ、と言うかもしれない。それでも。
本当はわかっていることだった。このままでは、仮に愛斗が私を許しても、私が私を許せないだろうことは。
――私の声なんか、聴きたくないかもしれない。でも。
「よし」
これは自分のエゴ。
それを承知で、私はスマートフォンを手に取った。そして意を決して、年賀状に書かれた電話番号を入力し、発信したのである。
今のメールアドレスもLINEのIDもわからない。話せる手段は、電話しかない。まるで会社の面接でもするかのようだった。緊張で、スマホを握る手に妙な汗をかいている。相手の番号は家電。本人が出ないかもしれない。家族が出たら、どうやって電話を代わってもらおうか。
――よく考えたらもう引っ越し終わってて、家にいないかもしれないんじゃ。あ、やば、気づいてなかった。
そう思った次の瞬間、コール音がやんだ。
『もしもし、倉敷ですが』
若い男性の声がした。愛斗には兄が二人いる。彼等のどっちかかな、と思いつつ私は口を開いた。
「あ、あの。わ、私……も、森田友理奈って言います。その、えっと……昔、倉敷愛斗くんと同じ小学校で、え、えっと、今でも、家族の年賀状貰ってる……。そ、その、愛斗くん、いますか?」
やばい、この説明でわかるだろうか。というか自分説明が下手すぎ。冷や汗をだらだら流しながら青ざめた、その時だった。
『……ユリちゃん?』
男性の声に、困惑の色が乗った。まさか。
『え、ユリちゃん?……ユリちゃんなの?』
「え、え?ひょっとして……あなたが、愛斗くん?」
『うん』
口をあんぐり開けるしかない。あの、少女のように可愛らしい声はどこにもなかった。立派な大人の男の人の、落ち着いた声。よくよく考えて見れば向こうも今年で大学生になるのだから、とっくに声変わりしていて当然なのだが。
脳内に、成長した愛斗の姿を思い浮かべようとする。
髪型は、今もちょっと長くしてるのだろうか。男の人らしい恰好をしているのか、それとも今もユニセックスな服装を貫いているのか。かっこよくなっただろうか、可愛さの面影はあるのだろうか。今は何が好きで、何が嫌いで、どんな部活をしていて、何を楽しんで――それから、それから。
それから、どう思っているのだろう――私のことを。
「ご、ごめんなさい……」
脈絡がないのはわかっている。でも真っ先に、伝えたかった。
「私……私!子供の頃の、エイプリルフールの日のこと、ずっと貴方に謝りたかったんだ。大嫌いなんて、うざいなんて言ってごめん。本当にごめん。可愛い愛斗くんに嫉妬してたのは確かだけど、でも……大嫌いなんて、そんなの嘘なの。嘘だったのに、嘘だって言えなかった。ごめんね。本当にごめん……!」
いきなりこんな話をされても、向こうはきっと困るだろう。それでも一息で言い切った時、胸の奥にずっとつっかえていたものが取れたような気がしたのだ。
やっと言えた。許して貰えないかもしれないけれど、それでも――言えないままでいる方が責められるよりずっと辛かったのだと、今になってはっきりとわかったのだ。
四月一日が来るたびに、嘘と本当のハザマで苦しむより、本当はずっと。
『うん、知ってた』
電話の向こう。何故か、彼は笑っているのがわかる。
『なんだよ、そんなの気にしてたのか。昔は年賀状、個人でも送ってくれてたのにさ、今は親御さんが送ってくるものしか来なくなっちゃって。どうしたのかって思ってたら』
「……だって、嘘だって、言うこともできずに避けちゃってたし」
『気にしなくていいって。むしろ、俺こそずっと謝らないといけないって思ってたんだから。ユリちゃんに、いっつも守ってもらってばっかりで、情けなかったからさ』
「愛斗くん……」
失われた時間は、けして戻りはしない。
それでも青春は、これから新たに積み上げていくこともできるのだと知る。それこそ、大人と呼べる年齢になったとしても。
『俺、四月からそっちの町に行くんだ。……ユリちゃんの話がたくさん聞きたい。俺と、会ってくれますか?』
勇気を出して本当に良かった。泣きそうな気持ちになりながら、私はスマホを握りしめるのだ。
「うん。……いっぱい話、しよう」
失われた春が、もう一度やってくる。
青空の下、桜の花びらといっしょに。
それは、ちょっとした冗談や嘘を言ってもいい日。元々海外の風習だったのが、大正時代とかそのへんに日本に渡ってきたものらしい。国や地域によってはもう少しルールが厳密で、午前中にだけ嘘をついてもいいけれど、午後に嘘をついたらみんなに叱られてしまう日でもあると聞いている。
クリスマスやお正月のように、大きな盛り上がりがあるわけでもない。
多くの日本人にとってはなんとなく、ちょっとしたジョークで身内を揶揄う日、くらいでしかないだろう。
でも、私にとっては。
「……やだな」
机の上。私は机の上に置いた一枚の葉書を見つめて、ぽつりと呟いていた。
「ほんと、やだな……」
それは、今年ある人物から貰った年賀状。倉敷《くらしき》家の一家が、家族全員の名前を並べて送ってきたものだった。倉敷家は、小学生の時うちの近所に住んでいた一家である。私が小学校六年生になってすぐ、家族そろって遠い地方に引っ越してしまったのだ。昔は、私もこの一家に年賀状を出していた。次男の倉敷愛斗が、半ば幼馴染のような関係だったからである。向こうの方が一つ年下であったけれど。
彼等は幼い頃から、我が家に年賀状を送ってきてくれていた。両親も、家族ひとまとめの年賀状を毎年を送っているはずだ。私が〝個人的に〟葉書を送るのをやめても、一応家族同士の縁は切れていない。ちょっと変わり者の一家で、毎年家族の写真ではなく愛犬のゴールデンレトリーバーの写真ばかり送りつけてくるため、彼等の現在の姿や近況はほとんどわからなかったけれど。
「はあ……」
三月も残りわずか。
もうすぐ四月になり、学生にとっては新学期が巡ってくる。今年で大学二年生になる私も例外ではない。
それなのに、今の時期にもなって机の上に年賀状を出し、ため息をついているにはそれなりに理由があるのだった。
もうすぐ、憂鬱すぎるあの日がやってくる。エイプリルフール。忘れようにも忘れられない、とても大事な日が。
そして私にとっては、重くのしかかる『罪を犯した日』が。
「どうしよう」
年賀状には、倉敷家の現在の住所と電話番号が書かれている。そして、時々彼等と電話でやり取りをしているらしい母から、つい昨日こんなことを言われたのだった。
『愛斗くん、東京の大学合格したんですって。今年から、東京で一人暮らしするみたいよ。またこの町に来るんですって!』
***
倉敷愛斗。
私にとっては、幼馴染というより弟に近い存在だった。何故なら幼い頃から長身で喧嘩が強かった私と違い、彼は女の子のように小柄で、華奢で、可愛らしい顔立ちをしていたのだから。
ついでに、ちょっと女の子っぽい服が似合う子だった。別に本人が性的少数者とかそういうのではなくて、単に己に似合う服が好きだっただけなのだろうと思われる。正直、女の子の私よりずっとふわふわのピンクのワンピースが似合う子で、ちょっとだけ嫉妬していたのを覚えているのだ。
『やーい、あいちゃんおかまー!ばーかばーか!』
『てめえら、いい加減にしろよ!』
愛斗はいじめっ子たちに『愛ちゃん』と女の子みたいなあだ名をつけられて、追いかけまわされることが少なくなかった。そのたびに彼等をぶっ飛ばして愛斗を守るのが私の役目である。
それも仕方ないことではあったのだろう。愛斗は人を殴れるような少年ではなかったし、他のどんな子供達よりも体が小さくて、ついでに病弱だったのだから。
『ごめんね、ごめんねユリちゃん。僕、弱くてごめんね。いっつも助けてもらってごめんね……』
幼稚園生の時。そうやって泣く愛斗の頭をいつも撫でながら私は言ったのである。
『気にすんなよ。愛斗は、愛斗でいいんだ。自分らしくいればそれでいいんだって、戦隊ヒーローも言ってたし!』
彼は、自分が守らなければいけない。それは義務感であり、同時に使命感でもあった。可愛らしい愛斗の姿と臆病な性格にちょっとモヤることがあっても、彼を守れる自分のことは好きで、正直浸っていたように思うのである。
愛斗を守れるのは自分だけ。だから自分がいつもしっかりしていなければいけない。これは、自分にしかできないこと。そんな仕事を与えられている己が、どこか誇らしくもあったのだ。
いつからだろう。段々と、愛斗に対して愛しさよりも苛立ちが勝るようになったのは。
『そこの可愛いお嬢ちゃん、デート?今日レディースデーだけどこのメニューとかどう?』
『え』
今でこそレディースデーというのは減ってきているが(LGBTQ配慮もあるのだろう)、少なくとも当時は近くのカフェなんかでそういうサービスをしていることも少なくなかった。近所には小学生でも入れるような安いカフェや駄菓子屋があり、私達もよく利用していたのである。
ある日、愛斗と一緒にカフェに入ると、アルバイトらしきおじさんが愛斗にそう声をかけてきた。私と愛斗がデートに見えた、というのはいい。フレンドリーな接客のお店だったので、親し気に店員さんが声をかけてくるのはいい。でも。
そのおじさんは、愛斗を女の子だと思い、私のことを男の子だと思ったのだ。愛斗は困惑していたし、私は想像以上にショックをうけていた。いくら小学生で、私の方が愛斗より大きかったといってもだ。
小学校四年生くらいになると、女の子は第二次性徴で胸が膨らみ始める。実際、友達の中にはあっという間に胸が大きくなった子がたくさんいたのだ。
しかし、私はそうではなかった。悲しいかな、大学生になった今でもほぼまな板の状態である。当時は完全なAAカップ。柔道を習っていたせいで体格も肩幅が広く、身長も大きくなっていたし、女の子らしい肉がつかない自分に少し悩みを感じていたのだ。
無論、今思うとあれは私にも原因はある。着心地良いからとボーイッシュな服装ばかり好んでいたのだから。それに、髪の毛も今とは違ってベリーショートだった。そんな私と一緒にいるのが、セミロングの髪型が可愛らしい、美少女めいた顔立ちの愛斗だったなら余計男の子に見えても仕方ないことだっただだろう。
しかし、当時はそういうことを客観的に見ることができなかった。愛斗は「おじさん見る目ないね」「僕なんかよりユリちゃんのがずっと可愛いよ」と慰めてくれたが、全然聞こえなかったのである。
そもそも、愛斗が女の子に勘違いされるのも、私が男の子に間違われるのも、その日が初めてのことではなかった。
別に、必要以上に女の子らしくなりたいわけではない。乙女なキャラなんてガラでもない。それでも、積もり積もった感情は膨れ上がる一方。どうして私が欲しいものを、愛斗が全部持っていってしまうんだろうと、そんなことを思ってしまうのである。
だから。
四月一日。エイプリルフールであるのをいいことに、私は愛斗に酷いことを言った。
この日なら、悪口を言っても嘘ということにできる。誤魔化しがきく。そう思ったから。
『愛斗なんかきらい!女の子っぽい姿もムカつく、うざい!だいっきらい!私より可愛いとは言われて調子乗んな!!』
公園で遊んだその日、わざとそんな言い方をした。正直、当時の私にとっては本心に近い言葉だったのである。それでも――すぐに「嘘だよ」と誤魔化すつもりだった。そのつもりで言ったはずだった。
ほんのちょっと。ほんのちょっと魔が差して、「嘘だよ」というのが遅れてしまっただけで。それで。
『ご、ごめん。ごめんね、ユリちゃん。ごめんね……』
『え!?あ……あ、いや……!』
私が次の言葉を言うよりも前に、愛斗は泣きそうな顔で謝ってきて、そのまま家に逃げ帰ってしまったのだった。やらかした、と気づいた。本当はすぐに追いかけていって、「あれはエイプリルフールのジョークだよ」と言わなければいけないと知っていた。
それなのに。余裕がなかった私は、彼を追いかけることを放棄したのである。気まずかったのもあるし、本当にイライラしていたのもある。謝るのは新学期になってからでもいい。それまでの間、あいつも悪いことをしたと反省すればいいのだ、と意地の悪いことを考えたのだ。
それが間違っていた。
じりじりと先延ばしにして、愛斗を避けている間に――彼は家族ごと、地方に引っ越してしまったのだから。
***
――私が酷いことを言ったってこと。……あいつ、家族に言わなかったんだろうな。
ゴールデンレトリーバーの年賀状を見ながら、私は思う。
――あんなこと言ったって知ってたら……家族の年賀用なんか、送られてくるわけないし。むしろ、私のこと恨んでてもしょうがないし。
小学生だった。幼かった。けれどそんな言葉で、何もかも許されるわけでないということくらいわかっている。彼を守る立場に誇りを感じていたはずなのに、むしろ彼の存在に助けられたことが何度だってあったはずなのに。ほんの一時の感情で、本人が何も悪くないと知りながら全てをぶち壊してしまった。
遠い遠い、エイプリルフール。人を傷つけるような嘘ならば、本来言ってはいけない日。ましてやそれが、嘘に見せかけた真実であるなら尚更に。
――愛斗がまた、この町に来る。……会うかもしれないんだ、あいつと。
うちの両親は、私がやらかしたことを知らない。そして私もずるずると一人で罪悪感を抱えたまま大学生になってしまった。
近くに住むのならば、彼は挨拶をするために家を訪れるかもしれない。小学生の時に私が言ったことなんかとっくに忘れているかもしれない。今更気にしてないよ、と言うかもしれない。それでも。
本当はわかっていることだった。このままでは、仮に愛斗が私を許しても、私が私を許せないだろうことは。
――私の声なんか、聴きたくないかもしれない。でも。
「よし」
これは自分のエゴ。
それを承知で、私はスマートフォンを手に取った。そして意を決して、年賀状に書かれた電話番号を入力し、発信したのである。
今のメールアドレスもLINEのIDもわからない。話せる手段は、電話しかない。まるで会社の面接でもするかのようだった。緊張で、スマホを握る手に妙な汗をかいている。相手の番号は家電。本人が出ないかもしれない。家族が出たら、どうやって電話を代わってもらおうか。
――よく考えたらもう引っ越し終わってて、家にいないかもしれないんじゃ。あ、やば、気づいてなかった。
そう思った次の瞬間、コール音がやんだ。
『もしもし、倉敷ですが』
若い男性の声がした。愛斗には兄が二人いる。彼等のどっちかかな、と思いつつ私は口を開いた。
「あ、あの。わ、私……も、森田友理奈って言います。その、えっと……昔、倉敷愛斗くんと同じ小学校で、え、えっと、今でも、家族の年賀状貰ってる……。そ、その、愛斗くん、いますか?」
やばい、この説明でわかるだろうか。というか自分説明が下手すぎ。冷や汗をだらだら流しながら青ざめた、その時だった。
『……ユリちゃん?』
男性の声に、困惑の色が乗った。まさか。
『え、ユリちゃん?……ユリちゃんなの?』
「え、え?ひょっとして……あなたが、愛斗くん?」
『うん』
口をあんぐり開けるしかない。あの、少女のように可愛らしい声はどこにもなかった。立派な大人の男の人の、落ち着いた声。よくよく考えて見れば向こうも今年で大学生になるのだから、とっくに声変わりしていて当然なのだが。
脳内に、成長した愛斗の姿を思い浮かべようとする。
髪型は、今もちょっと長くしてるのだろうか。男の人らしい恰好をしているのか、それとも今もユニセックスな服装を貫いているのか。かっこよくなっただろうか、可愛さの面影はあるのだろうか。今は何が好きで、何が嫌いで、どんな部活をしていて、何を楽しんで――それから、それから。
それから、どう思っているのだろう――私のことを。
「ご、ごめんなさい……」
脈絡がないのはわかっている。でも真っ先に、伝えたかった。
「私……私!子供の頃の、エイプリルフールの日のこと、ずっと貴方に謝りたかったんだ。大嫌いなんて、うざいなんて言ってごめん。本当にごめん。可愛い愛斗くんに嫉妬してたのは確かだけど、でも……大嫌いなんて、そんなの嘘なの。嘘だったのに、嘘だって言えなかった。ごめんね。本当にごめん……!」
いきなりこんな話をされても、向こうはきっと困るだろう。それでも一息で言い切った時、胸の奥にずっとつっかえていたものが取れたような気がしたのだ。
やっと言えた。許して貰えないかもしれないけれど、それでも――言えないままでいる方が責められるよりずっと辛かったのだと、今になってはっきりとわかったのだ。
四月一日が来るたびに、嘘と本当のハザマで苦しむより、本当はずっと。
『うん、知ってた』
電話の向こう。何故か、彼は笑っているのがわかる。
『なんだよ、そんなの気にしてたのか。昔は年賀状、個人でも送ってくれてたのにさ、今は親御さんが送ってくるものしか来なくなっちゃって。どうしたのかって思ってたら』
「……だって、嘘だって、言うこともできずに避けちゃってたし」
『気にしなくていいって。むしろ、俺こそずっと謝らないといけないって思ってたんだから。ユリちゃんに、いっつも守ってもらってばっかりで、情けなかったからさ』
「愛斗くん……」
失われた時間は、けして戻りはしない。
それでも青春は、これから新たに積み上げていくこともできるのだと知る。それこそ、大人と呼べる年齢になったとしても。
『俺、四月からそっちの町に行くんだ。……ユリちゃんの話がたくさん聞きたい。俺と、会ってくれますか?』
勇気を出して本当に良かった。泣きそうな気持ちになりながら、私はスマホを握りしめるのだ。
「うん。……いっぱい話、しよう」
失われた春が、もう一度やってくる。
青空の下、桜の花びらといっしょに。



