日曜日の吹奏楽部の練習を終えて太陽が高い内に帰宅する予定が、こんな大雨になるなんて。
「置き傘しておいてよかったぁ」
突然降り始めた雨に慌ててビニール傘を差してホッと胸をなでおろす。

傘の内側から空を見上げてみればこのあたりだけ灰色の分厚い雲に覆われている。
制服の半袖から伸びる腕は濡れてしまい、スカートのポケットからハンカチを取り出してふいた。
夏の楽しいことと言えばかき氷にスイカにそうめん。

嫌いなところは熱さと台風。
今まさに私に降り掛かっているのは台風みたいな大粒の雨だった。
夏の嫌いなところにスコールも追加しておかなくちゃ。
そんなことを考えながら足を早めたときだった。

前方から歩いてくる男性が傘をさしていないことに気がついた。
突然のスコールだから傘を準備してなかったんだろう。

雨越しに見えるその人は近くの高校の服を着ているけれど、その制服は肌にピッチリ張り付いてしまうくらいにびしょ濡れになっている。
栗色の髪の毛も頬や額にくっついてしまっていてシャワーを浴びた後みたいだ。
「だ、大丈夫ですか!?」
いくら寒くないとはいえ、あそこまでずぶ濡れになってしまうと風邪をひいてしまうかもしれない。
咄嗟に声をかけてかけよった。

近くで見ると男子生徒は足先まで濡れていて、もう濡れていないところなんて少しも無いと言った様子だ。
男子生徒は私の顔をみつめてしばらくポカンと口を開けて立ち尽くす。

急に声をかけてしまったから驚いているのかもしれない。
「傘、よかったら一緒に入りませんか?」
そうやって腕をめいいっぱい上に伸ばして男子生徒の頭まで入るように背伸びをする。

そこまでしてはたと気がついた。
今この人、私とは反対方向から歩いてきたよね?
ってことは、帰る方向が全然違うかもれない!

自分が家に到着するまで随分遠回りすることになるかもしれないと悔やんだが、それもすぐに吹き飛んだ。
「傘……いいの?」
かすれた声で質問されて男子生徒の顔を見ればそこには整った鼻筋が見えた。

少し大きな目には幼さが残っていて、長いまつげにまで水滴がついている。
ドクンッと大きく心臓が跳ねて、恋に落ちるまで時間は必要なかったのだった。

月曜日のホームルーム前の教室は前日の日曜日になにをしていただの、どこへ行っただのという話でもちきりだ。
だけど吹奏楽部の私は隔週日曜日は部活動があるので、月曜日にする話の内容は部活のことと決まっていた。
でも、今日は違う。

朝からボーッと熱に浮かされたような私を見て希が好奇心むき出しの顔で近づいてきた。
「美佳、今日はいつも以上にぼーっとしてどうしたの?」
「普段からぼーっとしてるみたいに言わないでよ」

友人の言葉に一応ツッコミを入れてからはぁとため息を吐き出す。
「で、なにかあったの?」
前の席の椅子に勝手に座り、ポッキーの箱を取り出してポリポリと食べ始める。

「それがさ、出会っちゃったかも」
私は希からポッキーを一本頂いて答えた。
甘い気持ちのところに口の中まで甘さが広がる。

「出会ったって、誰に?」
「運命の人」
昨日の男子生徒を思い出してまたため息を吐き出す。
「うそ、それってどんな人!?」
希がすぐにポッキー以上の食いつきを見せた。

恋愛ごとに無縁のまま17年間過ごしてきた私達にとって、それは朗報以外のなにものでもなかったからだ。

「隣の高校の制服着てた」
「うんうん、それで!?」
「背が高くてかっこよくて。アイドルの菊田風紀に似てた!」

キャー!!
希が頬を押さえてその場で飛び跳ねる。
「菊田風紀とか一般人にいるの!?」
「いたんだよ!」

「それからそれから?」
「ずぶ濡れだった!」
「……は?」

希の眉間に一瞬にしてシワが寄る。
「ほら、昨日急に雨降ってきたじゃん? 相手、傘持ってなかったんだよね」
「あぁ、なるほど。制服着たまま泳いでたのかと思った」
「そんなわけないって」

「それで、なにか話しかけた?」
その質問に私はニマッと笑う。
一番希に報告したかったのはそこだ。

「相手はずぶ濡れだし、私は傘持ってるし。勢いで声かけたの。傘一緒に入りませんかって」
「うっそ! 美佳ってそんなに積極的だっけ!?」
私はぶんぶん得日を左右に振る。
「なんだか昨日はほっとけないって思ったんだよね」

「でもそれって相合い傘ってことだよね」
「ちょっと、それ言わないでよぉ!」
昨日帰ってから自分でも何度も考えたことだった。
なんて大胆なことをしてしまったんだろうと、布団の中で頭を抱えて転げ回った。

「それでそれで?」
「商店街まで一緒に歩いたんだけどアーケード内に入って『もう大丈夫。ありがとう』って!」
結局方向は自分の家とは真逆だったけれど、それはまぁ仕方ない。

それくらいの労力はチャラになるくらいドキドキしたし。
「ってことは商店街の近くの人ってこと?」
「だと思う」

うんうんと何度も頷く。
さすがに家までついていくのは気が引けて、そこで回れ右をして帰ることになった。
「で、相手の名前は?」

希にそう聞かれて私はまばたきを繰り返した。
「名前、名前はねぇ……えぇっと、なんだっけ?」
時々会話をした記憶もあるのだけれど見知らぬイケメンと相合い傘なんて状況下だったから、ほとんど忘れてしまっている。

「もしかして聞いてないの?」
「聞いてないかも」
「連絡先は!?」

私はまた首を左右に振る。
信じられない行動力を発揮して声をかけたのに、肝心な部分がすべて抜け落ちていたみたいだ。
これじゃどれだけ恋い焦がれても相手に連絡を入れることすらかなわない。

「ねぇ希、どうしよう!? どうすればまた彼に会えると思う!?」
目の前にいる友人にすがりつくと希は呆れ顔で肩をすくめた。
「ま、食べな」
ポッキーを差し出されて私はそれを口にくわえたのだった。


それから何度か彼と出会った川沿いの道を歩いてみたけれど、彼を見ることはなかった。
互いに制服姿だったけれどあの日は日曜日だったし、ただの偶然が重なっただけなのかもしれない。
「このまま永遠に会えないなんてつらすぎる」

彼と再開できないまま3日が経過していた。
今日は木曜日で、朝から全校集会があるためグラウンドに集められていた。
まだ太陽は高くないけれどもう肌を焼くようなジリジリとした暑さを感じる。

「そんなに会いたいなら彼の高校まで行って待ち伏せしてみる?」
隣に立つ希がニヤリと笑って聞いてくる。
私は少し思案したけれど、「やめとく」と、ため息を吐き出した。

どうしても再開したいとなればもうそれ以外に手はなさそうなのだけれど、顔見知りのいない高校に出向くほどの行動力はなかった。

あの日、あの瞬間に急に出てきた行動力は日に日にしぼんで行っているみたいだ。
「なぁんだ。美佳の運命の人見てみたいのに」
と、希は口を尖らせている。

そんなことを言われても、正直他校の前まで出向いても彼を見つけられる自身がなかった。
あの時の彼はずぶ濡れで、それが原因でいい男に見えただけかもしれないし。
なんてことを考えていると不意に空が曇り始めた。

さっきまで肌を焼くように熱かった日差しが急激に遮られ始める。
「ありゃりゃ、これは一雨くるかもよ」
希が空を見上げて呟いたとき、ポツポツと大粒の雨が校グランドを濡らし始めた。
「うわっ」
「きたきた!」
咄嗟に両腕で頭をガードするけれど雨粒にはそんなに効果がない。

壇上に立っている校長先生が教室へ戻るように指示を出してくるが、それより先に走り出している生徒もいる。
一瞬にして周囲に雨の匂いが広がる。
熱された土やアスファルトが湿り気を帯びて、ムワッとした空気が下から上に上がってくる。
「美佳、教室に戻ろう」

希が私の手を掴んで歩き出そうとしたときだった。
3年生の列が騒がしくなりそちらに視線を向けるとひとりの女子生徒が座り込んでいるのが見えた。

顔色は真っ青で苦しそうに呼吸を繰り返している。
すぐに気がついた男性教師が駆け寄り、小柄な彼女をおんぶして校舎へと走っていく。

「今の誰? 大丈夫なのかな?」
希のつぶやきに私は「わからない」としか返事ができない。
雨脚は更に強くなり私達も大慌てで校舎へと向かったのだった。



数十分で止むと思っていた雨は長く降り続け、昼休憩が終わった後も続いていた。
「今日こんなに降るなんてねぇ」
希が窓の外を眺めてため息交じりに言う。

残念そうに聞こえるけえれど午後からの体育の授業が自習に変更になったことを本当は喜んでいるのだ。
「そういえば運命の彼と出会ったのも雨の日だったんだっけ?」
不意にこちらに視線を向けて言われても、もうそんなにドキドキしなかった。

ここ3日間ずっと彼を探し続けているけれど見つけられない。
もしかして彼は自分が見たまぼろしだったのではないかと思い始めていたところだ。
だいたい、あんなカッコイイ人がいれば他校の生徒といえど噂になっていると思う。

「もう出会えないかも」
「雨の日にそんな辛気臭いこと言わないでよ。以外と今日くらいバッタリ会えちゃうかもよ?」
そんな希の言葉を信じたわけではないけれど、放課後になると私はまたあの川沿いを歩いていた。

今日は雨が降っているから水の量が多く、見ていると少し怖い。
ガードレールが設置されているものの、小さな子どもが誤って転落してしまう事故なんかもあるみたいだ。
茶色く濁った川を眺めながら歩いているとつい前方不注意になってしまった。
気がついたら黒い靴が視界の中にあって、慌てて足を止める。
「ご、ごめんなさい!」

咄嗟に謝ってから顔を上げると、そこには菊田風紀そっくりなイケメンがびしょ濡れになって立っていた。
彼はポカンとした表情でこちらを見ている。
「あ、あの、傘!」

慌てて背伸びをして彼にさしかけると、彼はようやく時間が戻ってきたかのように「あ、ありがとう」と、かすれた声で言った。
びっくりした!

だって本当に今日会えるなんて思ってなかったんだから!
心臓が口から飛び出してしまいそうなほどの緊張感が襲ってくるけれど、どうにか微笑んで見せた。

「この前もここで会いましたよね? 覚えてますか?」
「もちろん。覚えてるよ。あのときはありがとう」
照れくさそうに頭をかく姿は子供っぽくて可愛い。

「あの、私●●高校2年生の岩崎美佳っていいます」
今度は言いそびれてしまわないよう、歩き出す前に自己紹介をする。
「僕は??高校3年生の伊賀雅文です」

軽く頭を下げると伊賀と名乗った彼の前髪からしずくがしたたって私の頬を濡らした。
「あ、ご、ごめん!」
慌ててズボンのポケットからハンカチを取り出すものの、それも濡れていて使い物にならない。

彼は片手でハンカチを絞って途方に暮れる。
そんな姿を見て思わず笑ってしまった。
「これくらいどうってことないですよ。それより、伊賀さんって呼んでいいですか?」

「もちろん。じゃあ僕は岩崎さんっていいかな?」
本当は下の名前で呼んでほしかったけれど、急激に距離を縮めるのは難しいのでうなづいておいた。

ふたりでトロトロと歩くのは商店街方面だ。
「あ、あの、伊賀さんはだいたいこの時間にこの辺にいるんですか?」

ちょっと変な質問かもと思ったけれど、今日偶然出会えたことがそうさせていた。
けれど伊賀さんは首をかしげて「そうでもないよ?」と難しそうな表情で答えた。
そんなに難しい質問をしただろうか。
もしかしたら行動時間は結構バラバラなのかもしれない。
3年生ともなれば部活していてもそろそろ引退だろうし、就活や進学で考えることは一杯あるばずだ。
確実に会うためにはやっぱり相手の連絡先を教えてもらう方がいい。

私は伊賀さんにバレないようにゴクリと唾を飲み込んだ。
今まで異性とは必要なクラスメートたちとしか連絡先を交換していない。
連絡内容は学校の行事予定のことばかりで、それ以外で連絡を取り合うことはなかった。

「あ、あの。よかったら連絡先を教えてくれませんか?」
緊張から最後の方は声が裏返ってしまった。
心臓は今にも爆発してしまいそうだ。

「連絡先って……スマホのこと?」
質問で返されて私は困惑する。
今どき連絡先と言えばスマホだろう。

スマホを持っていない高校生なんて見たことがない。
それなのにそんな質問をするなんて。
と、嫌な予感が胸をよぎったとき「ごめん。僕スマホないんだ」と、嫌な予感が的中する返事があった。

全身がドロドロに溶けてしまいそうな脱力感と絶望感に支配される。
スマホがないなんて言い訳で誘いを断るなんていくらなんても下手すぎる。

そんなの誰も信じないのに。
ジワリと目頭が熱くなった時「だから、探している人にも会えないままなんだ」と、せつなそうな声が聞こえてきて伊賀さんへ視線をやった。

伊賀さんのほうこそ今にも泣き出してしまいそうな顔をしていてビックリする。
もしかしてスマホがないというのは断るための口実ではなく、本当のことなんだろうか?
その上今のせつなそうな顔を見ると誰を探しているのか質問できそうにもなかった。