なあ、少し、俺の話を聞いてくれないか?
 自分へ唐突にそう話し掛けてきたのは、Aという名前の男であった。加えていた団子の串を口先で動かし、「何だい。」と軽く返す。
 Aと俺は友達というほどの間ではない。俺は昔からこの喫茶がお気に入りで――半分は店主の娘さん目当てだが――そこへ、さいきんよくでいりするようになったAに俺と娘さんがちょっかいをかけ出して、そうして次第に、店だ顔を合わせれば挨拶を交わすようになったというだけのこと。一緒に珈琲を飲む時もあれば、互いに違う席でくつろぐこともある。ただの常連客同士の顔馴染みだ。まあ、最近は何度か別の店で飲んだこともあったが。
 そんな大して進行が深いわけでもない俺に、Aは何を聞いてほしいことがあると言う。しかもそいつは名に深刻な顔をしていやがる。常から愛想の良い奴ではなかったが、目元の影は、何も店の切れかけた蛍光灯のせいだけではなかろう。
 Aは俺の向かいに座ると、持ってきていた珈琲をぐいっと飲み干した。俺は芽を丸くしたよ。なんせあいつ、普段は「俺に珈琲は苦すぎる。」とかいって代わりに茶を啜っていたからな。
 だがAにとって、珈琲は気付薬のような役目でも持っていたのだろう。目一杯顔を顰めた後、ようやっと神妙な口を開いた。

 ***

 最近、妙なもんが見えるんだよ。そいつぁ一見人の形をしているが、とんでもない。「あれ」は決して「ヒト」なんかじゃあない。
 最初に「あれ」を見たのは丁度ひと月前のことだ。ああほら、前にお前さんと芝居を観に行ったことがあったろう。あの時だよ。
 お前と別れてから俺は古本屋に寄ってな、本を買ってったんだ。芝居の原作とやらが気になっちまってな。……馬鹿お前、あれはあの脚本家が阿呆な展開でっち上げちまっただけだ。原作はすげぇの一言だったよ。人情と怨念とってのが上手く書かれててだな――って、んな事ぁどうでもいいんだよ。いいから俺の話を聞けってんだ!
 とにかくだ。俺はあの後お前さんと別れて家に帰っていた。辺りは日も暮れて、夕日の頭も沈んだくらいの時分さ。俺は腹も減ってたから近道をしたんだ。路地裏をくねくねくねくね……細い道をすいすい通って俺は家の裏手へ辿り着いた。ふう、やっと一息つけると、俺は安心して袂に忍ばせていた家の鍵を取り出したんだ。その時、ふと俺は気づいたんだよ。
 何か、後ろにいる。
 物音がしたわけじゃねえんだ。ただ、気配だけがするんだよ。こう……首筋を羽毛ですすす~、っと撫でられるみたいなよう。俺はもう全身に鳥肌が立っちまってな。急いで部屋に入って鍵を閉めたんだ。するとどうだい。そいつまで部屋の中に一緒に入ってるじゃねえか!
 電気を点けて目の前にいたそいつを見つけた時の俺の気持ち、あんたわかるかい? なんだい、「天にも昇る気持ちだったろ。」って? 馬鹿野郎、それで上手いこと言ったつもりかよ!
 結局、奴は朝になったらいなくなってた。俺の体にも特に変わったところは無かった。
 だがな、以来、奴はずっと俺に付きまとうようになったんだ。何をするわけでもねえが、俺の行く先々に必ず現れる。視界の隅にちらちら映り込みやがって、鬱陶しいったらねえ。
 しかも出てくるのは決まって夕方からなんだ。日が沈む頃にやってきて、ずけずけと部屋に上がり込み、ビビらせるだけビビらせて朝にはしっぽりと姿を消しちまう。
 何もしてこないとは言ったってなあ、こうも得体が知れないんじゃあ、俺も神経参っちまってんだ。俺は何か悪いもんにでも憑かれちまったんかねえ……お前さん、あいつのこと、何か知ってはいないか?

 ***

 なんて、だ。
 なんて事をAが尋常でないほど深刻ぶって言うものだから、俺はもう可笑しくて可笑しくて、つい笑ってしまった。やい、なにが可笑しいなんて眉間に皺寄せて怒られて、一息おいてから珈琲を啜る。
 仏頂面に似合わず、Aは所謂『怪談』が大の苦手だ。俺がここで、「A、そいつはお前を怨んで死んでった女の幽霊さ。」なんて冗談を言ったら、一滴残らず血が引いて倒れてしまうだろうね。
 だから俺は優しく言ってやった。

 ――そいつぁA、ただの"影"さね。
 いいかい? 影ってのは俺たちの「予備」だ。だからあいつらは俺たちに何かあったら、すぐに交代できるよう傍で控えとかなきゃいけねえんだ。だから部屋にだって入るし、お前の行くところなら地の果てだってついてくる。でも、あいつらはまだ半分幽霊みたいなもんだから、あの世とこの世が強く繋がれる夜しかこっちに出てこれねえのよ。

 どうだい、安心したかい? 尚も眉間に皺を寄せるAを笑って宥め、俺は茶を一杯奢ってやった。
 影……あれは俺なのか。こっちでは、影ってのは、そういうものなのかい。
 質問なのか、独り言なのかわからない声でAが言う。そういうものだよと返してやると、そうかい、とまるで気の抜けた声で返事をした。
 外を見ると、空が暮れてきていた。窓からは人の行き交う道路が見え、人の波の隙間に立つAの姿が見えた。そいつの顔色があんまりにも良いものだから、俺は目の前で茶を飲む男の顔と見比べて、そろそろ時期なんだろうなと、男を哀れに思ったものだよ。