2
目覚めたのは、外が明るくなったばかりの時だった。天気予報では、今日は確か雨のはずだ。相変わらず梅雨は鬱陶しい。雨が降らないと水不足になって大変なんだよと言われても、鬱陶しいものは鬱陶しいのだ。
ふと思い立って、スマホを手に取る。通知は来ていなかったが、何となくアプリを開いてみる。
「あれ?」
俺は思わず声を出していた。俺がメッセージを送ったあとに、伊織さんからの返信が来ていて、さらには送った覚えのないスタンプを相手に送っている。
伊織さんがメッセージを送ってきたのは昨日の夕方。ちょうど、授業が終わって部活に行こうとしていた時だ。
画面を見直してみて、メッセージをよく読み返してみる。
「こんにちは、奏太くん。
今は休憩時間です。
今日は十二時から二十時までの勤務なので、出勤前に軽くサンドイッチを食べました。
奏太くんの一番の好物は何?」
文章を見て、やはり見覚えのないものだと気付く。ただ、俺がサバクに扱かれているはずの時間にスタンプを送った形跡もあるし、アプリの誤作動だろうかと思う反面、伊織さんからのメッセージに一晩中気付かないでいた自分に腹が立った。
———なんでなんだろう……。分からない。朝から気分が悪い。
サバク達からのメッセージだったら、きっとこんなにも不審に思わないだろう。だけど、相手は伊織さんだ。アプリのアドレス帳にも、「伊織さん」と、ちゃんと名前で登録されている。
もしこれを、誰かが見ていたとしたら……。そう思った時、昨日の部活の帰りの事を思い出した。
あの時、鞄のいつもとは違う場所に携帯電話が入っていた。
「誰かが見たんだ」
声に出して呟いた。それが事実だと、それしか考えられないと、自分に言い聞かせるために。
———じゃあ誰がそんなことを……。
当たり前のように次に浮かぶのは、そんな疑問。心当たりはあるし、そんなことをしそうな奴は一人しかいない。
須藤梓。あの女だ。
確か昨日、梓は部活の途中から姿を消した。あの時、部室に忍び込んで俺のスマホを見ることなど、造作もなかったはずだ。スマホの認証ロックは、単純に俺の誕生日にしているから、梓がそれを知っていて、あるいは知らなくとも、当てずっぽうに数字を打ち込めば画面は開いてしまう。
証拠はないから、梓だと決めつけることは出来ない。だから、むやみに攻められない。
俺は考えた。もう梓とはラインをやめようと。どのみち疑心を抱いてしまった相手とは、普通にメッセージのやり取りなんて出来るわけがない。
いい機会だ。今日、梓と話をしよう。
「伊織さんおはようございます
返信遅くなってすみません
昨日のジンダって人、何回か見たことあります
元気な人だなと思いました
あ、俺の好物は、ケーキです。誕生日に食べるような、莓のケーキ。
伊織さんに作れますか?」
俺はとりあえず、伊織さんにメールを送った。仁田さんは、伊織さんと同じ職場に勤めているだけの書店員だ。伊織さんと何か特別な関係ってわけじゃない。それは、昨日の事を冷静に思い出すと分かる。そうでなくとも、伊織さんは浮気をするような人じゃないと、信じたい。
俺が朝練に行く頃には、雨が降り出していた。
「気をつけていくのよ」と、何故か朝からリビングの隅にあるグランドピアノの拭き掃除をしていた母が、玄関まで見送りにくる。
「分かったよ、幼稚園児じゃないんだから」
苦笑して答え、俺は家を出た。
俺の家にグランドピアノがあるのは、母がどうしても欲しいと我が儘を言って購入したからだ。自分の家にグランドピアノを置くのが、母のささやかな夢だったらしい。ピアノは、ただの飾り物じゃない。今でも母は暇を見つけて弾いているし、そんな母の息子である俺も、多少は弾ける。
俺は小さい頃から、中学生の頃まで、母にピアノを習っていた。だから自分の部屋の本棚には、「こどものバイエル」なんていう楽譜教本が今でも並んであるし、ショパンやブルクミュラーや、モーツァルトなどの楽譜も置いてある。
「奏太」という名前は、音楽好きの母がつけたらしい。生まれてくる子供が男の子だったら「奏太」、女の子だったら「奏(かなで)」という名前にするつもりだったのよと、いつか母が言っていた。
今はバスケで忙しいから、以前のように演奏している暇はないけれど、鍵盤を前にすれば、旋律を奏でることはできる。
俺が最初に弾けるようになった曲は、何だったかな……。傘に当たる雨のリズムを聞きながら、考える。
ブルクミュラーの「アラベスク」だ。その次に「貴婦人の乗馬」を覚えて、「エリーゼのために」で苦戦して、だけど次の「紡ぎ歌」は結構簡単に弾けたっけ。
過去の自分を思い出して、ちょっと切なくなる。プロのピアニストになるなんて夢はないけれど、真面目に弾き続けていれば良かったなと思った。
今日家に帰ったら、久しぶりに弾いてみよう。きっと母も喜ぶはずだ。
俺はそう決めて、傘をくるくると回した。通りがかった自転車の人に飛び散った水滴がかかってしまったが、幸いなことに気付かれることはなかった。
梓に声をかけて「話がある」と持ちかけたのは、昼休みだった。
サバク達がまた学食に行くと言うから「先に行ってて」と促して、友達と教室を出ようとしていた梓を呼び止めたのだ。
「なに?」
もし、俺のスマホを勝手に見たのが梓だったとしたら、こいつは凄い度胸だ。いつもと何ら変わりない態度で、他の男子が見たら心を奪われるであろう笑みを顔に張り付けて尋ねてきた。
「部活が終わった後、梓に話したい事があるから、待ってて」
そう言った俺に、梓は「分かった」と笑って背を向けた。
———人間って怖いな。
梓の態度を見て、ほんの一瞬、スマホを触ったは別にいて、梓は全く関係ないのかもしれないと思った。
———甘いぞ、俺。
そう自分に言い聞かせる。人間なんて、いくらでも人を騙すし、騙される。全ての女は女優だ。
今日も部活が一時間延長されて、結局梓と話せるようになったのは、夜の七時すぎだった。
「はい、お待たせ」
長いこと待たせたのも悪いし、どうせ最後だからと思って、俺は学食の外に設置されている自販機で、梓の分のミルクティーを買った。
「ありがとう」
梓はそう言ってミルクティーを受け取ると、早速ブルタブを開けた。
「何? 話って」
「俺、お前とのラインやめる」
変な間が空かないうちに、そう言った。だけど俺が言い終わった後に、間が空いた。
「……そう」
かなりの沈黙の後、梓がやっと口を開いた。ミルクティーに接着剤が入っていて、口が開かなかったんじゃないのかと思うほどの長い時間だった。
「ごめん」
一応、謝った。俺は何も悪くないけれど、謝った。
「そう言うと思ってた。あたしの気を誤魔化そうとして、飲み物なんか買ってくれたんだ」
そうかもしれないなと思った。逆上されるのかと思いきや、梓の声は怖いくらいに落ち着いていた。
俺と目を合わそうともしない。二人のあいだに流れている空気が痛い。
「あたしはまだ、左海君の事好きだから。あきらめていないから」
「ごめん……俺はもう」
「いいのよ」
俺は、悲しそうな顔をする梓を初めて見た気がする。それが表面上の演技なのか、本当の心模様を表しているのかはわからなかったけれど、やっぱり可哀想だったかなと、少し後悔する。
スマホを見たのは、梓じゃなかったのではないかと、また思った。さっき同じことを思った時よりも強く。
「話って、それだけ?」
「うん」
「じゃああたし帰る。これでお互いに、思う存分好きなことが出来るでしょ?」
梓はフッと微笑んだ後、「ミルクティーありがと」と言い残して走り去っていった。
———これでお互いに思う存分好きなことが出来るでしょ。
梓が最後に言った言葉が引っ掛かる。実は梓には彼氏がいて、そして俺にも彼女がいることを察して、気兼ねなく付き合えると言っているのだろうか。
それともやっぱり梓はスマホを見て、伊織さんの存在を知ったのだろうか。
分からない。もう少し話を掘り下げていれば良かった。梓を呼び止めて、「どういう意味?」と聞くべきだった。だけど、ラインをやめると言えただけでいい気もした。
もうこれで梓とは、単なるバスケ部員と、マネージャーという関係だ。あきらめないと言われても、俺が梓を好きになることは無い。
帰り道、書店の前を通ったが、伊織さんとは会わなかった。毎日鉢合わせする方がおかしいかと、苦笑する。まだ開店中の店の明かりが眩しい。
今日はあの中に伊織さんもいるのだろうか。店の中に入ろうとは思わなかった。
早く家に帰りたい。お腹も空いたし、何よりピアノが弾きたい。帰ったらモーツァルトの楽譜を引っ張り出してきて、「トルコ行進曲」を弾こう。
久しぶりだから、絶対に失敗する。すると母がとんできて、「何やってんのよ」とクスクス笑う。
数十分先の事を想像して、笑みがこぼれる。
早く家に帰ろう。
俺の足取りは、自然と小走りになっていた。
1
日曜日の夕方、俺は伊織さんの書店に行った。途中で出会ったティッシュ配りの人から貰ったティッシュの中に、飴玉がひとつ入っていたので、それを口にして、店内に入る。
本の香りと葡萄の味が、同時に体を駆け巡る。薄暗い店内は、今日もお客さんがいっぱいいた。
俺は飴をコロコロ口の中で転がしながら、学習参考書のコーナーを目指した。古文の単語を覚えるための本を探しにきたのだ。
自分より背の高い棚を見上げ、左から右、上から下というふうに、お目当ての本を探していく。
品揃えが豊富なこの店では、該当の本を見つけても、またその中から自分に合ったものを厳選しなければならない。俺は一冊ずつ手に取って、パラパラと中身を確かめていった。
「お客様」
突然男の人の声がして、俺はビクッとした。聞いたことのある、どこかふざけているかのような声色だった。手に持っていた本を取り落としそうになりながらもそれをキャッチし、振り返ると、仁田さんがそこにいた。
「あ、こんにちは……」
躊躇しながら俺が言うと、仁田さんは「いらっしゃいませ」と笑った。
「お客様、困ります。店内での飲食はご遠慮下さい」
「あ、すみません」
俺は慌てて飴を噛み砕いて、飲み込んだ。仁田さんはそんな俺を見てニヤリとした後に、不意に近付いてきて、俺に耳打ちをした。
「今日これから暇か?」
「は?」
聞き返す。戸惑いの感情が飛び出してきて、乱暴な口調になっていたかもしれない。じっと、仁田さんはこちらを見ている。
ああ、この人は、話している相手の目をちゃんと見ることのできる人なんだなとか思っていると、「どうなんだよ」と返事をせまられた。
「あ、大丈夫です……少しなら」
俺は、仁田さんの胸元にある「じんだ」と書かれた名札を見ながら答えた。
「そうかそうか。じゃ、ちょっと待ってろよ」
仁田さんはそう言って、俺の返事も待たずに踵をかえし、去っていった。
ぽかんとしたまま立ち尽くしていると、遠くの方から「おつかれさまでしたー!!」という仁田さんの大きな声が聞こえてきた。
その後、俺が仁田さんに連れられてやってきたのは、一軒のこじんまりとした喫茶店だった。騒がしい仁田さんのイメージには似つかわしくない佇まいの店で、どちらかといえば伊織さんが通っていそうな感じだ。店内に入ると、ショパンの「ノクターン遺作」がかかっていた。
「好きなものを頼め」
店の一番奥の席に陣取った仁田さんに、メニューを押し付けられる。
「え」
俺が躊躇すると、仁田さんは「心配すんな。奢ってやるから」と言って笑った。いや、むしろその方が躊躇ってしまうんだけど……なんて言っても、きっと聞き入ってはもらえない。しばらく迷ったあと、俺はチョコレートパフェを注文した。
「下の名前は」
店員が立ち去っていった後、仁田さんが出し抜けに言った。
「奏太……です」
取り調べを受けているような気分になる。本物の取り調べなんて受けたことないから、想像でしかないけれど。
「ふーん」
仁田さんは自分で聞いておきながら、さほど関心はない様子で、カランカランと音を立てながらお冷やを一口飲んだ。
「あの……今日はどういったつもりで、お……僕を誘ったんですか?」
沈黙が流れるのに堪えられず、俺から話題をふってみた。
「パフェ食ってからな」
だけど、そう言ってはぐらかされた。
何か企んでいるんだ。きっとそうだ。そう思った途端、書店で誘われた時に断っておくべきだったと後悔した。
「今、聞きたいんです」
早く帰りたくなって、俺はそう言った。
「お前って、意外と自分の言い分を貫き通すタイプなんだな」
仁田さんの目が丸くなる。怒らせたわけでも、皮肉で言ったわけでもないだろう。
ちょうどその時、見計らったかのようにパフェと仁田さんが頼んだコーヒーが運ばれてきた。
「まあ、食えよ」
仁田さんに急かされて、俺はひとまずパフェを食べた。甘いアイスを口に含みながら、自分は完全に仁田さんのペースにはまっていると感じた。でも、甘くて美味しいパフェが食べられるのならば、別にいいかななどと思ったりして、慌てて心の中でそれを否定する。これから何を問われるのか、ずっと身構えていなければならない。でも、身構えているのを相手に悟られるのも嫌だから、仁田さんの口車に乗せられたふりをしよう。
「香坂さんとお前って、どんな関係なんだ?」
パフェを半分ぐらい食べた時、不意に仁田さんが聞いてきた。
「え?」
心臓がドクンと波打つ。スプーンを運ぶ手が止まった。
「どんな関係って……」
店内のBGMが「子犬のワルツ」に変わる。この店の店主はショパンが好きなんだなとは、思う余裕も無く、俺の心は曲のテンポに急かされるように激しく動揺していた。
「誰にも言わねぇからさ」
ありきたりで信用の出来ないその言葉に、俺はカチンと来た。とりあえず残りのパフェを全て食べ終え、スプーンを置く。
「なんで仁田さんにそんなこと言わなきゃいけないんですか?」
自然と口調がきつくなる。それでも、仁田さんは動じることなく、表情ひとつ変えずに、俺を見ている。まるで俺が、こういう態度に出る事を前もって予測していたかのようだ。
「こないだの香坂さんは、お前が現れた時だけ、やけに動揺していた。それはお前と香坂さんが、ただの店員と客じゃないって言っているようなもんだろ?」
「……俺は、あの店で万引きしたんです」
イライラして、さらりと口から嘘がこぼれた。すると、思考が滑らかになり、どんどん嘘が浮かんでくる。俺は仁田さんにそれをぶつけて、出し抜いてやろうと考えた。
「はあ?」
仁田さんが眉を潜める。
「で、俺が店に行く度にあの人にマークされてて、いつしか話すようになりました。あの人は俺を見たら万引きの事を思い出すから様子がおかしくなるんじゃないですか?」
「おかしくなるんじゃないですか?……って聞かれても知らねぇよ。お前、オレをなめてんのか?そんな作り話に騙されるとでも思ってんのか?」
仁田さんは冷たく言い放って俺を睨んだ。
せっかく考えた嘘は、すぐに見破られてしまったらしい。
「万引きする奴ってのはな、店員みんなで防犯カメラチェックして、『こいつに注意しましょう』って全員に情報が回るんだよ。嘘をつくなら、もうちょっとマシな嘘にしろ」
それに、自分を貶めるような嘘はつくなと、親みたいな言葉を付け加える。
俺が黙ったままでいると、仁田さんは「何で嘘ついたんだよ」と聞いてきた。
「仁田さんが信用出来ないからです」
即答する。
「仁田さんは『誰にも言わない』って言ったけど、そういう人に限ってベラベラ喋ったりするんです。俺が『誰にも言いませんか』って聞いたならまだしも、仁田さんは突然そう言ったから怪しいです。まるで何も聞いてないのに、『俺はやってない』って言ってる容疑者みたいだ」
俺の言い分に、仁田さんは少したじろいだ様子で聞いていたが、何を思ったのかしばらくして口を開いた。
「じゃあ、もしオレが誰かに言いふらしたらどうする?」
俺はまたイライラしてきて、フンと鼻で笑ってしまった。駄目だ。仁田さんは、何がしたいのか一向に分からない。俺と伊織さんの関係を聞いて、どうするつもりなんだろう。
俺を伊織さんから離そうとしているのかな。そんなこと、させてたまるか。
「誰かに言ったら、ぶっとばします。いくら仁田さんが年上でも、それとこれとは話が別です」
そう言って、もし仁田さんが空手とかボクシングとかやってたらどうしようと、後になって思った。だけど、もう引けない。心の中で、俺は、秘密をばらされたら、本当に仁田さんをぶっとばしてやろうと決意した。
足の震えが全身に伝わりませんようにと願いながら、口をぎゅっと閉じて仁田さんの鼻の辺りを見つめた。
気分を紛らわせるために、パフェをもう一つ食べたいと思ったが、それはあまりにも図々しいので我慢した。
またしばらく黙っていた仁田さんが、今度は笑い始めた。大丈夫かな、この人。
「わかった。オレがもし喋ったら、煮るなり焼くなり好きにしていいから」
笑いながら仁田さんはそう言った。
「でも多分、仁田さんの想像通りの関係だと思いますよ。だから俺がわざわざ喋るような事じゃないし、なんなら伊織さん本人に聞いてみたらどうですか?」
仁田さんが俺をこんなところに呼び出したということは、なにか確証があって、それを確かめようとしているのだ。この人は、俺と伊織さんの関係に気づいている。
足の震えが止まらない。動揺を隠すために、俺は出まかせのように強い口調で話している。しまいには仁田さんがキレて、殴られるかもしれない。だけど、同じ殴られるなら言いたい事を言っておこうと思った。その方が、気持ちが楽だ。
「あくまでもお前の口から言わないつもりなんだな」
仁田さんが笑うのをやめてそう言った。
「……はい。伊織さんに迷惑がかかるかもしれませんから」
「この後でオレがお前を引きずって行って、言うまで殴るって言ってもか?」
「そんなことしたら、警察呼びます。それに仁田さんにそんなことをする度胸があるとは思えません」
喉がカラカラだ。もし仁田さんがヤクザや不良だったら、俺はこんな口を利けるはずがない。
「気に入った!!」
突然、仁田さんが叫んだ。
「え?」
「そのずる賢さ、気に入った。そんな面も無いと、年上の女とは付き合えないよな!」
仁田さんの発言に、やっぱりバレていたのかと確信する。否定はしなかった。だって、事実だから。
自分から言うのは嫌だけど、相手に気付かれていたのなら仕方ないと思った。
「オレ、応援してやるよ。だけど、香坂さんを不幸にするような事があったら、オレがお前をぶっとばしてやるからな!」
仁田さんの言葉を聞いて、彼も伊織さんが好きなんだということに気付いた。伊織さんが俺と付き合っている事を知ったとき、仁田さんはどんなことを思ったのだろう。
人間的にも、経済的にも、俺なんかよりもきっと仁田さんの方がしっかりしている。二人がその気になれば、すぐに結婚なんてのも出来るだろう。
伊織さんは、言っちゃ悪いけどもうすぐ三十路だ。俺のせいで、結婚をしたくとも出来ないのであれば、それはそれで伊織さんを苦しめていることになる。
伊織さん、どうなんだよ。俺と付き合ってて、本当にそれでいいのかよ。
今のところ伊織さんは何も言ってこないし、俺も何も聞かない。考えてみれば、俺がひとつでも伊織さんの役に立つ事なんてした覚えがない。だからといって、自分は伊織さんにふさわしくないんだと認める、潔さも無い。
俺みたいな奴でも「彼氏」がいると分かってすんなりと身を引いた仁田さんのようには、なれない。俺はこの時初めて、伊織さんとの関係に関する将来への不安を抱いた。
伊織さんが嫌なら、別れるしかない。だけど、俺から別れを切り出す勇気は無いし。
互いに思い合っていれば、全てが上手くいくと思っていた。だけどその考えは、将来の事を見据えていなかっただけの、薄っぺらく浅はかなものだったのだ。
喫茶店を出る時、すっかり落ち込んだ俺を見かねてか、仁田さんは持ち帰りでミルクティーを買って、俺に渡してくれた。
「さっきの勢いはどこにいったんだよ」
そう言って仁田さんは笑ったが、俺は一緒に笑うことも出来なかった。
———仁田さん、伊織さん、ごめんなさい。
俺は、もしかしたら、二人の幸せを奪ってしまったかもしれません———
考えれば考えるほど、卑屈になる。本当にさっきまでの勢いは、どこに行ってしまったのだろうかと、自分でも呆れた。
仁田さんとは別れ際に、電話番号とラインを交換した。すごく良い人だなと、立ち去っていく彼の背中を呆然と見つめていた。仁田さんの存在が大きく見えた。自分の好きな人が、年下の学生と付き合っている事実を知っても、彼は取り乱すことなく、余裕をみせていた。あれが、大人になるということなのだろうか。
帰り道。今日は伊織さんとメッセージのやりとりをする気分にはなれないなと思った。
買う予定だった参考書は、伊織さんの影がちらつくあの書店では買わず、遠回りをして別の店で買った。
俺って、ちっぽけだな。自嘲気味に笑うと、なぜか目の端から涙がこぼれて、薄暗い初更の中へと消えていった。
夜、寝ようとしていた俺の元に一通のメールが届いた。
「こんばんは、奏太くん。遅くにごめんなさい。おやすみ、を言っておきたかったの。
誰よりあなたが大切です。
おやすみなさい」
伊織さんからだった。文面を見て、驚く。俺が不安になっていたのを、見られたのかと思ってしまうような内容だ。
同時に、再び胸と鼻の奥が温かくなる。枕に顔を埋めて、泣きたいのをグッとこらえる。
伊織さん、俺も貴方が好きだ。
世界中のどこを探しても、貴方のような人はいない。
そんな歯の浮くような台詞は、自分の胸の内に秘めておこうと思ったら、小さな笑いがこぼれた。泣いたり笑ったり忙しいなと自分で思いながら、やがて俺は眠りについたのだった。
2
インターハイ予選を二週間後に控えた時期は、部活の空気が変わる。いつもは笑い合い、和気藹々と練習をしている俺達は、最後の仕上げと言わんばかりに真剣に練習をするようになる。
今年、俺はサバクと一緒にレギュラーメンバーの座をあてがわれた。もともと人数が少ないせいなのか、俺の実力(そんなものがあればの話だけど)を認められたからなのかは分からないが、とにかく初っぱなから試合に出るのだという。
ベンチに座る先輩や、レギュラーメンバーではない人達には申し訳ないと言ったら、「お前アホか」とサバクに叩かれた。
梅雨明け間近のこの時期の体育館は、蒸し風呂のようだ。どれだけ軽装をしていても動けば汗だくになるし、あまりの暑さに気分が悪くなって、嘔吐する人もいた。
練習中、何も言わず突然トイレに向かって走り出す人を見ると、あーあと思ったりする。
俺は、梓の作ったクエン酸入りの必要以上にすっぱいドリンクを、顔をしかめながら飲んでいるせいか、一度もトイレに走った事はない。
梓はというと、俺がドリンクを飲むのをほくそ笑みながら見ているから、きっとドリンクが酸っぱすぎるのは梓のささやかな復讐なのだろう。昨日、そのうち青酸カリやら、ヒ素やらを入れられそうだとサバクに冗談を言ったら、梓にチクられてしまった。
今度の試合は、父兄達も見に来るらしいから、伊織さんを誘ってみようと思った。隣の市にある市民体育館で試合をやるんだけど、都合さえあえば伊織さんも来られるはずだ。
俺だって、ちょっとカッコいいところがあるんだぞと、伊織さんに伝えたかった。本当にカッコいいかどうかは別として。
伊織さんにメッセージを送ると、「ちょうどその日は休みだから、観に行くわ」と返事が来たので、俺は布団の中で思わずガッツポーズをした。
そして、ある事を思い付いた。
試合の前日は、翌日に負担がかからないようにと、部活は休みだ。その日は土曜日で学校も無いし、どうやら伊織さんも書店が休みのようだから、伊織さんの家を訪ねてみようと思った。
連絡もせず、突然お邪魔するのだ。伊織さんの驚く顔が目に浮かぶ。
「試合前に、どうしても会っておきたくて」とでも言ってみよう。本当は、仁田さんに会った日から一度も会っていない伊織さんの様子を探るためだ。仁田さんが伊織さんと何かを話したのかは知らないが、俺と伊織さんがお互いにまだ「好き」なのかどうかをそれとなく調べようと思ったのだ。
不安だった。いつか伊織さんが心変わりしてしまうんじゃないだろうかと考えれば考えるほど、不安だった。本人に、そんな心配はいらないのよと言われたとしても、その気持ちは拭えない。
俺達はまだ、将来を約束した仲じゃないし、そんな事をするような立ち位置にいるわけでもない。
だからこそ、時として不安が押し寄せ、俺は翻弄されてしまう。恋は良いことばかりじゃない。俺はそう学んだ気がした。最近、変な事ばかり考えているなと、苦笑する。
体を重ね合わせた仲が、そう簡単に壊れるものかと言い聞かせてみた。
伊織さんの家に行くと決めた日、俺が目覚めたのは昼過ぎだった。前日までの疲れがたまり、死んだように眠っていたらしい。
「なんで起こしてくれなかったんだよ」と母に八つ当たりをして、野菜たっぷりのコンソメスープとパンの昼食を食べると、俺は家を飛び出した。
別に伊織さんと約束をしているわけでもないが、なるべく早く彼女の家に行きたかったのだ。
途中の信号待ちや、踏切が疎ましい。こんなところで足止めを喰らっていなければもっと早く着いてるのにと、心の中で地団駄を踏む。
伊織さんの部屋の前に立った時には、すでに午後一時半を回っていた。
インターホンを鳴らすと、扉の向こうから足音が近付いてきた。ゴンッという鈍い音がして扉が開き、伊織さんが膝をさすりながら俺を迎え入れてくれた。
伊織さんが動揺して、扉に膝をぶつけたのだろうか。
「こんにちは!」
笑顔でそう言う傍ら、ふと思った。
「なあに?突然」
「伊織さんの顔がどうしても見たくて。迷惑かなと思ったけど、来ちゃいました」
伊織さんの後をついていきながら、俺は言った。あの扉の向こうが、俺達がセックスをした寝室で、あそこが風呂場……。伊織さんに気付かれないようにキョロキョロと周りを見渡してみる。一度来たことがあるのに、妙によそよそしく感じた。
伊織さんは居間に俺を入れると、自分はキッチンへ向かっていった。
「ケーキを焼いてあげるとは言ったけど、急に来るなんて奏太くんもやるわね」
「やるだろ」
俺が悪戯っぽく笑うと、伊織さんは「奏太くんって思ってたよりお茶目なのね」と言った。
そうか。俺がこうして驚かせようと思っていきなり訪ねた事は、伊織さんにとっては「お茶目な行動」にすぎないのか。だけど、俺がもっと歳を重ねていたらどうなのだろう。
「お茶目なのね」の一言で簡単に済ませられるような感情を、伊織さんは抱くのだろうか。
きっと、「何か裏があるんだわ」とか「どういう風の吹き回しかしら」とか、多少の疑念を持つのではないだろうか。
伊織さんにとっては、俺はまだまだ子供なのだろう。それも、汚れの知らない無垢な子供だと思われているのだろう。
甘いな、伊織さん。冷蔵庫を探っている、彼女の後ろ姿を見つめる。その隙だらけの背中に、俺が抱きついたとしたら、どうする。俺が押し倒して、台所だというのに欲情したら、どうする。それでも伊織さんは、俺を「無垢な子供」だと思い続けるのか。そう考えたところで自分で笑い出しそうになった。
何故だろう。ここに来ると、普段は姿を見せない自分の一面が現れる。欲にまみれた狡猾な獣のような感情だ。
伊織さんと体を重ね、共に一夜を過ごした。ただ一度だけ。それも、あの夜は緊張で我を忘れていたはずなのに。
俺の体を這っていた伊織さんの手の感触を思い出す。あの時と同じ手で、何を思うこともなく、伊織さんは今調理をしている。
不思議だ。すごく、不思議だ。何も思わないのか。
「私はこの手で奏太くんの全身を撫で回しました。そんな手でこれからケーキを作ります」
そうやって、意識なんてしないのか。手を洗ったから、何ともないのだろうか。それとも、何も思わないのが普通で、俺が異常なのだろうか。
先程、少し調子に乗った自分を反省する。
調子に乗っていた自分も、今こうして戸惑っている自分も、他人からみたらまだ幼いなと思われる要因なのだろう。
きっと、大人たちは、こんな馬鹿みたいなことは思わないし、一度きりのセックスでいちいち日常生活に疑問を抱いたりはしない。もしかすると、昼と夜は別ですなんて思っているのかもしれない。
伊織さんから視線をそらした俺は、ふと部屋の端に置いてある電子キーボードを見つけた。
確かこの間は、無かったはずだと思い、俺はそっとそれに近付いた。八十八個の鍵盤が、規則正しく並んでいる。
こんなものがあるということは、伊織さんはピアノを習っていたのだろうか。
勝手に電源を入れる。このままボーッと待っているのも退屈だし、伊織さんを驚かせたいから、少し演奏をしようと思ったのだ。
チラリと台所を見る。伊織さんはこちらには気付いていない。俺はニヤリと笑って鍵盤に向き直ると、そっと指を置いた。
俺が弾き始めたのは、誰もが知っているベートーベンの名曲、「エリーゼのために」だ。
体が旋律を覚えていた。母に聞かされたこの曲に関するエピソードと共に、どんどんと頭に音符が浮かぶ。
ベートーベンがこの曲を作曲したのは、一八一〇年、彼が四十歳の時だった。しかし、楽譜が見つかったのは彼が亡くなった後の一八六七年で、「エリーゼ」とは一体誰なのかと大いに話題になったらしい。何故なら、ベートーベンの周囲には「エリーゼ」という名の女性はいなかったからだ。
しかし、答えはこの楽譜が見つかった、テレーゼ・フォン・ドロスディックという夫人の手紙箱にあった。この夫人は、ベートーベンが四十歳になる直前にプロポーズをした、テレーゼ・マルファッティと同一人物なのだという。
ベートーベンは字が汚く、本人は「テレーゼ」と書いたつもりのタイトルが、第三者から見れば「エリーゼ」に見えてしまったのだ。ベートーベンがテレーゼに恋をした時、テレーゼはまだ十八歳。その恋は実らなかったが、歳の差の恋というのが俺と伊織さんと同じだと思った。
「エリーゼのために」は、いわば失恋ソングなのだ。
言われてみればそんな気もした。後半の左手の「ラ」周辺の音の連打。不安定に揺れるようなメロディー。
そして、一気に高音へとかけ上ったかと思うと、またすぐに戻っていって、最後に有名な旋律で終わる一連の流れは、失恋のショックから立ち直ろうとするが、それでもまだテレーゼが忘れられないというような感情が込められている気がする。
母にエピソードを聞かされた時は何も思わなかったのに、俺も少しは成長したのかなと思った。
曲を弾き終わり、くるりと振り返ると、すぐ後ろに伊織さんが立っていた。
「うわ! びっくりした!」
俺は思わず叫んでしまった。
「ご、ごめんなさい。勝手に触って……」
「そんなの、いいのよ。奏太くんってピアノ弾けたんだ」
「昔、母から習ってました」
「お母様から?」
伊織さんの問いかけに、俺は無言でうなずいた。
「いいお母様ね。もうちょっとでケーキが焼き上がるから、私にもう一曲、聞かせてよ」
俺はほんの一瞬迷ったが、伊織さんが望むのならと思って、頷いた。
「何か、聞きたい曲、ありますか? そんなに上手くないですけど」
伊織さんは考え込むように部屋の壁を見つめた後、口を開いた。
「じゃあ、『ラ・カンパネラ』なんて弾けるかしら」
「あまり上手くないです」
「でも、弾けるんだ」
「……はい」
俺の返事を聞いて、伊織さんは満足そうに微笑んだ。もしかすると伊織さんはピアノが大得意で、俺の下手くそな演奏を聞いて、嘲笑するつもりなのかもしれないと思って、少し怖くなった。
それでも弾けると言った以上、俺は、弾かなきゃならない。鍵盤に指を置いて一息置くと、慎重な手つき音を奏で始めた。
演奏が終わるまでの約五分間、俺はこの曲でピアノを挫折しかけた過去の自分を思い出していた。上級者向けの難曲だ。
この曲を弾きたいと言い出したのは俺なのに、複雑な旋律とそのテンポのせいで、なかなか弾けるようにならなかった。
自棄になった俺は母に当たり散らし、ピアノの鍵盤をむちゃくちゃに叩いた。今になって思えば、「情けない」の一言しか出ない。
ピアノからしばらく離れた俺に、母が言った言葉がなければ、今も俺はこの曲が弾けないままだっただろう。
「あんたの力量って、こんなものだったのね」
辛辣な言葉に、俺は泣いた。そして、ピアノなんかに、負けてたまるかと思ったのだ。当時の俺は、母を喜ばせるためにピアノを弾いていた。
俺が曲を弾けるようになれば、母さんは笑ってくれるんだ。母さんの笑顔が、見たい。
今となっては面映ゆい、そんな気持ちを抱いていた。だから「ラ・カンパネラ」を弾けるようになれた時、その喜びもひとしおだった。
ご褒美にと、母はケーキを焼いてくれた。そう、今の伊織さんのように。だから、俺にとっての「ラ・カンパネラ」は、「ケーキの曲」でもあるのだ。
やがて香ばしいケーキの香りが漂ってきて、俺はついついそっちの方に気を取られてしまった。ピアノから目を離し、台所にいる伊織さんを見る。
まだかな、まだかなと、はやる気持ちを抑えるので精一杯で、伊織さんに話しかけることも忘れていた。あの伊織さんが、俺のためだけにケーキを作ってくれている。それが凄く贅沢な事のように思えてくる。
多分、母が作ってくれた「ラ・カンパネラ」のケーキの味には、遠く及ばないかもしれないけれど、でもやっぱり美味しいはずだ。あのケーキのように、今日がいつか思い出になった時、もしも伊織さんのケーキが不味かったとしても、その味も美化されて「すごく美味しかったな」と思えるのだろう。
「出来たわよ」
伊織さんの声に、俺は思わず立ち上がってケーキを見に行った。全体に生クリームが塗られ、ケーキの上にはブルーベリーが乗っていた。
「奏太くんがいきなり来るから、苺が用意出来てなかったの」
伊織さんはそう言って、ケーキを持ち上げると、一人暮らしには少し大きな冷蔵庫にそれを入れた。
「もしかして、すぐに食べられると思った? ちゃんと冷やさないと、美味しくないわよ」
俺が驚いた顔をしたせいか、伊織さんは笑って言った。
「少し話そっか」
そして伊織さんは、居間へ行き、テーブルの前に腰を下ろした。俺も伊織さんに向かい合う形で、先程座っていた場所に戻る。
「あ、あの、明日来てくれますよね?……試合」
「勿論よ。頑張ってね。そうだ、カメラでも持っていこうかしら」
「それは……」
口ごもる俺を見て、「ん?」というふうに伊織さんはこちらを見たが、俺は「何でもないです」と慌てて言った。本当は試合をしている姿なんて、写真に撮られるのは恥ずかしいけれど、伊織さんがそうしたいのならすればいいと思ったのだ。
「で、でも、あまり期待しないでください。俺、あんまり上手くないから……」
「よく分からないけど、あんまり上手くない人が試合のメンバーにはなれないと思うわ」
そう言って伊織さんは笑った。やっぱり綺麗だなと、笑顔に見とれてしまった。
「この間、仁くんが奏太くんのこと、褒めてたわよ」
その一言に、俺はドキッとした。あの人、伊織さんに言ったんだ……。
「とても良い奴だって。でも、何で教えてくれなかったのかしら、仁くんに会ったこと」
「それは……」
仁田さんに、俺達の関係がバレたからです、とは言えなかった。伊織さんとの関係に不安が出来てしまって、泣いてしまいましたなんて言ったら、どう思われるだろう。
自分が泣いた事も認めたくないのに、そんなの伊織さんに言えるわけがない。
「……ごめんなさい」
伊織さんに聞こえたかどうか分からないほどの声で、俺は呟いた。
「別に良いのよ。気にしていないから」
伊織さんが優しく諭すように言った。
俺、伊織さんに心を開いていないって思われたかな。本来なら、包み隠さずありのままを伝えるべきだ。それが出来ないのは、俺がまだ二人の関係に戸惑いがあるからなのだろう。
俺の言葉遣いには、それが顕著に現れている。付き合っているのに敬語を使うなんて、すごくちぐはぐな気がする。
い・お・り。
声に出さず、伊織さんを呼び捨てで呼んでみる。顔が火照るのを感じて、別に名前まで呼び捨てで呼ばなくてもいいかなと思い直した。
「そろそろいいかしら」
伊織さんが壁の時計を見上げて言ったのは、それから一時間ほど経った時だった。音楽の話や、それぞれの近況など、色んな話をしていたので、俺は一瞬何のことか分からなかった。
伊織さんが立ち上がって冷蔵庫に向かうのを見て、ケーキのことを思い出した。伊織さんはケーキを包丁で食べやすい大きさに切って、小皿に取り分けて俺にくれた。
思わず笑みがこぼれる。
「いただきます」
俺は早速フォークを突き刺して、一口食べた。
「おいしい」
冷えたケーキは、すごく美味しかった。甘い味が口の中に広がって、顔が綻ぶ。ああ、幸せだななんて、思ったりした。
「伊織さん、これ凄く美味しいです!」
「喜んでくれて嬉しいわ」
俺は次々とケーキを口に入れ、その甘美な味を堪能した。どんな高級なケーキよりも俺に合うのは、やはり好きな人が作ってくれたケーキなのだ。
伊織さんが作ってくれたケーキなら、一切れ一万円でも買ってしまうかもしれない。いや、やはり、この味はお金なんかじゃ計れない。
俺の舌が感じる、俺だけの「美味しさ」だ。きっとその味は、他の誰にも分からないだろう。
「そんなに急がなくても、誰も取らないわよ。ほら、クリームついてる」
伊織さんがクスクス笑って、俺の頬についていた生クリームを指ですくった。そして、舐めた。
俺は無言のまま、フォークをお皿の上に置いた。カチャンと、静かな部屋に音が響く。
そして、俺は立ち上がると、伊織さんの前に立った。不思議そうな顔をして、伊織さんは俺を見つめる。
おそらく「どうしたの?」と言おうとしたであろう唇を、俺は自分の唇でふさいだ。
ほんの一瞬の事だった。すぐに唇を放し、驚いた顔の伊織さんを見つめる。
「……お礼です」
俺はただ一言そう呟くと、席に戻って再びケーキを口に入れた。
「奏太くん……嫌だ、からかわないでよ」
「からかってなんかない。俺は、自分の気持ちを伝えたかっただけ……だ」
いつものような敬語は使わなかったせいか、たどたどしい口調になった。
自分がいま何をしたのかは、よく分かっている。無意識のうちに、なんて言ってむざむざと逃げ出したりはしない。
「今まで俺は、伊織さんに恋人らしい事なんてしたことがないから、今度こそって思ったんだ。なんか変質者みたいだけど、伊織さんを驚かせたくて」
そうやってカッコつけてみたけれど、俺の頬についたクリームを舐めた伊織さんに欲情しただけだ。
自分の行動の理由が分かっていると、意外と冷静にいられるんだなと思った。
驚きを隠せないのは、伊織さんの方だった。何も言わず、ただ俺を見ている。
「それから俺、もう伊織さんに敬語で話すのやめる。なんか、付き合ってるのに不自然だったし、さっきので吹っ切れた」
棒読みのような台詞だったけど、伊織さんに追い討ちをかけたつもりでいた。それなのに、伊織さんは突然笑い出した。
「奏太くんも、ちょっとは言うようになったじゃない」
伊織さんはきっと、精一杯大人を演じようとして、そう言ったのだ。予想にしかすぎないけれど、そんな気がした。
「俺、もう帰ります。ケーキ持って帰っていいですか?」
しばらくして、俺はそう言った。自分が押しかけておいて、いきなり帰るなんて、自分勝手にも程があるなと思ったけど、これ以上ここに居たら、朝まで居続けそうな気がする。
試合前日なのに、多分それはいけないだろう。
「言ったそばから敬語になってるじゃない」
「あ……」
恥ずかしくなって、俯く。そのあいだに伊織さんは、ケーキを一切れずつラップに包んで、俺が持ち帰られるようにと、小さな紙袋に入れてくれた。
「じゃあ、また明日」
伊織さんはそう言って俺に紙袋を渡してくれた。心なしかその顔が、何だか寂しそうに見えたが、俺はどうすることも出来ず、ただ頷いて伊織さんの家を出た。
歩くたびに紙袋がガサガサと音を立てる。改めてありがとうと言うのを忘れていた。そう思った俺は、スマホを取り出して、伊織さんに「ありがとう」とただ一言、メッセージを送った。明日は頑張ろうと、それだけを思った。
3
試合の当日、俺は朝早くに起きた。脳が完全に働き出すのは、起きてから三時間ほどかかると聞いたからだ。両親はまだ寝静まっていたが、外は空が白み始めていた。梅雨明けが発表されてから、ここのところ晴天が続いている。
天気が良いのは良いことなのだが、その分暑い。今日は水分補給がだいぶ必要だなと、思った。
昨夜用意しておいた持ち物を確認する。赤色のユニフォーム、タオル、それからバスケットシューズ。机の上に置いたままのリストバンドは、今はめておこう。
母が作ってくれた、いつもより多めの朝食もしっかり全部食べた。
「見に行ってあげるわね」と言われたけれど、俺は照れくさくなって、何も言わずに母に背を向けた。俺は、「来んなよ、ババア」などと暴言を吐くような親不孝者ではないはずだし、何より、心の片隅には来てほしいという気持ちがあったのだ。
「これ、持っていきなさい」
行きがけに母はそう言って、俺に巨大な水筒を渡してきた。
「昨日、お父さんが買ってきてくれたのよ。奏太が脱水症状にならないようにって。それと、試合観に行けなくて悪いって、謝ってたわ。」
「……うん」
水筒を受け取り、母に背を向ける。
「行ってきます」
仕事で多忙な父からの思わぬ愛情を感じて、俺はさっきよりもっと照れくさくなった。
「……ありがと」
聞こえたかどうかも分からない呟きをもらした後、俺は家を出た。
学校に着くと、敷地内に普段は使わないマイクロバスが停まっていた。バスケ部は全員の人数を合わせても、一クラス分にも満たないから、丁度良いくらいの大きさのバスだ。
「おっす奏太!」
前方から、サバクの声が聞こえてきた。見ると、バスの側に、先輩達に紛れたサバクが手を振っていた。
「おはよう。今日は頑張ろうね」
俺はサバクに挨拶をした後、「おはようございます」と先輩達にも頭を下げておいた。
「あら、左海君、気合充分みたいね」
スポーツドリンクのロゴが入った飲み物入れを運びながら、梓が話しかけてきた。
「……おはよう」
負けたら承知しないわよと言いたげな梓を見て、小さく言った。
先輩に促されて、サバクと一緒にバスに乗った。
「俺、乗り物苦手なんだよなぁ」
「じゃあ、走っていけば?」
俺が言った冗談に、「そのほうがいいかもな」と真剣な顔をして返されたので、答えに困った。
「サバクぅ、奏太ぁ、お前ら頑張れよぉ。先輩達の足引っ張るんじゃねぇぞぉ」
ねちねちとした口調で冷やかしてきたのは、洋平だ。椅子の背もたれの上から顔を覗かせて、俺達を見下ろしている。
「おう!」
俺の冗談や洋平の冷やかしに真面目に答える今日のサバクは、どこかおかしい。俺は少しだけ、彼のことが心配になった。
やがて、バスには部員全員が乗り込んだらしく、監督の運転で車両は走り出した。静かに校外を出る最中、俺達は無言だった。
話したいことはある。少なくとも俺は。今回の相手は、地方や全国の大会で好成績をおさめている、いわゆる強豪校なのだ。俺達が勝てる確率は、低いと言われている。だけどそれがなんだと言うのだ。確率なんてものは、単なる予想にすぎない。そして予想と結果は、全く違う。
試合の結果など、試合をやった後でないと分からないのだ。相手が強いからと言って、最初から諦めるような愚行はしない。
俺達は俺達なりに、一生懸命練習をしてきたのだ。その最終確認と称して、俺はサバクや先輩達と話し合いたいと思っていた。
「なあ、サバク」
バスが伊織さんの書店を横切った時、俺はいてもたってもいられなくなって、サバクに話しかけてみた。
「おい、空気読めよ」
だが、サバクは小声で囁くと、俺から目を背け、辺りを見渡すようにと促した。俺は、いちいち車内を見渡さなくとも、サバクが何を言わんとしているかを理解した。
先輩達は先ほどから、一言も言葉を発していない。試合に向けて、それぞれが集中力を高めているのだろう。そんな雰囲気の中、俺達が喋っていたら、きっと怒られてしまう。俺はサバクにならって、現地につくまでは黙っていようときめた。
試合会場の体育館には、三十分程度で到着した。バスから降りる時、「やっぱちょっと酔った」と呟いたサバクを見て、彼は乗り物酔いをしたから俺と喋りたくなかっただけなのかもしれないなんて思ったりした。
試合に出ない部員達に荷物運びをお願いした後、俺達は先輩の背中にくっつくように歩いて、選手の控え室を目指した。
真正面にそびえ立つ白い壁の建物に入ると受付があり、キャプテンが出場選手の書かれた書類を、そこにいた女性に渡した。
サバクが真剣な顔でそれを見つめている傍ら、俺はキョロキョロと辺りを見渡していて、端から見れば非常に落ち着きのない態度をとっていた。
俺達の周りには、大会の関係者や選手の父兄と思われる大人達がいて、それぞれが固まって談笑をしていた。その中の何人かと視線が合ったが、俺はすぐに目をそらした。
他人の父兄や関係者などに、興味は無い。言うまでもなく俺は伊織さんを探していて、やがて大人達に紛れて一人ぽつんと佇んでいる伊織さんを見つけた。
「先輩、俺、ちょっとトイレに行ってきていいですか?」
伊織さんを見つけた途端、俺は衝動的に前にいた先輩に声をかけた。
「ああ、なるべく早く帰ってこいよ」
「はい」
先輩にお辞儀をすると、俺はトイレの方向、もとい伊織さんの元へ歩いていった。
「伊織さん、おはようございます!」
伊織さんが俺に気付いたのは、そう挨拶をしたときだった。俺は嬉しさを隠せず、自然と笑みがこぼれた。
「おはよう、奏太くん。試合はもうすぐ始まるの?」
「うん。あと二、三十分もすれば始まると思う。今日は来てくれてありがとう」
「いいのよ、私も暇だったし。奏太くんのかっこいいところ見たいし」
「な、何言ってんだよ、伊織さん」
かっこいいところなんて、見せられるかどうか分からない俺は、顔が赤くなるのを感じた。伊織さんはまさか、俺がダンクシュートなんかを決められるとでも思っているのだろうか。だとしたら、限りなく高い確率で俺はゴールに届くことも出来ないから、伊織さんはがっかりするかもしれないな。
「私はどこに行ってればいいの?」
俺の心配をよそに、伊織さんは辺りを見渡しながら聞いてきた。
「多分、あっちにある階段を昇ったら客席だから、空いてる席に座ればいいと思う。だけど、関係者の席には間違って座っちゃ駄目だよ」
俺は伊織さんの背後にある開け放たれた扉の向こうの階段を指差して言った。伊織さんが、関係者の席に座って、注意されて謝っているところを想像すると、笑いそうになった。
「あら、左海君。こんなところで何してんの?まさかみんなとはぐれたわけじゃないわよね」
その声を聞いた俺の表情は、多分凍りついただろう。固まった俺を、伊織さんが不思議そうに見る。ぎくしゃくしながら振り返ると、そこに梓が立っていた。
梓の視線が、俺から伊織さんへと移る。彼女は、伊織さんの頭から爪先までを射るように見た。
「この人、誰?」
梓はしばらくして俺に視線を戻すと、やはりその質問をぶつけてきた。
梓はきっと、俺のスマホを見ている。以前、鞄の違う位置に端末が入っていた出来事が、脳裏をよぎる。伊織さんの名前を言ってしまえば、あのラインの相手が目の前にいるとバレてしまう。
「お、俺、そろそろ柔軟とかしなきゃいけないから……ほら、行くぞ梓」
「ちょっと奏太くん、せめて自己紹介ぐらいしなきゃ、失礼でしょう」
伊織さんが慌てて俺を引き留める。俺が一瞬躊躇した隙をついて、伊織さんは梓に向き直った。
「梓ちゃんっていうのね、あなた。私は香坂伊織。あなたは奏太くんのガールフレンドかしら?」
「アハハ、やっぱりそう見えますぅ? アタシと左海君って、お似合いみたいな? ……でも、全然何の関係もないんですよ。ただのバスケ部員とマネージャー。さ、行きましょ左海君」
梓の声色が変わる。やけに嬉しそうな顔をして俺の腕を取ると、俺を引っ張るようにして歩き出した。俺は放心状態のまま、ただ梓についていくことしか出来なかった。
梓は選手控え室に俺を送り届けるまでずっと前を向いていたので、定かではないのだが、俺の耳に梓がボソッと呟いたような声が聞こえてきた。
「白々しいんだよ、ババア」
もし梓の呟きが幻聴ではなかったとしたなら、確かに梓はそう言っていた。
「試合頑張ってね、左海君」
試合開始の直前、柔軟を終えた俺にそう言った時の梓の視線が、やけに冷たく感じた。
———あたしとのラインを無視して、あんな女と付き合っていたなんて……。
梓はそう思っているに違いない。
「おい、何やってんだ、早く着替えろ!」
控え室の奥からキャプテンの声がとんできて、俺はハッと我にかえった。
「す、すみません」
設置してあるベンチに鞄を置き、ユニフォームに着替える。
「トイレ長かったな。おっきいほうか?」
バスケットシューズに履き替えていると、横に座って靴紐を結んでいたサバクがからかってきた。
「うん」
俺は返事をする気力も失せて、適当に頷いた。俺が素直に認めたものと勘違いしたサバクは、俺を立ち上がらせると、背中合わせで腕を組み、俺の体を持ち上げた。
———今は伊織さんや梓の事なんか考えちゃ駄目だ。
試合に集中するんだ。コートに入る時、俺は自分にそう言い聞かせた。
会場のアナウンスが、一人一人の選手の名を呼んでいく。
その度に拍手がわき、会場が騒がしくなる。伊織さんがどこに座っているかなど確認する暇もなく、サバクの横に並んで、相手の選手と握手をする。
相手は、同年代の少年たちだというのに、全体的に黒いユニフォームを身に纏っていて、背も高いせいか、妙に威圧感があった。ホイッスルが鳴ると、俺はすかさず相手コートのゴール下に走った。
審判の手から、ボールが高く上げられる。ジャンプボールは、若干高く飛んだ相手が手にした。
俺達に緊張が走る。先輩達がボールを奪おうと駆け出した。野太いかけ声や、様々な声色の応援の声が会場に響き渡る。シューズが床と擦れ合う、キュッキュッという甲高い音や、ドリブルの音も、その中に混ざる。
「敵を、欺け」
それが、俺に与えられた課題だった。シュートやディフェンスは先輩達やサバクに任せて、俺は敵の意表をつけばいいのだ。
例えば敵にそっと忍び寄って、パスをカットする。自分が得意なプレーを、とことんやり抜けばいいと言われた。
試合が始まってしばらくすると、相手は徐々に俺を気にするようになっていた。
コートをチョロチョロと走り回って、突然後ろからボールを奪い去っていくあのチビは何なんだと思われているのかもしれない。
それでいい。俺が相手の集中力を削ぎ、プレーに支障が出れば、こちらにはチャンスが訪れるからだ。ああ、もしかすると先輩達は、そういうことも見越して、俺にこの役割を命じたのかもしれないな。
シュートが外れたボールを寸での所で掴み、数メートル先のサバクに投げる。サバクはキャプテンとの連携プレーで相手を抜き、見事なレイアップシュートを決めた。
幾度目かの歓声が聞こえる。額に汗を滲ませ、頬を紅潮させたサバクに、俺は親指を突き立てた。
「左海、なかなかやるじゃん。相手やり辛そうだぞ」
俺が先輩に誉められたのは、第二クォーターが始まる前のわずかな休息の時だった。吹き出る汗をタオルで拭いて、きっちり水分を取る。母が水筒に入れてくれたスポーツドリンクは、きっと二リットルのペットボトルのやつをそのまま流し込んだのだろう。
梓には失礼だけど、クエン酸入りのものじゃなくて良かったと安心した。
「ありがとうございます。後半も頑張ります」
誉められたのが嬉しくて、俺は笑顔でそう言った。
「奏太が何でレギュラーメンバーなのか、相手もそろそろ分かってきたんじゃないかな」
サバクが言う。
「あれだけチョロチョロしてたら、嫌でも分かるよ」
答えながら、俺は円になって話をしている相手チームを眺めていた。
「ランガンだから、めちゃくちゃしんどいけど、勝つぞ!」
第二クォーターが始まる直前、キャプテンが皆に言った。ランガンとは、簡単に言えば「点の取り合い」という意味で、まさに俺達は点を取られては取り返しを繰り返して、何とか相手との点差を縮めていた。
何度か追い抜いた時もあったが、それでも今は負けている。
ホイッスルが鳴る。タオルを梓に返す時、「後半もネズミみたいな動きで頑張ってね」と嫌味なのか応援なのか分からない言葉をかけられた。
苦笑いを浮かべてコートに走る。
試合再開だ。
ジャンプボールをキャプテンが取ったのを確認した次の瞬間、サバクから俺に突然ボールが飛んできた。不意を突かれながらも、俺はそれを取る。俺の周りには誰もいない。サバクが腰の辺りで指を三本突き立てている。
足元を見る。俺はスリーポイントが狙える絶好の位置にいる事に気付いた。もう相手も気付いたらしく、こちらに走ってきている。
俺はゴールを見据え、ボールを構え、投げた。おそらく会場中の視線が俺に集中していたであろうその瞬間を、多少大振りの弧を描いたボールは、最高の形で締めくくってくれた。
歓声がわき起こる。
「でへっ」
俺は何が言いたいのかよく分からない呟きを漏らして、喜びも冷めやらぬままに試合の次の展開に集中した。
第二クォーターの予期せぬ反撃を受けて、相手はさらに闘志に火がついたのかもしれない。
俺は若干動きづらくなった気がした。多分これまでよりも、相手は俺を意識しているのだろう。
試合も第三クォーターに差し掛かり、中盤が過ぎた頃、俺達のチームは明らかに疲れが見え始めていた。コート内の誰もが荒い息をしていて、立ち止まっている一瞬も汗がポタポタと床に落ちる。それでもボールに食らいつくものの、徐々に点差が目立ち始めていた。
「最後まであきらめるな」
タイムを取った時、キャプテンはただ一言そう言った。あきらめるわけがなかった。勝ちたいという気持ちは、それぞれが、誰よりも強く持っている。だけど、やはり実力が伴わなかったのかもしれない。
試合が終わる頃には、十点差をつけられていて、俺達は負けた。
試合終了のホイッスルが、虚しく聞こえる。挨拶の時、揚々としている相手と向き合うのが気まずかった。
「よく頑張ったな、スリーポイント、カッコ良かったぞ」
キャプテンにそう言われた時、俺は込み上げてくる悔しさを我慢出来なかった。自分も悔しいはずなのに、優しい言葉をかけてくれたキャプテン。この試合が最後の試合となってしまった先輩達。
もっと彼らと、試合をしたかった。喜びを分かち合って、笑い合いたかった。
嗚咽がもれる。
「なんでお前が一番泣いてんだよ」
呆れかえりながらそういったサバクの声も、少し震えていた。
「左海君、大丈夫?」
さすがに梓も心配したのか、新しいタオルを差し出してきた。俺はそれを受け取って、情けない顔をその中にうずめた。
控え室でユニフォームを脱ぎ、ジャージに着替える。さすがにその時には泣き止んでいたが、とても誰かと話をする気にはなれなかった。心なしか、他の皆も言葉は少なかった。
「帰るぞ」
やがてキャプテンが短くそう言うと、それぞれの荷物を持った選手達が部屋を出ていく。
「大丈夫か?」とサバクに気遣われ、頷いた俺は、最後に部屋を出た。
一番会いたくない人と出会ったのは、体育館を出た時だった。階段を降りた所に、また大人達に混じって伊織さんが立っていた。
「奏太くん」
「こんなとこで、下の名前で呼ぶの、やめてくれないかな」
俺は冷たくそう言った。そして言った後すぐ、後悔した。
「ごめんなさい」
伊織さんが謝る。しおらしい彼女の態度が、俺をもっと惨めにさせる。いっそのこと、「自分の機嫌で、私に対する態度を変えるのはやめなさい」と言い返してくれたほうがいい。
そしてビンタの一発でも食らったら、俺は目が覚めたかもしれない。互いにかける言葉が見つからないせいか、沈黙が流れた。かといってこのまま何も言わずに立ち去るのも、気が引ける。俺がもう少し大人だったなら、素直にお礼のひとつくらい言えたのだろうか。
伊織さんと顔を合わせられないまま俯いていると、視界の端に見知った白のスニーカーが現れた。
顔を上げると、梓が横に立っていた。
「ちょっとオバサン」
梓の棘のある声に俺はギョッとしたが、彼女はそのまま言葉を続けた。
「左海君はね、試合に負けて元気が無いの。誰とも喋りたくないの。アンタも試合見てたんでしょ?大人なら空気読んで、それくらい気付きなさいよ」
梓はそう言った後、俺に微笑を浮かべた顔を向けた。
「さあ、左海君、帰るわよ」
梓に手を引かれ、俺は歩き出した。伊織さんの横を通るときでさえ、俺は彼女と目を合わせることはできなかった。
帰りのバスは、まるで通夜に向かうバスのような雰囲気だった。行きと同じく俺の隣に座ったサバクは、目をしょぼしょぼさせて眠そうにしていた。
伊織さん、今どうしてるかな。もう帰路についているのかな。冷静になって、「ありがとうございました、さようなら」ぐらい言っておけば良かったと思った。
だけど、過ぎた事を悔やんでも何も変わらない。また近いうちに謝ろうと思った。
あんな冷たい態度を取ってしまったけど、試合に負けて悔しかっただけで、決して伊織さんを嫌いになったわけじゃないと、伝えよう。
だけど伊織さんが怒っていて、話を聞いてくれようともしなかったらどうしよう。
そんなことを考えているうちに、眠たくなってきて、おそらくサバクよりも早く、俺はうたた寝を始めていた。
1
俺が伊織さんに対してとんでもない事をしてしまったと気付いたのは、試合の日から三日が過ぎた時だった。
元々落ち込みやすい俺は、試合で負けたことをずるずると引きずって、あの時ああしていれば良かったとか、こうしていれば良かったとか、もうどうしようもない事をずっと考えて後悔していた。
いくら考えてももう試合の日には戻れないと気付き、ようやく気持ちも落ち着いてきたとき、今度は伊織さんの事が脳裏によぎったのだ。
———怒っているだろうか。怒っているだろうな。
はあっと大きなため息をつくと、サバクが「ため息つくと幸せが逃げるぜ」と言った。そんな迷信も、あながち根拠があるのかもしれないなと思った俺は、無言のまま頷いた。
昼休みの教室は暑い。教室はエアコンがかかっているのに、誰かが窓を開けてしまっているからだ。だが、暑かろうが寒かろうが、俺の伊織さんに対する悔恨は消えるわけじゃない。
「なあ、サバク」
俺はある事を思いついて、サバクに声をかけてみた。いまなら大塚達もいない。揶揄われることもなく話ができる絶好のチャンスだ。
「なんだ?」
「サバクって裁判官目指してるんだよな。ってことは、やっぱり裁判の判例とかもいろいろ勉強してるのか?」
「……まあな」
一息置いて、サバクが答えた。いじっていたスマホを机に置いて、俺の顔を見る。
「じゃあ、俺がクイズ出してあげよう。あくまでもこの話はフィクションだから、気にすんなよ」
「はあ?」
訳が分からないと言いたげなサバクを無視して、俺は話を続けた。
「あるところに、とても仲の良いカップルがいました。ある日、そのカップルの男が、彼女に冷たい態度を取りました。彼女は怒って、男に別れ話を切り出しました。だけど男は別れたくありません。素直に謝る勇気もありません。裁判をしてでも、二人の仲を保ちたいと思っています。男は、どうすればいいでしょうか」
「それさ、裁判と何の関係があるの?」
話し終えた俺に、サバクが言い放った。
「い、いや、だってさ、裁判をしてでも仲を保ちたいって男が言ってるから」
「お前、馬鹿だな」
うろたえを必死で隠す俺を、サバクはフンと鼻で笑った。
「そんなもん、裁判を起こす必要ねえじゃん。男が素直に謝れば済むことだろ?裁判には金がいるけど、謝るのはタダだし、その方が随分楽だって事、考えなくても分かるぞ。大体、素直に自分の過ちを認めない男は、嫌われるぜ」
サバクの言葉にドキリとした。何でもないはずのサバクの視線が痛い。
「そっか。そうだよな。さすがサバク」
俺が即席で作った作り話だと、サバクは気付いているのだろうか。素直になれない男が俺で、相手の女は伊織さんだって、分かったうえで彼はそう言ったのだろうか。笑顔を取り繕う水面下で、俺はビクビクしていた。
これじゃあ、自分で墓穴を掘ったみたいだ。
素直に自分の過ちを認めない男は嫌われるぜ。
サバクに言われた言葉を、心の中で反芻する。サバクはもう何も聞いてこなかったし、言ってこなかった。
彼はそんな奴だ。もし今の質問で、俺と伊織さんの関係に気付いたとしても、俺がそれを喋るのが嫌だと思っているのを知っているから、むやみやたらと追求してこない。
俺がサバクにどう思われているのかは知らないけど、お互いにあまり干渉し合わない関係だから、上手く付き合えるのかもしれないなと思った。
「まあ、お前が誰と付き合ってようと俺にはカンケー無いけどさ、素直になれよ」
チャイムの音に重なって、サバクの声が聞こえた。追求はしてこないけど、やっぱりサバクにはばれたんだと思った。
「……うん」
無理に隠そうとすれば、みなまでばれてしまうかもしれないので、俺は言い訳をすることなく頷いたのだった。
人に隠すほど、大層な恋愛をしているわけじゃない。別に母や姉と付き合っているのではないし、年上の人と付き合ってはいけないという法律など無い。世の中には歳の差がある夫婦やカップルなんていくらでもいるだろうし、たまに芸能人がそんな恋愛をしていると騒がれる事もある。だから俺と伊織さんの関係だって、数多あるそんな事例のうちのひとつでしかないし、ビクビクしている方がおかしいのかなと思ったりする。
「俺は伊織さんが好きなんだ!文句あるならかかってこいよ!」というふうに俺が堂々としていたら、もしかすると案外、誰も何も思わないのかもしれない。
俺が生まれてから、まだ十七年しか経っていない青臭い人間だから、そんな事を思えるのかな。結局、物事の価値観なんて人によって違うのは何となく分かっているけれど。
その後、俺は一大決心をして、放課後にサバクを呼び出した。といっても、部活を終えて帰ろうとしていたサバクを呼び止めただけだから、そんな大袈裟なものじゃないけれど。
サバクは、黙って俺について来てくれた。学食の横の自販機でジュースを買って、近くのベンチに二人して腰を下ろす。
遠くから、帰路につく生徒達のざわめきが聞こえてくる。大声で笑いながらファミレスに行く約束をしている女子達の声がはっきりと聞こえるほど、俺達の周りは静まりかえっていた。
「……俺、サバクに伝えなきゃいけないことがあって」
「うん」
「……大体予想ついてるかもしれないけどさ。それに、伝えなきゃいけないことだって俺が勝手に思っているだけで、サバクにとってはどうでもいいかもしれないけど」
「……早く言えよ」
サバクが苦笑する。妙な言い訳をしている事に、自分でも気付いた。
「お、俺、付き合ってる人がいるんだ。……あの、この間の書店員の……」
「ふうん。良かったじゃん」
そう言ってソーダを飲むサバクのリアクションの薄さに、俺は拍子抜けをした。
「うん。サバクとは長い付き合いだし、隠しているのもだんだん疲れてきたし、もう言っちゃおうかなって思ったんだ」
「ふうん。で、もし俺が大塚や須藤さんにベラベラ話したとしたら、どうするんだ?」
「大丈夫。サバクはそんなことしないから」
俺がそう言ったのは、願望ではなく、確信からだった。サバクは中身が熱いまま閉めてしまった弁当箱の蓋よりも口が固い。それに、裁判官を目指すような奴が、人から聞いた事を他人にベラベラと喋るはずがない。だから俺はサバクを信頼している。だから、打ち明けたのだ。
「それにしてもお前が彼女持ちかぁ。……なんか複雑な気分だぜ」
サバクが大きなため息をつく。俺よりカッコイイと自負しているらしいサバクには、彼女はまだいないのだ。
「梓は?」
「須藤さんは大塚が狙ってるらしいからな。ぶっちゃけ俺はあんまり好みじゃないし、彼女にはいらないかな」
「へえ。梓はやめといたほうが良いと俺は思うよ」
「ハハッ、須藤さんを『梓』って呼ぶもんだから、てっきり両想いだと思ってたけどな」
サバクがソーダを飲み干して、缶を地面に置いた。俺も慌ててリンゴジュースを飲む。
「ラインしてた時からの名残で、そう呼んでるだけだよ」
俺はそう言って苦笑する。関係が薄れたとはいえ、俺がいきなり「須藤さん」なんて呼んだら、不自然な気がするのだ。
「で、あの人とはどこまでいったんだ? まさか、ヤッたのか?」
「……う、うん、一回だけ……」
言いながら、顔が真っ赤になるのを感じた。俯き、サバクが置いた空き缶のプルタブの辺りを見つめる。
「うっひゃあ!すっげえ!!」
サバクが大袈裟に驚いたので、俺は耳まで熱くなった。
「お前がもうドーテーじゃないって、なんか信じられないなぁ、なんか……うーん、うわぁ……へぇ」
サバクは一体何が言いたいのだろうか。きっと想像以上の俺の「進歩」に対しての気持ちを表す言葉が見つからないのだろう。
「お前って、案外年上好きなんだな」
「違うよ。たまたま好きになったのが伊織さんなだけだよ」
それは事実だった。
一目惚れ。その相手が伊織さんだっただけであって、あの日俺の問い合わせに応じたのが伊織さん以外の店員、例えば、仁田さんとかだったりしたら、俺と伊織さんが付き合う事はなかったのかもしれないのだ。あの日、たまたま伊織さんが応対してくれて、たまたま彼女が俺の理想の女性に近かった。実年齢を聞いた時は驚いたけれど、その時も俺と伊織さんとの恋仲には年齢など関係ないと思ったんだ。
「ちょっと……」
そう言ってサバクは突然、俺のズボンに手をかけてきた。
「うわっ、サバクやめろよ!」
俺は慌ててその手を振り払う。
「お前、上は俺達の前でも平気で脱ぐくせに、下は躊躇うんだな」
「そりゃそうだよ。サバクだってそうだろ? しかも場所が場所だしさ。一応ここも、公共の場所だよ」
「あの女の人の前では全裸になれるくせに、俺達には見せられねえってわけか」
サバクがケラケラと笑う。低俗な会話だ。他の誰かが聞いていたら、ドン引きされそうな内容だ。だけど嫌なわけじゃない。むしろ、面白い。恥ずかしいけれど、とても面白い。矛盾しているなと、自分でも思う。
こんなあからさまではないかもしれないけれど、俺達の年頃の奴らはみんな、恋だの愛だの、ああだこうだと、話しながら笑ったりするのだろう。くだらないのに、そして、端から見れば低俗でしかないのに、面白い。
人生には、こんな矛盾がどれだけありふれているのだろうか。伊織さんとの関係は何も悪いと思っていないけど、やはりどこか後ろめたい。
その気持ちもまた、「矛盾」している。
「お前のカノジョ、イオリさんっていうんだ。珍しい名前だな」
「ぴったりな名前じゃんか」
「ノロケてんじゃねーよ、バーカ」
サバクがそう言って、額を小突いてきた。
「ソータにイオリか……珍しい名前同士でお似合いじゃん」
「サバクって名前も珍しいじゃん」
「それ、本気で言ってんのか?」
怪訝そうな顔をして尋ねてきたサバクに向かって俺がうなずくと、「サバクはあだ名だろ」と泣きそうな顔で言われた。
「ああそっか!」
本気で忘れていたわけじゃない。サバクの本名が「佐原」だって事くらい、ちゃんと覚えている。でも、言われた本人からしてみれば、笑えない冗談なのかもしれない。俺は言ってすぐに、まずいことをしたかなと焦ったが、サバクはそれ以上何も言ってこなかった。
「ソータとソーダって似てるよな」
挙げ句、そんな事を言った後に、サバクは立ち上がって「帰ろ」と呟いた。俺も鞄を持って、立ち上がる。
「昼に奏太が言ってた素直になれない男って、どうせお前の事なんだろ?」
校門を出て、公道を歩いていると、不意にサバクが聞いてきた。
「……うん」
俺は頷いて、試合があった日、せっかく伊織さんが見に来てくれていたのに、負けた悔しさと惨めさで冷たい態度で接してしまったことをサバクに話した。
「そりゃ、お前が悪いな」
俺が話し終えた後に、サバクが呟いた。
「素直に謝りたいけど、怖いんだ……。伊織さんに嫌われてたらどうしようって思っちゃって……」
「おいおい、相手は大人だぜ。お前が何でそんな態度になったのかくらいお見通しだろ。それにそんなんで奏太を嫌いになるような奴なら、俺だったらこっちから願い下げだよ」
「そんなもんなのかな……」
俺は呟いた。素直に謝れば、伊織さんはちゃんと許してくれるような気がした。
何も怖い事なんてない。目に見えないものを怖がるのがおかしいのだ。
「俺、今から本屋に寄ってみる。伊織さんいるかもしれないし」
「ああ。じゃあ、俺帰るわ。邪魔しちゃ悪いしな」
「うん。ごめんな、今日は」
「気にすんな。お前のウジウジにはもう慣れてるよ」
このまままっすぐに歩くと、伊織さんの書店にたどり着く。サバクと別れた俺は、チラリとスマホで時間を確認した後、そっと歩き出した。
伊織さんはあの書店の社員だし、これまでの勤務状況からすると、閉店まではあそこにいるはずだ。頑なに俺はそう思っていた。
「お客様、今日は香坂さんは休みをいただいておりますよ」
だけど俺が現実を知ったのは、書店に入るなり、やけにふざけた口調で仁田さんに囁かれた時だった。この間までは、私服の上にエプロンをつけていたのに、今日の彼はワイシャツにエプロンという姿だ。
「聞いて驚け奏太! 俺は社員に昇格したんだ!」
もしかすると仁田さんが嘘をついていて、店内のどこかに伊織さんがいるかもしれないと思った俺に、仁田さんは自ら今日の服装の理由を教えてくれた。
「なんならお前もここでバイトするか?」
そうなんですか、と返事をする間もなく、仁田さんは次の話題に移って、笑っている。ある意味でマイペースな人だ。
「勉強と部活で精一杯です」
たとえバイトをする余裕があっても、母がそれを許さないだろう。
「お小遣いが少ないなら、そう言えばいいのよ」と、財布から万札を出してごまかすに違いない。
「こんな広い店なんですから、万引きとか多いんじゃないですか? 俺につきっきりだったら、後で怒られないですか?」
「万引きの話題好きだなお前。それに、お客様の対応をしていましたって言ったらいいし、俺一人が抜けてたって、他の奴らがいるから大丈夫だよ」
仁田さんの絡みから抜け出そうと目論んでいた俺の思惑は失敗に終わった。では、あからさまに「うっとうしい」という雰囲気を出した方がいいのだろうか。そういうのは苦手だから、どうせ俺はしないけど。
「俺、帰ります。伊織さんがいないなら」
俺はそう言って出入口に向かって歩き出した。
「ありがとうございましたぁ!」
叫ぶように言った仁田さんが、こっそりと「ケッ、のろけやがって」と言ったのを、俺は聞き逃さなかったが、冷やかしなんだと気づいた俺は、聞こえなかったふりをしてそのまま店を出た。
店を出た俺は、伊織さんに会えなかったせいで、すっかり打ちのめされていた。苛立ってもいた。伊織さんの都合も知らずに、勝手に押しかけたのは自分だ。それなのに俺は、伊織さんに対して苛立っていた。
なんで俺が訪ねた時に限っていないんだよ。謝る気も失せちゃうじゃねえか。
俺は、伊織さんから連絡がない限り、このまま無視をしようと考えた。面白そうだ。どっちがより相手に依存しているのか、試してやろう。勝負だ、伊織さん。
根本的な原因は俺にあるのに、それを棚に上げた俺は、完全に責任を伊織さんに転嫁して、そんなふうに思っていた。
もうすぐ八時になるというのに、俺は家に帰ろうとは思わなかった。
家の中に居ても、そわそわした気持ちは落ち着かない。それなら動いているほうがマシだ、町を歩こうと考え、俺はひたすら歩道を歩いていった。
車が行き交う音、遠くから聞こえるクラクション、スーツ姿のサラリーマンが鳴らす革靴の足音。風が耳元を吹き抜け、派手な格好をした女子高生のけたたましい笑い声を運んでくる。別にいらない。
俺の目の前を歩くOL風の女性は、スマホをいじっている。町はいろんな音で溢れかえり、ビルの上の三日月は鋭利な刃物のように輝いている。あれで刺されたらひとたまりもないだろうなと、馬鹿げた想像をする。
こうして見ると、日本は平和すぎる国だなと思う。
毎日のように事件が起こって、ニュースキャスター達は忙しそうにそれを報道したりしているけれど、そんなキャスター達も含めて、日本人のほとんどが事件なんて蚊帳の外の出来事のように振る舞っている。
明日は我が身かもしれないというのに、ネットやテレビで報道を目にしては、「へえー」などと呟きながらお菓子をむさぼったりしているのだ。
俺は、この時代のこの場所に生まれてきて良かったなと思った。ここにいるからこそ、戦争や飢餓に悩んだりする事なく、伊織さんが好きだの、サバクはいい奴だのと、他人から見ればどうでもいいような事を考えたり出来るのだ。
恵まれているな、と思う。偽善者みたいだけど、本音だ。
だけどその「恵まれている」という気持ちは、ご飯を食べて、学校に行って、友人達と談笑をして、部活や勉強に励み、どうでもいいことばかり考えては一喜一憂するような生活が出来るというより、どちらかと言えば、恋愛が出来るほどの余裕が俺にあるから抱けるのかもしれない。
「なんか、哲学的」
俺はふと、独り言をこぼしてみた。聞いてくれる人はいない。俺の呟きは、喧騒に揉み消されていくだけだった。
大都市に比べたら田舎町とはいえ、たくさんの人達が行き交っている。それなのに、みんな他人には興味が無いというように、自分達の世界を過ごしている。
よくよく考えてみれば、それもまた奇妙なことのような気がした。
夜は不思議だ。昼間とは違って、俺にしてはいろいろなことを考えられる気がする。夜は自分の心と向き合える時間が多くなる。何が言いたいのか分からなくなってきたけれど、なんというか、つまりは最も自分を見つめられる時間だって事。
俺は夜になると、客観的な考えをする人間になるのかもしれない。だけどその分、自分の小ささに気付いたりもする。気づいてしまっても、知らんぷりを決め込んでしまうこともある。他人との関わりだと、そういうわけにもいかないけど、自分の事なんだから、別にいいじゃないか。そんな事を悶々と考えているうちに、気が付けば家の方向に向かって歩いていた。
高校生の俺の行動範囲なんて、たかが知れている。家に帰りたくないと思っても、どこにも行く当てはないし、明日も学校があるし、遠くまで歩いていく気力もない。
結局最後は家に帰らないといけないのだから、それならば早めに家に帰ったほうが良かったのかもしれない。でもまあ、気分転換になったのだから、いいか。
伊織さんの書店からは、もう随分と離れている。大通りをそれたからなのか、人通りも少なくなった。
今まで町の光に圧され気味だった月が、先程見た時より輝いて見える。手を伸ばせば触れそうだけど、触った途端に手の平がざっくりと切れて血まみれになりそうだ。
細い月は、伊織さんのように神秘的だった。
ダメだ、ダメだ。伊織さんの事ばかり考えたら、会いたくなっちゃうじゃないか。今は、極力彼女のことを考えないようにするんだ。
伊織さんを焦らさせて、「私は奏太くんの事が大好きです。だから、離れないで」とでも言わせるんだ。
俺は伊織さんの事を頭から振り払うべく、歩く速度を速めた。
二十分も歩くと、自宅が見えてきた。そして家の門をくぐる頃には、俺はもう伊織さんの事など忘れて、今日の夕食は何かななどと考えていた。
「ただいま」
俺は玄関に入ると、たまたま廊下にいた母に向かって言った。
「おかえり、すぐご飯温めるわね」
「……うん」
俺の返事も聞かずに、母は台所へ引っ込んだので、そのまま二階へと上がった。
俺は、食べる事が好きだ。いや、大好きだ。食欲のままにものを食べられるという事は、すごく幸せな事なんだと思う。
食べられる時に思う存分食べればいいと思うし、俺はいつもそうしている。たとえ食事を終えた数分後に、突然俺の命が絶たれたとしても、空腹で死ぬのと満腹で死ぬのとでは、その気分もまた違うんだろうなと思う。それはちょっと極論かもしれないけど、せっかく自分のために作ってくれた料理があるのだから、全部食べないと失礼だし、食材が勿体ない。
恋愛を表現する時、たまに人は「相手を食べる」などと表す事がある。俺は食べ物を食べるのは大好きだけど、人を「食べる」のは苦手だ。
サバクのように、性欲がむんむんとわいているわけじゃないし、何よりも恥ずかしいという気持ちがあるからだ。だけど、食べ物と同様、ためらっていては、相手に失礼なのかもしれない。
俺がどれだけ相手を好きでいようとも、行動を起こさなければその気持ちも伝わらないかもしれない。
だけど、やり過ぎもよくないと思う。食べ物風に言えば、「腹八分目」といったところだろうか。ほどほどに控えておかないと、自分は性欲を満たす事しか頭に無い軽い男なんだと思われるかもしれないからだ。
難しい。やり過ぎも、やらなさ過ぎもよくないのだし、人によってその基準も様々だから、難しい。
伊織さんは、たった一度のセックスで充分なのだろうか。大人の女性は、そんなもので性欲が満たされるのだろうか。惑う前から答えは出ている。否だ。
俺だって、もしかしたら少ないんじゃないかと思っているのだから、伊織さんはもっと俺を求めているんじゃないだろうか。
暗い部屋で、そんな事を考えていた俺は急に恥ずかしくなった。
何言ってんだよ、伊織さんの気持ちも聞かないで「俺を求めている」だなんて、図々しいにもほどがあるじゃないか。そんなふうに自分を叱責する。俺は伊織さんに自分の体を見て欲しいんじゃない。
俺だってバスケをやっているから、それなりに引き締まった体をしているけれど、だからといって自分の体に自信があるわけではない。だから、体も、内面も含めて、俺の全てを見てほしい。
俺の全てを見た上で、好きでいてほしい。俺もそうするから。それが、俺の考えだった。
相手に無理強いはしない。伊織さんならいちいち言わなくても分かってくれそうだから、大丈夫だろうと信じている。
ダメだ、もう、考えるな。ハッと我に帰り、俺は伊織さんの事を必死で頭から振り払った。つい先程、同じ事をしたのを思い出す。
無意識のうちに、思考はすぐに彼女の事を考えてしまう。それは、俺がよほど伊織さんに依存している証拠で、どれだけ意地を張ろうともこの想いは偽れないものだということだ。
だけど、俺からは連絡しない。多分。俺が謝ろうとした時に、伊織さんはいなかったのが悪いんだ。自分が悪いのは分かっている。分かっているからこそ、意地になってしまうのだ。
「奏太、ご飯出来たわよ!」
階下から母の声が聞こえた。同時に、コンソメの匂いがただよってくる。
今夜のおかずは、キャベツとジャガイモ、そしてベーコンがたっぷり入ったポトフだろうか。食べ物に関する空腹は我慢しない主義の俺は、慌てて下に降りていったのだった。
2
夏休みも間近に迫ってきて、学校の雰囲気がどことなく浮ついてきた頃、俺のスマホにメッセージが送られてきた。
久しく聞いていなかった、ショパンの「雨だれのプレリュード」に、心がざわついた。
「奏太くんって、クラシックを通知音にしてるんだねぇ!」
目を丸くしてそう言ったのは、大塚だ。
夏休み前の数日間は午前中で授業が終わるため、正午を過ぎた今はもう放課後だ。俺は教室で、サバクや大塚達と部活の時間になるのを待っている最中だった。大塚には適当に返事をしておいて、急いで携帯電話を開く。
心の底から待ち侘びていた人からのメッセージだった。
「お久しぶりです。最近はどう過ごしていますか?
今週の土曜日は仕事がお休みです。家に来ませんか?
左海くんに会いたいの」
俺は、嬉しさが込み上げてくるのと同時に、メッセージの文面を見てほんの少し違和感をおぼえた。
———なんだろう、この感じ……。
俺はもう一度、文章を初めから読んでみた。二回目もよく分からなかったけれど、三回目になってようやく、その違和感の原因が分かった。
俺への呼び方が、違う。「奏太くん」ではなくて、「左海くん」だ。でも、どうしてだろう。ただ間違えただけなのかな。それとも、気分的にそう呼びたかったのかな。
どんな理由にしろ、至極些細な事だ。こんな事を気にしているようでは、小さい男だと思われそうだな。
俺はそう思い直して、気にしないふりを努めた。
「そういや、水泳部の上嶋が全国大会行くらしいな」
スマホを鞄にしまった俺の横で、サバクが大塚や刈屋に言っていた。ついこの間から校舎にでかでかと横断幕が掲げられている。
「祝! 全国大会出場! 水泳部 上嶋貫太」
校舎に近づけば嫌でも目につく赤と黒の文字で書かれたその名前の持ち主を、俺は数回見た事がある。確か、三つ向こうのクラスの生徒だ。
いつもベリーショートの髪をツンツン立たせている、健康的な褐色の肌を持ったその人は、結構格好良かった記憶がある。そうか、あいつは水泳部のエースだったのか。あまり親しくない人の情報には疎い俺は、基本的に他人には興味が無いのかもしれないな。
「いいよなあ、全国大会……」
サバクが呟く。確かにいい。ゼンコクタイカイという言葉の響きや、上嶋貫太のように横断幕が掲げられるさま。見たり、聞いたりしている分には良い。
だけど、祝いの言葉を贈られ、全国大会に行くのが自分達だったらどうだろうか。気持ちが浮ついてしまって数多の人のプレッシャーに負け、存分に実力を発揮出来なかったらどうしよう。でもまあ、こんな事を思っているから、俺はこの間の試合で負けてしまったのかもしれない。
「サバクくんも奏太くんも、来年頑張ればいいよお」
のんびりとした口調で大塚が言う。そんな彼を見て、案外、こいつはそんな大舞台に強いんじゃないかと思った。
「だな、奏太」
サバクが俺を見る。無言の重圧。
「う、うん、練習、頑張る」
俺はそう言うしかなかった。最初からその気だったけど。
「お腹すいたなぁ」
机にへばりつくような格好をして、大塚が言った。
「……俺も」
ぼそりと俺が呟くと、いきなりサバクが噴き出した。
「なんで笑うんだよ!」
「お前の頭ん中は食いもんとバスケの事しかねえのかよ」
「失礼な! 俺だって、ちゃんとイロイロ考えてるよ」
必死で言い返す。「伊織さんの事……」と言いかけて、慌てて口を閉じる。多分、言わなくともサバクなら分かっている。それに、食べ物やバスケや伊織さんの事しか考えていなかったとしたら、生きていけない。
冗談を本気にする俺は、もうちょっと成長した方がいいのかもしれない。具体的にどう成長すればいいのかは、謎だけれど。
「奏太くんはねぇ、食いしん坊さんだから仕方ないよ。こないだだって、サバクくんの女の子に関する熱弁より、焼き肉定食に夢中だったもん」
目を丸くして、大塚が言う。別段、驚いているわけでもないだろうに、俺をからかう時の彼の顔はいつもそんな感じだ。動物に例えるなら、リスと言ったところか。
あ、そういえばリスは「栗鼠」って書くんだっけ。栗の鼠。
「俺、そんなことしたっけ」
不思議そうに言うサバクに、大塚と刈屋が同時に頷いてみせた。俺は全く覚えていない。やっぱりその時は焼き肉定食に夢中になっていたのだろうか。
「奏太、そろそろ行くぞ」
サバクが立ち上がる。時計を見ると、部活が始まる十分前だった。
「あ、じゃあねえ! カリヤン、僕達も行こっか」
慌てたように大塚も立ち上がる。刈屋がだるそうに立ち上がってから、俺も荷物を持った。
「サバク、俺、土曜日に伊織さん家行くんだ」
二人きりで歩く廊下で、周りに誰もいないことを確かめてから、俺は言った。
「ふうん。それで?」
サバクは鞄を右手から左手に持ち替えて聞き返してきた。
「……謝ろうと、思う」
「はあ!? お前、まだ謝ってなかったのかよ?」
サバクはよほど驚いたのか、素っ頓狂な声をあげた。
「……うん、この間、書店に伊織さんいなかったから」
サバクの大きな声を、誰かが聞き付けていないかとキョロキョロ辺りを見渡しながら、俺は答えた。
「まあ、早いうちに、ちゃんと謝れよ。……須藤さんから聞いたけど、お前そのイオリって人にありえないほど冷たい態度を取ったらしいじゃん」
「……うん」
俺が伊織さんに酷いことを言って、とどめを刺すかのように梓も「オバサン」なんて言っていた。梓に連れていかれるがままに立ち去っていった俺は、何も言わなかった。いまさらになって、後悔する。
あの時、梓を咎めていれば、伊織さんの心の傷つき具合も少しはマシになっていたのだろうか。
「奏太、お前またウジウジ考えてるだろ」
サバクの問い掛けに、頷くことも否定することも出来なかった。
「ウジウジ考えてるヒマがあるなら、早く歩けよ。過ぎたことはしょうがないだろ。それより、部活遅れるぞ」
サバクの言っている事はちぐはぐなようで的を射ている。俺は黙ったまま頷いて、歩みを早めた。
体育館に入る前に、隣にあるプールがチラリと見える。金網のフェンス越しにプールサイドが見え、奥には飛び込み台がそびえ立っている。
俺は水泳部の事はよく知らないけれど、うちの高校のそれは、競泳部門と飛び込み部門、そして水球部門の三つに分かれているらしい。
運動部の中では、大きな部活だから、それなりに設備も凄いらしく、冬には、野外プールの隣(今、俺がいる場所だと、プールの奥になる)にある屋内のプールに移動して練習すると聞いた事がある。
普段は一瞥さえもしないそこを、俺は立ち止まってまで見てみた。言うまでもなく、上嶋貫太の事が気になったのだ。全国大会にまで駒を進めた人物は、一体どんな練習をこなしているのだろうと、一目でいいから見てみたくなったのだ。
だけど、遠目からだと、誰が誰だか分からない。たくさんの小麦色が、水飛沫とともに点在しているだけだった。
「おい、奏太!」
半ば怒鳴り声になったサバクに驚いて、俺は体育館へと入っていった。
「何ボーッとしてんだよ! 水泳部にでも入りたいのか?」
「違うよ」
サバクは舌打ちをして、先へ進んでいく。そんな短気なままじゃ、裁判官なんて勤まらないぞと言ってやろうかと思ったが、殴られるのは嫌なのでやめておくことにした。
いつも通り、部活は柔軟から始まる。仲の良い人や、近くにいる人とペアを組んで、入念にストレッチをするのだ。
柔軟の後は、基礎練習とフットワークだ。何事も基礎は大事で、この練習にも俺達は時間を割く。コート内をダッシュしたり、ひたすらドリブルをしながら走ったり、シュートの練習をしたり。
バスケはコート上の格闘技だと誰かが言っていたが、まあ、そう言われればそうなのかもしれない。それに他のスポーツに比べて、非常に跳躍の多い競技だから、負担のかかる筋肉を鍛えるためにも、やはり基礎は大事なのだ。
柔軟と基礎練習を終えると、休憩を挟んで最後にあみだくじで決めたチームに分かれて実戦形式のミニゲームをする。
俺はいつもあみだくじを作る役だ。練習の疲れも取れぬまま、体育館に点在している部員達みんなにくじの場所をどこにするか聞いて回るのは、けっこう大変だ。
「奏太、ジュース奢ってやるから二人分買ってきてくれよ」
サバクの甘い誘惑に負けて俺が体育館を飛び出したのは、部活が終わり、各々が帰り支度を始めた頃だった。
ミニゲームに勝って、ちょっと機嫌の良い俺は、サバクの「十秒以内に買ってこいよ」という小学生みたいな呼びかけにも二つ返事を返していた。
学食のそばにある自動販売機を目指して走っていた俺は、プールの入口を横切ったところで、何か硬いような柔らかいような温かいものに勢いよくぶつかってよろけて転んだ。
「いってー……」
呟きながら、腕に少し水滴がついているのを確認する。何故だろうと顔を上げると、目の端に小麦色の棒が映った。
よく見る。いや、あれは棒じゃない、人間の足だ。
「ご、ごめん、君、大丈夫?」
棒のようなものが人間の足だと認識した瞬間、頭上から少年の声が降ってきた。ちょっとだけ頼りない響きが含まれた声色だった。
「うん、大丈夫……」
改めて声のした方を向いた俺は、ぎょっとした。一人の少年が、競泳パンツ一丁で俺を見下ろしていたからだ。
綺麗な体だな……でも、なんで水着姿なんだろう……あ、この人、水泳部だからか。どうやら俺はたまたま外に出てきた水泳部員とぶつかってしまったらしい。
彼の顔を見る。また、驚いた。目の前にいる少年は、上嶋貫太だったからだ。特徴的なツンツンヘアーで、すぐに分かった。今は水に濡れて、ウニのように余計にツンツンと尖っているようにみえる。
「こっちこそ、ぶつかってごめん……上嶋貫太君だよね?」
「うん。そうだけど……確か君は左海君だっけ? ……去年の合唱コンクールの時、ピアノ弾いてたよね。俺、他のクラスのピアノを全員女子が弾いてたせいか、君の事だけは妙に覚えてたんだよね」
「へ、へぇ。そんなにインパクトあったかな」
「うん。俺のクラスにも君みたいなカッコイイピアニスト欲しいなとか思ったもん。あ、自分のクラスの女子が嫌だったわけじゃないけどさ、やっぱり男のピアニストって、なんかかっこいいじゃん」
初めて会話をする者同士だというのに、よく喋る奴だなあと俺は思った。多分俺は、自分がカッコイイなどと言われて照れていたのだろう。どうやら照れるとひねくれた思いを抱く性格らしい。
「全国大会、頑張ってね」
「ありがとう。みんなの期待に応えられるように頑張るよ」
上嶋の放つ一言一言が、何故かかっこよく聞こえる。なんでもない、ただの謙遜の言葉なのに、不思議だ。「全国大会出場」という役目を背負った少年には、貫禄がつくものなのだろうか。この人が上嶋だと言わないでいると、ちょっと頼りなさげな雰囲気なのに。
俺は「じゃあ、またな」と言って上嶋と別れると、自販機を目指して走った。サバクはいつもソーダを飲んでいる。だから、今日もそれでいいだろう。そう思いながら、俺はサバクのソーダと、自分用にりんごジュースを買った。
「遅いな、どこまで買いに行ってたんだよ」
体育館に帰るなり、サバクが嫌味を言ってきた。
「上嶋貫太君と喋ってた」
サバクにソーダを渡しながら、俺はそう言った。
「ふうん。お前がぶつかってたの、上嶋だったのか」
「見てたのかよ……」
「見えたんだよ」
どちらも結局は一緒じゃないかと言いたくなったが、口は開かなかった。一日の終わりは、どうやら俺は心が穏やかになれるらしい。
「じゃあ奏太、今日ファミレス奢れよ。宮田も行くらしいから」
この後待ち構えている大きな出費なんて気付かずに、俺はこくんと頷いたのだった。
3
「奏太!」
正午すぎ、今日は短かった部活が終わった。梓にもらったドリンクボトルを持ったまま、体育館のステージに腰掛けてボーっとしていた俺にサバクが声をかけてくる。
「シャワー浴びてこいよ、そんな汗くさい体じゃ、イロリさんに失礼だぜ」
「誰だよ、イロリって……」
俺、そんなに臭いかな。そんなことを思いながら、サバクの頭をはたく。
「あれ? い●※△×さん?」
「殺すぞ、サバク」
冷たい声で静かに言った俺の言葉を聞いて、サバクはそれっきり何も言わなくなった。
俺は梓に空のボトルを返すと、体育館を出て、グラウンドの部室棟にあるシャワールームへと向かった。サバクに言われなくとも、俺はシャワーを浴びてからイロ……伊織さんに会いに行く予定だった。鞄にはシャワーを浴びた後に着るつもりの着替えが入っている。
シャワールームには、誰一人いなかった。中は個室のように仕切られているから、誰がいても気にすることはないけれど、貸切気分も悪くない。
俺は汗をたっぷり吸い込んだ練習着を床に脱ぎ捨てると、すぐにシャワーの元へ行って蛇口をひねった。
———伊織さん……。怒っているかな。
「会いたいの」とわざわざ送ってきてくれたメッセージには、どう返せばいいのか思いつかなくて返信をしていない。つまり俺は、今日唐突に伊織さんの家を訪れるということだ。
この間も、俺は伊織さんの家を突然訪問した。驚きつつも俺を招き入れてくれた伊織さん。今はあのときと同じ気持ちには、なれない。
自分が作り出してしまった温度差を元に戻すために、俺にはやるべきことがある。
それは素直に謝ることだ。お詫びにと言って、菓子折や花束を添えるのは、俺にはふさわしくない行為だ。なんだか白々しい感じがするし、もっと伊織さんを怒らせてしまうかもしれない。自分の言葉だけで、伊織さんに詫びるつもりだ。
シャワーを止める。温かな水滴が、髪の先から体に落ちてくる。それはやがて床に流れていき、排水口の向こうへと吸い込まれていった。
流れていった水が循環して、いつかまた俺に降り注ぐという確率は、どれだけのものなのだろう。俺が伊織さんと出会えた確率と、どっちが大きいのだろう。
せっかく出会えて、さらには互いを好きになったのだから、その出会いを大切にしたい。もし、仮に別れてしまう状況に陥ってしまっても、そのときに悔いのないような付き合いをしていきたい。
シャワールームから出た俺は、水色の生地にヤシの木が描かれたタンクトップと、赤いハーフパンツに着替えて足早に学校を後にした。
俺は暑いのはあまり好きじゃないから、これくらいの軽装がちょうどいい。いつか、サバクに「子供みたいなカッコ」と笑われたが、子供だから仕方ないと言い返してやった。
ジリジリと辺りは暑いのに、体が小刻みに震える。ほんの一瞬、これから起こりうるかもしれない最悪のシナリオを思い浮かべてしまった。
ネガティブになるなと、自分に言い聞かせる。俺がちゃんと謝れば、伊織さんも分かってくれるはずだ。心に刻み込むように何度も思った後、伊織さんの部屋の扉の前に立った俺は、もう覚悟を決めていた。
伊織さんのマンションに着いたとき、エントランスで見た目からしてエリート街道を突き進んでいるかのようなスーツ姿の男の人とすれ違っただけで、伊織さんの部屋に着くまでは誰とも会わなかった。
これからおこるどんな展開も素直に受け入れようと、最後に自分に確認をして、俺は玄関のチャイムに手を伸ばした。
チャイムを鳴らしてしばらく待っていると、この間のように、扉の向こうでなにかにぶつかったような音は聞こえないまま、扉が開いた。
顔を上げると、そこには、怒ったような表情の伊織さんが立っていたので、俺はごくりと唾を飲み込んで、身構えるように体勢を整えた。
「こんにちは。お久しぶりです」
躊躇いがちに挨拶をする。呑気にこんにちはなんてほざいている場合じゃないぞと、自分に言い聞かせながら。
「久しぶりね、『左海くん』。とりあえず家、入ったら?」
伊織さんの冷たい声を聞いて、俺はひえっと声をあげそうになった。「左海くん」という響きがすごくよそよそしくて、伊織さんの想いの全てがそこにこもっているような気がした。
このままじゃいけない。俺はそう思って、ゆっくりと口を開いた。
「ここでいいです。い、伊織さん……この間は、ごめんなさい。俺、動揺してて、とんでもないことしてしまいました。許してもらえるまで伊織さんの家にはあがれません」
頭を下げる。ここは外なのにと、気にしている余裕もなかった。今言わなきゃ、いつ言うんだ。ただでさえ遅すぎるというのに。
伊織さんは許してくれるだろうか。俺の鼻先で、扉が閉まったりしないだろうか。びくびくしながらうつむいていると、しばらくして、静かな伊織さんの声がした。
「怒ってないわ。許すも何も私も謝らなきゃいけない。あなたに対する配慮が足りなかったんだから」
どうして伊織さんが謝っているんだろう。伊織さんは何も悪くないのにな。悪いのは俺で、ちゃんと謝らなきゃいけないのも、俺。伊織さんは、ただ聞いてくれるだけで良かったのに。だけど、互いに謝れた事で、なぜか俺の気持ちもすっきりした。
「外は暑かったでしょう? 冷たい飲み物でも出すから、入って」
笑顔でそう言ってくれた伊織さんに、俺も微笑み返してみる。靴を脱ぎ、きちんとそろえてから伊織さんの後ろについていく。歩きながら、俺は静かに口を開いた。
「俺、やっぱり伊織さんが大好きです」
独り言を言ったんだと、そう思われても良かったけど、伊織さんの歩みが止まって、ああ、ちゃんと聞いてくれたんだと分かった。
「私も、よ」
伊織さんもまた、独り言のような声色で、呟いた。どことなく、いつもの冷静な伊織さんを精一杯装っているかのような態度だったけれど、それは俺の気のせいなのかもしれない。
顔が真っ赤になった俺を、余裕そうな表情で一瞥した後、伊織さんは再び歩き出した。
「午前中は部活だったの?」
俺が持っている大きなバッグを見てそう言ったのだろう。伊織さんが唐突に尋ねてきた。
「あ、うん。部活終わってその足で来たから」
「じゃあお昼ご飯はまだね。私もまだなの。何か作るから、一緒に食べましょう」
伊織さんとご飯が食べられる。それも、どうやら手作りのものをご馳走してくれるみたいだ。俺は、一人でにやにやしながら、伊織さんに続いてリビングに入った。伊織さんは俺の顔をまたチラッと見たけれど、何も言わなかった。
気持ち悪い奴だと思われなかっただろうか。はたまた、卑しい奴だと思われなかっただろうか。
伊織さんはまっすぐに冷蔵庫のところまで歩いていった。中を調べながら、伊織さんは確かに何かを呟いたが、きっと「キャベツ」とか「豚肉」などと言ったのだろう。まさか、冷蔵庫に向かって「大好き」なんて言う人はいないはずだ。そう聞こえた、俺の耳が悪いのだろう。
「伊織さん、お昼ご飯は何?」
伊織さんの背中に話しかけてみる。
「鶏肉の照り焼きを丼にしようと思うんだけど、好き?」
伊織さんは材料を探すのに手間取っているのか、振り向かずに答えた。
「うん、好き!」
肉は何であろうと好きだ。一番好きなのは牛肉だけど、こう暑いと、鶏肉のあっさりとした淡白な味も恋しくなる。
伊織さんは俺の好物を、どうして知っているのだろう。一番の好物からは少し外れているけれど、そんなに俺って分かりやすい奴なんだろうか。
突っ立って伊織さんの様子を見ていると、やがて彼女は調理を始めた。
———なんか飲みたいな……。
俺はそう思って、伊織さんに呼びかけてみた。
「あの、伊織さん……」
料理の邪魔をしたかなと、手を止めてこちらを振り返った伊織さんを見て、思った。
「俺、喉がカラカラなんだけど、飲み物もらってもいい?」
「ごめんなさい。直ぐに出すわね」
伊織さんは静かに答えた。
それで余計に気まずくなった俺は、コップを出すくらい自分でやろうと思った。
「いいよ、自分でやるから。伊織さんはそのまま続けて料理しててよ」
「そう? 悪いわね」
伊織さんはそう言ったあと、一瞬冷蔵庫に視線を走らせて、言葉を続けた。
「食器棚からグラスを出してもらえる? オレンジジュースと麦茶、どっちがいい? アイスコーヒーもあるわよ」
「じゃあ麦茶で」
冷蔵庫の中は見られたくないのかな。もしかしてとても散らかっているのかな。俺は自分の想像で笑いそうになったせいか、ほんとはオレンジジュースが良かったのに、麦茶と答えてしまった。
俺はそのまま食器棚の所まで歩いていって、中を覗き込んだ。整理はきちんと行き届いていて綺麗なのだけれど、何せこの中を見るのは初めてなのだ。何がどこにあるか分からなくて、俺は一旦全体を見渡した後、ゆっくりと順番に食器の数々を見ていった。
しばらくして、グラスは見つけたが、俺はその奥にあるものに目がいった。
ペアのカップだ。取り出して、よく見てみる。
他の食器は白くて綺麗だけど素っ気ないものばかりなのに、そのカップだけは水色とピンクの色物で、ひときわ目立って見えたのだ。また、にやにやと笑いそうになる。
伊織さん、俺のためにこんなものを買っておいてくれたんだな。だけど、俺に見せるのは恥ずかしいから、奥に隠してたんだ。
甘いな、伊織さん。もう見つけちゃったもんね。伊織さんがもったいぶって出さないなら、俺が出してやろう。
俺はそう思って、テーブルの上に、二つのカップを置いた。
「伊織さんも飲むでしょ?」
それはせめてもの気遣いのつもりでもあった。伊織さんが麦茶のボトルを持って、こちらを向いた。そしてすぐに視線がカップに注がれる。
「伊織さん? どうかした?」
カップと俺を交互に見て、伊織さんは表情が固まっていた。びっくりさせちゃったかな。
「ああ、麦茶だったわね」
恥ずかしさをこらえているのか、伊織さんは一本調子で呟いたあと、こぽこぽと音を立てながら、麦茶をカップに注いでくれた。
「ありがとう!」
伊織さんの取り乱したような様子を面白いなと思いながらお礼を言って、俺は席についた。
「おまたせ。お代わりもあるから、たくさん食べてね」
それから十数分が経って、伊織さんが作った食事が俺の目の前に出された。湯気を上げているご飯の上に卵と鶏の照り焼きがのせてあって、刻み海苔で飾りつけがしてある。その横にお吸い物と、きゅうりの漬物が小鉢に入れられて置かれている。
きゅうりと伊織さんがどうしても結びつかなくて、また笑いそうになった。
「今日も練習がキツくて、もう腹ぺこだよ。ありがとう、伊織さん。いただきます」
「デザートもあるから、腹八分目にね」
すかさず箸を取った俺に、伊織さんは含み笑いを浮かべながら言った。デザートという言葉に反応したが、それよりも目の前の丼を早く食べたくて、俺は言葉もなく頷いた。
食べているあいだ、俺は一言も話さなかった。話すのが嫌だったわけじゃない。伊織さんの料理はやっぱりおいしくて、もっとこの味を堪能したいと思える。
お腹が朽ちるまで、食べたい。そんなことを思っていたからか、俺は伊織さんが一杯食べ終わるまでに、その倍の量を食べ終えていた。
「ご馳走様。凄く美味しかった。伊織さんって料理上手だね」
ありのままに感じたことを言う。そうすると、心がこもって相手に届くような気がした。
「ありがとう」
伊織さんはそう言って、頬を赤らめた。年上なのに、可愛いと思ってしまう。むしろ可愛いなんて思える気持ちに、相手の年齢なんて関係ない。可愛いものは、可愛いのだから。
「デザートは苺のカスタードクリームタルトを用意したの。ショートケーキじゃないけど、良かったかしら」
伊織さんは冷蔵庫から大きなお皿に入ったタルトを出してきて、俺の目の前に置いた。
「タルトも好きだよ。凄く美味しそう!」
伊織さんの手がラップを剥ぎ取り、右手に持ったナイフでタルトが切り分けられていく。大皿の横に用意していた小皿に、そのうちの一切れがのせられて、俺の前に置かれた。近くで見ると、まるでケーキ屋に並んでいるような出来栄えに見えた。
「奏太くん」
伊織さんに突然呼びかけられて、俺は慌ててタルトから視線を外して彼女を見上げた。
「ん?」
間抜けな声を出した俺の唇が、不意にふさがれる。ほんの一瞬、息も思考も止まった。
「これは『お礼』よ」
どこかで聞いたことのある言葉が、伊織さんの口から放たれる。
「え? え? お礼ってどういう意味で……?」
俺、伊織さんに何かしてあげたかな……。いつもなにかしてもらっている記憶しかない。ギブアンドテイクなんていうけれど、俺はそのかたっぽしか成し遂げていないのに。
「試合……、あの日とてもいい試合を見せてもらったから、その『お礼』よ」
「試合って……、負けちゃって、おまけに俺、情けなく泣いたりしたし、ちっともいいとこなしだったのに」
なんでだよ、どうして、あれが「いい試合」なんだよ。お世辞を言われるのは嫌いだ。いくら相手が伊織さんでも、嫌いだ。
「どうして? 勝たなきゃ格好悪いの? あなたは全力で戦った、そうでしょう? だから私はその姿から目が離せなかったし、流した涙さえ、とても綺麗だと思ったわ。私ね、本当に感動したのよ」
彼女の言葉を聞いた瞬間、ほんの数十秒前の自分を殴りたくなった。一度も彼女は軽はずみな発言なんてしていない。ただ、あの日の無様な俺にさえ感動してくれて、その想いを伝えてくれただけなのだ。
「伊織さん」
俺は衝動的に立ち上がると、伊織さんの体を引き寄せ。そっと抱いた。
「ありがとう」
伊織さんの優しい言葉に、俺は泣きそうになりながら、その一言を言うので精一杯だった。
「奏太くん……大好きよ」
驚く。まさか、伊織さんの口からそんな言葉が聞けるとは思わなかった。押し殺したはずの感情がせり上がってきて、俺はまた涙をこらえる羽目になった。
この気持ちは一体、何なのだろう。よく分からない。ただ、目の前にいるこの愛しい人を、強く抱きしめたいと思った。涙目になった自分の顔を見られたくないという気持ちも手伝ってか、俺は伊織さんの肩に顔をうずめた。恥ずかしいという気持ちはなく、こうするしかないんだと、俺はただ頑なに思っていた。
「奏太くんに食べてもらいたくて作ったの。タルト食べましょう」
俺がしばらくして伊織さんから離れたとき、彼女は出し抜けにそう言った。
「う、うん」
頷いてみたものの、まだ自分の行動が信じられなくて、間の抜けた返事になってしまう。そして、目の前に苺がたくさんのったタルトが現れたというのに、俺は先ほどの丼のように素直に喜ぶことは出来なかった。
「口に合わなかったかしら?」
「そ、そうじゃないよ! お店で売ってるやつより美味しいって思うし。ただ……」
伊織さんが不安げな表情になったので、慌てて答える。だけど、その先を言うのには、少し躊躇われた。
「ただ?」
「伊織さんから直接『大好き』なんて言葉、初めて聞いたから」
違う。いや、おおまかに言えば伊織さんの「大好き」も気になったけれど、それとこの気持ちはまた違うんだ。
本当は分かっている。今だから、俺はそんな奴じゃないとか、必死でその気持ちを誤魔化すことはしない。誤魔化す必要はないのだ。
「お代わりは後にする」
残ったタルトにラップをかけて、冷蔵庫にしまう。その時俺は、伊織さんと自分の体を合わせ合って、好きだという気持ちを彼女に知って欲しいと思っていた。
伊織さんの前に立つ。驚いて見上げてきた伊織さんを見て、これ以上は無理だと思った。彼女の腕を掴んで、そっと立ち上がらせる。
「奏太くん?」
名前を呼ばれたが、その声には答えずに、彼女を引っ張って、寝室へと入っていった。
「シャワー浴びなくていいの?」
「大丈夫」
言いながら、伊織さんはもうすでに事の次第を理解しているんだと分かった。さすが、大人だな。
「俺は部活の後に浴びてきたし、伊織さん、このままでもいい匂いがする」
嘘ではない。伊織さんの体に顔をくっつけたとき、フッと、俺の全てを包んでくれるような香りが漂ってきたのだ。それさえもいとおしくて、シャワーの水ごときに香りを消さないで欲しいと思った。
伊織さん、俺、こんな気持ちになるの、初めてだ。正直今は、何も考えたくない。ただ、伊織さんと体を重ね合わせ、どんどん湧き上がってくる欲望に、従順になりたいんだ。
俺は伊織さんの唇に、何度もキスをした。相手を吸い込むような、それでいて舌を絡ませあうような濃厚なものではなかったけれど、気持ちは伝わっただろうか。伊織さんは、俺の首に腕を回し、唇が離れない様にと体を密着させてきた。
そのまま、ベッドへ体が沈む。ふわふわとしたマットの感触を受けながら、俺達はその時で一番深いキスを交わしあった。
「私ね、あなたから連絡もなくて、本当に寂しくて不安で仕方がなかったの」
キスが終わり、見つめ合うと、伊織さんは悲しげにそう言った。心臓がドキリとする。口より先に、手が動いていた。
彼女の耳の辺りの髪をすくい、頭を撫でる。
「伊織さん、ごめんなさい、もう心配かけません」
今は何も偽る気持ちなんてない。素直に謝って、彼女を安心させることだけが、俺のやるべきことだと思った。
「ありがとう」
伊織さんはそっと、目を閉じた。さっきの俺みたいに涙を誤魔化す為に目を閉じたんじゃないだろうか。
そんな気がして、俺は伊織さんのまぶたに、唇でそっと触れてみたら、塩辛い味がした。やっぱり泣いていたんだ。どうにかして、安心させてやりたい。そう思った俺は手を背中に回し、彼女のワンピースのチャックを一気に下ろした。
素肌があらわになる。俺はその白くて柔らかい素肌を、おそるおそる撫でていく。
「伊織さん、お、俺、こんな気持ちになったの、初めてで……」
戸惑っているのが丸分かりの口調になった。だけど、戸惑いも欲望もあらゆる気持ちがごちゃ混ぜになって、自分でも困るくらいに抑えきれなくなった。
「いいの。大丈夫よ。奏太くんの好きにしていいのよ」
だけど伊織さんはやさしくそう言ってくれる。しつこいと言われてもいいから、何度も「大好き」と言いたい。伊織さんは、俺だけのものだ。
誰にも渡すものか。俺は衝動的に服を脱ぎ捨て、伊織さんの上に覆いかぶさった。
伊織さんと抱き合っていると、自分の体が驚くほど熱いことに気付く。俺の体を熱くさせるのは、戸惑いか緊張か。それとも、性欲か。
「伊織さんの体、冷たくて気持ちいい」
「……ん」
伊織さんが頷くともつかない言葉を漏らす。
「奏太くん、好きよ……」
弱々しい言葉が、俺の耳朶にかかる。ああ、もうこれ以上、戸惑わせないで。その言葉は、俺が言いたいんだ。叫びたいんだ。
俺は、生まれて初めて、自分から望んで好きな女性を抱いた。初めて伊織さんと一夜をともにした日は、彼女から先に俺を包み込んできた。
だけど今日は、違うのだ。自分の行為を先導してくれる人もいなければ、咎める人もいない。仮に伊織さんが痛がったとしても、彼女はきっと俺を止めたりはしないだろう。
俺の体に、伊織さんが触れてくる。伊織さんのものとは違う、平べったい胸、腹、腰。
彼女の手が俺の体をすべるたびに、いちいち反応してしまう。伊織さんは、もっと俺を求めているんだ。なら、やってやる。伊織さんの体が動いて、ベッドが軋む。
快楽の声が、俺の耳を濡らした。ここは、水槽だ。二人の体温が同じ温度になるように仕組まれた、水槽なのだ。その中で、いつかと同じように、俺達は自分の欲を満たそうと泳ぐ、魚になった。
伊織さんは、幾度となく俺の名前を呼んだ。名前を呼ばれるたびに、体中を熱が閃光のように駆け巡る。汗をかき、息も切れてくる。
「伊織さん……」
声がかすれる。それはまるで不鮮明な俺達の未来を露呈しているかのようで、自分の声なのに、妙に耳に残る形となった。額に浮かぶ汗を、伊織さんの指がすくい取っていく。
俺は思わず、彼女のその手をつかんだ。そのまま体を引き寄せ、精一杯に包み込む。
「俺、伊織さんが好きです。前よりも、もっともっと好きになった」
今はただ、伊織さんと過ごす時間の事しか考えたくない。
人を好きになると、どうして独りが嫌になるのだろう。どうして、好きな相手といつまでも一緒にいたいと思ってしまうのだろう。
勉強も、部活も、学校も、今は少しだけ疎ましく思う。
そんなものに時間を使うより、ずっと伊織さんと一緒にいたいと思ってしまうのだ。
伊織さんは俺の胸に顔を近づけたかと思うと、次の瞬間、右の乳首の上に唇をつけてきた。
そのまま、その部分を強く吸われる。何故そんなにも強く、そしてこんなに長い間伊織さんがそうしているわけが分からなかった。
しばらくして、伊織さんが顔を上げる。伊織さんが唇をつけていたところを見ると、小さな赤紫色の斑点のようなものが出来ていた。その後伊織さんと目が合うと、彼女はニヤッと笑った。
いわゆるキスマークというものだというくらいは、理解出来た。理解出来たせいもあってか、伊織さんに見つめられて急に恥ずかしくなる。その気持ちを紛らわせるために、伊織さんにも同じものをつけてやろうと思った。
「それってどうやって付けるの?」
「肌の一カ所に集中して吸えばいいのよ」
伊織さんの声が優しく響く。
「俺も伊織さんに付けてもいい?」
「いいわよ。でも、服を着た時に隠れる場所にしてね。 じゃないと、店長に叱られちゃうわ」
一応断りをいれておいた。もし断られたら、どうしようかと思ったけれど、断られないだろうという根拠のない自信もあった。俺はおそるおそる伊織さんの右胸に唇をよせ、そっと吸った。そんな俺の行為を、伊織さんはどんな気持ちで受け止めてくれているのだろうと思うと、恥ずかしさはまだ拭いきれなかった。
「喉、渇かない? 何か冷たい飲み物でも持ってくるわね」
そう言って、平然とした顔で伊織さんが立ち上がったので、俺も平然としたふりをして「さっきのタルトも食べたい」と言った。
伊織さんは部屋の扉を開けながらクスクス笑ったけれど、俺が見せた虚勢なんて見透かされているのだろうか。伊織さんがいなくなった部屋は、とても静かだ。隣から、食器の音がかすかに聞こえる。音がたてては消え、たてては消える様を聞いて、儚いなあと思った。
この世に同じものはひとつとして無いというけれど、そうだとしたら伊織さんがたてるあの音も、きっと一瞬の命なんだろう。
俺は、伊織さんの一生の中での、一瞬の存在にはなりたくない。それはそれで印象的な気もするけれど、俺たちはせっかく出会ったのだ。いつまでも、隣同士の存在でいたい。
いつの間にか、寝てしまっていたみたいだ。
目を開けると、部屋がオレンジ色に染まっていた。今は夕方で、そういえばセックスをした時はまだ昼だったんだ。
そう思って、裸のままの自分の体を見ると、途端に恥ずかしくなった。普段の俺だったら到底成し得ない事を、勢いのあまりしでかしてしまった。
———凄いな、俺。
苦笑して、隣でまだ寝ている伊織さんを見る。
小さな寝息をたててすやすやと眠っている伊織さんを見ているうちに、また俺は彼女の体に手を伸ばしていた。
また覆いかぶさるような事は、しない。だが、彼女の皮膚をうっすらと撫でるように、あらゆる箇所に手を這わせた。
俺が寝てしまった時にも、伊織さんは同じ事をしたのだろうか。細長い指で、俺もあらゆるところを触られたのだろうか。
伊織さんの首筋を撫でた時に、彼女がぴくりと反応したのがちょっと面白くて、ニヤニヤしながら今度は唇に触れてみたら、彼女の目がパチリと開いた。
俺はすごく驚いて、まるで熱いものに触れてしまった時のような勢いで、手を引っ込めて真顔に戻った。
何もしていなかったふうを装って、たった今目覚めたふりをする。
「おはよう、伊織さん」
時間的に言えば、もうすぐ「こんばんは」なのになと思いながら、俺は言った。
「おはよう、奏太くん、まだ服、着てないのね」
そう言われて、俺は顔が真っ赤になった。
「き、着る」
ぼそぼそと言ってから、慌てて服を掴んだ。伊織さんはそんな俺を見て、クスクス笑った。
恥ずかしさを紛らわすために俺が「タルト」と呟いたけれど、伊織さんに「奏太くんが寝ちゃったから、私が食べちゃったの」と言われて余計に恥ずかしくなった。
「そ、そうなんだ」
俺はつとめて平静を装った。横目で、服を着ている伊織さんを見る。
会話をしようと思って口を開きかけたけど、人は動揺を隠す時に饒舌になりやすいと誰かが言っていたのを思い出して、何も言わなかった。
「今日は泊まっていくの?」
やがて、伊織さんが窓を開きながら聞いてきた。昼間とは違う、夕暮れの静かな風が薄いカーテンを揺らす。
だけどその風は、俺のところまでは届かなかった。
「……俺、門限があって。こないだ、母さんに怒られたから、今日は帰るよ」
初めて伊織さんと一夜を過ごした後、学校から家に帰った俺を待っていたのは、般若みたいな雰囲気の母さんだった。友達の家に泊まると言っていたはずだが、なぜかうまく伝わっていなかったようだ。
俺はその日、門限を夜の九時と決められた。一秒でも過ぎると、朝まで鍵は開かないとも言われた。
「母さんは意地悪なんだ。高校生の門限が九時だなんて、聞いたこともないよ」
「あら、私もそうだったわ。今のご時世、何が起こるか分からないから、きっとお母様も奏太くんの事が心配なんでしょう。むやみにお母様をせめるのもよくないわよ」
伊織さんにたしなめられて、俺は少し気まずくなった。別に母さんをせめるつもりはなかった。ただ、少し愚痴りたかっただけだと反論するのもよかったが、今の俺には伊織さんと言い争う勇気なんてない。
部屋にかかっている時計を見る。もうすぐ六時だ。せめて夏の、陽の長い間だけでも門限を伸ばしてくれないかなと思ったが、すぐに、どちらにせよ九時は、太陽なんてとっくに沈んでいるんだと自分で気付いた。
「俺、そろそろ帰るよ。今日はありがとう」
リビングに戻った俺の後を、伊織さんが静かについてくる。床に置いた鞄を肩にかけ、一度だけ伊織さんを見た後、玄関まで歩いていった。
「じゃあ、また」
「部活や勉強、頑張ってね。これ、持って帰って」
伊織さんが微笑む。白い紙袋に入れて渡されたのは、タルトだった。彼女が浮かべている笑みが寂しそうなものに見えたのは、気のせいだろうか。
扉を開けて外に出る時、俺はもう一度伊織さんを見た。いつか住む場所も同じ場所になればいい。そうすれば、夜も一緒にいられるのだ。
扉を閉める。途端に伊織さんとの世界は遮断され、夏のけだるい空気だけが俺を包み込んだ。
とりあえず高校を卒業するまでは、俺と伊織さんは今以上の関係にはなれない。
俺はその時初めて、十七歳という年齢に、嫌気がさした。
1
「左海くん、アタシの親が不動産屋ってことは、知ってるわよね」
昼休みに、トイレの手洗い場で手を洗っていた俺に梓が近付いてきたかと思うと、唐突にそう言われた。
「う、うん」
意表をつかれ、俺はどもりながら答えた。まだ俺が梓とラインをしていた時、そういえばそんな事を彼女自身が言っていた気がする。
「なら、話は早いわ。左海くんこの間、夕方に大きなマンションから出てきたでしょ。あ、ちなみに嘘ついても無駄よ。アタシ、ちゃんと見てたんだから」
「うん」
ごまかす必要もないし、ごまかしたら余計に話がこじれそうだから、俺は素直に頷いた。
「左海くんの新しい彼女にでも、会いに行ってたの? あ、サバクに会いに行ってたとか、くだらない嘘は言わないでね」
梓の口ぶりからして、もう全てがばれているんだと思った。
「そ、それが、どうかしたのか?」
俺は虚勢を張りながらそう聞いたが、自分でも声が震えているのが分かった。
「左海くんの綺麗な新しい彼女、香坂さんって名前だったわよね。でもね、あのマンションには、そんな名前で契約している人なんて、一人もいないわよ」
「な、何が言いたいんだよ、それがどうしたんだよ」
「相変わらず左海くんは鈍いわね。分からない? つまりあの人には、左海くんの他に恋人がいるってこと。左海くん、彼女に遊ばれてるんじゃない?」
「デタラメ言うな!」
俺は思わず声を荒げてしまった。周りに誰もいないのが幸いだった。
「デタラメなんかじゃないわ。可哀相な左海くん。私ね、あなたのために真相を確かめようと思って、色々調べたの。マンションのエントランスにあるポストに『香坂』って書いてあった部屋の契約者の名前もね」
「もういい、聞きたくない」
顔をしかめて、梓から離れようとしたが、「逃げるの?」と言われて、なぜか後ろめたくなって、踏みとどまった。
「左海くん、現実から目を背けちゃダメ。ちゃんと向き合わなきゃ」
「そんな、大袈裟な……」
「あの部屋を契約してる人の名前は、烏十造寺京一という男の人よ。言いにくい名前ね」
梓は、俺の呟きを無視して、話を続けた。彼女の口から出たのは、聞くからにお金持ちそうな男の人の名前だ。珍しい名字だなとか思っている余裕はなく、むしろ絶望が少しずつ顔を覗かせはじめていた。
「伊織さんは浮気なんかする人じゃない。梓は、俺が伊織さんと付き合うのが嫌だから、そう言っているだけだろ!」
「一途ね。やっぱりあの女と付き合ってるんじゃない。あんなおばさんの、どこがいいの?」
「うるさい! 伊織さんは、確かに年齢は上かもしれないけれど、恋愛に歳の差なんて関係ないだろ!」
「たとえ、あの女に遊ばれてても、左海くんはそれで満足なわけね」
「だから、伊織さんはそんなことするような人じゃないって……」
「いい? 人はみかけによらないの。ああいう、バリバリのキャリアウーマンって感じの人で、高級マンションに住んでて、何不自由ない生活を送れているように見える人に限って、愛には飢えているものよ。書店員の安月給で、あんなマンションに住めるっていうのも怪しいわね」
「なんで伊織さんの仕事が書店員だって知ってんだよ。しかも、安月給って言ったからには、社員だって事も知ってるんだろ?」
俺の問いかけに、梓はほんの一瞬、面食らったような表情になったが、すぐに取り繕って、俺をせせら笑うような顔に戻った。
「左海くんは、アタシが滅多に本屋に行かないとでも思ってるのね。こう見えてアタシ、読書好きなのよ」
「漫画しか、読まないくせに」
俺の突っ込みに、梓はムッとしたようだ。
「今はアタシの趣味なんて、関係ないでしょ!」
そう言って、俺を睨んできた。こうして言い争いじみた事をしている自分は、あまり好きじゃない。
誰かを怒らせるのは、嫌いだ。出来れば穏便に事を済ませたいと思う。だけど今の俺は、伊織さんのためにも、後には引けないのだ。相手は梓だ。へたに下手に出れば、きっと言い負かされてしまう。
「……どこが、いいの?」
「え」
梓の声の調子が変わる。感情のトーンがひとつ下がったようだ。
「あんな女の、どこがいいの?こそこそ隠れてする恋愛の、何がいいの?」
梓は、冷静な態度を取りながらも、どこか必死だった。だから俺は、優しく答えた。
「上手くいかないところ。俺達は十二歳も歳が離れてるし、世間に関係を隠したいと思うし、それが苦しくもあるんだけど、その苦しみも含めて、伊織さんに対して抱く感情を大切にしたいって思ってる」
「なにそれ」
俺の意に反して、梓は冷淡な声でそう返してきた。俺は少したじろいだが、梓のペースには乗らないと、ぐっと身構えた。
「くっさい台詞を言って、アタシを上手く言いくるめたつもり?」
「ち、違う。俺はただホントのこと」
「ええ、そうでしょう。左海くんが嘘をついたらすぐ分かるから、さっきのは本音だって分かるわ」
「だったら、俺の気持ちも分かってくれよ。俺は、伊織さんとの関係を、誰にも邪魔されたくないんだ。もしまだ梓が、俺の事を好きなら、尚更だよ。俺は梓に悪いと思ってるから……その、ライン勝手にやめて」
俺がそう言うと、梓は鼻で笑った。
「ホントに純粋なのね、左海くん。どうして他の女子達は、そんな左海くんに気付かないんだろう。……でもね、純粋だから人を傷付ける事もあるのよ。それだけは、覚えておけばいいわ」
まるで梓以外の女子生徒が、俺の純粋さに気付けば、途端に俺がちやほやされだすのだと言いたげな梓の発言を聞いて、心が疼いた。
全くモテたくないというわけではないけれど、顔を合わす女子達全員に好意をむき出しにされて囲まれるのは嫌だ。そういうのは、サバクに任せておけばいい。あいつは、俺よりもかっこいいから。
「そういうことだから」と言って、梓が去っていく。
俺は呼び止める事も追いかける事もしなかった。どうせ戻る方向は同じなのに、しばらく梓の後ろ姿を眺めていた。
あいつは、何を思って俺なんかを好きになってくれたんだろう。叶わない恋だと知って、それでも尚、諦められなかったのだろうか。
多分、梓は、俺と伊織さんの関係については、あの試合の日に気付いただのろう。
あの日俺の耳元で聞こえた、「白々しいんだよ、ババア」という恐ろしい台詞は、どう考えても幻聴ではない。梓は、それでも俺を想い続けてくれていたのだから、本当に純粋なのは、彼女の方かもしれないと俺は思った。
「そーたー!! お前どこ行ってたんだよ。もうすぐ昼休み終わるだろ! さてはオレらの相手をするのが嫌だったから逃げてたんだな!?」
教室に入るなり、俺はサバクに耳元で騒がれた。
「サバクくん、奏太くんがいないから寂しがってたよぉ」
サバクの背後にやって来て、ニヤニヤしながら言ったのは大塚だ。
「お前、ふざけんなぁ!!」
声高らかにそう言ったサバクの機嫌は、今日はすこぶるいいらしい。俺の自慢話を聞いてもらうには、うってつけのタイミングだ。
「サバク、放課後、話があるんだ」
俺がそう言うと、サバクは「お、なんだなんだ?」と聞いてきたので「自慢話」と答えておいた。サバクが噴き出し、大塚や刈屋までつられて笑い出した。
「な、なんで笑うんだよ」
「奏太くん、素直すぎるもん。僕、思わずいいこいいこしてあげたくなったよ」
「大塚、きもい」
俺が露骨に嫌な顔をすると、大塚は「ごめんね」とやけにしょんぼりと呟いた。
「いいぞ。素直な奏太くんのために、この俺がたっぷりと自慢話を聞いてやろうじゃねえか。あー、早く部活終わんねえかな」
サバクはやっぱり上機嫌だ。まだ部活なんて始まってもいないのに、そう言って大笑いしている。
「奏太さまはどうやらサバクがお気に入りみたいだからな、オレ達みたいな放課後に何の用もない奴らは眼中にもないらしいぜ、大塚」
刈屋は、やけに自虐めいた発言をして、大塚に同情を求めている。大塚も「ひどいねー」と同調して、それでも二人でニヤニヤと笑っていた。
一瞬、刈屋と大塚も俺と伊織さんの関係を知っているんじゃないかと危惧したが、そんなはずはないと自分に言い聞かせた。
結局何事もなく、午後の授業と部活が終わり、俺とサバクは、体育館の入口にあるベンチに腰掛けて、ぼうっと部活帰りの人波が消えるのを待っていた。
「で、何なんだ? 自慢話って。大体予想はつくけどな」
ざわめきも無くなり、人の気配すら感じられなくなった頃、サバクが唐突に聞いてきた。
「伊織さんの事」と俺が言うと、サバクは「やっぱなー」と苦笑した。
「伊織さん、俺のためにペアのカップを用意してくれてたんだ。でも、恥ずかしかったのかな。食器棚の奥に入ってた。他のシンプルな食器とは違うデザインだったから、すぐにばれるのにな」
俺は言い終えてサバクの顔を見たが、数秒後に彼が言った言葉は、俺の期待を裏切るものだった。
「お前馬鹿だなー。そのカップ、絶対お前のためのものじゃないって」
「え?」
「あのな奏太、普通お前のために用意したカップなら、真っ先に見せてくると思うぞ。仮に秘密にしておきたかったら、お前に食器棚を触らせないか、全く別の所に隠しておくもんなんだよ」
「で、でも、サバクは伊織さんじゃないだろ。伊織さんは隠してるつもりだったかもしれないじゃんか」
「お前、小学生かよ! 頑固な奴だなあ」
「俺は、自分が思った事を言っただけだもん」
自分でも、必死に言い訳してるんだと分かる。サバクに突き付けられた現実を認めたくないからだ。
「イオリさんには、お前の他に恋人がいたんだろうな。それが元カレだとしてもおかしくない年齢なんだろ?」
「う、うん」
俺は渋々頷いた。伊織さんは美人だから、彼女に近寄る男は何人もいただろう。その中には伊織さんも惹かれた男がいて、付き合った事もあるのかもしれない。
「伊織さん、浮気したりしてないよね」
不安げにそう言った俺を、サバクはまじまじと見つめてきた。
「まさかお前、イオリさんを疑ってんのか?」
「違う! 違うよ、でも」
言葉につまる。さっきの発言は、少しでも彼女を疑ったから口をついて出たものじゃないか。
「もし、伊織さんが俺とは違う男の人と付き合ってて、あのカップを隠してたんだとしたら、俺、やだな」
「ハハッ、優しいお前でも、彼女の浮気は許さねえんだ」
「当たり前だろ。浮気は駄目だ。俺もしないから、伊織さんもしないでほしい」
「じゃあさ、イオリさんが他の男に心移りしないうちに、お前がちゃんと言えばいいじゃん」
「なにを?」
「そんぐらい、自分で考えろよ」
サバクはニヤニヤと笑って、俺の顔を見る。結婚。その二文字の言葉が、俺の頭に浮かんだ。
「奏太、オレに彼女が出来るためにはどうすればいいと思う?」
サバクは、地面に落ちていた石ころを、植え込みに向かって投げながら聞いてきた。
「今すぐにでもヤりたいって感じのオーラを無くせばいいと思うな」
「はー!? なんだよ、それ。オレ、そんなオーラ出てんのか?」
「うん。女の子の話してる時とか、今にも鼻息が聞こえてきそうだよ」
サバクをからかえるという、滅多にない機会に、俺は優越感に浸っていた。サバクは「マジかー。それ、ショックだなあ」と少し落ち込んだそぶりを見せる。
「もっとおとなしいふりをしていればいいのかもしれないよ」
とどめの一言をサバクに突き刺して、俺は「帰ろ」と立ち上がる。機械的に腰を上げたサバクを横目で確認してから、俺は歩き出した。
「いや、絶対それお前の思い込みだって」
しばらくして、サバクが突然そう言ってきたけれど、一瞬何の事か分からなかった。間を置いて、さっきの話の続きだと気付く。
「違うよ。みーんなそう思ってるって。だから彼女が出来ないんだよ」
ちょっと調子に乗りすぎた気がする。俺が伊織さんと付き合ってるのをいいことに、サバクをいじめてるみたいだ。
「ごめんサバク、言いすぎた」
一応、早めに謝っておく。親友との関係が少しでも気まずくなるのは嫌だ。
「別にホントの事なら、いいんじゃねーの」
サバクの返事を聞いて、ホッとする。それなら良かったかなと、心の中で呟いた。
「はー。オレも早く恋したいなー。チクショウ、何で奏太に彼女がいるんだよぉ!」
サバクの嘆きは、沈みかけの夕陽に溶けて消えた。でも、そこまで悲観することはない。サバクだって、外見も内面もかっこいいのだから、いつかは振り向いてくれる人が現れるはずだ。
サバクの言う通り、もたもたしていたら、誰かに伊織さんを奪われてしまうかもしれない。
伊織さんはそう簡単に他の男に心移りするような軽い女ではないだろうけど、一寸先は闇、何が起こるか分からないのだ。
念には念を、ということかもしれない。伊織さんの本当の気持ちを確かめるだなんて、女々しい行動はしたくないけれど、彼女の気持ちを聞かなければいけない日が来ないとは言いきれない。
「じゃあな」
そう言って、サバクは俺に手を振って違う道を歩いていく。一日の終わりはいつもそうだ。
高校生活もそんなふうにいつか終わりが来る。その時が来て、サバクと手を振って別れた時、俺は伊織さんとどうなっているだろう。
不安は尽きない。人を好きになるというのは、不安との葛藤なのかもしれない。
2
「俺が伊織さんの家に住みたいと言ったら、どうする?」と、伊織さんにメッセージを送ったのは、書店に行ったのに彼女と会えずにいた日の事だった。
仁田さんは相変わらず俺に絡んできて、「香坂さんは今、事務所の方で社長とお取り込み中だ」なんて言うから、俺はとんでもない事を想像してしまった。そのせいで嫌な気分になり、書店を出た俺は、スマホを取り出すと、すぐさまさっきのメッセージを打ったのだ。
書店の社長さんの名前を、後で調べてみようかと思ったけれど、もしその名前が「カラスジュウゾウジ キョウイチ」という変てこりんな名前だったら嫌だから、やめにした。
梓に聞いてみようか。自虐めいたアイデアに、苦笑する。俺のメッセージを心待ちにしている梓なら、大急ぎで調べてくれるかもしれない。
「夏だっていうのに、よく食べるわねえ。私にその食欲、分けてほしいくらいだわ」
目の前で母さんにぼやかれながら、夕食の筑前煮を口に入れていると、ポケットに入れていたスマホが震えた。
今すぐ見たいけれど、「食事中にはしたない」などと怒られるのは嫌だから、おかずの残りを急いで流し込んで、部屋に戻った。
リビングでアプリを開くと、母さんに横から覗かれるかもしれないし、もしメッセージが伊織さんからのものだったら尚更困るから、自分の部屋に行ったのだ。
案の定、メッセージは伊織さんからのものだった。
「同棲したいって事かしら」
画面に浮かび上がったその文字を見て、俺は思わず噴き出してしまった。伊織さんはどんな気持ちでこの文字を打ったのだろう。そう考えると、顔がかあっと熱くなってきた。
伊織さんには、この際はっきり言った方がいいのかもしれない。
俺は同棲をしたいのではなく、伊織さんと結婚したいんだと。
「言えるかな」ではない。言うのだ。もたもたしていたら、それこそカラスジュウゾウジ キョウイチに伊織さんを奪われてしまうかもしれない。
俺は、伊織さんのマンションの名義人であるカラスジュウゾウジ キョウイチを勝手にライバルに仕立てあげて、近いうちに伊織さんにプロポーズをしようと決意した。
いや、その男は、わざわざ伊織さんのマンションを買ったのだから、彼女とは、それなりの関係のはずだ。ライバルにするには、充分すぎるくらいのものだろう。
聞いてみようか。無邪気な子供のふりをして。カラスジュウゾウジ キョウイチって誰、と。俺は、スマホを机に置いて、梓が時折見せるような笑みを浮かべた。
眠い。そう感じたのは、部活の疲れからだろうか。
むかし、空手をやっている同級生から、「どうして疲れるのわかってて、バスケなんかやってるんだよ」と尋ねられた事がある。
俺は、わからないと答えた。練習なんて、同じ事の繰り返しだし、嫌な事も多い。夏場など、嘔吐してしまう人もいるくらいに激しい運動なのに、休まず続けられている。そんな事が出来るのはどうしてだと聞かれても、理由は思い浮かばなかった。
何気なくやっているわけではない。バスケが上手くなりたいんだと答えると、彼は「ふうん」と答えた。
俺は逆に尋ねてみた。どうして数あるスポーツの中から、君は空手を選んだのかと。
格闘技なんて怖いし、痛いのに、と付け加えると、彼は笑った。
「大切な人を守るために、強くなりたいんだ」
あいつは、笑顔でそう言っていた。
きっかけなんて、そんなものだ。バスケが上手くなりたい。大切な人を守りたい。些細な思いがどんどん膨れ上がって、襲い掛かる苦行をものともしない人間に成長していくのだろう。
その後、あいつは空手の大会で、全国の舞台へと駒を進めた途端、急にモテはじめたとはにかんで俺に報告してくれた。
「大切な人」は出来たのかと問うと、「まだ早いだろ。俺、まだ中学生だぜ」と苦笑していた。
あいつが、今何処で何をしているのかを、俺は知らない。そんなに親しいわけじゃなかったし、高校も別々になって、関係がより疎遠になってしまったからだ。
だけどきっと、この世界のどこかで頑張っているだろう。ほんの少し、お互いの健闘を讃え合っただけのあいつに触発されて、俺も頑張らなきゃなと思ったのだった。