創立祭まであと二日となった金曜日の放課後、俺は習慣のように中等部の教室へと向かっていた。

 最終確認の日だったからか、教室は例になく活気に溢れていた。

「先輩!」

 一ノ瀬が駆け寄ってきた。彼女の手には大きなクリップボードが握られていた。

「待たせたな。」

 そう答えると、一ノ瀬は嬉しそうに微笑んだ。

「今日は全体の最終確認です。休憩所も屋台も全て揃えて、動線をチェックします。」
「分かった。」

 最終確認のために、俺と一ノ瀬は校内の各所を回ることになった。
 各クラスの出し物や屋台、展示などをチェックしていく。

 校内を歩きながら、一ノ瀬は学校の色々な場所について詳しく説明してくれた。

「この中庭の桜の木、春には綺麗なんですよ。クラス写真もここで撮るんです。」
「あの噴水は、創立者の寄贈品なんだそうです。五十年以上前からあるんですよ。」

 彼女の説明は、まるで長年この学校にいるかのように詳細だった。

「一ノ瀬、詳しいな?」

 素直な疑問を口にすると、彼女は少し考えるような素振りを見せた。

「まあ、中学三年生ですから。」
「ああ、そうか。」

 納得のいく説明ではあったが、何か引っかかる部分があった。
 まあ、それは今に始まったことではない。
 しかし、すべてのことは何か一つの出来事から始まっている、と俺には感じられた。

 そう、人は矛盾した嘘をつくと違和感だらけに感じる。
 しかし、一ノ瀬の話には、そういったものがないように思えた。

 …俺が騙されている?
 そうなのかもしれない。
 そう、俺は騙されているのだ。
 騙されて『効率的』な生活から離れて…。
 
 これで思考を止めた俺は、隣にいた一ノ瀬を見た。
 彼女は俺を見てきた。

「ん?何ですか?先輩?」

 そんな一ノ瀬の様子に俺は苦笑いを浮かべた。



 校内の巡回を終え、空き教室で二人きりになった時、一ノ瀬が突然言った。

「先輩は本当は何が好きなんですか?」
「何が好きって?」

「趣味とか、興味のあることとか。」

 考えてみると、『動画を見る』こと以外に何も思いつかなかった。かつては読書が好きだったが、それも遠い過去のことのように感じられた。

「特にない。」

 答えながらも、何か寂しさを感じた。

「中学時代は、SF小説が好きだったって言ってましたよね?」
「ああ。」

 俺は反射的に答えた。

「もし、先輩が過去に戻れるとしたら、何をしますか?」

 唐突な質問だった。

「さぁな。」
「もしですよ?」

 彼女はどこか遠くを見つめながら話し始めた。

「私が戻れたとしたら、絶対、悔いのないようにしたいです。」
「たとえば?」
「それは…。」

 後輩は目をつぶった。

「それは秘密です。」
「なんだ、それ。」

 またいつものように彼女は俺の質問に答えなかった。

 彼女は何かをしんみりと感じている。
 なんだろう、俺はそれに合わせていた。

 しばらく、沈黙が周囲を支配した。

「先輩。」

 そんな後、一ノ瀬は突然明るい声で言った。

「先輩は将来の夢とかあるんですか?雨の日に資料室で見てた動画みたいに、色々なものに興味があるんですよね?」

 唐突な質問に、考え込んだ。将来の夢。
 かつては考えたこともあったが、その意味も無意味さも俺は知っていた。

「特にない。大学に行って、普通に就職するんじゃないか。」
「まあ、そうですね。それは普通の人生ですね。」
「そうだろ?」
「そうですね、先輩らしいですね。」

 しみじみと彼女はポツリとそれだけ漏らした。



 創立祭前日の朝、目覚ましのアラームが鳴る前に目を覚ました。
 窓から差し込む朝日に照らされた部屋を見回し、今日が特別な日だということを思い出す。

 いつもなら五回のスヌーズを使い果たしてようやく起きる俺だが、今日は違った。体が勝手に動き、準備を始めていた。

 朝食の席で、アカネが不思議そうに俺を見つめていた。

「お兄ちゃん、今日も学校?創立祭の準備?」
「ああ。」
「なんか変わったよね。前だったら土曜なんて絶対に引きこもってたのに。」

 アカネの言葉に、俺も自分の変化を実感していた。
 確かに以前の俺なら、休日に学校なんて考えられなかっただろう。

「人は変わるんだよ。」

 自分でも意外な発言に、アカネは驚いたようだった。

「何?お兄ちゃん、誰かに騙されているの?」

 それはどこか皮肉や揶揄を含めた口調だった。

「馬鹿言うな。行ってくる。」

 俺は相手にせずにそれだけいって、家から出た。

 家の玄関を出た、俺は考えた。

 本当に自分は変わったのだろうか?と。

 一月前の俺であれば、今の状況は考えられないほど『非効率的』だ。
 土曜の朝から学校に行き、創立祭の準備をし、人と関わる。無駄な時間の使い方の極みだ。

 だが今の俺は、それを苦痛と感じていない。
 この変化は一体何なのか。そして、それを引き起こしたのは一ノ瀬ナズナという後輩だった。

 謎の後輩。
 彼女はどうして、俺にことを知っている?
 どうして、俺に近づいている?
 どうして、俺と一緒にいるんだ?

 明日の花火の後、全ての謎が解けるという。
 
 真相は驚くべきことかもしれない。
 悲しいことかもしれない。
 しかし、その時はもう少しで来るのだ。

 俺はそれ以上考えることを半ば放棄しながら、学校へ向かっていった。



 校門を潜ると、すでに多くの生徒が集まっていた。
 土曜日にもかかわらず、創立祭の準備のために集まった生徒たちだ。

 中等部の教室に向かうと、一ノ瀬を含めたクラスメイトたちが準備に取り掛かっていた。

「先輩、おはようございます!来てくれてありがとうございます!」

 一ノ瀬が満面の笑みで迎えてくれた。
 その笑顔に、昔なら不快感を覚えたかもしれないが、今は少し心が温かくなるのを感じた。

「ああ、おはよう。」

 簡潔だが、冷たくない答え方。それが今の俺にとって自然な対応になっていた。

「今日は休憩所の最終確認と、案内表示の設置をお願いできますか?」

 一ノ瀬の指示に従って、俺は作業を始めた。
 休憩所のテントが正しく設置されているか確認し、折れていたり緩んでいたりする部分を修正する。

 案内表示の設置も順調に進んでいった。校内の各所に、来場者が迷わないよう矢印や案内図を貼り付けていく。他の生徒と協力しながら作業することも、不思議と自然に感じられた。

 昼食の時間になると、一ノ瀬が俺を呼んだ。

「先輩、お昼ご飯一緒にどうですか?」

 いつもと同じように屋上へと向かう。今日も一ノ瀬は俺のために弁当を作ってきてくれたようだ。

「いつも作ってくれて、悪いな。」

 弁当箱を受け取りながら言うと、一ノ瀬は嬉しそうに首を振った。

「いえいえ、先輩に食べてもらうの、楽しいんです。」

 そう言われて、何かムズムズするような恥ずかしさを感じた。

 弁当を広げると、俺の好物が詰められていた。オムライス、唐揚げ、卵焼き…全て手の込んだものばかりだ。

「うまいな、これ。」

 素直に褒めると、一ノ瀬の顔が明るくなった。

「ありがとうございます!先輩に気に入ってもらえて嬉しいです。」

 快晴の空の下、屋上での昼食は、穏やかに過ぎていった。
 以前なら考えられなかった状況だ。

「先輩、明日も朝八時集合なんですが、大丈夫ですか?」
「ああ、問題ない。」
「そして…夜の花火も、約束通り一緒に見てくれますか?」

 一ノ瀬の目に期待と不安が混じっているのを見て、俺は自然に頷いた。

「約束したことは守るさ。」

 その言葉に、彼女の表情が明るく輝いた。

「ありがとうございます!先輩と一緒に見る花火、楽しみにしています。」

 午後の作業も順調に進み、夕方近くには準備がほぼ完了した。

「皆さん、お疲れ様でした!」

 一ノ瀬がみんなの前で挨拶をする。彼女のリーダーシップに、クラスメイトたちも自然と従っている様子が印象的だった。

「明日は朝八時集合です。全員、忘れ物のないようにしてください。それでは解散します!」

 生徒たちが帰り支度を始める中、一ノ瀬が俺のところにやってきた。

「先輩、今日も手伝ってくれてありがとうございます。本当に助かりました。」
「いや、別に。」

 素っ気なく答えようとしたが、なぜかその言葉が出てこなかった。
 代わりに、自然と口から出たのは別の言葉だった。

「楽しかったよ。」

 自分でも驚くような言葉だったが、それは嘘ではなかった。
 確かに今日の作業は、思っていたよりも充実していた。

 一ノ瀬の顔に驚きと喜びが広がった。

「本当ですか?先輩が楽しんでくれて、私も嬉しいです!」

 帰り道、一ノ瀬と一緒に歩いた。

「明日は創立祭ですね。先輩との特別な一日になるといいなぁ。」

 何気ない言葉のようで、何か深い意味を感じさせた。
 それは彼女が持っている、どこか不思議な雰囲気から連想させられる、『何か』だった。

 そういえば、明日、一ノ瀬は全ての謎を明かすという。
 彼女がなぜ俺のことをあれほど知っているのか。なぜ俺に接近したのか。
 その答えが明らかになるのだ。

 それを知ったとき、俺はどうするのだろう?

 その答えはまだ分からない。
 ただ確かなのは、一ノ瀬ナズナとの出会いが、俺の内側に何かの変化をもたらしているということだけだった。