決められていた君との約束

「先輩、ちょっと休憩しませんか?」

 一ノ瀬が提案した。確かに、もう二時間近く歩き回っていた。

「そうだな。」

 人の少ない階段の踊り場に腰掛ける。
 窓からは校庭の賑わいが見えた。

「楽しいですか?」

 一ノ瀬が突然聞いてきた。

「ああ、思ったより。」

 正直に答えると、彼女は嬉しそうな表情になった。

「よかった…本当によかったです!」
 
 彼女は『俺が楽しい』といったことをまるで自分が感じたことのように喜んでいた。

「じゃあ、先輩、次はどこに行きたいですか?」

 後輩の言葉に対して、俺は一瞬の思考を働かせた。

「特にないけど、人の少ないところがいいな。」

 人ごみの中を長時間歩き回ると、やはり疲れるのだ。

「そうですね…あ、そういえば。」

 彼女は何かを思いついたような表情をした。

「あの場所に行ってみませんか?」
「あの場所?」
「初めて会った場所です。」

 その言葉で、彼女が何を言っているのか理解した。

「資料室か。」

 何か含みのある笑顔を浮かべる、一ノ瀬。

「おい、違うのか?」

 思わずそんな言葉が口から出た。

「いいえ、資料室です。そこへ行ってみましょう。」
「ああ。」

 一ノ瀬の提案に素直に従い、高等部棟の最上階へと向かった。

 階段を上りながら、俺は当時の思い出を振り返っていた。
 以前は毎日のように通っていた資料室だが、一ノ瀬と過ごすようになってからは、雨の日以外に、ほとんど足を踏み入れていなかった。

 四階に到着し、第四資料室の前に立つ。
 扉は相変わらずの様子で、そこには『第四資料室』と書かれたプレートがかかっていた。

「そういえば、俺はお前を見て逃げ出したんだよな。」

 俺は自然にそのセリフを口に出していた。

「先輩、中に入りましょうよ!」

 一ノ瀬の提案に、少しためらいながらも頷いた。
 ドアノブを回すと、カギはかかっていなかった。

 ドアが開いた。
 中に入ると、なにも変わっていなかった。
 埃を被った本棚、パイプ椅子、机。窓のカーテンは開けられていて、昼の光が部屋を照らしていた。

 ここは、俺が毎日のように通っていた場所。

 一ノ瀬はじっと、その部屋を見ていた。
 俺も視線を合わせて、資料室を見た。 

 そして、パイプ椅子に座ると、以前と同じように埃が舞い上がった。

「ここで先輩はいつも何をしていたんですか?」

 一ノ瀬が聞いてきた。彼女は知っているはずなのに、なぜまた聞くのだろう。

「動画を見ていた。」

 俺はこれまでに何度も言った言葉を口に出した。
 彼女は俺を見ていた。

「…先輩は変わりましたよね。」

 一ノ瀬はそう言って、小さく笑った。

「おい、どういう意味だ?」
「最初は全然話してくれなかったのに、今は自分から話すこともあるし、人とも普通に接している。」

 彼女の言葉に、確かに自分の変化を実感した。今日の案内係もそうだ。一ヶ月前の俺なら、絶対にできなかったことだ。

「それが何か?」
「嬉しいです。本当の先輩に会えた気がして。」

 彼女の真摯な言葉に、何か心の奥が震えるような感覚を覚えた。

「俺はいつも本当の俺だぞ?」
「そう…ですね。」

 彼女は微笑みながら、俺を見ていた。
 その表情は、うまく言うことができない。
 もしそれを言葉で表現できるとすれば…、彼女は俺を通して、どこか遠くを見ているみたいだった。

 そう、遠くを。

 しばらく沈黙を楽しんだ後、一ノ瀬が言った。

「もう一ヶ所、行きたい場所があります。」
「どこだ?」
「屋上です。」

 資料室を後にし、さらに階段を上がって屋上へと向かった。
 屋上のドア。
 そこもカギはかかっていなかった。
 この学校のセキュリティの低さが気になったが、俺には都合がよい。
 そう思いこんだ。

 ああ、そうだ。
 ここもある意味、思い出の場所だった。

 一ノ瀬に脅されて、渋々昼食を共にし始めた場所。
 今では当たり前のように一緒に弁当を食べる場所になっていた。

「ここからの景色、好きなんです。」

 一ノ瀬が柵に寄りかかり、校庭を見下ろした。
 創立祭で賑わう校庭は、上から見ると小さな祭りのように見えた。

「俺も悪くないと思うようになった。」

 素直な感想を言うと、一ノ瀬の顔が明るくなった。

「本当ですか?嬉しいです!」

 風が彼女の髪を揺らす。短いジャギーヘアが踊るようだった。

「先輩、この学校に入学してよかったですか?」

 突然の質問に、考え込んでしまった。

「さあな。」

 正直なところ、答えが分からなかった。
 最初は誰とも関わらない『効率的』な生活を送るためにこの学校を選んだ。しかし今は、一ノ瀬という後輩と毎日を過ごしている。

「でも、先輩がここにいなかったら、私と会うことはなかったかもしれません。」

 一ノ瀬のその言葉に、何か特別な重みを感じた。

「そうだな。」

 屋上から見える景色を眺めながら、ふと俺は考えた。
 一ヶ月前の自分には想像もできなかった今の状況。
 人との関わりを避けていた自分が、今はこうして創立祭を楽しんでいる。

 一ノ瀬ナズナという少女との出会いが、これまでの俺の在り方を破壊してしまったように感じた。

「そろそろ休憩所に戻らないといけないかな?」
「あ、本当ですね。すみません、つい時間を忘れてしまいました。」

 一ノ瀬はすぐに態勢を立て直した。

「行きましょう!午後の交代時間ですね。」

 彼女は円満の笑みを浮かべた。
 元気いっぱいの彼女。
 俺はその眩しすぎる彼女の影響を受けすぎていると感じた。



 休憩所に戻ると、先ほどの交代要員から再び仕事を引き継いだ。
 午後も来場者は途切れることなく、パンフレット配りや案内で忙しかった。

 しかし、午前中と違って、俺は自然に対応できるようになっていた。
 笑顔での挨拶、的確な案内、質問への丁寧な回答。
 さすがの俺も慣れつつあった。

「先輩、すごく上手になりましたね!」

 一ノ瀬がそう褒めてくれると、少し照れくさい気分になった。

「そうか?まあ、慣れただけだ。」
「いえ、先輩の本来の優しさが出てるんですよ。」

 その言葉に、何と返していいか分からなかった。
 俺が優しい?
 そんな風に言われたことは今までなかった。

「俺が?優しい?」
「そうですよ!」

 彼女は自信満々にそう答えた。

「そうかね?まあ、確かに俺ほど優しい人は世の中にいないな。」

 俺は皮肉を込めながら、自虐を行った。

「はぁ、まあ…。先輩らしいというか。」

 彼女は苦笑いしていた。



 こうして午後の時間も過ぎていき、夕方になると、校内放送が流れた。

「皆様、本日は第三学園中等部創立祭にお越しいただき、ありがとうございます。間もなく午後六時となります。創立祭の締めくくりとして、これより校庭にて花火を打ち上げます。どうぞお楽しみください。」

 一ノ瀬は俺を見て、目を輝かせた。

「先輩、花火があるんですよ!」
「ああ、そういえば、そうだったな。」

 そうだ。
 それは、俺が今日ここにいる理由の一つだった。

 周囲を見ると、休憩所の来場者もだいぶ減ってきていた。
 多くの人が花火の場所取りに向かっているようだ。

「そろそろ片付けを始めましょうか。花火までにはまだ少し時間がありますが、準備しておかないと。」

 一ノ瀬の提案に頷き、俺たちは休憩所の片付けを始めた。
 使われていない椅子を畳み、ゴミを集め、パンフレットを整理する。
 他の実行委員たちも手伝いに来て、作業は順調に進んだ。

 片付けが終わると、一ノ瀬がにっこりと笑った。

「先輩、ずっと手伝ってくれてありがとうございます。本当に助かりました。」
「別に。約束しただけだ。」

 そうは答えたものの、以前ほど素っ気なさを込めることができなかった。
 実際、今日一日は予想以上に充実していたし、案外楽しかった。

「でも、私は先輩が来てくれて嬉しかったです!」

 一ノ瀬の言葉に、どう返していいか分からなかった。

 周りを見ると、生徒たちが続々と校庭に集まり始めていた。
 花火の準備が始まっているようだ。

「さぁて、先輩、花火を一緒に行きますよ!」
「ああ、行こう。」

 俺は答えた。
 そう、これからこの謎に満ちた後輩と一緒に花火を見る。
 
 そして目の前の先輩の告白を聞くことになる。
 そう、彼女の秘密について。
 それが何なのか、今の俺には予想もつかない。

 しかし、きっと事実は大したことではないのだろう。
 そう思った。



 俺たちは実行委員の腕章を返却し、丘へと向かった。
 学校の裏手に回り、小さな坂を上っていく。
 木々の間を抜けると、見晴らしの良い場所に出た。

 ここからは学校全体が見渡せる。
 校庭には人々が集まり、花火の打ち上げ準備が進んでいる様子も見える。空はすでに夕暮れ色に染まり始めていた。

「ここからの景色、綺麗ですね。」

 一ノ瀬が感嘆の声を上げた。確かに、ここからの眺めは素晴らしかった。

「ああ。」

 俺も同意する。
 そして、俺と一ノ瀬は隣り合う位置で丘の上に腰を下ろし、花火の始まりを待った。

 風が心地よく吹き、一日の疲れを癒してくれる。
 この静かな場所で、今日一日を振り返る。一ヶ月前の俺には想像もできなかった一日だった。

「先輩、今日は楽しかったですか?」

 一ノ瀬が再び質問してきた。

「ああ、意外と。」

 素直に答えると、彼女は満面の笑みを浮かべた。

「本当に?よかった!私も先輩と一緒に過ごせて楽しかったです。」

 その言葉に何か心温まるものを感じた。
 それは、かなり久しぶりな感覚だった。

 俺は迷った。その気持ちを口に出すべきなのか。

 じっと、後輩を見る。
 彼女の女子生徒らしい容姿が見えた。

「なんですか?先輩?」
「いいや、なんでもない。」

 俺は言いよどんだ。

「あはは。」

 彼女は笑った。
 でも、それ以上、彼女は何も聞いてこなかった。

 だから、俺も黙って花火を待つことにした。
 


 しばらくして、校庭から最初の打ち上げ花火の音が聞こえた。

「始まりました!」

 一ノ瀬が嬉しそうに声を上げた。
 夜空に最初の花火が大きく開き、辺りを明るく照らす。鮮やかな色が広がり、続いて二発、三発と打ち上げられていく。

 丘の上からの眺めは格別だった。
 学校の上空に広がる花火が、打ち上げられて花が咲く。

「綺麗…。」

 一ノ瀬のつぶやきが聞こえた。彼女の横顔が花火の光に照らされ、神秘的に見えた。

「ああ、すごくいい場所だな。」

 率直な感想を伝えると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。

「実は…ここは私の大切な場所なんです。誰にも教えたことがなかった。」

 その言葉に、何か特別なものを感じた。彼女にとって秘密の場所を、俺に共有してくれたのだ。

「なぜ俺に?」

 花火の合間に尋ねる。

「先輩は特別だからです。」

 彼女の瞳が真剣に俺を見つめていた。

 次々と打ち上げられる花火を眺めながら、俺たちは静かに座っていた。普段なら退屈に感じるような時間でも、今は心地よい沈黙だった。

「先輩、私の隣にいるとき、どんな気持ちになりますか?」

 突然の質問に、少し戸惑った。

「どんな気持ちって…普通だ。」
「そうですか?」

 俺の適当な回答に彼女は一瞬考えるような仕草をした。

「…ええっとですね、先輩。きっと、最初は私に脅されて仕方なく付き合ってたと思いますけど、それは今も同じですか?」
「…最初はそうだった。お前に脅されて、嫌々付き合っていた。だが今は…違う。」
「違う?」
「お前と一緒にいても、嫌じゃない。むしろ…」

 言葉を選びながら続ける。

「楽しいと思うこともある。」

 その言葉に、一ノ瀬の顔に喜びが広がった。

「本当ですか?嬉しいです…。」

 花火の明かりに照らされた彼女の顔に、涙が光っているのが見えた。

「なぜ泣く?」
「嬉しいからです。先輩がそう言ってくれるのを、ずっと待っていたから。」

 その言葉の意味を考える間もなく、大きな花火が打ち上がり、俺たちの会話を一瞬中断させた。

 しばらく花火を眺めた後、一ノ瀬が再び口を開いた。

「先輩は中学時代、本当に辛かったんですよね。山下さんに振られて、クラスの笑いものになって…」

 突然過去の話題に戻られて、胸が締め付けられる感覚がした。しかし、以前のような激しい拒絶反応は起きなかった。

「ああ、最悪だった。」

 素直に認める俺に、一ノ瀬は優しい目を向けた。

「でも先輩、一つだけ知っておいてほしいことがあります。あの出来事は、先輩が悪いわけじゃないんです。それを笑う人たちこそが間違っていたんです。」
「…そうかもな。」

 静かに答える。

「先輩が高校で誰とも関わらないように生きてきたのも、あの痛みをもう一度味わいたくなかったからですよね。」
「ああ。」

 俺はようやく、その言葉を口にした。

 夜空に打ち上げられる、花火が終わりに近づいていた。