緩い上り坂が延々と続く山道を、時折、立ち漕ぎを混ぜながら、自転車で一時間近く走る。出がけに父親に蹴られて痣になった右脚は、激痛を繰り返すうちに神経が麻痺したのか、何も感じなくなった。山の中腹にある学校のそばまでくると、狂ったように咲き誇る桜並木が現れ、目眩がした。
 早川紗希は自転車を降り、誰もいない正門を抜け、そのまま体育館の裏手へ向かった。高等科の一年に進学して早々、クラスメイトの笹岡真由から呼び出されたのだ。

「遅いじゃない」
 すでに、取り巻きの二人の同級生と来ていた笹岡が、紗希に言った。
「約束の時間通りだけど」
 紗希は笹岡の見下すような目を睨みながら、言葉を返した。
「あんたのそういう態度がむかつくんだよね。ほんとに」

 笹岡が、取り巻き連中に同意を求めるように吐き捨てる。取り巻きは二人とも大袈裟に頷き、気味の悪い笑顔を見せる。
 紗希たちの通う学校は、山に囲まれた地方都市にある中高一貫の県立校だ。毎年、名門大学への合格者も輩出していて、地元では、優秀な生徒が通う学校として認知されている。そのため、議員や有力企業の子息、子女の入学も後を絶たない。笹岡も、そんな有力者の親を持つ生徒のうちの一人だった。

「私のことはどう思ってもらっても構わない。でも、香織に構うのはもうやめて」

 きっかけは些細なことだった。半年前、高等科のサッカー部で活躍する学内で一番人気の先輩が、たまたま下校途中に前を歩いていた中等科の三年生、玉木香織が落とした定期入れを拾い、彼女の元へ駆け寄った。しきりにお礼をいう香織と高等科の先輩は、駅までの道を談笑しながら並んで歩いた。
 その一部始終を香織の同級生である笹岡が偶然目撃していた。嫉妬した笹岡は、「先輩の気を引くためにわざと定期入れを落としたと吹聴し、他の同級生も巻き込み香織を仲間外れにするようになったのだ。
 やがてそれは、SNSを使った陰湿で大がかりないじめにまで発展していった。中等科で香織と同じクラスだった紗希は、自宅へ引きこもってしまった彼女から事情を聞き、笹岡に抗議した。けれども笹岡は面白がって誹謗中傷をやめなかった。
 紗希は担任に事実を報告したが、教師たちは有力者の顔色をうかがったのか、事態は一向に改善されぬまま、香織を残して紗希たちは高等科へ進学する形となった。
 皮肉にも紗季は笹岡と同じクラスにされていた。紗希は相変わらず香織への誹謗中傷を続ける笹岡に対し、毎日のように教室で詰め寄った。
 他のクラスメイトは、薄々事情を知っていたが、紗希に加勢する者はいなかった。有力者の顔色をうかがっているのは教師だけでなく、生徒(とその親たち)も同じだった。

「でも、まあ、こうやって呼び出しに応じたってことは、交換条件として、何でもする覚悟はできてるんだよね?」

 笹岡がいつも以上に陰湿な目を紗希に向けた。わざわざ監視カメラのないこの場所を選んだのも、思惑があってのことだろうと紗希は踏んでいた。

「何をすればいいの?」

 紗希は、笹岡の目を見据える。
 とりあえず、要望だけは訊いてやる。
 けれど、ふざけた条件だったら、この機会にこちらから実力行使に出るつもりでいた。

 笹岡は取り巻きに顎で合図する。すると一人が紗希の背後に回って羽交い締めにし、もう一人がライターを取り出し紗希の顔へ近づけた。

「その涼しい顔をほんの少し炎上させてもらったら、もう香織に構わないって約束するよ」

 笹岡が、腕組みをしながらにやつく。
 紗希は、近づいてくるライターの炎を避けるように上半身をねじらせた。けれども羽交い締めする取り巻きの力が思いのほか強かった。後ろ足で蹴りつけても、びくともしない。
(こいつ、レスリングかなんかやってる奴!?)
 今朝方、父親に蹴られたダメージも残っていて、思うように力が入らない。
 窮地に追い込まれた紗希は、反撃の糸口を掴もうと周囲を見回した。すると、どこからか、丸い石ころのようなものが一直線にこちらへ向かってくるのが見えた。丸い何かは取り巻きの持つライターに命中し、どちらもプレハブの物置の向こうへ飛んでいった。

「誰かいるの!?」

 笹岡は、呻くような声を発し、すぐにその場を立ち去った。取り巻きの二人も紗希を放り出し、笹岡の後を追っていった。
 
 予期せぬ展開に、紗希は狐につままれた心地でその場に座り込んだ。風に乗って、桜の花びらがふたつ、ひらひらと目の前を横切っていく。記憶の湖の底にある何か大切なものが、静かにゆっくりと浮上してくる気配がした。


***


 放課後、紗希はいつものように誰もいない旧校舎の屋上を訪れた。
 見下ろすと、広々としたグラウンドでサッカー部や野球部の生徒達が練習に励んでいる。部活をしたことのない紗希が、その光景を羨ましく思うのも、いつものことだ。

 あの後、紗希は教室で笹岡たちと一緒になったが、何事も無かったみたいに紗希には見向きもしなかった。

 あいつらとの戦いは、まだまだ続くんだろうな……

 子供の頃から、紗希はずっと何かと戦ってきた。いじめやSNSの誹謗中傷は、紗希の生まれる前からあって、その負のエネルギーは、時折、弱まりを見せる期間もあったが、すぐに威力を取り戻し、決して無くなることはなかった。自分のクラスメイトや同級生たちが巻き込まれているのに気づいたとき、紗希は見て見ぬ振りはできず、必ず加害している者たちに抗議した。そのせいで自分自身が攻撃の対象になり、孤立することも少なくなかった。
 紗希が戦う場所は、学校だけではない。家庭も常に戦場だった。物心がついたころには、父は日常的に母へ暴力を振るうようになっていた。紗希は小さな体で無抵抗の母親を守り続けた。父に対抗するために体を鍛え、独学で格闘術を学んだ。学生時代に空手の心得はあるものの、不摂生とアルコール中毒で衰えた父は、娘の反撃に手を焼き、母への暴力を控えるようになった。それでも隙を見ては今朝のように不意打ちを掛けてくるので、油断はできない。

 人間社会から、虐待やいじめは一向になくならないし、ネットを介した暴力的な言葉の嵐も吹き止むことはない。笹岡みたいに、優等生面をしながら、裏で人を平気で傷つけるサイコパスもあちこちに潜んでいる。性善説だけでは到底太刀打ちできない理不尽な世界を、紗希はボロボロになりながら、ひとりぼっちで戦い、生き抜いてきた。
 けれども、さすがに心が折れることもあった。そんな時、紗希はふと、このまま屋上から身を投げ出してしまったらどんなに楽だろうと思うのだ。

 ぼんやりと微かに赤く染まり始めた空を眺めていると、視界の端に何かが上昇していくのが見えた。黒い影は、上空で小さな点になって一瞬止まり、階段室のある塔屋の方へ落下していった。影は上昇する高さを微妙に変えながら、何度も同じ動きを繰り返した。
 
 UFO?

 紗希は気になって、塔屋へ近づき、壁に埋め込まれた鉄製の梯子を登った。塔屋の上を覗くと、男子生徒が一人、仰向けに横たわっていた。寝そべったまま、彼はしなやかな身のこなしでボールを空へ向かって勢いよく投げた。ボールはおそらく野球の硬式球のようなものだと紗希は思った。数秒後、ボールは再び男子生徒の元へ落下し、彼はそれを素手でキャッチした。そして再びボールを空へ投げつけた。

「あのう……、何してるんですか?さっきから」

 紗希は、思わず彼に声をかけた。

「何って、君が見ているままのことだけど」

 男子生徒は、こちらを見ずにボールを投げながら答えた。少し低めの、柔らかくて落ち着いたトーンの声だった。紗希は懐かしいような愛しいような感情がこみ上げてきて、戸惑った。
 でも、その予兆は既にあったのだ。今朝の体育館裏の出来事で、紗希の記憶の湖に、あのボールの軌道のように、一筋の光が差し込んだのは間違いなかった。

「どうして、空に向かって投げているの?」

「……」
 
 彼は口元を引き締めた。その凜々しい横顔は、一瞬、兵士のような厳しい表情になった。

「空に、何かがある気がするから」

「何か?」

「うん、何か、やっつけないといけないもの」

(やっつけないといけないもの……)
 それが何か、なぜか紗希にもわかる気がした。

「もしかして今朝、助けてくれたのって……」

 そう訊きかけると、彼はボール投げを止めた。そして腕を使わずにふわりと起き上がり、紗希に近づいてきた。

 真顔の彼が、どこまでも澄んだ瞳で、じっと紗希を見る。

「絶対に、死んじゃだめだよ」
 
「え?」

 その言葉を聞いた瞬間、紗希の目から不意に涙が溢れ出た。それは紗希が、この世界に生まれて初めて流した涙だった。


「俺、広瀬裕貴。四月に高等科から入った一年生。よろしくね!」
 
 塔屋を降りていく彼は、そう言い残して階段室の中へ姿を消した。

「ヒロセユウキ……ユウキ……ユウキ……」 

 紗希は、彼の名前を何度も呟いた。

(そっか、プレートは「ウ」が欠けてしまっていたんだね)

 唐突な思考が、そよ風みたいにやさしく駆け抜けていく。

 
 紗希は、涙をぬぐい、赤く染まった空を見上げた。


 この世界は、醜くて、残酷だーーーー

 でも、ユウキと一緒なら、生きていける。


 私、絶対、死なないよ。 


 ユウキ。


 だから、ユウキも絶対、死なないでね。
 





〈了〉