サキは自分が男か女かを知らない。

そもそも「性別」という概念を知らない。

そんなことを教えてくれる人はどこにもいなかった。

自分が、どこで生まれ、どこからやって来たのか。

サキには、それさえもわからない。

物心がついたときには、透明な棺桶みたいなカプセルが住処になっていた。

扉に『サキ』と書かれた小さなラベルが貼られていたから、それが自分の名前だと思った。

「親」、「子」、「母親」、「父親」――。

それらの言葉たちは、おぼろげにサキの頭のどこか片隅にも書き込まれ、鎮座している。

けれども、その言葉が本当に意味するところが何なのかは、あまりよく理解できていない。

もしかしたら、自分に『サキ』という名前をあてがってくれた誰かが、「親」というものなのかもしれない。

それ以上の関係が、親と子の間にあるのか、あるいは、それ以上の関係が親と子の間に必要なのか。

サキには、一事が万事、わからないことだらけだ。

そして、そんな風に、わからないことが、自分にとって、良いことなのか悪いことなのかも定かでない。

「そう、私には、わからないことだらけ……」

この世界でサキが確信を持てるのは、たった一つだけ――。

それは、自分が「兵士」であるということ。




戦闘技術は、教えられたのではなく元から備わっていた。

自分の体より大きな重機関銃を担ぎ、青い血を流しながらガラス片の嵐みたいな敵たちを駆逐する。

基本は空中戦。

楕円型の浮遊装置に両足を固定し、重心を巧みに移しながら縦横無尽に飛び回る。

サキの担当エリアは『シブヤスカイBブロック』。ちょうど真下に宮下パークがある。

空中公園を楽しげに行き交う若者たちの上空で、サキは一日19時間戦って、5時間寝る。

カプセルに格納されている間に、傷は癒やされ、必要最小限の栄養が補給される。


15歳まで、サキは一人で戦い続けた。

だが、ある日もう一人の兵士がBブロックにやって来た。

穏やかな澄んだ瞳が印象的な、サキが初めて見る自分以外のひとだった。

このところ敵の攻撃力が加速度的に増していたので、共に戦ってくれるのは有難かった。

サキは自分より一回り大きな浮遊装置に乗った、しなやかな身体の持ち主に尋ねた。

「名前はなんというの?」

「ユキ。女の子みたいな名前だけれど……」

「女の子?女の子って何?」

「女の子は女の子」

「あなたは女の子?」

「違うよ。君の名前は?」

「私はサキ」

「君は女の子だね」

「どうして?」

「なんとなく。ボクとは違うから」

サキも、ユキと名乗るそのひとが、自分となんとなく
違うと思った。

けれどもそれは、どこか心地よくも感じられる違いだった。




ユキは、サキより一つ年上で、サキよりもいろいろなことを知っていた。

「ボクのカプセルの棚に、文字が刷られた紙の束が何冊か置いてあったんだ。だから、ボクの知識はほとんどが、その紙束の受け売りだよ」

サキにも文字を読む能力は備わっている。けれどサキが今までに目にしたことがある文字は、扉に書かれた『サキ』の二文字だけだった。

「どんなことが、書かれているの?」

「月の満ち欠けの話とか、人類の歴史とか……」

サキは、ぼんやりと、ユキのいう紙束が「本」と呼ばれるものであることを思い出していた。

ユキは「本」という言葉を知らないのだろうか。

だが、それよりも聞きたいことがあった。

「もしかして『ユキ』って名前のラベルが、カプセルの扉に貼ってあった?」

「うん、『ユ キ』って書いてある古びたラベルが貼ってあった。だからボクの名前は『ユキ』」

「そっか……」

サキは考える。

自分もユキも、「名付けられた」わけではない。元からあった名前を、引き継いだだけなのだ。

ユキのカプセルの棚にあった本は、おそらく前任の(あるいは、それ以前の)「ユキ」が所持していたものに違いない。

意図的に残していったのか、それとも何かの事情で置き去りにせざるを得なかったのか。

ユキに聞いてみたいことは、サキの頭の中に次から次へと湧き上がってくる。

ユキの知っていること。

ユキの知らないこと。

けれども、激しい戦闘の合間に交わす会話でそれらを聞くことは、容易く許されるものではなかった。




二人が共にいつもより負傷した日、ユキが言った。

「ボクたちの兵役は、17歳で終わるんだ」

「兵役?終わる?」

「そう、兵士として戦う義務が終わるんだ」

「終わったらどうなるの?」

「17歳の最後の日まで戦ったら、僕たちは消える」

「消える?どこへ?」

「さあね。とにかくボクの兵役はあと一年。君はあと二年」

サキはユキの話を信じた。嘘をつくような人ではない。

せっかく仲間ができたのに、また一人になってしまうのは寂しかった。

「兵役が終わる前に敵に殺されてしまったら、どうなるの?」

「もちろんそこでおしまいさ。だから絶対に殺されたらいけないよ」

ユキは、サキの目を見て、もう一度言った。

「絶対に、死んじゃだめだよ」

初めて真顔のユキと至近距離で向き合って、サキはどぎまぎした。


その日の戦闘を終えたサキは、カプセルの中で傷を癒やしながら、ずっとユキのことを考えていた。

このところ、気がつくと考えているのはユキのことばかりだ。

そうしているうちに、決まって痛いような、くすぐったいような、とても不思議な感情が胸の中で芽生えてくる。

ワタシとユキとの間には、目には見えないけれど、まっすぐに伸びる、光の線のようなものが確かにあるように感じる。

それはワタシにとって、目に見えるものよりずっと確かなものだ。

でも……。

ユキは、ワタシのことをどう思っているだろう。

カプセルの中で本を読みながら、ちょっとはワタシのことを考える時間もあったりするかな……。


サキは、うとうとと考えを巡らせながら、ようやく眠りについた。

そして、無音の空間を漂う自分のカプセルが、ユキのカプセルとすれ違う夢を見た。




サキもユキも優れた戦闘能力の持ち主だった。けれども、敵の攻撃力も未知の領域に達しつつあった。

ユキはサキを守り、サキはユキを守った。

やがて二人は致命傷を負い、青い血がとめどなく流れた。

どうやら二人とも、兵役義務をまっとうできそうになかった。

「……ユキ……私たちは一体何と戦い続けているの?」

「……」

「……この世界はどこにあるの?」

「……」

「……私たちって何なの?」

「……たぶん……ボクたちは、悪意に満ちた感情や……言葉の嵐と戦っているんだよ……」

「悪意……」

「そう、この世界は時空の狭間かも知れないし……科学者か人工知能か何かが作り出した、仮想空間かもしれない……それか……」

「それか……?」

「ひょっとしたら今、どこかのカフェでコーヒーを飲んでいる、誰かさんの頭の中かもしれないね……」

ユキは苦しそうな顔で銃弾を詰め替えた。

「……私たちは、本当に《いる》の?」

「どうだろう……この肉体はただの借り物か幻か……きっと不確かなものなんだと思う……」

「なんだか哀しいね……」

サキは負傷した腕を擦り、呟いた。

「でもね……ボクたちの意識は不滅だよ……どんなに肉体が滅んで世界が消滅しようが、しぶとく何処かに在り続けていくんだ……」

「私は、ユキとまた巡り会えるかな……」

はにかみながら頷いたユキは、片手でサキの手を握り、もう片方の手で重機関銃を構えた。

狂ったような敵の攻撃が、巨大な竜巻みたいに突風を伴い、容赦なく襲いかかってくる。

防護服に無数の亀裂が入る。

粉塵で何も見えない。

息が出来ない。


でもーー

朦朧とする意識の中でサキは誓った。

この体がバラバラになって消え失せても、ユキの手だけは絶対に離さない、と。







渋谷の空中公園の片隅で、一人の少女がスマホの画面を食い入るように見つめていた。

あれ程SNS上に溢れていた自分への攻撃コメントが、

いつの間にか跡形もなく消えていたのだ。

少女は一瞬何かが頭上の彼方で飛行したような気がして、空を見上げた。

「気のせいかな……」

彼女の視界には、雲一つない青空がどこまでも広がっているだけだった。