魂の彩をみつめて

   第五章



 冬真っ只中、毎日のように最低気温が下回ったと報道されてそれを観るたびに少し憂鬱な気分に浸ってくる時期となっていた。着る服の枚数と厚さが増え、コートを羽織るもそれでも寒さが完全には消えず、着た枚数だけ身体と心が重くなっていった。
 この時期はどうも苦手であった。寒さで身体の筋肉が硬直し、動きが悪いのである。普段から重い身体がより重くなってしまう。起きた時にそれらをほぐすのにも時間を要してしまい、全てがスローペースとなってしまう。
 朝起きるのが面倒で何もしたくなく、ただ虚無感に包まれる。それでも勤務があれば、仕事場にいかなければならない。働かなければ、給料は貰えず生きていく事が出来なくなってしまう。だから身体を懸命に動かしていた。
 今日も勤務だ。何も考えないように布団から這い出ると、簡素な食事を済ませて、化粧をして、着替えを行う。億劫な気持ちを誤魔化しながら外に出ると歩いて病院へと向かった。歩いて病院に到着すると、その勢いを殺さないように更衣室の中へと入って着替え始めた。
 私は形から入るタイプみたいで、ナース服に着替えると重い気持ちが幾らかマシになる。着替えてしまえば後は逃げる事が出来ない。そうなったらこっちのものでここまでやってようやく仕事のスイッチが入る。
 更衣室を出ると階段を上がって病棟へと向かった。私の心境みたいな重くて冷たい扉を開けて、中に入ると病棟内は暖房が効いているらしく暖かかった。
 少しほっとする気持ちになるも、同時に異様な臭いも襲ってきて一瞬にしてそんな気持ちも吹き飛んでしまう。もう慣れたがこの臭いに包まれている職場だと思うとさらに私の心は重くなった。
 ナースステーションの中に入るとすでに数人の職員が居て日勤業務の支度をしていた。その中にニッカが居るのを確認してしまって少し嫌な気分になる。今日は日勤なのか。
 それでも、嫌な気分を出さないように絞り出すように挨拶をする。挨拶が返ってきたけれど、予想通りにニッカの声は混じっていなかった。今に始まった事ではないので、気にしないようにする。
 すぐに休憩室に荷物を置いて、電子端末に接続して今日の送りを貰った。送りは現実世界の時間では一瞬で終わる。戻ってくると、私は固まってしまった。苦手な患者が居たのである。
 E氏。脊髄損傷の患者。認知症ではない。それだけでも苦手とする要因なのに性格も私とは合わない人なのである。
 第一印象からして最悪でどんな風に関わっていいのか分からない。ずっと悩ませているものだ。私の身体を重くさせている一因になっている事には間違いないだろう。
 固まっていても仕方がないので、誤魔化すように私も業務を始める支度をし始める。このままずっと支度をしていたかった。しかし時間は容赦なく過ぎ去っていく。
 結局業務開始時刻となってしまったので、とりあえず比較的業務が重くないデイルームにいる認知症の人達からバイタルサイン測定を回る事にした。視線を合わせて愛想が良い感じに接すれば大きなミスが発生する事はない。ただそれは患者とのコミュニケーションだけの話であり、測定値は一つ一つ気にかけて観察を行った。見逃す事でその患者の死に繋がると思うだけ幾らでも丁寧になれた。
 時間を掛けてデイルームに居る認知症患者の測定が終わると、今度は脳・神経系の患者が居るエリアへと向かい、順に測定を行っていく。幸いな事に特に大きな変わりがなく測定が終わると、いよいよE氏だけどなっていた。
 覚悟を決めてE氏の部屋へと向かう。部屋は個室だ。何か特別な事が無い限りドアは閉まっている。そのドアの前に辿り着くと、ネームプレートを見て間違いが無い事を確認する。心の奥底で決心を決めて数回ノックした後、E氏の名前を呼んだ。
 中から返事はない。しかし予想した通りの事だった。それでも中に入って状態を確認しなければならならない。意地悪で返事をしなかっただけでなく出来ない可能性もある。だから、実際に目視して安否確認を行う必要があった。
 失礼しますと一礼してから静かに中へと入る。中のベッドの周りはカーテンで囲われていた。本来個室はカーテンで仕切る構造になっていないのだけれど、E氏の部屋は急ごしらえで個室に作られた事もあり、そのような作りになっていた。
 部屋にある唯一の窓にもカーテンがされて蛍光灯を付けているが何処か薄暗い。今日は冬特有の晴天で明るい光が入ってくるだろうに、勿体ないと思った。
 ベッドを囲っているカーテンに近づくと、再度失礼しますと声掛けを行う。相変わらず返事は無かったが、カーテンを開けて中へと入った。
 中央にあるベッドにはE氏が仰臥位の状態で臥床していて、開眼したままじっと上を向いて無表情だった。やっぱり覚醒していたのだ。
「おはようごさいます」
 挨拶を行うとE氏は首だけを動かして顔を私の方へと向けた。それ以外の身体の箇所が全く動かないので少し不気味だったのだが、これは故意ではない。
 脊髄損傷で首から上しか動かす事が出来ないのである。いわゆる寝たきり状態で病状は重かった。脊髄損傷には状態に段階があり、E氏は第四頸椎と呼ばれる首辺りが欠損されていた為にこのような状態なのである。欠損した部位があとちょっと上だったら自ら呼吸も出来なかっただろうし、もう少し下ならば、上半身を動かす事が出来たであろう。
 E氏に視線を合わせようとしゃがんで、顔を覗き込む。すると、ぷいっと私とは逆方向を向き始めた。まだ会話らしいものは交わしていない。それなのにこの対応なのである。
 だから私はE氏が苦手なのである。また良い事も悪い事もしていない。それなのにこの対応なのは、きっと人間の事が嫌いなのだろう。
 関わりが苦手な私とは違う。自分から避けていっている人なのだ。しかし、この人の生い立ちを考えると、それも仕方がない事なのかもしれなかった。
 仕方がなく私はプラグ変換コードを取り出した。このままではコミュニケーションが取れず埒が明かないからである。プラグ同士を接続すると私の考えている事がE氏にも伝わってしまうが、この際お互いに理解してもらう為にも必要な事だと思った。
「止めろ」
 E氏は私が行おうとしている事を察して静かにだけれども、はっきりと静止させた。
「お前らなんかと繋がりたくない。勝手な事するな。お前ら……病院で働いている連中なんかと……。お前ら医療従事者はいつも自分達を中心にしか考えていない」
 E氏はそう言うとそっぽを向いてしまう。
 そんな事はない。医療の世界はいつだって患者を中心であるべきなのである。私達はあくまでも脇役であり、もしも医療をテーマにした物語を描くとしたら患者さんを中心にして掘り下げるべきなのである。医療従事者側を掘り下げるとしてもほんのスパイスをかける程度で良いのだ。
 そうやって言い返そうとしたけれどもE氏は相変わらずそっぽを向いたままであった。このまま黙って接続する事も出来たが、その行為はE氏の考えを尊重していなかった。
 私は心の奥底で溜息をつくと、プラグ同士での接続を諦めた。


 E氏は四十歳男性。東北の出身で小さい頃からスノーボードのハーフパイプという競技を行っていた。その名の通り、パイプを二つに切ったような滑り場で、高く飛んで技を決めるというものである。技は様々なものがあり、宙でボードに手に触れるようなものがあれば、身体を回転させたり、ひねったりするものがある。
 E氏の父親は以前からハーフパイプ競技に熱心に取り組んでいて、子供が出来たら幼いうちから技術を教えこんで、プロのアスリートにしたいという野心があったらしい。その野心通りに子供が生まれてスノーボードが乗れるようになると、率先して指導するようになる。その指導のおかげか、E氏は期待に応じるようして才能を開花させていった。
 元々体格が周りの人と比べて良かった事もあり小学生の頃には同年代の子が出来ないような技やキレがあり、各大会でも優勝を重ねて期待の新人として一躍有名となった。E氏の名前を聞けば、その業界に通じる人ならば分かる程度には名が知られるようになり、将来を期待されるようになる。
 しかし順風満帆だったのは小学校を卒業するまでであった。中学生になると大会でも思ったような功績が残せなくなっていったのである。その頃には周りの人達の身体が成長発達した事で身体的な差が無くなっていた事、そしてE氏自身の技の伸び代が少なくなっていった事が要因であった。結局飛び抜けたものが無くなくなってしまったのである。
 中学では大きな大会で一度も優勝する事が出来ず、高校生に進学する頃には小学生だった頃の事は過去の栄光と化して、E氏の名前も忘れられていた。
 E氏は焦る。周りは忘れても過去の栄光を忘れる事が出来ず、いつまでもしがみ付いていたのである。頂点の景色を忘れられなかった。
 その焦りからか、高校に進学する頃になると今まで以上に練習をするようになっていた。しかし練習をすればする程、自分自身の技が良いのか悪いのか分からなくなっていき、自信を失っていく。そうなると、途端に技のキレが無くなっていった。
 そんなE氏を父親は励ますような事しなかった。逆にどうして結果が出せないのかと頭ごなしに怒鳴り散らすようになっていった。一方的な言い方に少しは腹が立ち、ストレスも溜まったがそれでも自分自身が悪いのだと言い聞かせた。
 父親にも認められず、競技を続けていく事が苦痛になっていったが、E氏はハーフパイプを続けていった。誰の為でもなく、自分自身の為に。
 しかしそんな頑張りも虚しく、高校生活の間も成果を出す事が出来ず、気が付いたら大学生になってしまっていた。
 丁度その頃、冬季オリンピックが開催される年と重なる事となる。代表選手が同い年くらいの人達が何人も選ばれるのを見て、ただ悔しながらに見ている事しか出来なかった。自分自身の殻を突破出来ていたのならば、自分も選手として選ばれていたのだろうか。そんなありもしない想像により一層苦しめられる事となる。
 冬季オリンピックに触発されたのはE氏だけではなく、父親もであった。自分の息子と同じ年代の人達がテレビの中で活躍しているのを見て、苛立ちがさらに増していったのである。
 そして大学生活でも大きな成果を残す事が出来ず、あと少しで卒業してしまうという時にE氏と父親は今までにない大きな喧嘩をしてしまう事となる。それは父親が酔った勢いで言った言葉が原因だった。
「お前はいつになったらテレビに映るんだ。どうして映ってねぇのさ。遊んでるんじゃないのか?」
 父親の言い方は何処までも無神経であった。思わず反論する。
「そんなわけないだろ。俺が今までどのくらい一生懸命やっていたか、分かるだろう?」
「いいや、分からねぇ。結果の出せねぇ練習は練習じゃねぇ」
 沢山の練習を一番近くで見ていたのは父親のはずだった。しかし、それを平気で否定してきたのである。苛立ち父親に近づいて胸倉を掴んで立たせる。近づいて見た顔がすでに焦点が合っておらず、口からは胃液とアルコールが混ざった吐きそうな臭いがしたのだという。
 E氏の怒りはそれで削がれてしまい、それ以上の事をする気が無くなってしまった。しかし父親の方は違っていたらしく、E氏の気が緩んだ瞬間に顔を思いっきり殴っていた。そうなると後は止まらずにお互いに殴り合う大きな喧嘩となってしまったのである。
 その喧嘩でE氏は父親に対してとうとう愛想を切らしてしまったのである。自分自身の事をまるで見ていない事に気が付いてしまったのであった。代わりに夢を叶えてくれる人形という事も。
 E氏は父親と大喧嘩した後、一か月経たないうちに実家を出る。どちらにせよ元々大学を卒業したら家を出ようと考えていたのでその時期が早まっただけであった。
 大学を卒業するまでは親しい友人の家で寝泊まりして、卒業するとあえて実家から遠い地方へと引っ越しをした。そこでアルバイトを掛け持ちしながらの一人暮らしを始めたのであった。
 クラブチームにも入会するようになる。今まで父親にしか教わってこなかったがもう頼るわけにはいかないので新たなコーチが必要だった。これが好転機となる。
 それから数年間練習を行っていくと身体軽くなったのを感じ、以前の様な技のキレを取り戻してきたのが分かった。その感覚は間違いではなく今まで予選すら通らなかった大会の表彰台に昇る事が出来るようになったのである。
 何故だろうと考えてみた所、父親からの重圧が強かったのだろうと思った。今はそんなものは感じない。父親という存在がE氏を何処までも蝕んでいたという事に気が付いてしまったのであった。何処までもいらなかったのである。
 E氏の栄光の日々が再び始まり、再び注目を集まるようになる。二十代後半に入ってからの遅咲きであった。
 それからE氏は様々な功績を重ねていくようになる。念願だった冬季オリンピックにも出場する事が出来て、好調な日々が続いていた。
 これからさらに功績を積み重ねていくという三十歳後半に近づいていた時であった。練習中に事故が起きてしまう。
 高く飛んだ時に着地に失敗してしまい、頭から落ちてしまったのである。それも技の途中の失敗での落下という事もあり、変な所から強打してしまう。
 すぐさま救急搬送される事となる。強打した瞬間にE氏は意識を失ってしまい、次に取り戻した時には視界には真っ白な天井とぶら下がっている点滴が見えたのだという。一瞬何が起こったのか分からなかったが練習中に事故を起こした事を思い出し、病院なのだとすぐに察した。
 意識を取り戻してまず行った事は自分自身の身体がどうなったかであった。このまま競技を続けられなくなるのは嫌だった。
 身体は異常に重くて動かない以外に変化は無い。痛む箇所も無かった。なんだ、思っていたよりも軽傷で済んだのではないか。初めは楽観的だった。しかし本当は予想以上に重症だったのである。
 すぐに誰かを呼ぼうとしたが身体が重くて動かせずナースコールのボタンを押す事が出来ない。仕方がないので誰かがやってくるのを静かに待った。
 ニ十分程度待っていただろうか、巡回の看護師がやってきたので意を決してE氏は声を掛けた。
「俺の身体はどうなったのですか?」
 久しぶりに動かすように重かったのだという。そういえば事故からどのくらいの時間が経過したのか知らなかった事にE氏は気づく。
 看護師はその質問には答えず、急いでナースステーションまで戻っていき、それからしばらく経たないうちに医者を引き連れて再度やってきた。この時点で楽観的な考えから嫌な予感に変わったのだという。その予感は当たってしまう。
 脊髄損傷。それが医師から説明された病名であった。病名からでもどのような怪我だか予想がつく。
 治るのか、スノーボードを続ける事が出来るのかと質問を行いたかったが口は開かず、医師の淡々とした説明を聞かなければいけなかった。
 不可逆的な怪我でもう戻る事のない外傷である事。現状だと動かせるのは首まででそれより下の感覚は無いという事。怪我をした部分がもう少し頭部に近かったら呼吸を行う事すらままならなくなり、死んでいたであろう事を告げられる。
 治すには最新医療の再生手術を行わなければならない。再生医療はまだ最新の技術で保険適用外の為、高額の医療費を要した。しかしE氏は即座に再生医療を希望した。お金の事は何にも問題ない。数々の大会を優勝してお金ならば沢山あった。
 それから三か月後にE氏は再生手術を行う事になる。しかし結果は失敗に終わってしまう。それも二度と再試行出来ない程に大きく損害を負ってしまう事になる。
 その頃の再生医療はまだ発展途上だったので成功率が低かったのである。これは希望に満ちた再生医療の一つの陰りとなり、大きなニュースとして取り上げられた。
 手術を行えないのならば後は保存的療法しかない。つまり今の状態を受け入れるしかない。自分自身の選択ではなく医療従事者の失敗の所為で。
 事故は自分自身の所為だが、それ以降起こった事はE氏に不備はない。沢山の慰謝料を貰うもすでに大金を持っていたE氏にとっては何の足しにもならず。医療機関に対する不信感のみが残る形となったのである。
 後に保存療法の出来る病院へと転院となったが、すぐに強制退院させられる事となってしまう。主な原因は治療の拒否と職員への暴言と罵倒。治療の意思が無い人間を入院させておく程、病院は甘くはない。その後も病院を転々としていくが何処も長くは居る事が出来ず、数年が経過し最後に辿り着いたのがこの病棟だった。
 この病棟にやってきたE氏は最初から反応が薄かった。医師や看護師が声を掛けても一声だけ返答するだけだったのである。さらに冷たい態度まで合わさり誰も近寄らせない雰囲気を醸し出していた。ベッド周りの環境を整える為の清掃員にもE氏は短く返答するのみだ。
 当然と言えば当然の対応だろう。医療従事者に夢と身体の自由を同時に奪われたのである。不信感は数年では拭えていなかった。
 今は最低限の医療行為は拒否が無くなっている為、これでもマシな方なのだろうか。とにかく、E氏がこの病院に入院して数カ月は経過しようとしていたが、一向に態度が変わる事が無かったのである。


 ワゴンから体温計を取り出すと、E氏に見せるように持ち上げた。
「お熱を測りますね」
 なるべく丁寧に伝えたつもりだったが、E氏はそっぽを向いたままでこちらを向こうとはしなかった。
「勝手にやってくれよ」
 返ってきたぶっきらぼうな言葉に私は少し頭にきたのだけれど、気にしていないようなフリをして体温計を脇へと突っ込んだ。少し乱暴に突っ込んでしまったけれど、身体の感覚が無いので分かりはしないだろう。
 体温計が入った脇を手で支える。麻痺の為自力で体温計を挟む事が出来ないのでこうするしかない。必然的に顔同士が近くなってしまう。E氏は私の顔を一瞬見たけれどやっぱり顔を逸らす。そちらがその気ならばいい。こっちだって仲良くするつもりはない。私は脇を押さえ続けた。
 体温が計り終わり、続けて血圧測定も終えると退室しようと準備する。こんな所に長く居る必要はない。するとE氏が唐突に口を開いた。
「そういえばさ。俺、まだオムツ交換されてないんだけど、本来ならもう終わってる時間だよな?おかしいよな?あんた、担当だろ?」
 言葉はそこで止まるがその先まで言っているようなものだ。早くオムツ交換を行えと。お前は遅いと。
 確かに行っていないが何も意図的にオムツ交換を行わなかったわけではない。E氏のような体格のよい身体を一人で動かすのは無理だ。だから、助けを求めて二人で行うのが基本となっていた。少し前の時刻は他の看護師が検温に回ってしまっている為、助けを求められなかったが今の時刻なら出来る。検温が終わったら行うつもりだったのである。
 そうやって言い返そうと思ったけれど言葉を飲み込む。何を言っても言い訳にしかならない。どうせ私は業務が遅い。それは認める。けれどもE氏もちゃんとした言い方があるのではないだろうか。E氏の言い方に苛立ってしまう。本当に切羽詰まった要件だったら、プラグで繋がれたナースコールで呼べばいいだけなのである。そうしないのに私が来た時に面と向かって文句を言うのは少し意地悪なような気がした。
 私は下げたくもない頭を下げて、今から準備をしますと伝えるとナースステーションへと戻った。
 あいにくルゥは非番で居ない。次に頼みやすいのはタイ子さんだろう。その次に他の看護師達だ。しかしナースステーションに戻るとそこにはニッカしか居なかった。最悪。一番頼みたくない人物だ。
 ニッカは端末から伸びていたケーブルを首の後ろのプラグに繋いで目を瞑っている所だった。早くも記録をしているのだろう。この状態ならば誰が戻ってきたのかニッカには分からない。すぐにこの場を離れれば、違う誰かに頼む事が出来るかもしれない。しかしそうなると必然的にオムツ交換は遅れる事になり、E氏からまた文句を言われるだろう。ニッカに頼むのとE氏に文句を言われるのとどちらがマシなのだろうか。私は迷ってしまった。
 どちらの方にするか答えが出ないまま、ニッカが記録を終えたのかケーブルを外して現実世界へと戻ってしてしまう。そのままふいに私と視線が合ってしまった。
 この状態で他の看護師に頼むと明らかに避けているような形となってしまう。事実にニッカの事は避けているのだけれど、その事を知られたくなかった。ならばもうニッカに頼む他ない。
 E氏の顔が頭の中でちらつく。こうして一瞬でも悩んでいるのを責められているような気がした。早くしろと。
 そうだ、ニッカも私の事が嫌いだ。頼んでも断られるだろう。一応声を掛けたという事実だけ作っておこう。私は覚悟して口を開いた。
「すみません、E氏の……オムツ交換を手伝って欲しいのですが、今大丈夫ですか?」
 途中でセリフは詰まり、どこか言葉はおかしく、そして固くなりながらもニッカに声を掛けた。早くで断ってくれる事を祈った。そしたら気兼ねなく他の職員に頼む事が出来るというのに。
「いいですよ」
 それなのにニッカは承諾した。どうしてこういう時だけ協力的なのだろうか。嫌な気持ちになる私を置いてニッカは言葉を続ける。
「物品の準備は出来ていますか?」
 一瞬、言葉が詰まった。
「いいえ、まだです」
「なら出来たらまた教えてください。そしたら手伝いますから。あまり患者を待たせないようにして下さいね」
 ニッカはそういうと、点滴台の方へと向かっていった。私が準備している間の時間も無駄にせずに受け持ちの仕事を進めるのだろう。仕事が残っているのなら、私の手伝いなんてしなくてもいいのに。そんな事を思いつつ、オムツ交換の準備に取り掛かった。
 準備が終えると物品が乗ったワゴンを持って、再びニッカに声を掛けて再びE氏の部屋へと向かった。
 部屋の中に入るとこれからオムツ交換を行う旨をE氏の顔を見ながら説明する。説明なんてしなくても、向こうから言ってきた事だから知っているのだろうけれど、ニッカも近くに居た為仕方がなく説明を行った。それに対してE氏はいつも通りに短い返事をしたのみであった。
 持ってきたワゴンをベッドへと近づけるとビニール製のエプロンと薄いゴム手袋を付ける。私とニッカは、ベッドを挟んで向かい合って立つとオムツ交換を始めた。
 ニッカがE氏のズボンを脱がせてオムツのテープを外して陰部を晒す。するとE氏は笑い始めた。
「はは、まるで痴女だな」
 その言葉に私とニッカは一瞬動きが止まる。なんて失礼なのだろうか。何て言い返そうと悩んでいたら、ニッカがナースステーション内では聞いた事がないくらいに高い声でニッカは言った。
「もう、何を言うのですか」
 私には使わない声色に驚いてしまう。しかしニッカの事だ。何とも思っていないわけがない。表に出していないだけである。これがニッカのプロ意識なのだろう。
 私のやる気はE氏の言葉でかなり削がれていたのだけれど、ニッカを見習わないといけないと思い、オムツ交換を続行する。
 自分の手首にボトルに入れてきたお湯をかけて温度を確かめる。手袋は薄いようだけど温度は感じづらい。手袋上で特に熱さを感じなくても、実際にはかなりの高温と言う亊はある。だから自分自身の皮膚の感覚で確かめなければならない。
 手首に当てた感じだとそこまで熱くはない。このまま陰部を洗浄してもいいのだけれど、ニッカが近くに居たためより丁寧に行おうとしてしまう。看護者が温度を確認してもらう事も必要だが、患者自身に温度を確認してもらう事も重要である事を急に思い出した。
 確認してもらう方法は患者の太ももにお湯を当てる。それは看護学校の頃から教えられてきた技術である。その通りにE氏の太ももにボトル内のお湯をかけた。
「熱くないですか?」
 声掛けも忘れずに行った。これで業務の怠りはないはずである。ニッカから見てもおかしい所はないだろう。
「あ、ああ……いいよ」
 E氏の返答は相変わらず鈍い。元々そういう反応の人である。気にしないで続ける事にする。
 陰部にある程度の水圧を掛けて丁寧に洗浄を行っていく。その後、タオルで拭いて丁寧にしていった。
 次に臀部の洗浄を行う為に体位変換を行った。E氏を横向きにすると身体を支えてもらうのをニッカに任せて、私は臀部を洗ってタオルで拭いていった。
 拭き終わると汚れたパットを取り除いて新たなパットを入れる。皺が出来ないようにE氏の体位を戻すと、オムツを伸ばしなら当てていき、テープを閉じた。
 その後ズボンを上げて、二人で衣類の皺を伸ばしてく。感覚がなく寝たきりの人にとって皺というのは床ずれを発生させてしまう原因となってしまう。だから動ける人よりもより丁寧に伸ばす事が必要であった。
 それらが一通り終わると、E氏に声掛けを行い違和感が無いかの確認を行う。特にないと彼からの返答を受けて、私は安心する。これで文句は無いはずだ。
 掛け布団をE氏の希望通りに肩まで掛けると失礼しますと一声かけて、部屋を退室した。
 ワゴンを押しながらナースステーションまで戻る。私の方が先に部屋を出て、ニッカは何かE氏と少し会話したようだ。少し遅れて、後ろを付いて来ていた。一体何を話したというのだろうか。嫌な予感がする。背中に凍るような鋭い視線を感じてしまうが振り向いてニッカに訊ねる事が出来なかった。いや、きっと気のせいだろう。いつもより丁寧にケアは行えていた。だから私に不備はないはずである。
 けれども、それは気のせいではなかったであった。
 ナースステーションに戻りドアを閉めるとニッカは口を開いた。
「丹葉さん、あの声掛けは駄目じゃないですか?」
 ニッカのキレ味の良い刃物のような口調が私の背中を冷たくさせた。
「どの声掛けですか?」
 煽っているわけではない。本気でニッカが言っている『駄目な声掛け』がどれか分からないのだ。私は次の言葉を待った。
 ニッカが私の顔をじっと見つめている。しばらく続いたがそれ以上の言葉が無い事を察して、大きく溜息を付いた。
「本当に分からないのですか?お湯をかけた時に、熱くないですかって声を掛けたじゃないですか。それです」
 私はまだピンと来ていない。それはニッカも感じ取ったのか説明を続ける。
「E氏の病状、分かってますよね?」
 どうしてそんなE氏のカルテを見たら分かる事を聞くのだろうか。そこまで私が分からないと思ったのか。だとしたら、ニッカは本当に意地悪である。
「脊髄損傷……ですよね?」
「首より下の感覚がない事は知っていますよね。なら、お湯が熱いかどうか聞いても分からないじゃないですか。どうして聞いたのですか?」
 確かにニッカの言う通りであった。どうして私はそんな事を聞いてしまったのだろう。少し考えたら分かる事であった。私の身体はさらに硬直して冷や水を浴びせられたようになってしまう。
「すみませんでした」
 ニッカの冷たい態度に頭を下げて謝ってしまったが、謝る相手はニッカが相手でない事は充分に分かっていた。そこも鋭く突いてくる。
「謝るのは私ではないですよね?E氏に謝ってください」
 ここまで言ってニッカはやっと満足したのか、オムツ交換で生じたゴミや物品をそのままにして元の仕事へと戻っていった。分かっている。私の仕事なのだから準備と後片づけは私がやるものだ。しかしその対応がさらに私の心を傷つけて、嫌いになった。教えてくれて指導してくれる。自分自身が至らない所がいっぱいある。それでもニッカは意地悪だ。
 私はすぐに物品やゴミを片付けると再度E氏の元へと向かった。要件は一つしかない。
 部屋の扉をノックして中に入る。E氏は再度部屋へとやってきた私を見て驚いたようでもあったし、迷惑そうな表情でもあった。
「すみませんでした」
 先程の無礼を説明して、頭を下げる。気に入らない人だとかは関係ない。失礼な事をしたのだから謝るのは当然であった。
 無視されるか、罵倒されるか、どちらかかと思っていたら違っていた。
「ああ、いいよ。よく言われるんだ。だから気にしない」
 顔を上げてE氏の顔を見た。本当に気にしていない表情だった。
「でも、あんたみたいにすぐに戻ってきて謝られたのは、初めてだ」
 そう小さい声で言うとE氏はそっぽを向く。意外な言葉に私はあっけにとられてしまった。そんな事言うなんて。どう返答して良いのか分からなくなって言葉に詰まる。
 その様子を察しられてしまった。
「要件はそれだけか?それなら出て行ってくれ」
 いつもの強い口調で言ったので再度非礼を詫びると、部屋から退室した。その日、変わった事と言えばそのくらいであとはいつものE氏だった。
 
 それから数日後のまたE氏が受け持ち患者となった日勤の日。私は前回の反省を踏まえて業務開始前から他の職員へ手伝いの要請を行い、早々にオムツ交換を終わらせていた。その為か、E氏から特に文句も言われる事なく午前中の業務を遂行する。何だか今日は業務がスムーズに進んでいて、昼休憩から戻ってくるとカルテの記載を始める事が出来た。
 記載はデータのもらい受けとは違って入力しないといけない為時間が掛かる。記載自体は一瞬なのだけれど、思い出して記載する為記録する内容の構成に時間が掛かるのである。記憶が鮮明なうちに記録する方が早く終わるので記載する時間が早いに越した事はない。出来る先輩達はすでに記録を終わらせているし、ニッカなんて私がオムツ交換から戻ってくるタイミングでいつも終わらせている。
 私は遅い方なのである。それでもいつもは業務に追われて日勤最後に記録を行うので、今日は早い方である。こんな時間に記録が出来るなんて久しぶりだった。
 記録には時間を要したものの、すんなりと終わってしまう。まだ時間に余裕が残っていた。こんな事は無いので少し困ってしまう。この後何をすればいいのだろう。
 迷っていると、ニッカの痛い視線が私の方を向いている事に気が付いてしまった。サボっているつもりはないけれど、このままナースステーションで考え続けていたらそう思われてしまいそうだ。それだけは避けなければならない。
 受け持ち患者の環境整備にでも行こう。そう決める。普段は看護助手が行っている事だしきっと午前中に終わらせているだろうけれど、別に看護師が行ってもいいし一日に二回やってもいい事だ。それに受け持ち患者の様子も見に行ける。一石二鳥だろう。
 決めるとナースステーションから早々に立ち去りニッカの視線から逃れる。準備室に向かうとワゴンの上にウエットシートやコロコロクリーナといった清掃に必要なものと、爪切り道具やカミソリ、保温タオルも一緒に載せた。一緒に整容ケアも行う為だ。
 物品の確認を行うとワゴンを押して患者さんの所へ回り始める。整容ケアも環境整備もしたからといって患者さんから大して感謝されるような事はない。けれども、大きな失敗に繋がるような事もなく、誰かに怒られる事もないのでナースステーションで患者の情報を集めているよりも何十倍も気持ち的に楽だった。
 適当な相槌ちとぼんやりとした表情の中、デイルームに居る受け持ち患者の清容ケアを行うと、今度は各部屋へと向かいベッド周りを拭いたり汚れものを取り除いたりして環境調整を行っていった。
 順調に終わって行き、残る部屋はE氏だけとなる。私は行くかどうか迷った。行った所で無視されるか、やるなと追い返されるだけだろう。それならば行くだけ無駄というものだ。それでも迷いは一瞬で行おうとしたという口実だけ欲しかったので行く事にする。
 E氏の部屋の前に到着すると失礼しますと言いながらドアをノックした。しかし中から返答はない。あった試しがないのでいつも通りである。そっとドアを開けると部屋の中へと入った。
 部屋の中がいつもよりも静かなような気がした。まるで誰もこの部屋に居ないような。そう、気配をまるで感じなかったのである。ベッド周りのカーテンをゆっくりと開けて中を覗くと 理由が分かった。
 ベッドの上にE氏が臥床している事はいつもと変わりない。しかし今日は目を閉じていて首の後ろから伸びたコードが床頭台の上に置いてある端末機と接続されていた。それを見てE氏はこの現実世界には居らず、ネット上の仮想現実へと行っていると察した。
 ここ数年で仮想現実はかなり進化した。脳の構造が分かり直接接続できるようになってから、仮想世界の体験は現実のものと大差ないものとなった。仮想現実はいわばもう一つの世界であり、暮らしといっても過言ではない。中には架空の世界に完全に移住している人も居るのだという。
 E氏は現在決められた時間だけ端末機を使用しての仮想世界へと繋ぐ事が許可されていた。今はその時間だったのである。
 仮想世界へと繋いでいる間、身体の方は無防備になる。身体の全ての感覚を向こうの世界へと持っていっている為、この状態だとどんな刺激を与えられても分からない。例えば心臓にナイフを突き刺されたとしても、死ぬまで分からない。今のE氏はまさにその状態であった。
 今ならば、整容ケアも環境整備も文句を言われる事なく行えるだろう。しかし、私は行うのを止めてしまった。
 今行ってしまえば、本当に本人の意思とは無縁なケアとなってしまう。E氏は嫌々従いながらケアを受けているがそれでも承諾を得てから行っているのである。無意識の中勝手にやってしまったら、失礼な事以外に何物でもない。そう思った。だから止める事にしたのである。
 今は諦めよう。
 退室する前にE氏の顔を見る。普段と違って安らかな顔をしていた。安心感に包まれているようなそんな表情。そんなに仮想現実は居心地の良いものなのだろうか。人間の都合で作られた世界なので、現実世界よりも残酷な事は少ないのだろうけれども、私はやった事がないので分からなかった。
 もうやる事が思いつかず、ナースステーションに戻る他ない。ニッカに視線が痛いけど、仕方がないのでステーション内で出来る事を探す事にした。

 日勤業務が終わりそうな時刻を見計らって再度E氏の部屋を訪室する事にした。そろそろ終わって現実世界へと帰ってきている時刻だろう。私の読み通り、部屋の中へと入りベッドに近づきE氏の様子を伺うとちゃんと現実世界へと帰ってきていて、うっすらと目を開けてぼんやりとしていた。
「Eさん?」
 試しに声を掛けてみると生返事が返ってきた。どうやら意識はあるらしい。
 顔はそんなに汚れていなかった為、ベッド周りだけ清掃を行う事を伝える。するとまた生返事が帰ってきただけであったが、一応了承がもらえたので床頭台から除菌クロスを使用して清掃していく、
「なんだ……。こっちか……。現実の方か」
 近くに居た私に聞こえるかどうかの声量でE氏がつぶやく。聞き間違えかと思える程小さく、言葉を形成させるにはギリギリ呂律が回っていない。その言葉に驚いてしまい、聞こえなかったフリをして作業を続けていった。
 次はベッド周りと柵を拭いて行こう。そう思いベッドへと近づいてE氏の顔を見た瞬間に身体は止まってしまう。
 泣いていたのである。声も出さずに瞳からひとすじだけの涙を流して。
「ずっと、あっちの世界に居られればいいのに……」
 それを聞いて私は何も言えなくなってしまう。
 E氏にとって現実は地獄そのものだろう。意識だけあって動けない。こんなに辛い事はないだろう。そんな人に、ここが現実ですと目を背けないで下さいなんて言えるわけがない。そんなの偽善以外の何物でもない。かといって適している言葉かけが思いつくかどうかと問われるとそんな事はなく、結局黙ってしまった。何か言わなければならない。それは分かっていた。しかしどんな言葉がE氏を傷つけてしまうのか分からない。
 何も言えない。何も出来ない。それなのに私は今E氏の側にいる。こんな無力な事があるのだろうか。
 私は環境整備も途中であったけれども、何もかもを投げ出してその場から逃げ出すように退室してしまった。
 早歩きでナースステーションまで戻る。本当は走りたかった。ステーションに辿り着くと、誰にも分らないように深呼吸を数回行う。そうする事で私は平常心を取り戻した。
 落ち着いてから取返しの付かない事をしたのに気が付いた。業務を途中で投げ出した事も問題だったが、患者の涙を見て何の言葉も掛けなかったのは問題以前の事だろう。あの時E氏に声を掛けるべきだったと考えが変わる。たとえその言葉が救いにならなくても、逆に陥れる要因になってしまったとしても。声を掛けるべきだったのである。
 しかし、何もかも遅すぎた。今から戻っても駄目だし、無駄だ。
 結局、日勤業務終了の時刻となってしまい、今日のE氏との関わりはこれで終わりとなってしまった。

 自分の中でその関わりの悔いが残っていたので、次の休みの日にルゥに相談してみた。軽くお茶をしながら話した程度で始めたけれど、ルゥは真摯に話を聞いてくれた。
 私の気持ちは充分理解出来るもやっぱりどんな言葉でもいいから声を掛けてみるべきであったというのがルゥの意見だった。
 全て正直に話したけれど、ルゥは逃げ出した私の事を怒るような事はしなかった。逆にニッカみたいに怒ってくれた方が、気分は楽になったかもしれない。
 その相談をしてから一週間経たないうちに再度E氏の受け持ち担当となってしまう。あれ以来、E氏とは関わりを持っていなかった。意図的に関わりを避けていた所もある。しかし、受け持ち担当となってしまったからにはもう逃げる事は許されない。
 病棟に着いて送りを終わると私は深呼吸を行った。前回とは同じ過ちは犯さない。今日は大丈夫なはずだ。それに前回と違う事もある。それは嫌なニッカが居ないでルゥという見方が居ると言う事。今回の事は全て話してある為、何かあったら頼る事が出来る。
 早速、朝のオムツ交換の手伝いをルゥに頼む事にする。要件を伝えると二つ返事で了承してくれた。
「今日、大丈夫?」
 私の事を心配してくれるルゥの気遣いに感謝した。
「うん、大丈夫」
 本当は不安に思っている事を言わなかった。言う事でこれ以上心配されたくなかった。全てルゥに頼るわけにはいかない。自分で解決できる所は解決しなくては。
「一番にE氏の所に行ってオムツ交換やっちゃおうよ」
 ルゥの提案に驚く。
「でも、ルゥの業務もあるでしょ?」
 ルゥは首を横に振った。
「そんなの、何とかなるから平気」
 普段の業務を何とかなると言えるルゥが羨ましくなる。私は、自分の受け持ちだけで精一杯だ。人間の出来がそもそも違うのだと思ってしまう。
 ルゥの言葉に甘えて、オムツ交換を始めに行うようにして予め物品の準備を行い業務開始時刻と共にE氏の部屋へと向かった。
 E氏の部屋の前に到着し、ノックする際に私の中に緊張が走った。まだ何て声掛けするのか答えは見つかっていない。けれども、進まないといけないのだろう。
 深呼吸を数回行って気持ちを落ち着かせる。ルゥはその間、何も言わずに側で待っていてくれた。
 気持ちが落ち着くと、ルゥに目線で合図を送り相槌を打ったのを見て、ドアを軽くノックした。
 大丈夫だ。今度はミスをしたりしない。そう自分を言い聞かせた。
 相変わらず中から返事が無かったがいつもの事だ。ルゥには外で待っていてもらい、私一人だけで部屋へと入っていく。
 カーテンを開けてベッドサイドに近づくと、何も変わらずE氏が臥床していた。いきなり視線が合う。
「なんだ、またお前なのか」
 突き刺すような視線が痛かったが、このくらいで怯んでいたら駄目だ。
「はい、今日の担当です。よろしくお願いします」
 気持ちを誤魔化すように強めの声で言ったら、思ったよりも声量が大きくなってしまい私自身がビックリしてしまう。E氏もそのような様子だった。
 私はオムツ交換を行う前に、やらなければならない事がある。
「前回は申し訳ありませんでした」
 言い終わると少し下がって頭を下げた。
「何のことだ?何に対して謝っている?」
 私は仮想世界から戻ってきたばかりの時に環境整備にやってきた事、E氏の涙を見てしまった事、言った事に対して逃げてしまった事を丁寧に伝えた。そして改めて再度、謝罪を行った。
「なんだ、あの時に居たのか。聞かれていたのは恥ずかしいな」
 E氏が照れ臭そうに笑いながら言った。聞くとどうやらあの時の事は現実世界に戻ったばかりで虚ろでよく覚えていないのだという。その事が余計に申し訳なくなった。
「いいよ。過ぎた事だし俺も覚えちゃいねぇ」
 気にしてねぇから気にするなとよく分からない言葉で、E氏はその話を終わりにした。
「その事を言う為にわざわざ朝っぱらから来たんじゃねぇんだろ?」
「オムツ交換を行います」
「今日は早いのな」
 遠まわしに普段は遅い事を指摘されたような気がしたけれど、気にしない。私は外で待機していたルゥに合図を出して部屋の中へと入ってきて貰い、ベッドに向かい合って立つとオムツ交換を始めた。
 今日はお通じが出ておらず、そんなに汚れていなかった為、すぐに終わる。オムツを再度当てて、ズボンを上げると衣類を伸ばしていく。そこまで終わると後は一人でも出来る為、ルゥには先に戻って貰った。これ以上ルゥの時間を貰うのは申し訳なかった。
 掛物をゆっくり丁寧に掛けて、退室しようとした時であった。E氏の方から声を掛けてきたのである。
「なぁ……」
 このタイミングで声を掛けてくるなんて、一体何だと言うのだろうか。私は戸惑う。またオムツ交換の時に何かしてしまったのだろうか。また文句を言われてしまうのだろうか。こんな事ならルゥに最後まで残って貰えば良かった。
「なんでしょうか?」
 私は覚悟を決めて聞き返す。しかしE氏から放たれた言葉は文句では無かった。
「お前らってさ、どうして俺が向こうの世界に……仮想現実に行っている間にオムツ交換とかの処置とかしないんだ?向こうに行っていたら俺には何をされたって分からないから、そっちの方がスムーズで文句を言われるような亊もないだろう?」
 私は戸惑う。なんて返すのが正解なのだろうか。しかし、以前のように逃げるのではなくて、答えなければならないと思った。
「それは、それをしたら貴方にとって失礼に当たると思ったのです」
「失礼?」
 E氏は理解していないようだったので、言葉を付け足した。
「無意識の人間に対してケアを行うのは失礼だと思うのです。特にオムツ交換といった羞恥心を伴うようなそういった処置は特に。きちんと私達が行った事を把握して、文句を言ってくれた方が、こちらとしても気遣いしなくて済みますし……」
 言葉を重ねていくにつれてだんだん自身が無くなっていき、声量が尻つぼみとなっていく。話せば話す程、何も考えていない事が読まれてしまうような感覚があった。
「人間に対してか。俺はこんなにも人間として壊れているというのにな。成程」
 無意識に言ってしまった単語にE氏は反応を見せる。しまった、この言葉は言ってしまわない方が良かった。
 機嫌を損ねてしまっただろうか。
「少しだけ、看護師っていうものが……いや、お前が分かった気がしたよ」
 E氏が何を言っているのか分からない。
「おい、お前は魂ってもの信じるか?」
 急に何を言っているのだろうか。唐突な話題に頭がついて行かない。
「俺は信じる。こんな身体になったからこそな。魂は身体とは違う所にある」
 その言葉に呆気に取られてしまった。E氏まで、どうしてこんな事を言うのだろうか。彼は言葉を続けた。
「前から言いたかったんだけどよ、あのカーテンの位置が気に入らねぇんだ。あそこにあると外の景色がまるっきり見えねぇ。どうにか動かしてくれ」
 E氏は顎を動かしながら顎で囲っているカーテンを差した。
「貴方の要望で囲っているわけではないのですね」
「当たり前だろ。外から中が見えねぇようにしてくれって事と、光が眩しいから何とかしてくれって言ったらこうなっただけだ」
 苦笑した。それでこうなってしまったのか。
 私はベッド周りに囲ってあったカーテンの位置をE氏指示通りに動かして、外からはベッドの様子が分からず光が眩しくない位置で、なおかつ外の景色が見えるようなカーテンの配置にし直した。E氏の要望は厳しく、細かくて配置を動かすのは少し面倒臭かったけれど、要望通りのカーテンの位置になった時にE氏は笑った。
「ああ、その位置だ。もういいよ」
 そういうと、E氏は目を瞑った。オムツ交換とカーテンの位置直しを行った為疲れてしまったのだろうか。もう出て行ってくれという沈黙の指示を察して失礼しますと小さい声で伝えると部屋の外へと出た。
 外に出るとそこでルゥにばったりと会う。もしかして、外でずっと待っててくれたのだろうか。
「大丈夫だった?遅かったから何かあったのかなって思って。戻ってきたけど」
 それでここに居たのだ。ルゥの気遣いに感謝する。
「うん、大丈夫だよ。E氏がルゥと同じような事を言ってきたから、少しだけ困惑しただけ」
「ふふふ、何それ」
 私の言い方で何か感じたのかルゥは笑うとそれ以上言葉を掛けてこず、私から離れていった。

 その日の午後、環境を整備する為に再度E氏の部屋を訪れる。しかしタイミングを見計らったつもりだったが、中に入り様子を確認するとぼんやりとしている状態だった。どうやら仮想現実から帰ってきた直後らしい。
 私は小さく失礼しましたと言うと急いで退室しようとした。しかしE氏に呼び止められる事になる。
「いいよ、このままで構わないよ。何かしようとしていたんだろ?」
 声を掛けてくるなんて思わなかったから驚いてしまう。再度E氏に向き合い表情を確認すると、ぼんやりとした様子は変わりない。しかし少なからず意識がある状態だったみたいだ。
「いいえ、ちょっとベッド周りを綺麗にしようと思っただけですので、また後で来ます」
「今行ってくれ。後で来られるのも迷惑だ」
 そこまで言われてしまうと、退室しようにも出来なくなってしまう。私は申し訳なく思いつつも、ベッド周りの清掃を行い始めた。
「俺はな――」
 E氏が話を始めた。独り言のようでもあったし、私に話掛けてくるようでもあった。
「向こうの世界では走ったり出来るんだ。大好きなスノーボードだって出来る。滑っている感覚とかリアルなんだよ。雪を滑っていく感覚とか風の当たり方とかな。その体験は俺にとっては全て現実なんだ。けれどこっちの世界ではまるで感覚がない。向こうの世界なら俺は友もいるし想っている人もいる。こことは違う。俺にとっての現実は……人生はこっちじゃない」
 E氏の辛辣な訴えにすぐに返答する事が出来なかったが、言い分は分かるものであった。
 この世の亊は全て脳の中で処理されている事だ。だから生身の身体を通して感じたものと、電子機械の媒体を通して感じたものとの大差はないと私は思う。だから現実世界と仮想空間の差はまるで無い。ましてや現実ではE氏の身体は脊髄損傷で動かない。だから仮想世界が現実だというのも分かる。
「早く、ここから出ていきたい。ここは……牢獄だ」
 牢獄――確かにこの病院は牢獄だろう。患者にとっても私にとっても。私もここの病院に捕らわれて動けない。何処か仮想世界でもいい。E氏のように逃げる事が出来たらいいと思ってしまう。
「そうですね。私もそう思います」
 別に同情だとか、看護師としてそう言ったわけではなく私の本心そのものだった。その言葉にE氏は驚いた様子だった。
「本当か。本当にそう思うのか」
「はい。そう思います」
 きっとこの返答は間違えているのだろう。看護師ならば、もっと現実世界を見ようとか前向きに現実と向き合えと患者に言うのだろう。しかしE氏の価値観は本人が決める事だ。それを私達看護師が否定する事なんて出来ない。
「そうか、そうだよな。お前は分かってるな」
 こんな答えでいいのか私自身が満足していないけれども、E氏は笑って満足している様子だった。
「悪かったよ、今まで酷い亊を言って」
 E氏が急に謝ったので私は耳を疑う。
「急に変な事言うんですね」
「そんなにおかしいか?笑うなよ」
 E氏は再度笑い始める。この距離感の会話は居心地の悪いものでは無いと感じてしまう。いや、むしろ――。
「お前、俺の顔を見る時、覗き込むように見るよな。それが気に入らなかったんだ。今後は止めてくれ」
 続けて言われた言葉で私ははっとした。今まで気が付かなかったが、言われて見れば当たり前の事の事だった。
 学生の頃に学校で寝たきりの患者には顔を近づけて視線を合わせてコミュニケーションを行うように教わってきた。立ったままだと患者を見下ろす形になるからである。だから寝たきりの患者には出来る限り顔を近づけるようにしていたのである。結果としてどうしても覗き込むような形になってしまっていたらしい。それが返って圧迫感を与えていたのだ。何処までも失礼な事である。
 私は無意識に失礼な事を行っていたのである。言われる前から気づくべきだった。
 だから最初から私に対する態度が冷たくそっけなかったのだ。E氏の性格とか関係ない。私に原因があったのである。
「すみません。気を付けます」
 私は謝りながら引いて、ベッド再度にしゃがんでE氏に視線を合わせた。ベッド柵越しに顔を見る。こうする事は相手にとって失礼と思っていたけれど、いざ行ってみると表情が良く見えて悪くないように思えた。
「ああ、頼むよ。こっちの方が、安心して顔を見られる」
 E氏は微笑んだ。それは今まで見た亊の無い笑顔だった。心の奥底から笑っているような表情であった。向こうの世界でこのように笑っているのだろうか。
「素敵な笑顔ですね」
 唐突に思った事を言ってしまい、とても失礼な事をしてしまったと訂正しようとしたが、E氏が話始めてしまう。
「俺、笑っていたんだな」
 どうやら無意識だったらしく今度は意識して笑って見せてきた。
 それで機嫌が良くなったのか、E氏は私に対して仮想世界の話を意気揚々として話始めた。それは三十分以上続き私をそこに拘束させる事となり、おかげで私の業務は押してしまい、残務が決定してしまったのであった。
 しかし、E氏の語る素敵な仮想の向こうの世界。どのような所なのか私も気になってしまったのである。