第四章
この病棟にやってきてから、早くも半年が経過しようとしていた。暑苦しい季節も過ぎて秋となり、時折厚着をしなければ肌寒い季節となる。
夜勤業務をするようになってから、一日を通しての患者さんの動きが把握しやすくなっていた。しかし、患者の人柄や病状が捉えやすくなったものの、私は相変わらずコミュニケーションの取り方で悩んでいた。
コミュニケーション方法に正解なんてものはなく、いくら悩んでも答えなんて出てこない。良く関わったと思ってもズレが生じて失敗してしまう事が多くあった。そのズレは全て終わった後に気づくものであり、帰宅してから後悔するような日もあった。
それでもルーティン業務だけは身体に染みついて来たみたいで、身体は思わなくてもすんなりと動いて、疲労はだいぶ少なくなってきたような気がしていた。
そんな日々が続いていたある日の事である。その日は珍しく業務がスムーズに進んで、昼休憩から戻ってくる時には記録まで全部済ませてしまっていた。それは私だけでなく、職員のほとんどがそのようで、ナースステーション全体がゆるい空気に包まれていた。
ゆるい空気も相まって食後特有の全身の気怠さと眠気に襲われる。けれど、ここで気を抜くわけにはいかなかった。こういう日に限って急変者が出たり、突発的な入院が入ったりと忙しくなる。今までの経験上そうだった。だから私は気を緩めずに警戒する。
とりあえず、私の受け持ち患者を看て回ろう。そう思いナースステーションから出ると、ルゥと廊下でばったりと会う。持っていたワゴンの上には輸液セットや使った針のケースが沢山置かれていた。
「丁度良かったわ。リン、手伝って欲しい事があるの」
「勿論、私に手伝える事なら。何?」
ルゥの頼み事を断る理由は無い。手は空いていたし、普段沢山私が助けられていて幾ら返しても返せないくらい恩がある。だからこういう時に少しでも返しておきたかった。
「あの人の点滴がね、漏れちゃったのよ。刺し替えを手伝ってくれる?」
その言葉だけで全てを察した。それ以上深く聞かなくてもルゥの受け持ち患者を考えれば分かる事だった。私は頷きで返す。
「ありがと、私は一回ナースステーションに戻って物品の補充をするから、リンは先に行って貰える?」
私は再度頷くと、ルゥと別れて点滴が漏れてしまった患者――D氏の部屋へと向かった。
部屋の前に着くと一礼して中へと入る。中は四人部屋でそれぞれのベッド周りはカーテンで囲われていた。D氏は一番奥にある窓際のベッドに居る。
「あーーーー!!」
突然の大声に驚いてしまい、思わず首をすぼめてしまう。言葉にならないような声。奇声だ。
この部屋は職員の間で声出し部屋と呼ばれていて、中に居る患者は大声出しや奇声を常に上げている。他の患者の迷惑となってしまう為、こうして一か所に集められているのである。
D氏も例外ではなく、昼夜問わずに大声を出している患者である。カーテンの囲いの中へと入り、ベッドに近づく。D氏はベッド柵を掴んでまるで牢獄に入れられたかのように、柵を揺らして叫んでいた。いや、もう立ち上がる力が無く柵で四方を囲まれている為、牢獄に入れられているのと一緒なのかもしれない。
私はしゃがむと視線を近づけて、ベッド柵越しにD氏の表情を見た。悲しそうな、苦しそうな表情で何かを訴えるように口を大きく開いていた。
「どうかしましたか?」
私は試しに声を掛けてみた。勿論まともな返答を期待していない。気まぐれだった。するとD氏の叫び声が止まり無表情となり、私の顔を見つめてくる。大きく息を吸ったので何か言葉を発するのかと思ったけれど、私の存在を無視するように叫ぶのを再開させただけだった。
私が立ち上がってベッドから離れるのと同時にルゥがこの部屋へとやってくる。
「ごめんね、助かったわ。はいこれ、リンの分」
ルゥが持ってきたワゴンの上には点滴セットが二つあって、そのうちの一つを私に差し出してくる。それを受け取ると再度D氏のベッドへと近づいて、前かがみとなる。私はルゥとは反対の左腕の袖を捲った。
細くみずぼらしい腕が出現する。その腕にはすでに何回も点滴の刺入に失敗したのか何か所にも内出血班があった。
駆血帯を前腕に巻いて浮き出る血管を触って探す。よく刺入に使う血管は何処も硬化しているか、内出血により跡形もない状態であった。
他の血管を探す。しかし、どこもかしこも同じ状況であった。正中静脈はまだ点滴を施行出来る状態ではあったが、もしもの時のためにとっておかなければならない。また腕を曲げた時に滴下が妨げられるため、適さない。
「もう、毛細血管に入れるしかないね」
ルゥの方も同じだったらしい。後は細い血管に入れるしかない。細い血管は技術が必要な事と、異物に耐えられるように丈夫でないのですぐに漏れたり詰まったりしてしまう為、普段は適さない。それでもそこに針を入れる他に選択肢は無いのである。D氏はもう口から何かを摂取する事が出来ず、主な栄養源はもう点滴だけだった。点滴をしなければ、すぐに亡くなってしまうだろう。
私は駆血帯を外した。腕ではもう見つからないと探すのを諦めて、今度は足に駆血帯を巻き直す。
しばらく探していると、太もも――大腿部に短いながらも細い血管を発見した。ここなら点滴が入るかもしれない。見つけた事を教えるも、ルゥは血管を探す事を止めたりせずに続けていた。血管を発見したとしても、施行して成功するとは限らないからである。
老人特有の皺寄った皮膚を引っ張り伸ばした後、アルコール綿で発見した血管周りを拭いて消毒を行う。その後、針のキャップを外して丁寧に持つと一点に集中した。覚悟決めて、針先を皮膚の中に吸い込ませていく。
進めていくも全く手応えが無く、血管に入ったかどうか分からない。不安だけが私を包んでいたが逆血が針の中に入ってきてくれた。上手くいった合図だ。しかし、これで安心してはいけない。
この後、針の内側に当たる鉄の部分を抜いて外側の柔らかいプラスチックの針を血管へと中に突き進める必要がある。ここで気を抜いてしまうとプラスチック針を血管の奥に進める段階で突き抜けてしまう可能性があった。だから慎重に行う必要があった。
適度な力加減で外側のプラスチック針を中へと押し込んでいく。針が根本まで入ると駆血帯を外した。輸液チューブを接続部に繋ぎ、滴下調整するクレンメを触って最大限にする。問題なく滴下する事を確認すると、今度は輸液袋を刺入部分より下に下げて、チューブ内の逆血を確認した。
うん、大丈夫。問題なく血管に入っている。ここまで確認出来れば一安心だ。
「入ったよ」
そう伝えるとルゥは今度こそ血管を探すのを止めた。後は刺入部を動かないようにテープで固定するだけである。これで失敗する事はない。簡単に出来るし、固定はすぐに終わる。
固定し終わると、滴下を調整した。全ての工程が終わると背筋を伸ばす。長い間前かがみだったせいか、少し背中が痛くなっていた。
「助かったわ。背中凝っちゃうね」
自分の背中を叩きながらルゥは言った。助けを求める以前からD氏の血管を探していたみたいだから、きっと私よりも凝っているのだろう。背中を叩いていた様子が何だか老人の仕草みたいでおかしかった。
点滴刺入には相性もある。上手い人でも幾ら頑張っても施行出来ない場合もある。そういった時にも人を変えると新人でもすんなり行えたりする事があるのだ。今回もそうだ。私の点滴施行技術がルゥより上手いわけではなく、単に相性が良かっただけなのだろう。
D氏は点滴施行中、終始叫ぶのを止めなかった。痛いとか点滴が嫌だという事ではなく、ただ、叫びたいから叫んでいただけなのだろう。だから刺入時にも点滴ルート接続時も、叫び方は変わらなかった。本当は集中したかったので静かにして欲しかったが、叫ばないように促した所で無駄なので諦めていた。
こちらの言っていることが分からないのか、それとも聞くつもりがないのか、どちらか分からないけれど、私達が言っている亊が聞けないのが認知症という病気なのである。
点滴が入ったからこれで数日は持つだろう。全身を観察する。細くみずぼらしいのは何も腕だけではない。全身がそうなっていた。
もう末期で死を待っている状態なのである。それなのに、D氏は叫ぶのを止めようとしなかった。
D氏は八十歳代女性。脳血管認知症。様々な施設や病院を転々としていたが、他では出来る治療が無くなってしまった為、この病院へとやってきた。この病院にやってきたのは約半年も前。私よりもこの病院に居る期間がちょっとだけ長い。
家族の意向としてもう転院や施設入所するつもりはなく、ここの病院で最後を迎えると決められていた。D氏はこの病院で死ぬ為に入院したのである。
やってきた当時は若干の手足の痺れがあったものの、その他の機能は問題なく残っていたのだという。
この状態で最後まで看取るのか。もっとリハビリに力を入れている病院へと転院して治療した方がいいのではないか。そもそも終末期を扱う病院では無い為、ここの適応患者ではないではないか。緩和ケアが出来ない為、患者にとって苦痛なだけだと様々な意見が職員から出て、師長と院長は家族と度重なる面談を重ねたが方向性が変わる事は無かった。この病院で最後を看取る。D氏の方向性は本人の意思とは関係なく決まってしまう事となる。
家族の意向には逆らえない。家族の意見は時として本人の意見を凌駕するのである。
こうしてD氏はこの病棟に入院する事になったのである。
D氏の唯一の問題点は終始叫んでいて周囲の迷惑になる事だった。この声出しが酷く日夜問わずに続くのである。これが原因で、施設や病院を転々としてきた。
しかし、入院して声出しを抑制する薬を内服し始めると一週間経たないうちに静かとなった。デイルームの端にちょこんと座っているだけの可愛いおばあちゃんとなったのである。
こうなるとD氏には何も問題が無くなってしまう。もしかしたら家族と再度話が出来るかもしれない。そう師長が思っていた矢先、D氏が高熱を出した。
レントゲンなどの検査の結果、誤嚥性肺炎と診断される。薬が効きすぎたせいで、咽頭が動いていたが上手く食塊を胃に送る事が出来ず肺の方へと行ってしまっていたらしい。本来ならば、咳反射が発生し異物を外へと追い出すが、過鎮静の影響でその反射が発生しなかったのである。老年期の方への薬の投与は精神だけでなく身体にも影響を及ぼしてしまう為、調整がとても難しい。内服開始が駄目だったと一概には言えないが結果としてそうなってしまったのである。
すぐにD氏はベッド上安静となり点滴による輸液管理が始まった。誤嚥のリスクもある事から内服も中止となり、抗生剤のみ点滴と一緒の薬剤投与となった。
ベッド上での安静を三~四日続けるとD氏の熱は下がる。しかし、肺炎が改善したわけではなく、一週間程度は点滴による輸液管理の元、ベッド上で過ごす事となる。
しかし、D氏は元気を取り戻していた。内服を止めてしまった為、大声出しが再開してベッド上で終始叫ぶようになってしまったのである。次第に点滴内に鎮静剤を混ぜたが、声出しが収まる事が無かったのである。
声出しは日に日に酷くなっていき、活動的となっていた。動きも出てきて、点滴の自己抜針をするようになったので自由が効きづらいミトンの着用が必須となってしまった。部屋も大声を出す患者の所へと移る事となる。職員の誰もが手を付けられない状態となっていた。早く離床して食事の再開とそれに伴っての内服開始が望まれた。
それから解熱してから一週間経過する。再度レントゲン検査を行い、肺炎の改善が見られた為、離床してデイルームで過ごす流れとなった。それと同時に食事と内服の再開の指示が出るも、一週間も寝たきりであった為、状態は目に見えて低下していた。
まず、車椅子に座った姿勢が保てなくなってしまっていた。座ってからしばらくしていると必ずどちらかの方向に身体が傾いてしまう。姿勢を直してもすぐに傾いた。
そして食事が出来なくなってしまった。食事介助で食塊を乗せたスプーンを持っていくも口を開かない。頑なに口を閉ざしてしまっているのである。何とか開いて口の中へと食塊を入れるもそれを飲み込もうとする様子がなく口の中で遊んでいるだけだった。
どうやら、食べ方を忘れてしまったらしい。数日間かけて、様々な職員が色々な手を使って食べて貰おうと試行錯誤したけれど、結局何をしてもD氏は食事をしようとしなかったのである。
経口摂取出来ないのならば、他から供給するしかない。本来の予定では食事再開と共に点滴投与は終了になるはずだったが継続となる。しかし点滴だけでは栄養を全て補えるわけではなく、いつかは限界が来てしまう。鼻から胃の部分まで管を入れての経管栄養も本来選択肢としてあるも、家族がそれを希望しなかったので点滴のみでの栄養補給に留まった。
D氏はさらに瞬く間に弱っていった。次第に車椅子に座る事すら困難となり、寝たきりの状態となる。この状態になると、筋肉を使用しなくなる為、一気に衰えてしまう。
こうなると精神薬も使えない。老年期と細身の身体では薬を使う事へのリスクが大きすぎる為、全て中止となる。
看護援助として何も行える事はなく、D氏が最後を迎えるのをただ見守る事しか出来なくなっていた。
ベッド上で寝たきりとなって二カ月が経過しようとしていた。D氏の死期はもうすぐだろうとナースステーションでは話に上がる事が多くなっていた。
ルゥと廊下で分かれた後、午後にやろうとしていた巡回を行う。今日の私の受け持ち患者は比較的落ち着いている人が多い。軽く挨拶して回るが、ほとんどの人が認知症だった為、初めて顔合わせしたような表情となったけれども、これにも慣れたもので私も初めて会ったかのように話を合わせた。
受け持ち患者の見回りを終えると、今度は病棟全体の患者を把握する為、受け持ちでない部屋の患者を看て回る。受け持ち以外の患者の把握の重要性を重々承知していた。把握しておく事で急変が起きた時に素早くサポートに回る事が出来る。時間がある今日だからこそ、無駄には出来ない。
見回っていく中で、再度D氏の居る大声出し部屋を通ると中からは叫び声が響いていた。
ドアに備え付けられている小窓から中の様子を伺うもここからだとカーテンが閉まっている為、何も分からない。けれど、何となくD氏の叫び声が一際目立っているような気がした。
受け持ち部屋ではないけれど、この部屋へとドアを開けて入室した。声出ししているのが本当にD氏ならば、先程点滴の刺入した時よりも大声の声量は上がっていて、精神症状が活発となっている可能性がある。そうすると動きも出てくるので点滴を抜針されるかもしれなかった。せっかく苦労して点滴を刺入したのに、こんな短期間で抜かれてしまうのは嫌だった。
失礼しますと声を掛けて仕切りのカーテンの中へと入る。確認すると私の心配は杞憂に終わり、D氏は横を向いてベッド柵を両手で掴み、力いっぱい揺らしながら口を大きく開けて叫んでいるだけだった。点滴台は足元の方に避難している為、影響はない。
しゃがんでD氏と視線を合わせる。目が合った瞬間に叫び声は一時止まるもすぐに顔を歪ませて大きく口を開けて叫ぶのを再開させる。その姿はまるで何かに恐怖して、怯えているようだった。私に対してなのか、何か幻覚が見えていて、それがとても怖い物なのか。それとも、死期が近い事を察していて、怖いのか。死ぬのが怖いと叫んでいると思えば、そう見えなくもない。
D氏はただ、叫び続けていた。
この歳になって、病気になっても死ぬのは怖いのだろうか。今、どんな気持ちで死を待っているのだろう。私よりもきっと死に近い所にD氏は居る。
ふと気になってしまい、私はポケットの奥底から変換プラグを取り出すと、迷いもなくD氏のプラグと接続した。
ただただ、恐怖の中に包まれていた。ありとあらゆる恐怖に。
生きる事、死ぬこと。忘れてしまう事。忘れられてしまう事。覚えていること、覚えていられない事。
その全てにただ恐怖しか感じていなかった。
何処までも深い恐怖。その恐怖に絶望する。それは後悔だとかではなく、ただ無限の暗闇で奥底がまるで見えない。
何とか振り払おうとするけれども、何処までも身体にまとまりついて、離れようとはしなかった。
変換プラグを外す。D氏はただただ、恐怖の中に居続けているだけであった。
しかし、この恐怖も死んでしまえば無くなってしまうのだろう。脳の活動が終了すれば電子信号のやり取りも無くなり、意識も無くなる。
意識が向かう先は天国でもなければ地獄でもなく無だ。
私自身にも死が急に近くになった気がして怖くなる。いずれ、けれども確実に死というものはやってくる。人は死ぬ。
どうして死ななければならないのだろうか。その答えはきっと永遠に分からない。だから私は現実逃避するように考えるのを止めた。分からないものを考えたって仕方がない。
私はD氏の元から離れる。また次に私がやってきた時に生きている事を祈りながら業務へと戻った。
その数日後、D氏は亡くなった。
その日、私は日勤だった。朝、出勤するとナースステーションの中では珍しく心電図モニターが置かれていて起動していた。荷物も置かずに何気なく画面を確認すると、D氏の名前が記載されていて、心電図と共に脈拍と酸素濃和度が表示されていた。それだけで察してしまう。
死期が近いのだと。
急いで休憩室に鞄を置くと、ナースステーションに戻り、端末からカルテに接続して申し送りを受ける。今日の受け持ちにD氏は居なかったけれど、情報を閲覧した。
どうやらもう呼吸も自力では行えず、酸素マスクを着用していて、酸素量も与えられる最大限まで上げられていた。昨日の夜に急に状態が変化したみたいだ。
送りを終えて現実へと戻ると私は覚悟した。今まで私は誰かの死に立ち会った事がない。この病棟で患者が亡くなる事は稀で急変した場合にはその対応がきちんと行える病院へと転院するからである。
いずれ立ち会う事になる事は予想していた事だが、いざ目の前にやってくると怯んでしまった。
ナースステーション内を見渡すと怯んでいるのは私だけみたいで、他の職員は心電図モニターの存在なんて関係ないように自分の業務の準備を進めている。先輩達にしたら数多くある患者の死の一つなのかもしれない。それかもう死に立ち会うのに慣れてしまっているのか。どちらにしても感情が鈍っているのだと私は思う。
人という存在が一つ無くなる。脳の解析がされて、魂という存在の否定がされてより消滅する事への意味が大きくなっているというのに。私もいずれ先輩達のようになってしまうのだろうか。死に鈍感になりたくなかった。
D氏は大声出し部屋からナースステーションに隣接している観察室へと移動していた。すぐに様子を伺いに行く。
観察室にはD氏しかおらず、他の患者さんは移動されていた。本来なら三ベッドが余裕で入る空間にD氏一人しかいないので寂しさが余計に増す。
観察室は死の匂いがした。
ベッドに近づく。
D氏は酸素マスクを装着していたが、それでも苦しいように口を大きく開けて胸をいっぱい動かして呼吸していた。
「Dさん」
私の声掛けに一切の反応を示さない。今はもう呼吸するだけで精一杯という感じだった。呼吸するためだけに生きているようだった。
再度声掛けを行い、反応が無い事を確認すると私はナースステーションへと戻った。後、どのくらい持つのだろうか。三十分後?一時間後?それとも――。
きっと誰にも分からない。
その時が来るまでD氏の側に寄り添いたかったけれど、私には自分の仕事があり、やらない事が多くあったのでその準備をしなければならない。先程先輩達にあれこれ思ったけれど、結局は私も同じ事をしていた。そんな自分自身の事がとても嫌になった。
お昼休憩が終わり、ナースステーションに戻った時である。ルゥが私に近づいて来た。
「あの人、もう亡くなるって」
何でもないようにルゥは平然と言った。ルゥは平気なの?先輩達と一緒なの?そんな疑問はナースステーション内を響き渡っているモニターのアラーム音で吹き飛んでしまう。
警告アラームは止まる事なく鳴り響いていた。近づいて画面を確認すると、最後の力を振り絞るように脈が速く、呼吸数が増加していた。
「もう長くは持たないわねぇ」
声に振り向くといつの間にか後ろにタイ子さんが立っていた。
「そうなんですか?」
思わず聞き返す。タイ子さんは看護師歴が長く、色々な経験をしている。今までも何人も見送っている。そのタイ子さんが長くは無いと言うならばその通りなのだろう。
観察室の中へと入り、D氏の様子を見に行った。朝に見た時とは違って、肩まで動かして懸命に呼吸しているかと思えば、徐々に弱まっていき止まりそうになった時にまた呼吸が激しくなるのを繰り返していた。
一般的に徐脈になり努力呼吸と、チェーンストローク呼吸が出てきたらもう数時間以内で亡くなってしまうというと言われる。今のD氏がその状態なのである。
「後、どのくらいなのでしょうか?」
タイ子さんは首を横に振った。
「正確な時間は分からないわ。この状態から数十分で亡くなってしまう人もいれば、一晩過ごせた人も居たのよ。そういえば、この状態から車椅子に乗れるまで回復した人もいたっけなぁ。まぁその人は例外的なくらい心臓が強かったのだけれどね」
タイ子さんが昔を思い出しながら優しく話す。話した人達の一人一人を思い出しているのだろうか。
「とりあえず、家族に連絡しなくっちゃね」
そう言い残すとタイ子さんはナースステーションへと戻っていった。
こうなったら出来るケアは無いのだろう。私以外でもだ。この病棟にいる職員に出来る事は何も残っていないのである。
後はD氏が最後の時を迎えるのを待つのみだった。
その時はゆっくりと、でも確実にやってきていた。
タイ子さんが連絡したらしく、D氏の家族はそれから三十分くらいでやってきた。けれど、来たのは息子らしき人物一人だけであった。観察室へとお連れすると、ベッドの前でだんまりとしているだけだった。
家族の到着を待っていたかのようにそれからすぐの事であった。酸素飽和度が正常値から外れていき、頻脈から徐々に間隔が空くようになり、徐脈へとなっていく。
「もう、すぐだね」
一緒にモニタ―画面を見ていたタイ子さんがいつもになく真剣な声色で言った。その声はまるで別人のようだった。そうだ、タイ子さんだっていつものようにお調子者でいられるわけがない。人が死ぬのだから。
D氏の呼吸が弱くなっていき、最終的に止まってしまった。けれど脈はまだモニター画面で確認できていたがそれも徐々に無くなっていった。
急にすとんと脈拍が無くなり、心電図モニターが赤いランプと警報音を鳴らす。画面には真っすぐに横に線が三本伸びているだけのものが映っていた。
タイ子さんがすぐにナーステーション内で待機していた医師へと声を掛ける。医師は聴診器とペンライトを持ってすぐに観察室へと向かった。
お医者さんについて行っていいよとタイ子さんが小さい声で私に言ったのでその通りする。医師について行き、観察の中へと入ったのは私だけでなく、その後ろにタイ子さんとルゥも一緒だった。
医師は観察室に入り家族に近づくと軽い会釈を行った。私達もそれに倣って同じようにする。
これから、死亡診断を行うのだろう。死亡と判断できる材料は三つ。脳、心臓の心拍、呼吸。これらが停止していて、人は死んでいると認められる。
医師はベッドに近づくとまず口の近くに手を持っていき呼吸をしていない事を確認した。その後、聴診器で心臓が動いていない事を確かめる。両方停止している事は心電図モニターからも分かる事だが、きちんと診て確認する必要がある。
後は脳が活動を停止しているか確認するだけである。
確認の方法としては、眼球に光を当てて、瞳孔が動くか診る。本来ならば光を当てれば瞳孔は萎む。開いたままならば、脳が活動をしていないという亊だ。
医師がD氏の眼球にペンライトで光を当てるも瞳孔は開いたままだった。
「~時~分、Dさんの死亡確認です」
医師が死亡申告を行う。これがD氏の死亡時刻となる。医師が家族に向かって軽く頭を下げた為、私達も同じく続いた。
D氏は死んでしまったのだ。
「私達は一旦、戻りましょう」
タイ子さんは私とルゥの肩を優しく叩いた後、こう言ったので、私達はナースステーションまで戻る事にした。
ステーションの扉の隙間から観察室を見る。やってきた息子らしき家族はD氏の顔をただじっと見ながら固まっていた。泣くわけでも、叫ぶわけでもない。けれども何の情もないわけではないらしい。
どんなに酷い扱いをしていたとしても家族は家族なのだ。どのようにしてD氏の最後をこの病棟で迎える事を選んだのか。それは家族にしか分からないのだろう。
十分間、息子らしき家族とD氏が見つめている時間が続いた。その間、何か動きを見せる事もなかった。
タイ子さんが再び私達に合図を出してくる。そのまま観察室へと入って行った為、私とルゥはそれに続いて中へと入った。
まだD氏に対して行うケアが残っている。エンゼルケアという身体を綺麗に整えるというものだ。
タイ子さんは観察室へと入ると、息子らしき家族に対してこれからエンゼルケアを行う旨を説明した後、観察室の外で待って貰うように案内する。
観察室には再びD氏だけの空間となった。
改めてD氏を見る。口をあんぐりと開けていて、胸の動きは全くない。そして顔は常人ならばあり得ない程真っ白だった。
死んでいる。そう、死んでいるのだ。
顎を閉じようと触れるとまだ温かさを感じた。体温だけならば、ただ寝ているだけと言われても信じてしまいそうだ。
タイ子さんが戻ってきたので、一緒に一礼して合掌を行う。その後、エンゼルケアに取り掛かった。
身体を綺麗にしていく為、まずは陰部洗浄から始めていく、と言ってももう数日前から排泄行為を行っていないのでそんなに汚れてはいないだろう。
オムツを開いて肛門を確認すると、弛緩して大きく開いていた。このままの状態だと、しばらく時間が経過した際に腸の中に残っていた便が降りてきてしまい、そのまま出てしまう事があるらしい。これからせっかく綺麗にするのに旅立つ服を汚してしまう可能性があった。それを防ぐ為に事前に肛門内に詰め物をしてしまうのである。
私は綿を小さく切って肛門の中へと詰めていった。死者の中に異物を詰め込んでいく行為が何だか不気味に思えてしまった。
陰部周りを綺麗にしてオムツを再度当て直すと、今度は病棟着から浴衣へと着替えていく。それと合わせて全身の清拭を行った。
「Dさん、服を脱ぎますね。その次にタオルで身体を拭きます」
服を脱がす時、身体を拭いていく時、身体を動かす時、その一つ一つに声掛けを行っていった。無駄な行為ではなく、死後でもしばらく聴覚機能は残っており、聞こえている事があるのだという。聞こえていなかったとしても関係ない。礼節を持って接する為に、声掛けは必要だろう。決して乱暴には扱わない。
死んでもなお、生きているように扱った。
身体を動かした時に、肺が圧迫されたのかD氏の口から空気が出てくる。呼吸ではない。しかしそれは声帯を揺らすのに十分な空気量だったらしい。D氏が小さい声で、けれども確実に声を出した。死者がしゃべったのである。
聞こえたのは私だけだったらしく、ルゥとタイ子さんは一生懸命D氏の身体の清拭を行っていたので、私は聞こえなかった事にした。
怖がっていたら、エンゼルケアなんて出来ない。
いずれ死に直面する。それは看護学校に通っていた時から分かっていたことである。覚悟していた亊である。だから私は引かない。逃げない。怖がらない。
腕を曲げて身体を清拭していく様はまるで人形を扱っているようだ。しかし、きちんとした皮膚の温かさがあり、どうみても人の腕なのである。
様々な違和感を覚えつつも声掛けをし続けて気づかないように清拭を続けた。気づいてしまったら怖くなってこれ以上出来なくなってしまうだろう。
清拭が終わると浴衣を着せていく。普段とは違う方向で着せて、帯を立て結びにした。
その後、手を胸の中央で組ませると最後にあんぐりと開けていた顎を閉じる。しかし、いくら閉じてもそこで固定せずに手を放すと口が開いてしまうのである。バンドを頭に装着するも、完全に閉じきる事が出来なかった。
「結局、口、開いちゃうね」
そう言いながらタイ子さんは笑った。死体を目の前にしてもこうして笑えてしまうものなのだろうか。それが看護師としての強さか、それとも慣れなのか。
どうしても医療現場の死は近くなってしまう。それが少し嫌になってしまった。
全てのエンゼルケアが終わって綺麗になったD氏は安らかな表情で眠っていた。叫んでいた事がまるで嘘みたいに感じる。
死ぬことを恐れていたようなD氏だったが、今はもうその真只中に居る。
D氏の脳は電気信号のやりとりをする亊はもうないのだろう。永遠に。
永遠とは一体どのくらいだろうか。きっと私の想像出来ない長さだろう。私が生きてきた時間よりもはるかに長くて、私が生まれてくるよりも前の時間よりも長い。
そう思うと、私の命は――人の命は刹那的過ぎで短い。永遠の中ではほんの一瞬も百年後も大した変わりがないように思えてしまう。
永遠とはそれ程の長さだろう。
その長さに恐怖して、死が怖くなった。
D氏は死んでいて、もう永遠の中へと居る。返ってこない。D氏は何処までも続く無の中に居るのだろう。無限に続く、無の中に。
試しに隠れながら変換ケーブルを使ってプラグ接続してみるも、何も感じる事が出来なかった。
私は心の中でD氏にお別れを告げて、そっと顔に白い布を被せた。
この病棟にやってきてから、早くも半年が経過しようとしていた。暑苦しい季節も過ぎて秋となり、時折厚着をしなければ肌寒い季節となる。
夜勤業務をするようになってから、一日を通しての患者さんの動きが把握しやすくなっていた。しかし、患者の人柄や病状が捉えやすくなったものの、私は相変わらずコミュニケーションの取り方で悩んでいた。
コミュニケーション方法に正解なんてものはなく、いくら悩んでも答えなんて出てこない。良く関わったと思ってもズレが生じて失敗してしまう事が多くあった。そのズレは全て終わった後に気づくものであり、帰宅してから後悔するような日もあった。
それでもルーティン業務だけは身体に染みついて来たみたいで、身体は思わなくてもすんなりと動いて、疲労はだいぶ少なくなってきたような気がしていた。
そんな日々が続いていたある日の事である。その日は珍しく業務がスムーズに進んで、昼休憩から戻ってくる時には記録まで全部済ませてしまっていた。それは私だけでなく、職員のほとんどがそのようで、ナースステーション全体がゆるい空気に包まれていた。
ゆるい空気も相まって食後特有の全身の気怠さと眠気に襲われる。けれど、ここで気を抜くわけにはいかなかった。こういう日に限って急変者が出たり、突発的な入院が入ったりと忙しくなる。今までの経験上そうだった。だから私は気を緩めずに警戒する。
とりあえず、私の受け持ち患者を看て回ろう。そう思いナースステーションから出ると、ルゥと廊下でばったりと会う。持っていたワゴンの上には輸液セットや使った針のケースが沢山置かれていた。
「丁度良かったわ。リン、手伝って欲しい事があるの」
「勿論、私に手伝える事なら。何?」
ルゥの頼み事を断る理由は無い。手は空いていたし、普段沢山私が助けられていて幾ら返しても返せないくらい恩がある。だからこういう時に少しでも返しておきたかった。
「あの人の点滴がね、漏れちゃったのよ。刺し替えを手伝ってくれる?」
その言葉だけで全てを察した。それ以上深く聞かなくてもルゥの受け持ち患者を考えれば分かる事だった。私は頷きで返す。
「ありがと、私は一回ナースステーションに戻って物品の補充をするから、リンは先に行って貰える?」
私は再度頷くと、ルゥと別れて点滴が漏れてしまった患者――D氏の部屋へと向かった。
部屋の前に着くと一礼して中へと入る。中は四人部屋でそれぞれのベッド周りはカーテンで囲われていた。D氏は一番奥にある窓際のベッドに居る。
「あーーーー!!」
突然の大声に驚いてしまい、思わず首をすぼめてしまう。言葉にならないような声。奇声だ。
この部屋は職員の間で声出し部屋と呼ばれていて、中に居る患者は大声出しや奇声を常に上げている。他の患者の迷惑となってしまう為、こうして一か所に集められているのである。
D氏も例外ではなく、昼夜問わずに大声を出している患者である。カーテンの囲いの中へと入り、ベッドに近づく。D氏はベッド柵を掴んでまるで牢獄に入れられたかのように、柵を揺らして叫んでいた。いや、もう立ち上がる力が無く柵で四方を囲まれている為、牢獄に入れられているのと一緒なのかもしれない。
私はしゃがむと視線を近づけて、ベッド柵越しにD氏の表情を見た。悲しそうな、苦しそうな表情で何かを訴えるように口を大きく開いていた。
「どうかしましたか?」
私は試しに声を掛けてみた。勿論まともな返答を期待していない。気まぐれだった。するとD氏の叫び声が止まり無表情となり、私の顔を見つめてくる。大きく息を吸ったので何か言葉を発するのかと思ったけれど、私の存在を無視するように叫ぶのを再開させただけだった。
私が立ち上がってベッドから離れるのと同時にルゥがこの部屋へとやってくる。
「ごめんね、助かったわ。はいこれ、リンの分」
ルゥが持ってきたワゴンの上には点滴セットが二つあって、そのうちの一つを私に差し出してくる。それを受け取ると再度D氏のベッドへと近づいて、前かがみとなる。私はルゥとは反対の左腕の袖を捲った。
細くみずぼらしい腕が出現する。その腕にはすでに何回も点滴の刺入に失敗したのか何か所にも内出血班があった。
駆血帯を前腕に巻いて浮き出る血管を触って探す。よく刺入に使う血管は何処も硬化しているか、内出血により跡形もない状態であった。
他の血管を探す。しかし、どこもかしこも同じ状況であった。正中静脈はまだ点滴を施行出来る状態ではあったが、もしもの時のためにとっておかなければならない。また腕を曲げた時に滴下が妨げられるため、適さない。
「もう、毛細血管に入れるしかないね」
ルゥの方も同じだったらしい。後は細い血管に入れるしかない。細い血管は技術が必要な事と、異物に耐えられるように丈夫でないのですぐに漏れたり詰まったりしてしまう為、普段は適さない。それでもそこに針を入れる他に選択肢は無いのである。D氏はもう口から何かを摂取する事が出来ず、主な栄養源はもう点滴だけだった。点滴をしなければ、すぐに亡くなってしまうだろう。
私は駆血帯を外した。腕ではもう見つからないと探すのを諦めて、今度は足に駆血帯を巻き直す。
しばらく探していると、太もも――大腿部に短いながらも細い血管を発見した。ここなら点滴が入るかもしれない。見つけた事を教えるも、ルゥは血管を探す事を止めたりせずに続けていた。血管を発見したとしても、施行して成功するとは限らないからである。
老人特有の皺寄った皮膚を引っ張り伸ばした後、アルコール綿で発見した血管周りを拭いて消毒を行う。その後、針のキャップを外して丁寧に持つと一点に集中した。覚悟決めて、針先を皮膚の中に吸い込ませていく。
進めていくも全く手応えが無く、血管に入ったかどうか分からない。不安だけが私を包んでいたが逆血が針の中に入ってきてくれた。上手くいった合図だ。しかし、これで安心してはいけない。
この後、針の内側に当たる鉄の部分を抜いて外側の柔らかいプラスチックの針を血管へと中に突き進める必要がある。ここで気を抜いてしまうとプラスチック針を血管の奥に進める段階で突き抜けてしまう可能性があった。だから慎重に行う必要があった。
適度な力加減で外側のプラスチック針を中へと押し込んでいく。針が根本まで入ると駆血帯を外した。輸液チューブを接続部に繋ぎ、滴下調整するクレンメを触って最大限にする。問題なく滴下する事を確認すると、今度は輸液袋を刺入部分より下に下げて、チューブ内の逆血を確認した。
うん、大丈夫。問題なく血管に入っている。ここまで確認出来れば一安心だ。
「入ったよ」
そう伝えるとルゥは今度こそ血管を探すのを止めた。後は刺入部を動かないようにテープで固定するだけである。これで失敗する事はない。簡単に出来るし、固定はすぐに終わる。
固定し終わると、滴下を調整した。全ての工程が終わると背筋を伸ばす。長い間前かがみだったせいか、少し背中が痛くなっていた。
「助かったわ。背中凝っちゃうね」
自分の背中を叩きながらルゥは言った。助けを求める以前からD氏の血管を探していたみたいだから、きっと私よりも凝っているのだろう。背中を叩いていた様子が何だか老人の仕草みたいでおかしかった。
点滴刺入には相性もある。上手い人でも幾ら頑張っても施行出来ない場合もある。そういった時にも人を変えると新人でもすんなり行えたりする事があるのだ。今回もそうだ。私の点滴施行技術がルゥより上手いわけではなく、単に相性が良かっただけなのだろう。
D氏は点滴施行中、終始叫ぶのを止めなかった。痛いとか点滴が嫌だという事ではなく、ただ、叫びたいから叫んでいただけなのだろう。だから刺入時にも点滴ルート接続時も、叫び方は変わらなかった。本当は集中したかったので静かにして欲しかったが、叫ばないように促した所で無駄なので諦めていた。
こちらの言っていることが分からないのか、それとも聞くつもりがないのか、どちらか分からないけれど、私達が言っている亊が聞けないのが認知症という病気なのである。
点滴が入ったからこれで数日は持つだろう。全身を観察する。細くみずぼらしいのは何も腕だけではない。全身がそうなっていた。
もう末期で死を待っている状態なのである。それなのに、D氏は叫ぶのを止めようとしなかった。
D氏は八十歳代女性。脳血管認知症。様々な施設や病院を転々としていたが、他では出来る治療が無くなってしまった為、この病院へとやってきた。この病院にやってきたのは約半年も前。私よりもこの病院に居る期間がちょっとだけ長い。
家族の意向としてもう転院や施設入所するつもりはなく、ここの病院で最後を迎えると決められていた。D氏はこの病院で死ぬ為に入院したのである。
やってきた当時は若干の手足の痺れがあったものの、その他の機能は問題なく残っていたのだという。
この状態で最後まで看取るのか。もっとリハビリに力を入れている病院へと転院して治療した方がいいのではないか。そもそも終末期を扱う病院では無い為、ここの適応患者ではないではないか。緩和ケアが出来ない為、患者にとって苦痛なだけだと様々な意見が職員から出て、師長と院長は家族と度重なる面談を重ねたが方向性が変わる事は無かった。この病院で最後を看取る。D氏の方向性は本人の意思とは関係なく決まってしまう事となる。
家族の意向には逆らえない。家族の意見は時として本人の意見を凌駕するのである。
こうしてD氏はこの病棟に入院する事になったのである。
D氏の唯一の問題点は終始叫んでいて周囲の迷惑になる事だった。この声出しが酷く日夜問わずに続くのである。これが原因で、施設や病院を転々としてきた。
しかし、入院して声出しを抑制する薬を内服し始めると一週間経たないうちに静かとなった。デイルームの端にちょこんと座っているだけの可愛いおばあちゃんとなったのである。
こうなるとD氏には何も問題が無くなってしまう。もしかしたら家族と再度話が出来るかもしれない。そう師長が思っていた矢先、D氏が高熱を出した。
レントゲンなどの検査の結果、誤嚥性肺炎と診断される。薬が効きすぎたせいで、咽頭が動いていたが上手く食塊を胃に送る事が出来ず肺の方へと行ってしまっていたらしい。本来ならば、咳反射が発生し異物を外へと追い出すが、過鎮静の影響でその反射が発生しなかったのである。老年期の方への薬の投与は精神だけでなく身体にも影響を及ぼしてしまう為、調整がとても難しい。内服開始が駄目だったと一概には言えないが結果としてそうなってしまったのである。
すぐにD氏はベッド上安静となり点滴による輸液管理が始まった。誤嚥のリスクもある事から内服も中止となり、抗生剤のみ点滴と一緒の薬剤投与となった。
ベッド上での安静を三~四日続けるとD氏の熱は下がる。しかし、肺炎が改善したわけではなく、一週間程度は点滴による輸液管理の元、ベッド上で過ごす事となる。
しかし、D氏は元気を取り戻していた。内服を止めてしまった為、大声出しが再開してベッド上で終始叫ぶようになってしまったのである。次第に点滴内に鎮静剤を混ぜたが、声出しが収まる事が無かったのである。
声出しは日に日に酷くなっていき、活動的となっていた。動きも出てきて、点滴の自己抜針をするようになったので自由が効きづらいミトンの着用が必須となってしまった。部屋も大声を出す患者の所へと移る事となる。職員の誰もが手を付けられない状態となっていた。早く離床して食事の再開とそれに伴っての内服開始が望まれた。
それから解熱してから一週間経過する。再度レントゲン検査を行い、肺炎の改善が見られた為、離床してデイルームで過ごす流れとなった。それと同時に食事と内服の再開の指示が出るも、一週間も寝たきりであった為、状態は目に見えて低下していた。
まず、車椅子に座った姿勢が保てなくなってしまっていた。座ってからしばらくしていると必ずどちらかの方向に身体が傾いてしまう。姿勢を直してもすぐに傾いた。
そして食事が出来なくなってしまった。食事介助で食塊を乗せたスプーンを持っていくも口を開かない。頑なに口を閉ざしてしまっているのである。何とか開いて口の中へと食塊を入れるもそれを飲み込もうとする様子がなく口の中で遊んでいるだけだった。
どうやら、食べ方を忘れてしまったらしい。数日間かけて、様々な職員が色々な手を使って食べて貰おうと試行錯誤したけれど、結局何をしてもD氏は食事をしようとしなかったのである。
経口摂取出来ないのならば、他から供給するしかない。本来の予定では食事再開と共に点滴投与は終了になるはずだったが継続となる。しかし点滴だけでは栄養を全て補えるわけではなく、いつかは限界が来てしまう。鼻から胃の部分まで管を入れての経管栄養も本来選択肢としてあるも、家族がそれを希望しなかったので点滴のみでの栄養補給に留まった。
D氏はさらに瞬く間に弱っていった。次第に車椅子に座る事すら困難となり、寝たきりの状態となる。この状態になると、筋肉を使用しなくなる為、一気に衰えてしまう。
こうなると精神薬も使えない。老年期と細身の身体では薬を使う事へのリスクが大きすぎる為、全て中止となる。
看護援助として何も行える事はなく、D氏が最後を迎えるのをただ見守る事しか出来なくなっていた。
ベッド上で寝たきりとなって二カ月が経過しようとしていた。D氏の死期はもうすぐだろうとナースステーションでは話に上がる事が多くなっていた。
ルゥと廊下で分かれた後、午後にやろうとしていた巡回を行う。今日の私の受け持ち患者は比較的落ち着いている人が多い。軽く挨拶して回るが、ほとんどの人が認知症だった為、初めて顔合わせしたような表情となったけれども、これにも慣れたもので私も初めて会ったかのように話を合わせた。
受け持ち患者の見回りを終えると、今度は病棟全体の患者を把握する為、受け持ちでない部屋の患者を看て回る。受け持ち以外の患者の把握の重要性を重々承知していた。把握しておく事で急変が起きた時に素早くサポートに回る事が出来る。時間がある今日だからこそ、無駄には出来ない。
見回っていく中で、再度D氏の居る大声出し部屋を通ると中からは叫び声が響いていた。
ドアに備え付けられている小窓から中の様子を伺うもここからだとカーテンが閉まっている為、何も分からない。けれど、何となくD氏の叫び声が一際目立っているような気がした。
受け持ち部屋ではないけれど、この部屋へとドアを開けて入室した。声出ししているのが本当にD氏ならば、先程点滴の刺入した時よりも大声の声量は上がっていて、精神症状が活発となっている可能性がある。そうすると動きも出てくるので点滴を抜針されるかもしれなかった。せっかく苦労して点滴を刺入したのに、こんな短期間で抜かれてしまうのは嫌だった。
失礼しますと声を掛けて仕切りのカーテンの中へと入る。確認すると私の心配は杞憂に終わり、D氏は横を向いてベッド柵を両手で掴み、力いっぱい揺らしながら口を大きく開けて叫んでいるだけだった。点滴台は足元の方に避難している為、影響はない。
しゃがんでD氏と視線を合わせる。目が合った瞬間に叫び声は一時止まるもすぐに顔を歪ませて大きく口を開けて叫ぶのを再開させる。その姿はまるで何かに恐怖して、怯えているようだった。私に対してなのか、何か幻覚が見えていて、それがとても怖い物なのか。それとも、死期が近い事を察していて、怖いのか。死ぬのが怖いと叫んでいると思えば、そう見えなくもない。
D氏はただ、叫び続けていた。
この歳になって、病気になっても死ぬのは怖いのだろうか。今、どんな気持ちで死を待っているのだろう。私よりもきっと死に近い所にD氏は居る。
ふと気になってしまい、私はポケットの奥底から変換プラグを取り出すと、迷いもなくD氏のプラグと接続した。
ただただ、恐怖の中に包まれていた。ありとあらゆる恐怖に。
生きる事、死ぬこと。忘れてしまう事。忘れられてしまう事。覚えていること、覚えていられない事。
その全てにただ恐怖しか感じていなかった。
何処までも深い恐怖。その恐怖に絶望する。それは後悔だとかではなく、ただ無限の暗闇で奥底がまるで見えない。
何とか振り払おうとするけれども、何処までも身体にまとまりついて、離れようとはしなかった。
変換プラグを外す。D氏はただただ、恐怖の中に居続けているだけであった。
しかし、この恐怖も死んでしまえば無くなってしまうのだろう。脳の活動が終了すれば電子信号のやり取りも無くなり、意識も無くなる。
意識が向かう先は天国でもなければ地獄でもなく無だ。
私自身にも死が急に近くになった気がして怖くなる。いずれ、けれども確実に死というものはやってくる。人は死ぬ。
どうして死ななければならないのだろうか。その答えはきっと永遠に分からない。だから私は現実逃避するように考えるのを止めた。分からないものを考えたって仕方がない。
私はD氏の元から離れる。また次に私がやってきた時に生きている事を祈りながら業務へと戻った。
その数日後、D氏は亡くなった。
その日、私は日勤だった。朝、出勤するとナースステーションの中では珍しく心電図モニターが置かれていて起動していた。荷物も置かずに何気なく画面を確認すると、D氏の名前が記載されていて、心電図と共に脈拍と酸素濃和度が表示されていた。それだけで察してしまう。
死期が近いのだと。
急いで休憩室に鞄を置くと、ナースステーションに戻り、端末からカルテに接続して申し送りを受ける。今日の受け持ちにD氏は居なかったけれど、情報を閲覧した。
どうやらもう呼吸も自力では行えず、酸素マスクを着用していて、酸素量も与えられる最大限まで上げられていた。昨日の夜に急に状態が変化したみたいだ。
送りを終えて現実へと戻ると私は覚悟した。今まで私は誰かの死に立ち会った事がない。この病棟で患者が亡くなる事は稀で急変した場合にはその対応がきちんと行える病院へと転院するからである。
いずれ立ち会う事になる事は予想していた事だが、いざ目の前にやってくると怯んでしまった。
ナースステーション内を見渡すと怯んでいるのは私だけみたいで、他の職員は心電図モニターの存在なんて関係ないように自分の業務の準備を進めている。先輩達にしたら数多くある患者の死の一つなのかもしれない。それかもう死に立ち会うのに慣れてしまっているのか。どちらにしても感情が鈍っているのだと私は思う。
人という存在が一つ無くなる。脳の解析がされて、魂という存在の否定がされてより消滅する事への意味が大きくなっているというのに。私もいずれ先輩達のようになってしまうのだろうか。死に鈍感になりたくなかった。
D氏は大声出し部屋からナースステーションに隣接している観察室へと移動していた。すぐに様子を伺いに行く。
観察室にはD氏しかおらず、他の患者さんは移動されていた。本来なら三ベッドが余裕で入る空間にD氏一人しかいないので寂しさが余計に増す。
観察室は死の匂いがした。
ベッドに近づく。
D氏は酸素マスクを装着していたが、それでも苦しいように口を大きく開けて胸をいっぱい動かして呼吸していた。
「Dさん」
私の声掛けに一切の反応を示さない。今はもう呼吸するだけで精一杯という感じだった。呼吸するためだけに生きているようだった。
再度声掛けを行い、反応が無い事を確認すると私はナースステーションへと戻った。後、どのくらい持つのだろうか。三十分後?一時間後?それとも――。
きっと誰にも分からない。
その時が来るまでD氏の側に寄り添いたかったけれど、私には自分の仕事があり、やらない事が多くあったのでその準備をしなければならない。先程先輩達にあれこれ思ったけれど、結局は私も同じ事をしていた。そんな自分自身の事がとても嫌になった。
お昼休憩が終わり、ナースステーションに戻った時である。ルゥが私に近づいて来た。
「あの人、もう亡くなるって」
何でもないようにルゥは平然と言った。ルゥは平気なの?先輩達と一緒なの?そんな疑問はナースステーション内を響き渡っているモニターのアラーム音で吹き飛んでしまう。
警告アラームは止まる事なく鳴り響いていた。近づいて画面を確認すると、最後の力を振り絞るように脈が速く、呼吸数が増加していた。
「もう長くは持たないわねぇ」
声に振り向くといつの間にか後ろにタイ子さんが立っていた。
「そうなんですか?」
思わず聞き返す。タイ子さんは看護師歴が長く、色々な経験をしている。今までも何人も見送っている。そのタイ子さんが長くは無いと言うならばその通りなのだろう。
観察室の中へと入り、D氏の様子を見に行った。朝に見た時とは違って、肩まで動かして懸命に呼吸しているかと思えば、徐々に弱まっていき止まりそうになった時にまた呼吸が激しくなるのを繰り返していた。
一般的に徐脈になり努力呼吸と、チェーンストローク呼吸が出てきたらもう数時間以内で亡くなってしまうというと言われる。今のD氏がその状態なのである。
「後、どのくらいなのでしょうか?」
タイ子さんは首を横に振った。
「正確な時間は分からないわ。この状態から数十分で亡くなってしまう人もいれば、一晩過ごせた人も居たのよ。そういえば、この状態から車椅子に乗れるまで回復した人もいたっけなぁ。まぁその人は例外的なくらい心臓が強かったのだけれどね」
タイ子さんが昔を思い出しながら優しく話す。話した人達の一人一人を思い出しているのだろうか。
「とりあえず、家族に連絡しなくっちゃね」
そう言い残すとタイ子さんはナースステーションへと戻っていった。
こうなったら出来るケアは無いのだろう。私以外でもだ。この病棟にいる職員に出来る事は何も残っていないのである。
後はD氏が最後の時を迎えるのを待つのみだった。
その時はゆっくりと、でも確実にやってきていた。
タイ子さんが連絡したらしく、D氏の家族はそれから三十分くらいでやってきた。けれど、来たのは息子らしき人物一人だけであった。観察室へとお連れすると、ベッドの前でだんまりとしているだけだった。
家族の到着を待っていたかのようにそれからすぐの事であった。酸素飽和度が正常値から外れていき、頻脈から徐々に間隔が空くようになり、徐脈へとなっていく。
「もう、すぐだね」
一緒にモニタ―画面を見ていたタイ子さんがいつもになく真剣な声色で言った。その声はまるで別人のようだった。そうだ、タイ子さんだっていつものようにお調子者でいられるわけがない。人が死ぬのだから。
D氏の呼吸が弱くなっていき、最終的に止まってしまった。けれど脈はまだモニター画面で確認できていたがそれも徐々に無くなっていった。
急にすとんと脈拍が無くなり、心電図モニターが赤いランプと警報音を鳴らす。画面には真っすぐに横に線が三本伸びているだけのものが映っていた。
タイ子さんがすぐにナーステーション内で待機していた医師へと声を掛ける。医師は聴診器とペンライトを持ってすぐに観察室へと向かった。
お医者さんについて行っていいよとタイ子さんが小さい声で私に言ったのでその通りする。医師について行き、観察の中へと入ったのは私だけでなく、その後ろにタイ子さんとルゥも一緒だった。
医師は観察室に入り家族に近づくと軽い会釈を行った。私達もそれに倣って同じようにする。
これから、死亡診断を行うのだろう。死亡と判断できる材料は三つ。脳、心臓の心拍、呼吸。これらが停止していて、人は死んでいると認められる。
医師はベッドに近づくとまず口の近くに手を持っていき呼吸をしていない事を確認した。その後、聴診器で心臓が動いていない事を確かめる。両方停止している事は心電図モニターからも分かる事だが、きちんと診て確認する必要がある。
後は脳が活動を停止しているか確認するだけである。
確認の方法としては、眼球に光を当てて、瞳孔が動くか診る。本来ならば光を当てれば瞳孔は萎む。開いたままならば、脳が活動をしていないという亊だ。
医師がD氏の眼球にペンライトで光を当てるも瞳孔は開いたままだった。
「~時~分、Dさんの死亡確認です」
医師が死亡申告を行う。これがD氏の死亡時刻となる。医師が家族に向かって軽く頭を下げた為、私達も同じく続いた。
D氏は死んでしまったのだ。
「私達は一旦、戻りましょう」
タイ子さんは私とルゥの肩を優しく叩いた後、こう言ったので、私達はナースステーションまで戻る事にした。
ステーションの扉の隙間から観察室を見る。やってきた息子らしき家族はD氏の顔をただじっと見ながら固まっていた。泣くわけでも、叫ぶわけでもない。けれども何の情もないわけではないらしい。
どんなに酷い扱いをしていたとしても家族は家族なのだ。どのようにしてD氏の最後をこの病棟で迎える事を選んだのか。それは家族にしか分からないのだろう。
十分間、息子らしき家族とD氏が見つめている時間が続いた。その間、何か動きを見せる事もなかった。
タイ子さんが再び私達に合図を出してくる。そのまま観察室へと入って行った為、私とルゥはそれに続いて中へと入った。
まだD氏に対して行うケアが残っている。エンゼルケアという身体を綺麗に整えるというものだ。
タイ子さんは観察室へと入ると、息子らしき家族に対してこれからエンゼルケアを行う旨を説明した後、観察室の外で待って貰うように案内する。
観察室には再びD氏だけの空間となった。
改めてD氏を見る。口をあんぐりと開けていて、胸の動きは全くない。そして顔は常人ならばあり得ない程真っ白だった。
死んでいる。そう、死んでいるのだ。
顎を閉じようと触れるとまだ温かさを感じた。体温だけならば、ただ寝ているだけと言われても信じてしまいそうだ。
タイ子さんが戻ってきたので、一緒に一礼して合掌を行う。その後、エンゼルケアに取り掛かった。
身体を綺麗にしていく為、まずは陰部洗浄から始めていく、と言ってももう数日前から排泄行為を行っていないのでそんなに汚れてはいないだろう。
オムツを開いて肛門を確認すると、弛緩して大きく開いていた。このままの状態だと、しばらく時間が経過した際に腸の中に残っていた便が降りてきてしまい、そのまま出てしまう事があるらしい。これからせっかく綺麗にするのに旅立つ服を汚してしまう可能性があった。それを防ぐ為に事前に肛門内に詰め物をしてしまうのである。
私は綿を小さく切って肛門の中へと詰めていった。死者の中に異物を詰め込んでいく行為が何だか不気味に思えてしまった。
陰部周りを綺麗にしてオムツを再度当て直すと、今度は病棟着から浴衣へと着替えていく。それと合わせて全身の清拭を行った。
「Dさん、服を脱ぎますね。その次にタオルで身体を拭きます」
服を脱がす時、身体を拭いていく時、身体を動かす時、その一つ一つに声掛けを行っていった。無駄な行為ではなく、死後でもしばらく聴覚機能は残っており、聞こえている事があるのだという。聞こえていなかったとしても関係ない。礼節を持って接する為に、声掛けは必要だろう。決して乱暴には扱わない。
死んでもなお、生きているように扱った。
身体を動かした時に、肺が圧迫されたのかD氏の口から空気が出てくる。呼吸ではない。しかしそれは声帯を揺らすのに十分な空気量だったらしい。D氏が小さい声で、けれども確実に声を出した。死者がしゃべったのである。
聞こえたのは私だけだったらしく、ルゥとタイ子さんは一生懸命D氏の身体の清拭を行っていたので、私は聞こえなかった事にした。
怖がっていたら、エンゼルケアなんて出来ない。
いずれ死に直面する。それは看護学校に通っていた時から分かっていたことである。覚悟していた亊である。だから私は引かない。逃げない。怖がらない。
腕を曲げて身体を清拭していく様はまるで人形を扱っているようだ。しかし、きちんとした皮膚の温かさがあり、どうみても人の腕なのである。
様々な違和感を覚えつつも声掛けをし続けて気づかないように清拭を続けた。気づいてしまったら怖くなってこれ以上出来なくなってしまうだろう。
清拭が終わると浴衣を着せていく。普段とは違う方向で着せて、帯を立て結びにした。
その後、手を胸の中央で組ませると最後にあんぐりと開けていた顎を閉じる。しかし、いくら閉じてもそこで固定せずに手を放すと口が開いてしまうのである。バンドを頭に装着するも、完全に閉じきる事が出来なかった。
「結局、口、開いちゃうね」
そう言いながらタイ子さんは笑った。死体を目の前にしてもこうして笑えてしまうものなのだろうか。それが看護師としての強さか、それとも慣れなのか。
どうしても医療現場の死は近くなってしまう。それが少し嫌になってしまった。
全てのエンゼルケアが終わって綺麗になったD氏は安らかな表情で眠っていた。叫んでいた事がまるで嘘みたいに感じる。
死ぬことを恐れていたようなD氏だったが、今はもうその真只中に居る。
D氏の脳は電気信号のやりとりをする亊はもうないのだろう。永遠に。
永遠とは一体どのくらいだろうか。きっと私の想像出来ない長さだろう。私が生きてきた時間よりもはるかに長くて、私が生まれてくるよりも前の時間よりも長い。
そう思うと、私の命は――人の命は刹那的過ぎで短い。永遠の中ではほんの一瞬も百年後も大した変わりがないように思えてしまう。
永遠とはそれ程の長さだろう。
その長さに恐怖して、死が怖くなった。
D氏は死んでいて、もう永遠の中へと居る。返ってこない。D氏は何処までも続く無の中に居るのだろう。無限に続く、無の中に。
試しに隠れながら変換ケーブルを使ってプラグ接続してみるも、何も感じる事が出来なかった。
私は心の中でD氏にお別れを告げて、そっと顔に白い布を被せた。

