第三章
B氏の一件から私はこの病棟では一人前と認められた様で、今まで任されていなかった業務の入院受け、夜勤、認知症以外の方の患者の受け持ちなどを任されるようになる。それらをこなしていく内にどんどんと季節は過ぎていき、この病棟に私がやってきて三か月が経過しようとしていた。真夏日が増えて、冷房器具を使用しないと苦しい季節となっていた。
普段の病棟業務にも慣れてほとんど一人で行えるようになり、また他の職員に業務の事について訊ねる事も少なくなっていた。
一人前として認められる事は良い事だと思う。しかし私は困っていた。入院受けも夜勤も何とか出来ていたが、認知症以外の脳・神経に疾患ある患者を受け持たなければならなくなったからである。
デイルームには居ない患者さん。部屋が並ぶフロアのさらに奥に鍵が掛かっている扉があり、そこを抜けた所にある病室に入院している人達。
認知症の患者と違って物忘れはない。関係性がリセットされる事なく、覚えられているのである。それは当たり前の事だけれど、患者とのコミュニケーションに気を付けなければいけないのである。それを避ける為にこの病院にやってきた私にとっては苦痛な事であった。
ルゥからこの病棟を勧められた時に、半分くらいが認知症の方だから大丈夫だよという紹介をそのまま鵜呑みにして就職を決めてしまった事を後悔する。当時の私は前の病院を一か月で辞めてしまい、次の就職先探しで焦っていて正確な判断が行えなかった。今だったら断っていたかもしれない。
脳・神経の患者を受け持つようになってから正直に言って気が重い。業務が楽しくなかった。リーダーに言えばある程度は配慮して貰えるのかもしれないけれど、他者とのコミュニケーションを避けたいなんて仕方がない理由では聞き入れて貰えないだろう。
けれどもこれも仕事なのだから仕方がない。そう自分に言い聞かせて、業務を行っていた。
「おはようございます」
朝、ナースステーションにやってきて中に入り挨拶を行うと中にいた職員が業務の支度をしながら挨拶を返してくれる。その中で一人だけ返事を返さなかった人物が居た。ニッカである。ニッカだけがまるで聞こえていないように、点滴の準備をしていた。
ニッカは苦手だ。同じ時期に看護師になったのだけれど、ニッカは看護師としての向上心が高い。さらに気が強い性格の為、私とは合わなかった。
ニッカはやる気のない看護師――向上心の無い看護師を嫌う。軽蔑しているような節があり、その人の悪口なんて平気で言うし、無視もするし態度も明らかに違ったりする。
私の事も看護師としての向上心が無い事を早々にニッカには見抜かれていて、多分嫌われている。直接そのように言われたわけではないけれど私への対応で分かる。さっき挨拶を返さなかったのもそうだ。口では言わないけれど態度は露骨に表していた。
私はニッカが挨拶を返さなかったのを気が付かないフリをしてナースステーションの隣の休憩室へと向かった。休憩室の中は誰も居なく静かだった。ここには荷物を置いたらもう用が無いのですぐにステーション内に戻ろうとしたけれど、身体が止まってしまう。隣からの会話が聞こえてきてしまったからだ。
「もう、ニッカちゃん、駄目よ、ちゃんと挨拶しないと~」
聞こえてきたのはタイ子さんの声だった。きっと先程の事だろう。という事はニッカと話しているのだろう。
「いいのです。私、事前準備で忙しいですから」
ニッカは年上で経験年数も多いタイ子さん相手だというのに、ハッキリと言い返した。その言葉は鋭利的で冷たく、ナースステーション内の空気が固まったのをここからでも感じ取れた。私のせいで空気が悪くなったようで申し訳なくなってしまう。
ニッカはそんな空気なんて気にせずに、言葉を続けた。
「それより堤さん、その呼び方はよろしくないじゃないですか。苗字で呼んでください。友達ではないのですから」
「そ、そう?御免なさいね」
流石のタイ子さんも引いてしまい、それ以上言えなくなっている。
嫌な気分になる。どうしてこんな人が看護師なのだろうか。ニッカは職員に当たりが強いが、患者の前ではニコニコと笑って寄り添おうとするのだ。看護師にとって守るべきものは患者だけで、それ以外は違うかのように接する。そうする看護師の方が仕事を上手くこなせる割合が高いような気がする。
タイ子さんとニッカのやり取りを聞いていると思われたらもう今日は仕事を行えない。だから私は聞こえていないフリをしてナースステーションへと戻るといつも通りに電子端末から伸びているコードを首の後ろのプラグに接続して送りを受けた。
送りは一瞬で終わってしまう。こういう時にはもっと時間が掛かってもいいと思うのにそうならないのがもどかしい。もっと現実逃避がしたかった。コードを抜くと誰にも分からないように溜息をついた。それでも心の奥底にある黒い塊を払拭する事が出来ない。
今日の受け持ち患者に認知症とは違う脳梗塞の患者――C氏がいて、さらに気が重くなってしまった。
C氏は五十歳代歳代女性。四十歳代になった時に二型糖尿病を発症した。元々生まれ持って疾患がある先天性の一型糖尿病と違い、二型糖尿病は食生活等の問題から後発的に発症する。
C氏は元々油多めの食事が好きな事、キャリアウーマンでほとんど自宅には戻らずに全国を飛び回るように巡っていた為に必然的に外食が多かったのが主な要因である。
また毎晩とはいかないけれども週三~四日程度は居酒屋で一日が終わる事があり、その時には数杯のビールと共に大好きなから揚げも一緒に食べていた。
そんな生活を二十年近く続けていた。ストレスは発散されて精神は保たれていたが、身体の方に徐々に毒が蓄積されていく事となる。
異変は仕事中に突然に起こった。それはある営業所から本社に帰る途中であった。駅の階段を昇っていたC氏に急に眩暈が襲ってきたのである。その眩暈は三十分程度続くものであり、今までC氏が経験した亊の無いようなものであった。
流石に危険を感じたC氏は次の休日に病院を受診する事にした。そこで診断されたのは高血圧症と軽度の糖尿病の発症。今は透析を行う程ではないものの、この生活を続けていくようならばいずれそうなってしまうと医師から通告される事になる。
診断にC氏は驚いたものの、医師の話を深刻には受け止めなかった。もっと重い病気で働けなくなったらどうしようと考えていたものだから、それに比べたら大した事無かったからである。
それに処方された降圧剤を飲んでみると血圧が目に見えて下がった。なんだ、薬さえ飲めば何も心配する事は無いじゃないか。C氏はそう思った。勿論大きな間違いである。しかし楽観的だったのである。
医師からは教育入院を勧められた。この場合の教育入院は食事指導が主になる。低カロリー食の作り方を教わり、減塩や低脂肪の食事にしていくのである。
C氏はそれを拒否した。教育を受ける意味を見出せなかったからである。自宅で食事や弁当を作っている暇はないし外食を控える事も出来ない。かといって、店で細かくオーダーを出すつもりもなかった。
食べる物だけ気を付ければいいのだ。なるべく野菜も注文するようにしよう。それだけで充分なはずだ。
退院するとC氏は早々に仕事に復帰した。戻った後も降圧剤を飲み続けた。
降圧剤を飲む事によってC氏は安心しきってしまっていた。だから血圧を小まめに測定する事もなくなっていったし、食事も最初の頃は気を付けて野菜も注文するようにしていたが、以前のように油もの中心の食事に戻ってしまっていた。本当はもう降圧剤では抑制されないくらいに血圧が上昇していると知らずに。
五十歳半ばに差し掛かった時、取引先に向かう途中で急にがつんと頭に衝撃を受けてC氏の意識を消失する。上昇した血圧に耐えきれず細い血管が破裂したのである。破裂した所は運悪く、脳の血管だった。
次にC氏が意識を取り戻すと真っ白な空間で横たわっていたのである。首をゆっくりと動かして回りを見回すとどうやら病院である事が分かった。一体何が起こったのか理解出来ない。
意識が消失する前に頭に衝撃を受けた事を思い出す。誰かに殴られたか、それとも何か物でも飛んできて頭にぶつかったか。C氏には原因が分からなかった。
右手を上げようとするも動かない。右足も動かなかった。左腕だけは動いて自分の顔を触るが、右側の感覚だけが無かった。
悪い予感がした時に医師がC氏の前にやってくる。話を聞きたくはなかったが、医師は容赦なく言葉を発した。
脳出血による右側感覚麻痺。医師から説明を受けたものの、まるで実感が湧かずにまるでおとぎ話を聞いているような感覚だった。もう身体の右側を動かす事が出来ない。C氏は絶望した。
C氏は救命処置を行った後、次に行く病院を探す間の居場所として、この病棟へとやってきたのであった。
業務開始時刻になると、私はまず認知症の方から検温に回る。それが終わると私はC氏の所へと向かった。認知症患者の部屋を抜けてさらに奥に行くと、鍵が閉められている扉が見えてくる。その扉の奥が脳・神経系で入院している患者の病室となる。
鍵が掛かっているは認知症の方とは理由が違う。病棟の中に居る人達を外に出さない為ではなく、このエリアの中へ人を入れないようにする為である。脳・神経で入院している人達は殆どが生命維持に必要な機械類を装着しているので、それらを外されないようにする為、つまるは守る為であった。
認知症の患者は短期記憶の障害や場所の理解が行えないだけではない。わけも分からずに他者の物を弄ってしまうという行為が見られる場合がある。その人が悪いわけではない。そういう病気でそのような行為に及んでしまうだけなのである。
そういった患者から守るためにも鍵の施錠は必要となってくる。その為、認知症の方とは違うエリアとなっていた。
鍵の掛かった扉を抜けてC氏の部屋へと向かう。C氏は四人部屋の窓側のベッドだ。部屋の前まで行くと名前が間違えていないか確認を行った。
「失礼します」
ドアをノックして一礼すると、私は部屋の中へと入った。カーテンの囲いを抜けて中に入ると、ベッドの上にC氏が横になっていた。すぐ横には持ち運べる程度の大きさのモニタータブレットが隣に置かれていて、コードが伸びてC氏のプラグと接続されていた。
モニターは電源が入っているが、大抵ノイズのようなものが走っているだけである。本来ならば、モニターを使用して文字などを表示できるが、脳出血の影響で言葉や文字の生成が出来ないでいたのである。それでもごく稀に文字は出てくる事がある為、使用しているがコミュニケーションをとろうとした時にはあてには出来ない。
言語野に障害がある方へのコミュニケーション方法としてもう一つ、ボードを用いる方法がある。五十音が並べられている透明なボードを使用して、患者の目の動きでどの文字を示しているか読み取るというものである。しかしプラグ手術が広まってモニター表示が出来るようになってから、こちらを使う人は少ない。看護学校でも読み取りの講義はすでに無くなってしまっていた為、私には出来なかった。
だからC氏とのコミュニケーションはイエス・ノーで答えられる簡単な質問――閉じられた質問を行うしかない。看護師がコミュニケーションを行う上では避けなければならない技法だが、言葉を発せられない人には有効である。しかしそれだけでは思いの全てが分かるはずが無かった。
私は少しでもC氏の意思をくみ取ろうと顔を近づけた。その瞬間にC氏が目を細めたのが分かった。まるで私が近づいた事が嫌なような表情。嫌われているのだろうか。いや、嫌われるような事を覚えは無い。そもそもそんなに関わりを持っていない。嫌われる段階にすら至っていないはずである。一応モニターを確認するが、ノイズが走っているだけである。
何を考えているのか分からない。だからC氏は苦手だ。
私は気を取り直す。苦手なんてもの関係ない。考えても分からないし気のせいの可能性もあった。
「体調はいかがですか?」
私が問いかけるとC氏私の顔をじっと長い間見つめた後、ゆっくりと頷くのみ。その頷きが何を示しているのか分からなかった。しかしC氏が悪いわけではなく私の質問の仕方が悪いのだろう。しかし、それ以上どう言葉を重ねればいいのか分からず、気まずさを誤魔化すように当初やってきた目的の検温を行うべく道具を見せて準備を始めた。
道具を見せるとC氏は頷きで返してくれたので、どうやら検温を行っても良いらしい。測定を順に行っていく。体温に異常無し。血圧は高値だったが元々持病として高血圧がある為、慌てるようなものではない。その後全身をくまなく観察するが、皮膚状態も問題は見られなかった。
測定はすぐに終わってしまった。終わってしまうと沈黙が二人を包んだ。何を話したらいいのか分からなくなってしまう。看護師と患者の間には必要不可欠な沈黙というものがある。しかしこれは不要のものであった。私の技量によるもので、これ以上気まずいものはない。
どう言葉かけをしたらいいか分からない。C氏はじっと私の亊を見つめている。その理由が分からない。気まずい雰囲気だけが、私とC氏の間に流れていた。この空気に耐えられそうにない。
結局その場に居られなくなってしまい、あまりコミュニケーションを取らないでC氏の部屋から退室してしまった。
「経験不足だねぇ」
ナースステーションに戻ってタイ子さんに一部始終報告すると、笑いながらそう私に言ってくれる。
「もうちょっと看護師やったら分かるようになるわよぉ」
タイ子さんは私の対応が全て間違いではないと言っているのだろう。タイ子さんの優しさに私は安心するが、偶然に通りがかりに聞いていたニッカはそうでは無かった。足を止めて私の事を鋭い眼つきで見てくる。嫌な予感がした。
「経験不足ではなくって、勉強不足なのではないですか?」
患者対応が上手く行かなくて落ち込んでいるというのに、ニッカはさらに追い打ちをかけてくる。
その通りだ。勉強不足なのだ。彼女ならば学校で習ってもいないボードを用いる方法も行えるのだろう。その通りなのだけれどもニッカの言葉に少しの棘を感じた。私の思い込みだろうか。
どうして上手く行かない日にニッカと一緒の勤務なのだろう。病棟には平日も休日も人を絶やしてはいけないので、関係なく出勤になる。その為休みはそれぞれ違ってくる。さらに夜勤業務もあるので、勤務が重ならないと会わない人には本当に会わなくなる。それなのに最近ニッカと勤務が一緒の事が多いように思える。
私の心境なんて無視してニッカは続けた。
「提さんも甘い事言わないで勉強しなって言ってくださいな。私だったら出来ないことがあったら悔しくって、家に帰って勉強しますよ」
確かに業務において悔しいなんて感じたことなんてない。出来ない自分を責め続けるだけだ。自分自身の亊で精一杯すぎて勉強をしようという気持ちが向かわないのだ。
「すみません」
謝る事では無いけれど、そうせざる雰囲気になってしまっていた。しかしニッカもその事は分かっていた。
「私に謝るのではなくって、勉強してくださいな」
ニッカは私の事を一瞥すると、これで満足したのか、その場から離れて行ってしまった。
タイ子さんは笑ったまま「まぁねぇ」とどちらの味方をするわけもなく言った。分かっている。タイ子さんばかりに頼ってはいけないということぐらい。いや、タイ子さんだけではない。他の人に頼ってはいけないのだ。
ニッカに言われなくても分かっている。完全に私が看護師としての経験不足と勉強不足が招いている事を。
もしも私がコミュニケーションボードの使い方を勉強して熟知しているのならば、C氏ときちんとコミュニケーションが取れるのかもしれない。それか経験年数が高く、相手の表情や小さな仕草で患者の思っている事をくみ取ることが出来るのならば、ここまで悩んで苦労したりしないだろう。
全て、ならば、ならば――と続いてしまう。結局無いものねだりだ。無能な自分自身を呪いたかった。
「リンちゃん?」
タイ子さんの声掛けで現実へと戻ってくる。いつの間にか自分の世界に入ってしまっていたようだ。どのくらい思考していたのだろう。一瞬でも止まっていたからタイ子さんは声を掛けてくれたのだろう。
タイ子さんは心配そうな表情をしていたが、私が反応を示した事によって安心した表情へと変わる。
「あんまり考えすぎないでねぇ。今、リンちゃんが行える事を一生懸命すればいいんだから」
その優しさが返って私の心をえぐった。何も出来ないと言われているような気がした。
私はただ「はい」と返事をしてすぐにその場を離れると業務へと戻った。こんな所でぼんやりしている時間なんて、ないのだから。
残りの業務の軟膏処置が終わると、すでに昼食前の時刻となっていた。しかし食事介助の前にもう一つ業務が残っていた。それはC氏を離床してデイルームへとお連れしなければならないのである。その為に、車椅子乗車しないといけなかった。
私は非力の為、一人で患者をベッドから車椅子へと移乗させる事が出来ない。助けを求める必要があった。
ニッカには頼りたくない。ルゥに頼むのが一番だけど今日は居ない。消去法的に私はリーダーのタイ子さんに声を掛ける事にする。
タイ子さんは相変わらずナースステーションのリーダー席でボードを見つめて難しい表情をしていたが私の頼み事に快く承諾してくれた。
「いいわよぉ。移乗するのは何回目?もう慣れた?」
「いえ、まだ数える程しかないです」
「分かったわ。じゃあ、今日はリンちゃん主導でやってみようか」
タイ子さんがリーダー席から立ち上がったので、一緒にC氏の部屋へと向かう。一礼して部屋の中に入ると、これから車椅子へと乗車する事を伝えた。
タイ子さんがC氏に顔を近づけて調子はどう?と間延びした声で訊ねた。するとC氏は嬉しそうな表情になり、はっきりと分かるように頷いた。その様子だけでタイ子さんとC氏との間に私にはない信頼関係が築かれているのが分かる。私の前ではそんな表情をした事が無いからだ。
先程のニッカとのやり取りを思い出しまうが私は首を横に思いっきり振った。今はニッカの事を思い出している時じゃない。目の前の患者に集中する時だ。
タイ子さんが、C氏と話をしている間に部屋の隅にあった車椅子をベッドサイド近くに持ってくる。そして離床の説明を終えたタイミングで、平行からベッドに斜めになるように備え付けベッド柵を外した。
寝ているC氏の横から首の後ろから肩まで腕を通して固定した後、膝の裏側を持ち上げる。そのままお尻を軸にして、C氏の身体を回転させてベッドから足を出して座って貰った。
この後、さらに車椅子へと移乗を行わなければならないが、私はこの一連の動作で既に息が上がってしまったので、C氏の休憩も含めて一旦休止して呼吸を整える。
今度は真正面から両脇に手を入れて、両手同志を組む。そのまま重心を下げて、C氏の体重を私へと寄り掛からせると、タイ子さんが補助でC氏のお尻部分を支えに入った。
その状態から腕の力や手の力ではなく大腿部に力を入れ、タイ子さんに合図を送る。掛け声と共に私が立ち上がるとそのままC氏も立ち上がった。その状態でゆっくりと回転していき、車椅子へと座って頂いた。
「お疲れ様でした」
C氏に労いの言葉を掛けるも、私の方が息切れを起こしてしまっている。自分自身の体力の無さに呆れながらも、表情には出さないように努力した。体力がギリギリの中、車椅子へと移乗させられたなんて援助をされる側としては不安でしかない。そんな心配をさせるわけにはいかない。
今にも倒れそうな事を誤魔化すように車椅子の後ろに付いているハンドルを持つ。
「それではデイルームへと行きましょう」
呼吸を整える間もなく車椅子を押してデイルームへと向かう。タイ子さんはその後ろをゆっくりとついてきていた。
「まぁ、何回かやったら慣れるわぁ」
私の耳元でこのように囁いた後、小さく笑い、タイ子さんは歩く速度を速めてナースステーションへと先に戻って行った。その通りなのだろう。きっとタイ子さんならば息も切らさずに素早く車椅子へと移乗をすることが出来るのだろう。しかし、出来ないからといってへこんでいるような時間はない。これからC氏の食事の準備を行わなければならない。
C氏の食事は経管栄養だ。嚥下機能を司る脳の部分がやられてしまっていて、上手く食事が飲み込めないのである。右鼻から管が出ていて、そこから液体物を直接胃袋へと入れるのが今のC氏の【食事】である。
デイルームへと送り届けるとすぐにナースステーションに戻り、必要物品を用意して栄養物の液体が入った袋を点滴台にぶら下げてC氏の元へと戻った。
鼻から出ている管に液体の入った袋を繋ぐ前にシリンジを接続して空気を送り込む。腹部の音を聴診器で聞いて管が胃部分に到達している事を確認した後、シリンジを引いて胃液の確認をさらに行った。間違いなく管が胃部分に到達している事を確認すると、今度は袋を接続し、液体を落とし始めた。
食事といっても経管栄養では満足感は得られにくい。食べ物を噛む亊も無ければ飲み込む亊もせずに胃袋に送る。匂いもせいぜい胃袋から上がってくるものだけで、ほとんどしないだろう。
C氏は無表情のまま車椅子に座って、液体が落ちきるのをじっと待っていた。
しばらくすると、C氏は前に乗り出して口を大きく開け始める。そこから次々と唾が流れ出てきた。それを拭う事なく出し、唾液は床にぽたぽたと垂れていく。
タオルを渡すと垂れる場所に置くものの、口元を拭こうとはしない。無表情のまま、唾液を出し続けた。
その表情は何を考えているのか分からない。何もくみ取れなかった。
そんなC氏を見て少し哀れみを感じてしまった。
数日後、ルゥと勤務が一緒になった時に経管栄養しているC氏の表情がくみ取れなかった事が気になってその時の事を話すと全てを聞いた後に少し笑った。
「あれはね、わざとそう流しているの。別にリンの時だけじゃないわ。Cさんが今までデイルームに来た時、見てなかった?」
「そうなの?」
受け持ち患者で精一杯で看てなかった。本当は看ないといけないのだろう。けれどもルゥはその事を深く咎める事はしなかった。
「うん、今のCさんは自分自身で唾を飲み込むことすら行えないの。自分の唾で誤嚥しないように食事の時に多く出る唾液を全て出しているのよ」
そうなのか。言われてみれば納得出来た。いや、それしか方法がないような気がする。特にC氏のような特殊な状態だとそれが一番だろう。たとえ、醜くても、汚くても。それがC氏の身体を守る上で一番の事なのだ。
それなのに私は何て事を思ってしまったのだろう。C氏に嫌われてしまっているのではないか、何を考えているのか分からず深読みしすぎてしまった。結局、私は表面的な所でしか患者の事を看れていないという事なのだろう。
そんな風に悩んでいる時に、タイ子さんからある提案がされる。朝、病棟にやってきてナースステーションに入ると、荷物を置く前に呼び止められた。
「リンちゃん、C氏のプライマリーナースになってみるぅ?」
プライマリーナースとは患者を専属で看るというものだ。一人で二十四時間看る事は出来ない為、担当者が居なくても統一したケアを行えるようなプランの立案が求められる。私はまだ、プライマリーの患者を持っていなかった。
今の私に出来るのだろうか。
「勉強になると思うよ。特にリンちゃんはあの人苦手でしょう?」
すぐに答えられなかった私にタイ子さんはさらに言葉を重ねてくる。見透かされた。C氏の事は何も話していないのに。どうして苦手意識を持っている事が分かったのだろう。こういう時に看護師という職業が嫌になる。
タイ子さんは優しく言ってくれているが、拒否権は無さそうな雰囲気だ。私はゆっくりと頷くとじゃあ今日からねと軽く言われてしまった。深く考えずに端末に接続して今日の送りを受けると受け持ちの中にC氏が居てプライマリーナースの設定はすでに私になっていた。
もう決定事項だったのだ。
どうしよう、C氏の為に何か出来る事を考えなければ。かといって彼女の言いたい事が分かるわけでもない。
「リン!」
悩んでいた所にルゥから声を掛けられる。
「聞いたよ。C氏のプライマリーになったんだって」
「うん、そうだけど……」
何て情報が早いのだろう。きっと、タイ子さんは私に話す前にルゥに話していたのだろう。
「タイ子さんから私がフォローしてって言われたから。遠慮なく言ってね」
成程、そういう事か。だからルゥも知っているのだ。
「うん、ありがとう」
ルゥが助けてくれる。なんてありがたいのだろう。だからこそ、なおさら全て頼るわけには行かなかった。
私は他の患者さんの検温に回る前にC氏の部屋へと行く事にした。ここで悩んでじっとしていても仕方がないし、答えなんて出てこないような気がした。答えが出てこないならば、意思がくみ取れないままでも、C氏の側に寄り添う必要があると思った。関わりを増やす必要があると思ったのだ。
C氏の部屋の前まで行くと一礼して中へと入る。近づくとC氏は私の顔をじっと見つめていた。
さらに顔を覗き込むように近づける。するとC氏はまた目を細めた。私だけにする行動だ。
「大丈夫ですか?」
声掛けにC氏はじっと私の顔を見つめる後、頷くのみ。このままではいけない。この前の二の舞になってしまう。それだけは避けなければ。
今のC氏に足りないものはなんだろうか。
まず、脳出血による嚥下機能の低下。現状の維持、向上させるためのリハビリを行う必要がある。その為、嚥下訓練を計画で上げる。
次にこの環境では娯楽がない。病院という場所がそうさせているものがあるが、さらにC氏が半身麻痺も要因となっていた。だから気分転換出来る何かが必要になってくる。一体何が行えるのだろう。身体半分動かせない身体で。
一生懸命に考えるも結局分からなくなってしまう。私は困ってC氏の顔を見つめた。
C氏は黙って私を見つめ返すだけで何も言ってこない。当たり前である。C氏は話す事が出来ないのだから。
こうなったら最終手段であった。私はポケットの中に忍ばしている変換ケーブルを取り出した。これを通して直接C氏と繋がる為だ。モニターに言葉を表示できない為、やっても得られるものはないかもしれないけれども、駄目で元々だ。
C氏はB氏と違って認知症の人ではない為、私の感じた事や考えもC氏に伝わってしまい忘れられる事もないだろう。しかし、これしか私には残されていなかった。
C氏に変換プラグを見せながらこれから行う事を説明していく。情けなくて泣きたくなってきたけれども、最後まで話すと彼女は頷きを返してくれた。
ゆっくりとC氏のプラグに変換ケーブルを接続すると、続いて私のプラグも接続した。
沢山のノイズの中に、居た。無数に広がるノイズ。そのどれもが時々は強く濃く集まって何かの形になろうとしていた。しかし、もう少しできちんと形成されそうになるとそれらはたちまち崩れていき、また無数のノイズへと戻ってしまう。それを何度も何度も繰り返していた。
無数にあるノイズの一つに一生懸命に手を伸ばすけれども、触れられずにすり抜けて行ってしまう。
それでも構わずに伸ばし続けた。
もどかしさばかりが募っていく。以前は簡単に行えた事だからこそ、余計にもどかしかった。
そんな中、奥底に一つの映像が浮かび上がってくる。それは若かりしC氏の姿であった。今とは違って長くて綺麗な髪を風に靡かせていた。どこか笑顔なのは、居る場所がそうさせたのだろうか、それとも一緒に居た人か。ともかく、昔の記憶であった。
そんな昔の記憶も、沢山のノイズの中にどんどんと埋もれていってしまった。
プラグ接続を終える。私は呆然としてしまった。結局プラグ接続を行ったけれども、昔のC氏の姿しか分からなかった。
昔の姿が愛しいのだろうか。当たり前である。今の動けない姿を考えれば。けれども、私の力で達成できるようなものではなく、そのニーズには答えられそうには無かった。
プラグ接続を行ったけれども、結局は徒労に終わっただけとなってしまった。
考え事をしているとふと頭の上に感触があった。はっとして見てみるとC氏が動く手を伸ばして私の髪の上を撫でていた。
嫌な気持ちになる。C氏に私のどんな感情が流れてしまったというのだろうか。撫でられる程にかわいそうに思ったのだろうか。
髪……ふと、C氏の髪の方に視線が行った。若干白髪が混じっているものの、まだまだ黒い髪の方が多い。髪の毛の間にシラミがぽつりぽつり――いや、よく見てみると奥の方に多く見られた。
この病棟では一週間に二回は入浴介助を行っている。だから清潔援助をしていないわけではない。けれど、私だったら一週間に二回しかお風呂に入れないのは嫌だし、髪にシラミが沢山あるなんで耐えられそうにない。たとえ半身麻痺になって入院したとしても。
「髪を……洗いますか?」
深く考えずに口から言葉が出てしまう。しまった、これでは失礼だ。まるでC氏を不潔に感じたと取られても仕方がない。
C氏は変わらず私の顔をじっと見たまま。駄目だ。もう退室しよう。そう思った瞬間に目が数回瞬きした後、頷いたのである。
反応があった事に驚いてしまう。戸惑いながらも今日中に洗髪する約束を行うと部屋から退室した。
大した事ではないけれど、C氏に対して出来る事を見つけたので私は安堵すると、すぐにナースステーションまで戻った。
午前中までに他の業務を終わらせて、午後に時間を作ると洗髪の準備を行っていく。師長に確認した所、今日は入浴場のお湯が出ないようなので、部屋に洗髪車を持って行って洗う事にした。
洗髪車を使って一人で行うと大変だし時間が掛かってしまう為、ルゥに手伝って欲しいと伝えると「いいね、是非やろうよ」とすぐに言って貰える。本当にありがたかった。
準備が出来るとルゥと一緒にC氏の部屋へと向かった。一礼して中に入りベッドサイドに洗髪車を持っていく。それを見たC氏は目を見開いて驚いている様子だった。私が洗髪をしないと思っていたのだろうか。
ルゥと一緒にC氏を車椅子へと乗せると、洗髪車に前向きに寄り寄り掛かって貰った。
声を掛けてお湯を頭にかけていく。水が髪全体に馴染んだ後、シャンプーを手で泡立出せた後にC氏の髪に付けて、ついでに頭皮のマッサージも行った。
「痛くないですか?痒い所はありませんか?」
声掛けに対して、C氏は若干頷いたように見えた。洗髪車に頭を載せている為、動きが制限されてしまって、分かりにくい。
その頷きが何を示しているのか分からなかった。声掛けする言葉を間違えているのだ。こういった時にどのような声掛けをしていいのか分からない。
――経験不足ではなくって、勉強不足なのではないですか?
ニッカの言葉が頭に響いた。ニッカの存在がさらに私の心を締め付ける。
私は、上手くなんて行えない。でも、出来る事を精一杯にやろう。それしか私には出来ないのだから。
C氏の意図がくみ取れないままにどんどんとケアは進んでいく。そして拙いながらも、彼女の髪を綺麗にすることが行えた。
「さっぱりしましたね、良かったですね」
終わった後、黙っていた私の代わりにルゥが声掛けをしてくれていた。ルゥに続いて労いの言葉を掛けるが、何もかも遅い。
今すぐにこの場から離れたい気持ちに駆られるも、それをぐっと抑えて道具の片づけを行っていった。
ナースステーションに戻り、リーダーのタイ子さんにC氏の洗髪を行った事を伝えたら「いいねぇ、いいねぇ」と褒めて貰える。しかし私はそれを素直に受け止める事が出来なかった。
「何処が良いというのですか?」
思わず訊ねてしまう。何処もいい所なんてない。隣で一緒に報告していたルゥが私の事を見てくるけど関係ない。このケアは私の未熟さが露呈しただけだ。惨めな気持ちに気づいていないのか、タイ子さんが笑った。
「Cさんの髪、私も気になっていたのよぉ。可哀想だったわぁ。よく気が付いて洗ってくれたねぇ。助かったわぁ。ありがとう。今後も続けていけるように計画を上げましょう」
タイ子さんのいきなりの提案に驚いてしまう。
「私なんかの計画でいいのですか?」
「いいの。それにC氏に毎日髪を洗って上げたいでしょ?」
確かにC氏には清潔でいて欲しい。計画として上げて組み込めば、私がいない時にもその計画が活用されて患者へと実施される亊になる。しかしこれがC氏にとって本当に必要なケアに繋がっているかと問われると微妙な所だ。
考え事をして固い表情をしていたら、タイ子さんは緊張していると捉えたらしい。言葉を付け加えた。
「みんな初めてで練習なしで、ぶっつけ本番で計画しているのよぉ。大丈夫。リンちゃんなら出来るわぁ。だから明日までに計画してきておいてね」
容赦なくタイ子さんは言った。計画は一朝一夕で出来るようなものではない。時間が掛かるのである。明日までなんてあまりにも酷だ。
それ以上の有無を言わせないようにタイ子さんは話を切り上げた。どうやら拒否権は無いみたいだった。
私は業務が終わった後、一人病棟に残って計画の立案を行った。自分に満足できるものが完成した頃には日は暮れてしまい、辺りは暗くなってしまっていた。もう、今日は帰って寝るだけになるだろう。
その忙しさから、すっかり自分を責めるのを止めてしまっていた。
それから、C氏は毎日のように髪を洗って貰えるようになる。C氏の日々の表情が何だか明るくなったのが私にも分かった。
でも、まだまだ足りない。プライマリーナースとしてもっとC氏に対して出来る事は無いだろうか。そう思うも結局思いつかず、夜勤業務が増えた事もあって、日勤業務が減ってしまい、C氏と直接関わる時間が減ってしまう事になる。経過を記録で追っていくのみとなってしまった。日々悩みながらも月日は経過していき、そして何も出来ないままC氏の退院が決まってしまう事になる。
悪くなっての退院ではない。行く施設が決まったのだ。その施設で別の病院へと通院し、最終的に脳の再生手術も行うらしい。C氏はキャリアウーマンで稼いでいたお金をきちんと貯めていたのだ。その事が功を成したのだろう。
退院日はすぐにやってくる事になる。その日、私は運よく日勤だった。いつもより早く来ると端末から送りを受け終わり、C氏の所へと向かった。
訪室すると、C氏はすでに着替えが終わって車椅子へと乗車していた。きっと夜勤者が準備をしてくれたのだろう。荷物もまとまって床頭台の上へと置かれている。後は施設からの迎えがやってくるのを待つのみだ。
C氏と目が合う。その瞬間に彼女は笑ったような気がした。いや分からない。私がそうであって欲しいと思っただけかもしれない。
けれども、そうではなかったのである。次にC氏は動かない口を一生懸命五回動かして、今度ははっきりと笑ったのである。
恐らく感謝の言葉を述べたかったのだろう。察するけれども、私はC氏に対して何も行えていない。せいぜい髪の毛を洗って、その計画をして綺麗を保ったぐらいだ。でも、もしかしてそれが彼女にとって入院生活の中で一番気になっていた事だったならば。それを取り除く関わりが出来たのではないだろうか。
そんな私の心の中を察したかのようにC氏は自分の髪の毛をさらりと撫でた。やっぱりそうなのだ。
私にとっては小さな事だと思っていたことでもC氏にとってはとても重要な事だったのかもしれない。それを汲み取れた事に気付き、何だか嬉しくなってしまった。
C氏の手に自分の手を添えて、私も笑い返す。言葉もプラグ接続も必要無かった。それでも何もかも伝わった。
そんな時間もすぐに退院の時間がやってしまい終わってしまう。今日来ていた職員全員に見送られながら、C氏は病棟を去っていった。
誰にも分からないようにポケットの奥底に仕舞ってある変換ケーブルを握る。小さな事でも救っていく。それは些細な事に思えても、その人にとっては大きい時がある。それを積み重ねていく事が私に出来る事。私の看護なのでは、ないだろうか。
B氏の一件から私はこの病棟では一人前と認められた様で、今まで任されていなかった業務の入院受け、夜勤、認知症以外の方の患者の受け持ちなどを任されるようになる。それらをこなしていく内にどんどんと季節は過ぎていき、この病棟に私がやってきて三か月が経過しようとしていた。真夏日が増えて、冷房器具を使用しないと苦しい季節となっていた。
普段の病棟業務にも慣れてほとんど一人で行えるようになり、また他の職員に業務の事について訊ねる事も少なくなっていた。
一人前として認められる事は良い事だと思う。しかし私は困っていた。入院受けも夜勤も何とか出来ていたが、認知症以外の脳・神経に疾患ある患者を受け持たなければならなくなったからである。
デイルームには居ない患者さん。部屋が並ぶフロアのさらに奥に鍵が掛かっている扉があり、そこを抜けた所にある病室に入院している人達。
認知症の患者と違って物忘れはない。関係性がリセットされる事なく、覚えられているのである。それは当たり前の事だけれど、患者とのコミュニケーションに気を付けなければいけないのである。それを避ける為にこの病院にやってきた私にとっては苦痛な事であった。
ルゥからこの病棟を勧められた時に、半分くらいが認知症の方だから大丈夫だよという紹介をそのまま鵜呑みにして就職を決めてしまった事を後悔する。当時の私は前の病院を一か月で辞めてしまい、次の就職先探しで焦っていて正確な判断が行えなかった。今だったら断っていたかもしれない。
脳・神経の患者を受け持つようになってから正直に言って気が重い。業務が楽しくなかった。リーダーに言えばある程度は配慮して貰えるのかもしれないけれど、他者とのコミュニケーションを避けたいなんて仕方がない理由では聞き入れて貰えないだろう。
けれどもこれも仕事なのだから仕方がない。そう自分に言い聞かせて、業務を行っていた。
「おはようございます」
朝、ナースステーションにやってきて中に入り挨拶を行うと中にいた職員が業務の支度をしながら挨拶を返してくれる。その中で一人だけ返事を返さなかった人物が居た。ニッカである。ニッカだけがまるで聞こえていないように、点滴の準備をしていた。
ニッカは苦手だ。同じ時期に看護師になったのだけれど、ニッカは看護師としての向上心が高い。さらに気が強い性格の為、私とは合わなかった。
ニッカはやる気のない看護師――向上心の無い看護師を嫌う。軽蔑しているような節があり、その人の悪口なんて平気で言うし、無視もするし態度も明らかに違ったりする。
私の事も看護師としての向上心が無い事を早々にニッカには見抜かれていて、多分嫌われている。直接そのように言われたわけではないけれど私への対応で分かる。さっき挨拶を返さなかったのもそうだ。口では言わないけれど態度は露骨に表していた。
私はニッカが挨拶を返さなかったのを気が付かないフリをしてナースステーションの隣の休憩室へと向かった。休憩室の中は誰も居なく静かだった。ここには荷物を置いたらもう用が無いのですぐにステーション内に戻ろうとしたけれど、身体が止まってしまう。隣からの会話が聞こえてきてしまったからだ。
「もう、ニッカちゃん、駄目よ、ちゃんと挨拶しないと~」
聞こえてきたのはタイ子さんの声だった。きっと先程の事だろう。という事はニッカと話しているのだろう。
「いいのです。私、事前準備で忙しいですから」
ニッカは年上で経験年数も多いタイ子さん相手だというのに、ハッキリと言い返した。その言葉は鋭利的で冷たく、ナースステーション内の空気が固まったのをここからでも感じ取れた。私のせいで空気が悪くなったようで申し訳なくなってしまう。
ニッカはそんな空気なんて気にせずに、言葉を続けた。
「それより堤さん、その呼び方はよろしくないじゃないですか。苗字で呼んでください。友達ではないのですから」
「そ、そう?御免なさいね」
流石のタイ子さんも引いてしまい、それ以上言えなくなっている。
嫌な気分になる。どうしてこんな人が看護師なのだろうか。ニッカは職員に当たりが強いが、患者の前ではニコニコと笑って寄り添おうとするのだ。看護師にとって守るべきものは患者だけで、それ以外は違うかのように接する。そうする看護師の方が仕事を上手くこなせる割合が高いような気がする。
タイ子さんとニッカのやり取りを聞いていると思われたらもう今日は仕事を行えない。だから私は聞こえていないフリをしてナースステーションへと戻るといつも通りに電子端末から伸びているコードを首の後ろのプラグに接続して送りを受けた。
送りは一瞬で終わってしまう。こういう時にはもっと時間が掛かってもいいと思うのにそうならないのがもどかしい。もっと現実逃避がしたかった。コードを抜くと誰にも分からないように溜息をついた。それでも心の奥底にある黒い塊を払拭する事が出来ない。
今日の受け持ち患者に認知症とは違う脳梗塞の患者――C氏がいて、さらに気が重くなってしまった。
C氏は五十歳代歳代女性。四十歳代になった時に二型糖尿病を発症した。元々生まれ持って疾患がある先天性の一型糖尿病と違い、二型糖尿病は食生活等の問題から後発的に発症する。
C氏は元々油多めの食事が好きな事、キャリアウーマンでほとんど自宅には戻らずに全国を飛び回るように巡っていた為に必然的に外食が多かったのが主な要因である。
また毎晩とはいかないけれども週三~四日程度は居酒屋で一日が終わる事があり、その時には数杯のビールと共に大好きなから揚げも一緒に食べていた。
そんな生活を二十年近く続けていた。ストレスは発散されて精神は保たれていたが、身体の方に徐々に毒が蓄積されていく事となる。
異変は仕事中に突然に起こった。それはある営業所から本社に帰る途中であった。駅の階段を昇っていたC氏に急に眩暈が襲ってきたのである。その眩暈は三十分程度続くものであり、今までC氏が経験した亊の無いようなものであった。
流石に危険を感じたC氏は次の休日に病院を受診する事にした。そこで診断されたのは高血圧症と軽度の糖尿病の発症。今は透析を行う程ではないものの、この生活を続けていくようならばいずれそうなってしまうと医師から通告される事になる。
診断にC氏は驚いたものの、医師の話を深刻には受け止めなかった。もっと重い病気で働けなくなったらどうしようと考えていたものだから、それに比べたら大した事無かったからである。
それに処方された降圧剤を飲んでみると血圧が目に見えて下がった。なんだ、薬さえ飲めば何も心配する事は無いじゃないか。C氏はそう思った。勿論大きな間違いである。しかし楽観的だったのである。
医師からは教育入院を勧められた。この場合の教育入院は食事指導が主になる。低カロリー食の作り方を教わり、減塩や低脂肪の食事にしていくのである。
C氏はそれを拒否した。教育を受ける意味を見出せなかったからである。自宅で食事や弁当を作っている暇はないし外食を控える事も出来ない。かといって、店で細かくオーダーを出すつもりもなかった。
食べる物だけ気を付ければいいのだ。なるべく野菜も注文するようにしよう。それだけで充分なはずだ。
退院するとC氏は早々に仕事に復帰した。戻った後も降圧剤を飲み続けた。
降圧剤を飲む事によってC氏は安心しきってしまっていた。だから血圧を小まめに測定する事もなくなっていったし、食事も最初の頃は気を付けて野菜も注文するようにしていたが、以前のように油もの中心の食事に戻ってしまっていた。本当はもう降圧剤では抑制されないくらいに血圧が上昇していると知らずに。
五十歳半ばに差し掛かった時、取引先に向かう途中で急にがつんと頭に衝撃を受けてC氏の意識を消失する。上昇した血圧に耐えきれず細い血管が破裂したのである。破裂した所は運悪く、脳の血管だった。
次にC氏が意識を取り戻すと真っ白な空間で横たわっていたのである。首をゆっくりと動かして回りを見回すとどうやら病院である事が分かった。一体何が起こったのか理解出来ない。
意識が消失する前に頭に衝撃を受けた事を思い出す。誰かに殴られたか、それとも何か物でも飛んできて頭にぶつかったか。C氏には原因が分からなかった。
右手を上げようとするも動かない。右足も動かなかった。左腕だけは動いて自分の顔を触るが、右側の感覚だけが無かった。
悪い予感がした時に医師がC氏の前にやってくる。話を聞きたくはなかったが、医師は容赦なく言葉を発した。
脳出血による右側感覚麻痺。医師から説明を受けたものの、まるで実感が湧かずにまるでおとぎ話を聞いているような感覚だった。もう身体の右側を動かす事が出来ない。C氏は絶望した。
C氏は救命処置を行った後、次に行く病院を探す間の居場所として、この病棟へとやってきたのであった。
業務開始時刻になると、私はまず認知症の方から検温に回る。それが終わると私はC氏の所へと向かった。認知症患者の部屋を抜けてさらに奥に行くと、鍵が閉められている扉が見えてくる。その扉の奥が脳・神経系で入院している患者の病室となる。
鍵が掛かっているは認知症の方とは理由が違う。病棟の中に居る人達を外に出さない為ではなく、このエリアの中へ人を入れないようにする為である。脳・神経で入院している人達は殆どが生命維持に必要な機械類を装着しているので、それらを外されないようにする為、つまるは守る為であった。
認知症の患者は短期記憶の障害や場所の理解が行えないだけではない。わけも分からずに他者の物を弄ってしまうという行為が見られる場合がある。その人が悪いわけではない。そういう病気でそのような行為に及んでしまうだけなのである。
そういった患者から守るためにも鍵の施錠は必要となってくる。その為、認知症の方とは違うエリアとなっていた。
鍵の掛かった扉を抜けてC氏の部屋へと向かう。C氏は四人部屋の窓側のベッドだ。部屋の前まで行くと名前が間違えていないか確認を行った。
「失礼します」
ドアをノックして一礼すると、私は部屋の中へと入った。カーテンの囲いを抜けて中に入ると、ベッドの上にC氏が横になっていた。すぐ横には持ち運べる程度の大きさのモニタータブレットが隣に置かれていて、コードが伸びてC氏のプラグと接続されていた。
モニターは電源が入っているが、大抵ノイズのようなものが走っているだけである。本来ならば、モニターを使用して文字などを表示できるが、脳出血の影響で言葉や文字の生成が出来ないでいたのである。それでもごく稀に文字は出てくる事がある為、使用しているがコミュニケーションをとろうとした時にはあてには出来ない。
言語野に障害がある方へのコミュニケーション方法としてもう一つ、ボードを用いる方法がある。五十音が並べられている透明なボードを使用して、患者の目の動きでどの文字を示しているか読み取るというものである。しかしプラグ手術が広まってモニター表示が出来るようになってから、こちらを使う人は少ない。看護学校でも読み取りの講義はすでに無くなってしまっていた為、私には出来なかった。
だからC氏とのコミュニケーションはイエス・ノーで答えられる簡単な質問――閉じられた質問を行うしかない。看護師がコミュニケーションを行う上では避けなければならない技法だが、言葉を発せられない人には有効である。しかしそれだけでは思いの全てが分かるはずが無かった。
私は少しでもC氏の意思をくみ取ろうと顔を近づけた。その瞬間にC氏が目を細めたのが分かった。まるで私が近づいた事が嫌なような表情。嫌われているのだろうか。いや、嫌われるような事を覚えは無い。そもそもそんなに関わりを持っていない。嫌われる段階にすら至っていないはずである。一応モニターを確認するが、ノイズが走っているだけである。
何を考えているのか分からない。だからC氏は苦手だ。
私は気を取り直す。苦手なんてもの関係ない。考えても分からないし気のせいの可能性もあった。
「体調はいかがですか?」
私が問いかけるとC氏私の顔をじっと長い間見つめた後、ゆっくりと頷くのみ。その頷きが何を示しているのか分からなかった。しかしC氏が悪いわけではなく私の質問の仕方が悪いのだろう。しかし、それ以上どう言葉を重ねればいいのか分からず、気まずさを誤魔化すように当初やってきた目的の検温を行うべく道具を見せて準備を始めた。
道具を見せるとC氏は頷きで返してくれたので、どうやら検温を行っても良いらしい。測定を順に行っていく。体温に異常無し。血圧は高値だったが元々持病として高血圧がある為、慌てるようなものではない。その後全身をくまなく観察するが、皮膚状態も問題は見られなかった。
測定はすぐに終わってしまった。終わってしまうと沈黙が二人を包んだ。何を話したらいいのか分からなくなってしまう。看護師と患者の間には必要不可欠な沈黙というものがある。しかしこれは不要のものであった。私の技量によるもので、これ以上気まずいものはない。
どう言葉かけをしたらいいか分からない。C氏はじっと私の亊を見つめている。その理由が分からない。気まずい雰囲気だけが、私とC氏の間に流れていた。この空気に耐えられそうにない。
結局その場に居られなくなってしまい、あまりコミュニケーションを取らないでC氏の部屋から退室してしまった。
「経験不足だねぇ」
ナースステーションに戻ってタイ子さんに一部始終報告すると、笑いながらそう私に言ってくれる。
「もうちょっと看護師やったら分かるようになるわよぉ」
タイ子さんは私の対応が全て間違いではないと言っているのだろう。タイ子さんの優しさに私は安心するが、偶然に通りがかりに聞いていたニッカはそうでは無かった。足を止めて私の事を鋭い眼つきで見てくる。嫌な予感がした。
「経験不足ではなくって、勉強不足なのではないですか?」
患者対応が上手く行かなくて落ち込んでいるというのに、ニッカはさらに追い打ちをかけてくる。
その通りだ。勉強不足なのだ。彼女ならば学校で習ってもいないボードを用いる方法も行えるのだろう。その通りなのだけれどもニッカの言葉に少しの棘を感じた。私の思い込みだろうか。
どうして上手く行かない日にニッカと一緒の勤務なのだろう。病棟には平日も休日も人を絶やしてはいけないので、関係なく出勤になる。その為休みはそれぞれ違ってくる。さらに夜勤業務もあるので、勤務が重ならないと会わない人には本当に会わなくなる。それなのに最近ニッカと勤務が一緒の事が多いように思える。
私の心境なんて無視してニッカは続けた。
「提さんも甘い事言わないで勉強しなって言ってくださいな。私だったら出来ないことがあったら悔しくって、家に帰って勉強しますよ」
確かに業務において悔しいなんて感じたことなんてない。出来ない自分を責め続けるだけだ。自分自身の亊で精一杯すぎて勉強をしようという気持ちが向かわないのだ。
「すみません」
謝る事では無いけれど、そうせざる雰囲気になってしまっていた。しかしニッカもその事は分かっていた。
「私に謝るのではなくって、勉強してくださいな」
ニッカは私の事を一瞥すると、これで満足したのか、その場から離れて行ってしまった。
タイ子さんは笑ったまま「まぁねぇ」とどちらの味方をするわけもなく言った。分かっている。タイ子さんばかりに頼ってはいけないということぐらい。いや、タイ子さんだけではない。他の人に頼ってはいけないのだ。
ニッカに言われなくても分かっている。完全に私が看護師としての経験不足と勉強不足が招いている事を。
もしも私がコミュニケーションボードの使い方を勉強して熟知しているのならば、C氏ときちんとコミュニケーションが取れるのかもしれない。それか経験年数が高く、相手の表情や小さな仕草で患者の思っている事をくみ取ることが出来るのならば、ここまで悩んで苦労したりしないだろう。
全て、ならば、ならば――と続いてしまう。結局無いものねだりだ。無能な自分自身を呪いたかった。
「リンちゃん?」
タイ子さんの声掛けで現実へと戻ってくる。いつの間にか自分の世界に入ってしまっていたようだ。どのくらい思考していたのだろう。一瞬でも止まっていたからタイ子さんは声を掛けてくれたのだろう。
タイ子さんは心配そうな表情をしていたが、私が反応を示した事によって安心した表情へと変わる。
「あんまり考えすぎないでねぇ。今、リンちゃんが行える事を一生懸命すればいいんだから」
その優しさが返って私の心をえぐった。何も出来ないと言われているような気がした。
私はただ「はい」と返事をしてすぐにその場を離れると業務へと戻った。こんな所でぼんやりしている時間なんて、ないのだから。
残りの業務の軟膏処置が終わると、すでに昼食前の時刻となっていた。しかし食事介助の前にもう一つ業務が残っていた。それはC氏を離床してデイルームへとお連れしなければならないのである。その為に、車椅子乗車しないといけなかった。
私は非力の為、一人で患者をベッドから車椅子へと移乗させる事が出来ない。助けを求める必要があった。
ニッカには頼りたくない。ルゥに頼むのが一番だけど今日は居ない。消去法的に私はリーダーのタイ子さんに声を掛ける事にする。
タイ子さんは相変わらずナースステーションのリーダー席でボードを見つめて難しい表情をしていたが私の頼み事に快く承諾してくれた。
「いいわよぉ。移乗するのは何回目?もう慣れた?」
「いえ、まだ数える程しかないです」
「分かったわ。じゃあ、今日はリンちゃん主導でやってみようか」
タイ子さんがリーダー席から立ち上がったので、一緒にC氏の部屋へと向かう。一礼して部屋の中に入ると、これから車椅子へと乗車する事を伝えた。
タイ子さんがC氏に顔を近づけて調子はどう?と間延びした声で訊ねた。するとC氏は嬉しそうな表情になり、はっきりと分かるように頷いた。その様子だけでタイ子さんとC氏との間に私にはない信頼関係が築かれているのが分かる。私の前ではそんな表情をした事が無いからだ。
先程のニッカとのやり取りを思い出しまうが私は首を横に思いっきり振った。今はニッカの事を思い出している時じゃない。目の前の患者に集中する時だ。
タイ子さんが、C氏と話をしている間に部屋の隅にあった車椅子をベッドサイド近くに持ってくる。そして離床の説明を終えたタイミングで、平行からベッドに斜めになるように備え付けベッド柵を外した。
寝ているC氏の横から首の後ろから肩まで腕を通して固定した後、膝の裏側を持ち上げる。そのままお尻を軸にして、C氏の身体を回転させてベッドから足を出して座って貰った。
この後、さらに車椅子へと移乗を行わなければならないが、私はこの一連の動作で既に息が上がってしまったので、C氏の休憩も含めて一旦休止して呼吸を整える。
今度は真正面から両脇に手を入れて、両手同志を組む。そのまま重心を下げて、C氏の体重を私へと寄り掛からせると、タイ子さんが補助でC氏のお尻部分を支えに入った。
その状態から腕の力や手の力ではなく大腿部に力を入れ、タイ子さんに合図を送る。掛け声と共に私が立ち上がるとそのままC氏も立ち上がった。その状態でゆっくりと回転していき、車椅子へと座って頂いた。
「お疲れ様でした」
C氏に労いの言葉を掛けるも、私の方が息切れを起こしてしまっている。自分自身の体力の無さに呆れながらも、表情には出さないように努力した。体力がギリギリの中、車椅子へと移乗させられたなんて援助をされる側としては不安でしかない。そんな心配をさせるわけにはいかない。
今にも倒れそうな事を誤魔化すように車椅子の後ろに付いているハンドルを持つ。
「それではデイルームへと行きましょう」
呼吸を整える間もなく車椅子を押してデイルームへと向かう。タイ子さんはその後ろをゆっくりとついてきていた。
「まぁ、何回かやったら慣れるわぁ」
私の耳元でこのように囁いた後、小さく笑い、タイ子さんは歩く速度を速めてナースステーションへと先に戻って行った。その通りなのだろう。きっとタイ子さんならば息も切らさずに素早く車椅子へと移乗をすることが出来るのだろう。しかし、出来ないからといってへこんでいるような時間はない。これからC氏の食事の準備を行わなければならない。
C氏の食事は経管栄養だ。嚥下機能を司る脳の部分がやられてしまっていて、上手く食事が飲み込めないのである。右鼻から管が出ていて、そこから液体物を直接胃袋へと入れるのが今のC氏の【食事】である。
デイルームへと送り届けるとすぐにナースステーションに戻り、必要物品を用意して栄養物の液体が入った袋を点滴台にぶら下げてC氏の元へと戻った。
鼻から出ている管に液体の入った袋を繋ぐ前にシリンジを接続して空気を送り込む。腹部の音を聴診器で聞いて管が胃部分に到達している事を確認した後、シリンジを引いて胃液の確認をさらに行った。間違いなく管が胃部分に到達している事を確認すると、今度は袋を接続し、液体を落とし始めた。
食事といっても経管栄養では満足感は得られにくい。食べ物を噛む亊も無ければ飲み込む亊もせずに胃袋に送る。匂いもせいぜい胃袋から上がってくるものだけで、ほとんどしないだろう。
C氏は無表情のまま車椅子に座って、液体が落ちきるのをじっと待っていた。
しばらくすると、C氏は前に乗り出して口を大きく開け始める。そこから次々と唾が流れ出てきた。それを拭う事なく出し、唾液は床にぽたぽたと垂れていく。
タオルを渡すと垂れる場所に置くものの、口元を拭こうとはしない。無表情のまま、唾液を出し続けた。
その表情は何を考えているのか分からない。何もくみ取れなかった。
そんなC氏を見て少し哀れみを感じてしまった。
数日後、ルゥと勤務が一緒になった時に経管栄養しているC氏の表情がくみ取れなかった事が気になってその時の事を話すと全てを聞いた後に少し笑った。
「あれはね、わざとそう流しているの。別にリンの時だけじゃないわ。Cさんが今までデイルームに来た時、見てなかった?」
「そうなの?」
受け持ち患者で精一杯で看てなかった。本当は看ないといけないのだろう。けれどもルゥはその事を深く咎める事はしなかった。
「うん、今のCさんは自分自身で唾を飲み込むことすら行えないの。自分の唾で誤嚥しないように食事の時に多く出る唾液を全て出しているのよ」
そうなのか。言われてみれば納得出来た。いや、それしか方法がないような気がする。特にC氏のような特殊な状態だとそれが一番だろう。たとえ、醜くても、汚くても。それがC氏の身体を守る上で一番の事なのだ。
それなのに私は何て事を思ってしまったのだろう。C氏に嫌われてしまっているのではないか、何を考えているのか分からず深読みしすぎてしまった。結局、私は表面的な所でしか患者の事を看れていないという事なのだろう。
そんな風に悩んでいる時に、タイ子さんからある提案がされる。朝、病棟にやってきてナースステーションに入ると、荷物を置く前に呼び止められた。
「リンちゃん、C氏のプライマリーナースになってみるぅ?」
プライマリーナースとは患者を専属で看るというものだ。一人で二十四時間看る事は出来ない為、担当者が居なくても統一したケアを行えるようなプランの立案が求められる。私はまだ、プライマリーの患者を持っていなかった。
今の私に出来るのだろうか。
「勉強になると思うよ。特にリンちゃんはあの人苦手でしょう?」
すぐに答えられなかった私にタイ子さんはさらに言葉を重ねてくる。見透かされた。C氏の事は何も話していないのに。どうして苦手意識を持っている事が分かったのだろう。こういう時に看護師という職業が嫌になる。
タイ子さんは優しく言ってくれているが、拒否権は無さそうな雰囲気だ。私はゆっくりと頷くとじゃあ今日からねと軽く言われてしまった。深く考えずに端末に接続して今日の送りを受けると受け持ちの中にC氏が居てプライマリーナースの設定はすでに私になっていた。
もう決定事項だったのだ。
どうしよう、C氏の為に何か出来る事を考えなければ。かといって彼女の言いたい事が分かるわけでもない。
「リン!」
悩んでいた所にルゥから声を掛けられる。
「聞いたよ。C氏のプライマリーになったんだって」
「うん、そうだけど……」
何て情報が早いのだろう。きっと、タイ子さんは私に話す前にルゥに話していたのだろう。
「タイ子さんから私がフォローしてって言われたから。遠慮なく言ってね」
成程、そういう事か。だからルゥも知っているのだ。
「うん、ありがとう」
ルゥが助けてくれる。なんてありがたいのだろう。だからこそ、なおさら全て頼るわけには行かなかった。
私は他の患者さんの検温に回る前にC氏の部屋へと行く事にした。ここで悩んでじっとしていても仕方がないし、答えなんて出てこないような気がした。答えが出てこないならば、意思がくみ取れないままでも、C氏の側に寄り添う必要があると思った。関わりを増やす必要があると思ったのだ。
C氏の部屋の前まで行くと一礼して中へと入る。近づくとC氏は私の顔をじっと見つめていた。
さらに顔を覗き込むように近づける。するとC氏はまた目を細めた。私だけにする行動だ。
「大丈夫ですか?」
声掛けにC氏はじっと私の顔を見つめる後、頷くのみ。このままではいけない。この前の二の舞になってしまう。それだけは避けなければ。
今のC氏に足りないものはなんだろうか。
まず、脳出血による嚥下機能の低下。現状の維持、向上させるためのリハビリを行う必要がある。その為、嚥下訓練を計画で上げる。
次にこの環境では娯楽がない。病院という場所がそうさせているものがあるが、さらにC氏が半身麻痺も要因となっていた。だから気分転換出来る何かが必要になってくる。一体何が行えるのだろう。身体半分動かせない身体で。
一生懸命に考えるも結局分からなくなってしまう。私は困ってC氏の顔を見つめた。
C氏は黙って私を見つめ返すだけで何も言ってこない。当たり前である。C氏は話す事が出来ないのだから。
こうなったら最終手段であった。私はポケットの中に忍ばしている変換ケーブルを取り出した。これを通して直接C氏と繋がる為だ。モニターに言葉を表示できない為、やっても得られるものはないかもしれないけれども、駄目で元々だ。
C氏はB氏と違って認知症の人ではない為、私の感じた事や考えもC氏に伝わってしまい忘れられる事もないだろう。しかし、これしか私には残されていなかった。
C氏に変換プラグを見せながらこれから行う事を説明していく。情けなくて泣きたくなってきたけれども、最後まで話すと彼女は頷きを返してくれた。
ゆっくりとC氏のプラグに変換ケーブルを接続すると、続いて私のプラグも接続した。
沢山のノイズの中に、居た。無数に広がるノイズ。そのどれもが時々は強く濃く集まって何かの形になろうとしていた。しかし、もう少しできちんと形成されそうになるとそれらはたちまち崩れていき、また無数のノイズへと戻ってしまう。それを何度も何度も繰り返していた。
無数にあるノイズの一つに一生懸命に手を伸ばすけれども、触れられずにすり抜けて行ってしまう。
それでも構わずに伸ばし続けた。
もどかしさばかりが募っていく。以前は簡単に行えた事だからこそ、余計にもどかしかった。
そんな中、奥底に一つの映像が浮かび上がってくる。それは若かりしC氏の姿であった。今とは違って長くて綺麗な髪を風に靡かせていた。どこか笑顔なのは、居る場所がそうさせたのだろうか、それとも一緒に居た人か。ともかく、昔の記憶であった。
そんな昔の記憶も、沢山のノイズの中にどんどんと埋もれていってしまった。
プラグ接続を終える。私は呆然としてしまった。結局プラグ接続を行ったけれども、昔のC氏の姿しか分からなかった。
昔の姿が愛しいのだろうか。当たり前である。今の動けない姿を考えれば。けれども、私の力で達成できるようなものではなく、そのニーズには答えられそうには無かった。
プラグ接続を行ったけれども、結局は徒労に終わっただけとなってしまった。
考え事をしているとふと頭の上に感触があった。はっとして見てみるとC氏が動く手を伸ばして私の髪の上を撫でていた。
嫌な気持ちになる。C氏に私のどんな感情が流れてしまったというのだろうか。撫でられる程にかわいそうに思ったのだろうか。
髪……ふと、C氏の髪の方に視線が行った。若干白髪が混じっているものの、まだまだ黒い髪の方が多い。髪の毛の間にシラミがぽつりぽつり――いや、よく見てみると奥の方に多く見られた。
この病棟では一週間に二回は入浴介助を行っている。だから清潔援助をしていないわけではない。けれど、私だったら一週間に二回しかお風呂に入れないのは嫌だし、髪にシラミが沢山あるなんで耐えられそうにない。たとえ半身麻痺になって入院したとしても。
「髪を……洗いますか?」
深く考えずに口から言葉が出てしまう。しまった、これでは失礼だ。まるでC氏を不潔に感じたと取られても仕方がない。
C氏は変わらず私の顔をじっと見たまま。駄目だ。もう退室しよう。そう思った瞬間に目が数回瞬きした後、頷いたのである。
反応があった事に驚いてしまう。戸惑いながらも今日中に洗髪する約束を行うと部屋から退室した。
大した事ではないけれど、C氏に対して出来る事を見つけたので私は安堵すると、すぐにナースステーションまで戻った。
午前中までに他の業務を終わらせて、午後に時間を作ると洗髪の準備を行っていく。師長に確認した所、今日は入浴場のお湯が出ないようなので、部屋に洗髪車を持って行って洗う事にした。
洗髪車を使って一人で行うと大変だし時間が掛かってしまう為、ルゥに手伝って欲しいと伝えると「いいね、是非やろうよ」とすぐに言って貰える。本当にありがたかった。
準備が出来るとルゥと一緒にC氏の部屋へと向かった。一礼して中に入りベッドサイドに洗髪車を持っていく。それを見たC氏は目を見開いて驚いている様子だった。私が洗髪をしないと思っていたのだろうか。
ルゥと一緒にC氏を車椅子へと乗せると、洗髪車に前向きに寄り寄り掛かって貰った。
声を掛けてお湯を頭にかけていく。水が髪全体に馴染んだ後、シャンプーを手で泡立出せた後にC氏の髪に付けて、ついでに頭皮のマッサージも行った。
「痛くないですか?痒い所はありませんか?」
声掛けに対して、C氏は若干頷いたように見えた。洗髪車に頭を載せている為、動きが制限されてしまって、分かりにくい。
その頷きが何を示しているのか分からなかった。声掛けする言葉を間違えているのだ。こういった時にどのような声掛けをしていいのか分からない。
――経験不足ではなくって、勉強不足なのではないですか?
ニッカの言葉が頭に響いた。ニッカの存在がさらに私の心を締め付ける。
私は、上手くなんて行えない。でも、出来る事を精一杯にやろう。それしか私には出来ないのだから。
C氏の意図がくみ取れないままにどんどんとケアは進んでいく。そして拙いながらも、彼女の髪を綺麗にすることが行えた。
「さっぱりしましたね、良かったですね」
終わった後、黙っていた私の代わりにルゥが声掛けをしてくれていた。ルゥに続いて労いの言葉を掛けるが、何もかも遅い。
今すぐにこの場から離れたい気持ちに駆られるも、それをぐっと抑えて道具の片づけを行っていった。
ナースステーションに戻り、リーダーのタイ子さんにC氏の洗髪を行った事を伝えたら「いいねぇ、いいねぇ」と褒めて貰える。しかし私はそれを素直に受け止める事が出来なかった。
「何処が良いというのですか?」
思わず訊ねてしまう。何処もいい所なんてない。隣で一緒に報告していたルゥが私の事を見てくるけど関係ない。このケアは私の未熟さが露呈しただけだ。惨めな気持ちに気づいていないのか、タイ子さんが笑った。
「Cさんの髪、私も気になっていたのよぉ。可哀想だったわぁ。よく気が付いて洗ってくれたねぇ。助かったわぁ。ありがとう。今後も続けていけるように計画を上げましょう」
タイ子さんのいきなりの提案に驚いてしまう。
「私なんかの計画でいいのですか?」
「いいの。それにC氏に毎日髪を洗って上げたいでしょ?」
確かにC氏には清潔でいて欲しい。計画として上げて組み込めば、私がいない時にもその計画が活用されて患者へと実施される亊になる。しかしこれがC氏にとって本当に必要なケアに繋がっているかと問われると微妙な所だ。
考え事をして固い表情をしていたら、タイ子さんは緊張していると捉えたらしい。言葉を付け加えた。
「みんな初めてで練習なしで、ぶっつけ本番で計画しているのよぉ。大丈夫。リンちゃんなら出来るわぁ。だから明日までに計画してきておいてね」
容赦なくタイ子さんは言った。計画は一朝一夕で出来るようなものではない。時間が掛かるのである。明日までなんてあまりにも酷だ。
それ以上の有無を言わせないようにタイ子さんは話を切り上げた。どうやら拒否権は無いみたいだった。
私は業務が終わった後、一人病棟に残って計画の立案を行った。自分に満足できるものが完成した頃には日は暮れてしまい、辺りは暗くなってしまっていた。もう、今日は帰って寝るだけになるだろう。
その忙しさから、すっかり自分を責めるのを止めてしまっていた。
それから、C氏は毎日のように髪を洗って貰えるようになる。C氏の日々の表情が何だか明るくなったのが私にも分かった。
でも、まだまだ足りない。プライマリーナースとしてもっとC氏に対して出来る事は無いだろうか。そう思うも結局思いつかず、夜勤業務が増えた事もあって、日勤業務が減ってしまい、C氏と直接関わる時間が減ってしまう事になる。経過を記録で追っていくのみとなってしまった。日々悩みながらも月日は経過していき、そして何も出来ないままC氏の退院が決まってしまう事になる。
悪くなっての退院ではない。行く施設が決まったのだ。その施設で別の病院へと通院し、最終的に脳の再生手術も行うらしい。C氏はキャリアウーマンで稼いでいたお金をきちんと貯めていたのだ。その事が功を成したのだろう。
退院日はすぐにやってくる事になる。その日、私は運よく日勤だった。いつもより早く来ると端末から送りを受け終わり、C氏の所へと向かった。
訪室すると、C氏はすでに着替えが終わって車椅子へと乗車していた。きっと夜勤者が準備をしてくれたのだろう。荷物もまとまって床頭台の上へと置かれている。後は施設からの迎えがやってくるのを待つのみだ。
C氏と目が合う。その瞬間に彼女は笑ったような気がした。いや分からない。私がそうであって欲しいと思っただけかもしれない。
けれども、そうではなかったのである。次にC氏は動かない口を一生懸命五回動かして、今度ははっきりと笑ったのである。
恐らく感謝の言葉を述べたかったのだろう。察するけれども、私はC氏に対して何も行えていない。せいぜい髪の毛を洗って、その計画をして綺麗を保ったぐらいだ。でも、もしかしてそれが彼女にとって入院生活の中で一番気になっていた事だったならば。それを取り除く関わりが出来たのではないだろうか。
そんな私の心の中を察したかのようにC氏は自分の髪の毛をさらりと撫でた。やっぱりそうなのだ。
私にとっては小さな事だと思っていたことでもC氏にとってはとても重要な事だったのかもしれない。それを汲み取れた事に気付き、何だか嬉しくなってしまった。
C氏の手に自分の手を添えて、私も笑い返す。言葉もプラグ接続も必要無かった。それでも何もかも伝わった。
そんな時間もすぐに退院の時間がやってしまい終わってしまう。今日来ていた職員全員に見送られながら、C氏は病棟を去っていった。
誰にも分からないようにポケットの奥底に仕舞ってある変換ケーブルを握る。小さな事でも救っていく。それは些細な事に思えても、その人にとっては大きい時がある。それを積み重ねていく事が私に出来る事。私の看護なのでは、ないだろうか。

