台風の明けた七月の真夏日には、彼方此方で蝉が鳴き声を奏でていた。
「あぢぢぢぢ……」
太陽が眩しい光をアスファルトに照りつける晴天の下、白い道着に白袴をはいた杏はコンビニを出た。袋の中にはアイスが二つ入っている。
「まったく、桜のやつ、姉使い荒いんだからぁ。ジャンケン負けたからってアイス買いに行けだなんて……」
自分からアイスジャンケンしようと言い出したのに、彼女は妹の桜の所為にして、文句を言いながら歩く。
この自由奔放な彼女は春山 杏。こう見えても、地区最強の中学剣士だ。
アスファルトの照り返す中、街路樹の下を道場へ向かった。その時だった。
「稔、神妙にいたせ!」
「成敗じゃ、成敗じゃ!」
道中の脇手にある公園から、時代劇で出てきそうな言葉が聞こえてきた。
「何、何? 時代劇ごっこ?」
杏は時代劇が大好きだ。あわよくば自分も混ざろうと、心踊らせながら公園へ寄り道した。しかし、何やら不穏な空気。
「ありゃあ。大人の世界じゃ、それはリンチっていうのよ」
小学三年生くらいだろうか。三人の少年が、フェンスの際に追い詰めた一人の少年を棒っきれで叩いていた。
「ったく、あの子も男なら、やり返しゃいいのに」
杏は、呆れていじめられっ子の方に目をやった。
白い肌をした、少女のようにあどけない少年が、苦痛で顔を歪めている。
「か弱い子羊ちゃん……。そりゃあ、あんなんじゃいじめられるわ」
杏は、溜息を吐いた。しかし、何やら違和感を覚えた。
「何がおかしいんだろう?」
杏は、子羊ちゃんをよく見た。
「そうか、目線だ。あいつ……」
杏は、いじめられっ子に興味を持った。
「どうだ、稔。参ったか!」
「成敗完了じゃ!」
いじめっ子達は好き放題言って去って行く。いじめられっ子の少年はトボトボと公園のブランコに座った。
「よっわむっしくーん!」
杏は袋入りアイスで軽く少年の頭を叩いた。
「お姉さん……誰?」
振り向いた少年は一瞬頬を赤らめたが、すぐに眉を顰め怪訝な顔をした。
「私? 私はね……か弱い子羊ちゃんを慰めてあげる、正義のお姉さまなのだ!」
杏のいつものテンション。しかし、免疫のない少年はいよいよ怪訝な顔をしたので、杏は慌てて言った。
「冗談よ。アイス食べな。美味しいよ」
杏は少年の隣のブランコに座った。
ブランコに座りながら、『山口 稔』という少年はアイスを食べている。
「ねぇ、あんた。何であんなに叩かれてたのにやり返さなかったの?」
「しょうがないよ。あいつら、クラスの一軍だから」
「ふーん」
杏は切れ長の目を細め、悪戯な顔をした。
「でも、あんた。あいつらの棒っきれ、躱そうと思えば全部躱せたでしょ」
「えっ?」
「だって、あんたの目線。一度も瞑らずにあいつらの棒っきれを全部、追っていた。いいえ……見切ってた」
急に真剣な顔で真っ直ぐ見つめると、稔は目を逸らした。
「どうして、躱さなかったの?」
「だって、しょうがないよ。あいつら、一軍だし」
「しょうがない、か」
杏は少し上を向いた。
「でもあんた、あいつらを『一軍だから』とは言うけど、『強いから』とは言わないわよね」
目を細めて向き直ると、稔は下を向いた。
「ま、いっか」
杏は目線を宙に浮かした。いつもの公園の風景……青々とした街路樹に、セミの鳴き声が響き渡る。
しかし、何を思いついたのか、またすぐに稔に目を移した。
「ところであんたさぁ、ホントに強い奴に会ったことある?」
「ホントに強い奴?」
「そう」
杏は、くすりと笑みを浮かべた。
「何なら今日、会わせてあげる」
そう言うと、杏はブランコを軽やかに降りた。台風明けの公園には長い棒がゴロゴロ転がっている。その中で、一米くらいの棒っきれを二つ拾った。
「はい」
「はいって?」
「勝負よ、勝負。その棒っきれで思い切り私を殴りなさい」
杏は、フッと笑った。
「殴れるもんならね」
呆気にとられる稔に、杏は続けた。
「あんたが勝ったら、そうね……アイス、もう一つ上げる。その代わり。私が勝ったら、私の言うことを一つ、何でも聞くこと」
「えっ、そんな……僕、お姉さんを殴れな……」
「ほーれ、ほーれ、どっからでもかかってきなさーい」
ブランコを降りて狼狽える稔を前に、棒をブラブラさせてふざけた。
でも……杏は突如、切れ長の美しい瞳で稔を睨む。
悪ふざけは、ここまで。両手で棒っきれを持ち中段に構えた。
突然の空気の変化を感じた稔は戸惑う。
「ドゥアア……」
公園の空気が震え始めた。さっきまで聞こえていた蝉の声が全て鳴き止む。
「アアァ、ヤアアアーッ!」
杏は、稔を正面に凄まじい気迫を発した。周囲の空気がビリビリと振動し、その全てが稔を刺す!
杏の気迫。道場の有段者達でさえ、気圧されて動けなくなるほどの鬼神の如き気迫。
そこらの小学生ならば、ちびって泣き出してしまうだろう。杏自身も、どうして自分が一人のいじめられっ子相手にこんなことをしているのか分からなかった。ただ……この稔といういじめられっ子の中に、何か……自分の引き出したい『何か』を感じ取っていたのだった。
すると、稔は……クワっと見開いた目で棒っきれを振り上げ、向かって来たのだ。形こそ出鱈目、全くもって剣の体を成すものではないが、真っ直ぐ、杏の方へ……。
杏は、瞬時に体を右に捌いて棒っきれを紙一重で避けた。全力の棒っきれが空ぶった稔は、前のめりになる。杏は捌くと同時に振り上げた棒を電光石火の如く稔の脳天へ振り下ろす! 稔は、強く目を瞑る!
『コツン』
杏は、棒を稔の頭へ軽く当てた。
「目を瞑った時点で、あんたの負ーけ」
元の悪戯な笑みを浮かべた。
しかし、稔は青ざめた顔で小刻みに震えている。
「ねぇ、一つ聞いていい?」
棒っきれを放り捨てた杏は、まだ動けないでいる稔に向き直った。
「あんた、あの悪ガキ達には一切手を上げなかったわよね。なのに、どうして私にはあんなに全力で向かってきたの?」
「そ、それは……」
稔は震えながらも声を振り絞った。
「お姉さんが……強いから」
「強いから?」
「だって、お姉さん、メチャクチャ強いんでしょう? 僕がどんなに全力で向かって行っても、擦りもしないと思ったから」
杏は、切れ長の目を丸くした。しかし、
「プッ」
思わず、吹き出した。
「変なヤツ。全力で向かって来ても擦りもしない相手だったから、全力で向かって来たの?」
「そうだよね、おかしいよね」
稔も、初めて純粋な……少女のような笑顔を浮かべた。
「あ、いけない! つい、時間食っちゃった」
杏は慌ててブランコの椅子へ向かった。しかし、アイスを取って思い出したように言う。
「そうだ、あんた!」
公園の出口へ向かう彼女は、顔だけ稔に向けた。
「土曜日の十時。あの角を曲がった突き当たりの『剣信館』ってトコ来なさい」
「えっ?」
「だって、あんた、『負けた』でしょ」
杏は白い歯を見せて、公園を後にした。
「ありゃあ、完全に液体化してる。こりゃあ、桜に怒られるわ」
杏はアイスの袋を見てベロを出した。
「でも……」
道場への道を急ぎながら二の腕を捲った。
「全力で向かって行っても擦りもしないと思ったから、かぁ」
二の腕には……躱し切ったと思っていたのに、僅かに稔の棒が擦ったすり傷が付いていた。それを見て、小悪魔な笑みを浮かべる。
「鬼になれそうな子羊ちゃん、みーっけ」
笑顔の杏は、浮き足立って道場へ帰っていた。
翌日。教室の窓から黄金色の眩しい日差しが降り注ぐ窓際の席。稔は、授業も耳に入らずぼんやりしていた。昨日の出来事が反芻し、頭の中を何度も通り抜ける。
声を掛けられて振り向いて、正直少しドキッとした。
透き通るような白い肌に、薄紅色の唇。クールな切れ長の目に、長い睫毛。中学生くらいだろうか。すごく綺麗なお姉さん。
でも……彼女の変なテンションを思い出す。ちょっと変なお姉さん。
だけども……。あの瞬間を思い出した稔は、ゾクッと鳥肌が立った。
……物凄く、強い人。
棒を持って構えた途端、人が変わった。というより、『自分の知らない世界』の人になった。
掛け声と共に、あの人の気迫が自分の周りの空気を振動させて、自分に向かって容赦なく突き刺さった。
自分の本能が、あの人の圧倒的な強さを感じ取った。
でも……何故か逃げようという気は起こらなかった。稔はワクワクして、いつの間にか勝手に体が動き出して、全力で彼女へ向かって行ったのだ。
身震いする怖さを感じたのは、ほんの一瞬だった。
自分の脳天に、棒が振り下ろされた瞬間。ただの棒だと分かっていたのに、それを絢爛と光る日本刀のように錯覚し……『斬られる』と思った。
『死ぬ』、そう感じた瞬間、目を瞑った……。
『キーンコーンカーンコーン』
授業終了のチャイムが鳴り、中間休みになる。結局、授業内容が何一つ頭に入らなかった稔は、教科書とノートを机の中にしまった。
その時、
「おい、稔。ちょっと来いよ」
クラスの一軍の三人……勝、相太、豊が机にやって来た。稔はうんざりする。
「今日は、お前に剣術を伝授してやるよ」
校庭の隅。木の陰へ追いやられた稔を見て、勝はニヤニヤしている。
「伝授……キラーン!」
お調子者の相太と豊は、棒っきれを持って囃し立てた。
いつもの三人。クラスのリーダーの勝とその手下の相太、豊。三年生になるのに、クラスに『馴染めていない』稔は、いつもこの三人に『いじめられる』。
こいつらが『強い』からいじめられるんじゃない。『馴染めない』自分がリーダーに刃向かうのはクラス内でのタブー……だから、『いじめられる』のだ。
三人が棒っきれで稔を殴る。稔はその棒を全て目で追い……自分にとって最もダメージの少ない部分で棒を『受けて』いた。
「躱そうと思えば全部躱せたでしょ」
昨日のお姉さんの言葉を思い出す。
こんな奴ら、強くも怖くもない。僕は昨日……『本当に強い人』に会ったんだから!
調子に乗った勝は、また棒を稔に振り下ろす。しかし、稔は……さっきまでとは違う稔は容易く躱した。不意をつかれ、空振った勝は目を丸くする。稔は、冷たく……哀れむような瞳で勝を見た。
三人は、仰天した。今まで、稔に躱されたことは一度もない。でも……今日のこいつはいつもと違う。
それに、あの『目』。自分達のことを全て見透かすかのような稔の『目』……。
「あんた達、何やってんの?」
そんな四人……仰天する三人と、彼らを冷たく見つめる稔に凛とした声が掛けられる。勝達は振り返った。
「げっ、春山……」
「まぁた、下らない剣術ごっこ?」
その少女……四人と同じクラスの桜は、呆れ顔で勝の持つ棒っきれを見つめる。
「お前には関係ねぇだろ。おい、行こうぜ」
三人はそそくさと立ち去った。
「春山……さん、ありがとう」
「別に。ちょっと通りがかっただけよ」
稔が礼を言うと、クールな桜は踵を返し立ち去って行った。
「くそっ、くそっ」
勝は苛立っていた。
「しょうがないって。あいつ、春山は剣道っての、めちゃくちゃ強いらしいし」
相太と豊はフォローする。
「違うよ」
勝は、よりイライラして言った。
「あいつ……稔の目。俺の一番嫌いな目をしてた。仲間に入れないクセに、俺達のことをバカにする目。だから、俺、あいつのことが嫌いなんだ」
相太と豊は目を見合わせた。
土曜日。公園の角を曲がる稔の鼓動は高鳴った。『剣信館』と書かれた一枚板の貼られた門の前で、稔は固まる。
「あれ? あんた……山口?」
ぼぉっと佇む背後から声、をかけられた。稔は、振り返った。
「春山さん?」
白い道着に白袴……あの日のお姉さんと同じ格好をした桜が、黒い防具袋を引っ掛けた竹刀袋を担いでいる。
そして、その後ろには……
「あらぁ、小羊ちゃん。約束通り来てくれたのね!」
稔は、ドキッとした。あの日会ったお姉さんが桜と同じ格好で、やはり防具袋と竹刀袋を担いで、悪戯な笑みを稔に向けたのだ。
「小羊ちゃん? 約束?」
怪訝な顔をする桜を置いて、杏は稔のもとへ駆け寄った。
「あんたは、今日からここの門下生よ」
「門下生?」
「そっ!」
杏が少し屈んで目を合わすと、稔は赤くなって目を逸らした。
「私があんたを、最強の剣士に育てるんだから!」
「最強の剣士?」
稔は逸らした目を丸くして、再度、杏を見た。
「そ。あんたに拒否権はなし。だって、あんた、『負けた』でしょ!」
「え? 最強の剣士って、そんな弱虫を? お姉ちゃん、どういうこと?」
狐につままれる桜を置いて、杏は稔の手を引き、厳かな雰囲気を漂わせる道場へ入って行った。
「前後正面素振り、はじめっ!」
「壱!」
『メンッ!』
「弐!」
『メンッ!』
道着に防具を装着した格好の少年少女が、道場の中央へ向けて竹刀の素振りをしている。予備の道着に着替えさせられ、片隅に正座してそれをじっと見つめる稔は、圧倒されていた。
その中でも、稔の視線はやはり杏に釘付けになる。
竹刀の軌道が他の少年少女と全く違う。一切の無駄のない、最小限の軌道……。稔も、自分でも気付かぬ間に手だけ杏の素振りを真似ていた。
「黙想!」
オロオロする稔を端っこに並ばせて正座させ、練習開始前の黙想が行われた。
「やめ! 礼!」
「お願いします!」
「正面に! 礼!」
「お願いします!」
「面つけ!」
『面』をつけた少年少女は、『切り返し』から練習を始める。皆が『切り返し』をする傍ら、杏は稔の指導に入った。
「いい? 稔くん。剣道はね、礼に始まり礼に終わる武道よ。道場への感謝の気持ち、打ち合う相手への尊敬の意を込めて、練習の始まりと終わりには必ず礼をするの。その礼儀を忘れるようじゃ、本当に強くはなれないわよ」
「礼儀……」
稔は、「いいなぁ……」と思った。
スポーツは全て相手を打ち負かす、野蛮なもの。そう思っていた。でも……自分が今踏み込もうとしている世界はこんなにも清く、正しい剣の道なのだ。
「そこまで分かったら、まず、足運びからね」
杏は、稔に『摺り足』を教えた。
「うんうん、そうそう。上手、上手。やっぱあんた、私が見込んだだけのことはあるわ」
ただの摺り足に上手も何もなさそうなものだが、杏はいつまでもニヤニヤ笑って稔の足運びの練習を見ていた。
「ちょっと、お姉ちゃん! いつまでサボってんの? 摺り足まで教えたなら、いつまでもついてなくていいでしょ!」
練習の間の小休止に、桜が凄い剣幕で来た。
「ありゃあ、バレちった。だって、この時期、暑くてバテるんだもん」
杏はベロを出す。清く、正しい剣の道……。自由奔放におちゃらけるお姉さんを見た稔は、その道に一抹の不安を覚えた。
しかし、杏は稔の方に向き直り、凛とした顔で言った。
「あんた、私達の練習、見ときな。摺り足しながらでも、見れるでしょ」
この美しく真剣な顔と、さっきのおちゃらけた顔。どちらが本当の彼女なのか分からず、稔は不思議な気分になった。
「ドゥォアアァー!」
『面』を着けた杏は人が変わる。竹刀を中段に堂々と構え、威圧的な存在感を相手に放った。
「コ……」
相手の竹刀が手元を狙ったその瞬間!
「メンヤァァー!」
『バゴォッ!』
凄まじい破壊音と共に杏の竹刀が相手の『面』にめり込む。
「凄い……」
稔は、ゾクッと身震いした。『豪剣』……杏のそれは、無敵だった。杏の竹刀は凄まじい加速度とともに、どんな相手の『面』にもめり込む。
稔があの時感じた『斬られる』という感覚。今、正に目の前で杏が剣士達を真っ二つに『斬って』いる。あの時感じた、身震いするような怖さ。しかし、それ以上に稔の心の底から、震えるほどの感動が沸き起こっていたのだった。
道場の皆が雑巾がけの掃除をしている。
「どうだった?」
皆が掃除をする傍ら、杏が稔に声をかけた。
「凄かったです……」
ありきたりだが、稔の口からはその言葉しか出なかった。よく見ると、その道場には『市民大会 小学生◯年女子の部 優勝 春山 杏』と書かれた賞状がいくつも飾られており、その中には『中学生女子の部 優勝』もある。
「お姉さん、中学生ですか?」
「そ、中一」
「中一で中学生女子の部優勝!?」
「そうね。ま、この地区では男子でも私に敵う中学生はそうはいないけどね」
「すごい……」
稔は目を輝かした。
「僕……お姉さんみたいに、強くなれますか?」
「そうねぇ、それは、これからのあなた次第ね」
杏は、美しい瞳を横に細長く伸ばして、悪戯そうに笑った。
「でも。『本当に強い相手』を恐れずに向かってくる根性。『あの時』のその根性があれば、大丈夫。絶対、あんた、強くなるわよ!」
杏は悪戯な笑みを浮かべながらも、美しい瞳は真っ直ぐ、真剣な眼差しを稔に向けた。
『ドクン……』
真剣な眼差しを受ける稔は、金縛りにあい動けなくなる。
「ま、どんなに強くなっても、私には及ばないけどね」
すぐにふざけて茶化す杏に、稔の金縛りも解けた。
「ちょっと、お姉ちゃん! 掃除サボるな!」
「ありゃあ、また、バレちった」
雑巾を持った杏は頭をポリポリかき、雑巾がけをする桜達のもとへ戻りながら、稔に顔を向けた。
「水曜の六時と土曜の十時!」
「えっ?」
「その時間にここに来なさい。私があんたを、最強の剣士に育てるって言ったでしょ!」
杏は、ニーっと笑った。
「ま、私の次に、だけどね」
そう呟いて、雑巾がけの掃除に戻ったのだった。
夏休みも三日前の水曜日。教室で稔は、逸る鼓動を抑えられなかった。
今日の夕方から、自分はあの道場で本格的に『剣道』を教わることになる。
杏の『豪剣』。その凄まじさが頭から離れない。
自分も、あれ程の圧倒的な強さを得ることができるのだろうか?
いや、できる。あのお姉さんの近くで、ずっと『剣道』を教わり続けたら、きっと……。
「稔!」
突然、声を掛けられて、驚いて振り向いた。いつもの、いじめっ子三人の声ではない。この声は……春山 桜。
「放課後、付いて来なさい」
「えっ?」
周りの少年達は呆気にとられ、稔自身も驚いていた。
この教室で、桜が稔に声をかけるなんて初めてだ。しかも、名前を呼び捨て……。
「あんた、剣道の道具、何一つ持ってないでしょ? 揃えてやんの!」
「う、うん……」
桜は、プイと自分の席に戻った。
放課後。
「ねぇ、春山さん……」
無愛想に早足で歩く桜に歩調を合わせながら声をかけた。
「桜って呼びな」
「えっ?」
「だって、いちいち苗字に『さん』付けるの面倒でしょ。あんたが剣道始めるってことで、長い付き合いになりそうなんだし」
「う……うん、桜」
かなり違和感があった。稔は今まで、女子の下の名前を呼び捨てにしたことがない。
「何?」
「どこに向かってるの?」
「私の家よ」
「家?」
「そう。お姉ちゃんのお古の防具とか、上げる。普通に買ったら、どんなに安くても五万円はするのよ」
「五万円!?」
稔にとっては目ん玉の飛び出るような額だ。
しかし、剣道は頭部に『面』、手から手首にかけて『小手』、胸部から腹部にかけて『胴』という防具を装着し、竹刀で打ち合う武道。剣道を始めるなら、防具の所有は必須だった。
「お姉ちゃんが、あんたにはどうしても剣道やって欲しいみたいだから」
「そういえば、あの人、春……桜の、お姉さんなんだね」
「そ、杏姉ちゃん。剣道は強いんだけど、妹の私でさえ、何考えてるか分からない人。全く、こんな弱虫のどこにそんな肩入れしてるんだか」
桜はぶつくさ言いながら、稔を連れて歩を進めた。
白く大きなマンションに着いた。桜は階段を早足で上がって行き、稔はいそいそと付いて行く。マンションの一室、黒いドアの前に着き、桜はインターフォンを鳴らした。
「はーい」
クリッとした瞳で睫毛の長い、綺麗な女性が出て来た。
「あら、桜。家に友達を連れて来るなんて、珍しいわね。しかも、こんなに可愛いコ」
女性がニコッと笑うと、稔はドキッとする。
「いえ、僕は……」
「お母さん、こいつ、男だよ」
桜は呆れ顔で言った。すると、桜の母は綺麗な目を丸くする。
「まぁ、桜が男の子を連れて来るなんて! しかも、こんな美少年……やったわね!今夜は赤飯ね」
悪戯な笑みを浮かべ、桜をからかうように言った。どうやら、杏の性格は母親譲りらしい。
「もぅ! そんなんじゃないし。それより、お姉ちゃんの道着と防具」
桜は母を家の中へ押し戻し、玄関口に稔を残して部屋へ入って行った。
「はい」
黒く大きなバッグと、綺麗に畳まれた紺色の道着と袴が渡される。
「まだお姉ちゃん帰ってないし、渡しとくわ。お姉ちゃんが小学生の頃使ってたやつよ。男女兼用」
桜はクールに言った。
「お姉ちゃんの見込むあんたの才能がどれほどのもんか分からないけど……夏休みは、初心者にとっては地獄よ」
「地獄……?」
「そ。まぁ、始めたら分かるわ。精々、頑張ることね。それじゃ、また後で、道場でね」
桜は、素っ気なく言ってドアを閉めた。
稔は黒いバッグ……防具袋を持つ。初めて持つそれは、ずっしりと重かった。
夕方の道場。他の少年少女が練習する傍ら、お下がり道着を着た稔は、杏から中段の構えと正面素振りを教わっていた。
「いい? 竹刀は左手で握るの。それも、力を入れるのは、小指と薬指の根元だけ。右手は添えるだけよ。それで、剣先を相手の喉元につける」
杏が稔の正面に立ち、剣先を自分の喉元に定めた。
「そう。その構えをして、相手の中心を取っている限り、絶対に打たれることはない。そこから、肘が五角形になるように真っ直ぐ振り上げて、振り下ろしてみなさい」
稔は言われた通りにした。しかし、竹刀の重さに操られて形が滅茶苦茶だ。
「ま、誰でも最初はそんなもんよ。兎に角今は、鏡を見て、真っ直ぐ振り上げて、真っ直ぐ振り下ろせるようになりなさい」
杏は道場の端の鏡を指差した。
稔は正面素振りを練習する。どうにか形になったところで、杏は左右素振り、跳躍素振りを教えた。
「そうそう、上手、上手。じゃあ、残りの練習時間。私が稽古している間、跳躍素振り百本ずつしてなさい。百本連続素振りして、休憩、それから百本連続、という風に。もちろん、振り下ろした時に『メン!』の掛け声は忘れずに。じゃあ今から、スタート!」
杏はそう言うと、『面』をつけて稽古に混じった。
「ねぇ、お姉ちゃん。まだ来てニ回目の奴に跳躍素振り百本は、幾ら何でもハード過ぎるんじゃない? あいつ、やめるんじゃ……」
小休止に入り、桜が心配そうに言った。
跳躍しながらの素振りは、腕と足の運動量が多くて体力の消耗も激しい。暑い夏には、尚更だ。
「やめる? こんなことでやめるようじゃ、最初から要らないわ」
杏はニヤっと笑った。
「それに、絶対、大丈夫。だって、あのコの中には『鬼』がいるんだから」
「はぁ? 鬼?」
桜が眉を顰める間もなく、稽古が再開される。
「メン! メン!」
稔は、杏から言われた通り素直に跳躍素振りをしていた。しかし……暑くて辛い。汗が吹き出し、喉がカラカラ。今日初めて持つ竹刀は、素振りを重ねる度に重くなってゆく。
手が……腕が、だるい。
でも……
「メントォー!」
『バクゥ!』
稔の目に、電光石火の如く竹刀で『面』を捉える杏の『豪剣』が映った。
僕は、少しでもこの人に近づきたい……!
稔の内からエネルギーが沸き起こる!
「納め~トォ!」
稽古終了の合図がされ、稔はその場にヘタり込んだ。
結局、殆ど休まずに一時間近くも跳躍素振りを続けていたのだ。手の平はマメだらけ、足と腕は棒のようになっていた。
「お疲れさん!」
杏はニッと笑い、スポーツドリンクを差し出した。
「今日は帰ってから、よーく眠れそうね!」
稽古終わりの杏の爽やかな笑顔を見て、汗だくの稔も、少し微笑んだ。
「宿題を言うわ。次の稽古まで、毎日家で素振りの練習をすること。そんで、次の稽古。防具を持って来なさい」
「えっ?」
「次は『踏み込み』と『面打ち』を教えて、少し稽古に混ぜたげる」
杏は屈んで稔の顔を見ながら、フフンと笑った。
練習三日目で『面打ち』をするのはかなり早い。しかし、練習二日目にして一時間近くも跳躍素振りを続けた稔の中に、杏は光り輝くものを見ていたのだった。
その夜。家の玄関を出て、真夏の満月が煌々と照らす下。稔はマメのできた手の平に包帯を巻き、素振りを続けていた。
稔の目の前には、杏の残像がある。
目の前の相手を真っ直ぐ、真っ二つに『斬る』杏……。それを見る稔はゾクッとした。
それは、恐怖心ではない。言い様のない高揚感。稔の中に芽生えつつある『鬼』の片鱗……。
白く透き通る月明かりの照らす中、稔は竹刀を振り続けたのだった。
真夏の太陽が照りつけ、道場の中はサウナのような熱気が漂っている。そんな、夏休み最初の稽古の日。初めて防具をつけた稔は、防具姿で竹刀を向ける杏と対峙していた。
「さぁ、教えた通り、打ってらっしゃい!」
稔は、初めての防具におっかなびっくりする間も無い。杏が掛け声……気迫を発する!
「ドゥアヤァアー!」
『あの時』……初めて会った時と同じ、鬼神の気迫が道場の空気を振動させ、稔に突き刺さる。
稔はゾクッとした。あの時、自分の内なる『鬼』を目覚めさせた、凄まじい気迫。体の奥底から、脈々と熱いものが湧き起こる!
「ウワァア……」
稔も発する。
「アア、ヤァアー!」
クワッと目を見開き、杏にも劣らぬ気迫を発した。道場の少年少女達が、両者の気迫のぶつかり合いに驚き、こちらを見る。
稔の脳内で、幾度も身震いする程に憧れた『杏の豪剣』が明確にイメージされる。
あの強さ、真っ直ぐさ、圧倒的な迫力……
僕も、杏のように……できる! 行け!
稔は竹刀を振りかぶる!
手と足はバラバラ、基本こそ全くなっていないが、それでも、竹刀の軌道は真っ直ぐに……そして、真っ直ぐ前へ力の限り踏み込むと共に、『面』へ向けて真っ直ぐに振り下ろす!
「メェェーン!」
『バクゥ!』
稔の『面打ち』。基本も何もなっていない『面打ち』は、それでも真っ直ぐ、確実に杏の『面』を捉えた。
杏は、痺れるほどに感動した。『才能』という一言では片付けられない。基本も何も身につけていないうちから、この『キレ』、この『重さ』、この『威力』……杏は今日、確実に稔の中に『鬼』の片鱗を見た。
「稔!」
杏は振り返った。そして、残心を取る稔を見た。
「あんた、この夏休み、『基本』を徹底的に身につけなさい」
「基本……」
「そう。そして……秋季の市民剣道大会に出なさい!」
「剣道大会!?」
「そう」
杏は、真剣な眼差しで稔を見つめた。
「私があんたを、優勝させてやるわ!」
初心者を二ヵ月弱で優勝させるという、とてつもなく無謀な挑戦。しかし、杏は大真面目、本気だった。
夏休みも中盤の稽古。
「基本の面打ち、はじめ!」
「ヤァァアー!」
稽古に加わるようになった稔は、気迫を発した。
「メェェーン!」
『バクゥゥッ!』
稔の竹刀が相手の『面』にめり込む!
杏は、その『面打ち』を見る。
やはり、稔の上達は群を抜いていた。真っ直ぐで凄い威力の、天性の『面』。さらに、彼の真面目な性格に由来する基本への忠実さも加わり、一ヶ月も経たずして『面打ち』の完成度は極めて高いものとなっていた。
こいつのこの『面』は、誰にも負けない武器になる。
後は、『試合』。試合で勝てるようになるには……。
「桜、稔! この後、試合してみなさい」
基本稽古後の小休止、突如杏が言った。
「試合……」
稔は、目を丸くした。
自分が今できるのは、基本の技だけ。それを、どのタイミングで、どのように打つのか全然分からない。そんな状態で、試合……?
桜もまた、仰天していた。
桜は道場……いや、市民小学三年生の中で最強の剣士。それどころか、小学六年生までの剣士でも、まともに相手になる者はほとんどいない。そりゃまぁ、確かに稔の『基本の面打ち』が凄いのは認める。桜も見ていて、その威力に圧倒され驚いている。でもまだ、それだけ。最強の小学生剣士、桜の相手になる訳がない。
お姉ちゃん……何考えてるの?
「さぁ、始めた、始めた!」
訳の分からないまま、二人は試合開始線で向かい合い、蹲踞をした。
「はじめ!」
審判は、杏一人だけ。稔の初練習試合……稔 対 桜戦が始まった。
「ヤァアー!」
桜が気迫を発した。稔は、まだオドオドしている。
審判をする杏は、うっすらと笑いを浮かべていた。
「メェーン!」
桜の『面』。稔は、ギリギリ、何とか躱した。しかし、そこからの連続技。
「コテェ! メンメェーン!」
『引き小手』からの『面』の二連打。稔は防戦一方だ。
サクラが舞うような動き。桜の剣道は、華麗だ。小学生剣士は、誰もが翻弄される。勝負がつくのは時間の問題……誰もがそう思った。
しかし……打ち合っているうちに、桜は違和感を覚えた。
桜はいつも通り、稔を翻弄……桜の『技』に稔が気を取られる時にできる、一瞬の隙を狙っていた。しかし、完全に稔の隙をついたと思ったのに、躱される……。
こいつ、初心者? 確かに、こいつの体捌き、竹刀捌き、足捌き……どれを見ても、初心者だ。なのに、何故、私の『技』を見切れる?
桜は、躍起になった。
「コテ、メン、メンッ、ドォオ!」
怒涛の連続技の後、一気に間合いを遠ざけた。不意をつかれた稔の『小手』……右手首は、がら空きになる。
桜はそこへ軽やかに飛び込む!
「コテェ!」
しかし……何と、空ぶったのだ。 その瞬間!
「ドゥァアァー!」
稔が凄まじい気迫と共に振りかぶる!
桜は瞬時に体勢を立て直し、手首を返す!
「ドォオ!」
「胴あり!」
桜の一本勝ち……しかし、いつもクールに勝つ桜の息は上がっていた。
「あんた、珍しく苦戦したじゃない」
試合後。杏が目を細め口角を上げ、ニヤついて桜に言った。
「別に……ちょっと、やりにくかっただけよ」
桜はムスッとしている。
「ま、あそこで、あの『面』に反応できるのは、流石ね」
杏はしかし、不敵な笑みを浮かべた。
「でも、あんたがあそこで『面』を打っていたら……どっちが勝ってたかしらね」
悔しいが、桜は答えられなかった。『面』を打ったら負ける……そう思ったから、『胴』で応じたのだ。
すると、杏の顔から笑みが消え、真剣な顔になった。
「これから、本当にあんたの『敵』になるのは、稔のような相手。あんたのような動きができなくても……真っ向から中心をとった真っ直ぐの『面』を打つ奴。それだけ、覚えときなさい」
桜は、グッと唇を噛み締めた。
自分には、最強の小学生剣士としてのプライドがある。それが、剣道を始めてまだ半月ほどの奴に負けそうに……
「地稽古!」
小休止の後、試合形式の稽古が始まる。桜は、真っ先に稔の元へ行った。
「地稽古、お願いします!」
戸惑う稔に、桜は言った。
「さっきの試合の続きよ」
「そう!」
杏はニヤッと笑った。
稔のもう一つの武器、『目』……相手の動きを見切る動体視力は、想像を遥かに超えていた。
それに対し、桜の『剣舞』は相手を翻弄する剣。誰も捉えることのできない華麗な動きは、稽古を重ねれば重ねるほど、速さに磨きをかける。
これほど『相性のいい』組み合わせはない。
「桜の『プライド』か、稔の『鬼』か……どっちが勝つか、楽しみね」
杏はいつもの、小悪魔な笑みを浮かべたのだった。
稲の穂が金色に稔る秋。体育館で秋季市民剣道大会が開催された。
稔は、初の対外試合だ。夏休みに桜との競り合いで相当な力をつけた稔は、初心者とは思えない『豪剣』を披露した。順調に個人戦を勝ち進む小さな『鬼』。そんな彼を、杏は余裕の笑みを浮かべて観戦した。
「ヤァアー!」
掛け声を出す相手。その正面から、稔は凄まじい気迫を発した。
「ドゥウアァー!」
稔の周囲の空気が振動し、相手に突き刺さる。相手は稔の気迫に圧倒され、打ち込みを一瞬躊躇った。その刹那!
「メェーン!」
『バコォ!』
稔は、たじろいだ相手に生じた瞬時の心の隙をつく『面』を決めたのだ。
稔が『面』を決めるのを見る度に、杏は鳥肌が立った。自信満々の杏も、これほどの速度での成長は予想していなかった。
この試合に勝ったことで、稔は準々決勝へ駒を進めることになったのだ。この試合に勝つと、稔は三位以上……生まれて初めてのメダルを手にすることになる。
「いい? 稔。相手がどんな手を使ってきても、あんたは私の教えた剣道を貫くのよ。『絶対に勝て』とは言わない。たとえ負けても、あんたは『あんたの剣道』を貫きなさい」
試合前。杏は稔を真っ直ぐ見て言った。普段見せない杏の真剣な美しい表情にドキっとしながらも、稔も真っ直ぐ頷いた。
杏が『絶対に勝て』とは言わないのには理由がある。
準々決勝の相手は、角口という少年。毎回、市民大会で優勝する少年だ。
しかし、杏は決して『角口が稔より強い』とは思っていない。ただ、『勝つ』ためのテクニックに長けている少年なのだ。そんな相手のために、自分が稔に教えた『豪剣』が崩れてしまわないか……杏は、ただそれだけが気掛かりだった。
稔と角口が向かい合い、蹲踞した。
「はじめ!」
準々決勝が始まった。
「ドゥウァアー!」
稔は、気迫を充実させた。
しかし……何か、変だ。何か、違和感がある。
今まで対戦した相手は、稔の真っ向からの気迫に対し、圧倒された。しかし、この角口という相手は、稔の気迫に動じない……というか、受け流していた。
稔がじわじわと右足を前に出した。
しかし、何故か角口との距離は縮まらない。
別に、角口が怖気付いて後ずさりしているようにも見えない。構え自体は堂々としていた。ただ、僅かずつ左足を引き……遠間を保っていたのだ。高まる緊張感に、稔は痺れを切らし……遠間から飛び込む!
「メェェー……」
しかし、次の瞬間、場内がどよめいた。
角口が剣先を稔の喉元に定めた状態のまま、稔は飛び込んだ。稔が飛び込んでも、角口は稔の喉元に向けた剣先を一ミリたりとも動かしていなかった。つまり、角口の竹刀の先が稔の喉元に突き刺さったのだ。
「グハッ……ゴホッ!」
稔は咳込んだ。
「やめっ!」
試合は、中断される。
「ゴホッ、ゴホッ……」
激しく咳込んでいた。
「稔! 稔、大丈夫?」
杏は取り乱し、稔のもとへ駆け寄った。
「は……はい、大丈夫です」
喉元は赤く腫れていたが、稔の呼吸は落ち着いた。どうにか大事には至らなかったようだ。
杏は、稔を真っ直ぐ見て言った。
「いい? 今までの相手は、あんたに立ち向かってきた。だから、あんたの気迫を真っ向から受けるとビビってた。でも、あの相手は違うの。あんたが焦って崩れるのを待ってる。だから、あんたは焦るな。落ち着いて」
「はい!」
稔がいつものように元気に返事をすると、杏は安心して微笑んだ。
「もう一度言うわ。『絶対に勝て』とは言わない。あんたは、『あんたの剣道』を貫きなさい」
「はじめ!」
試合が再開される。
へぇ、まだ来れるのか……。
角口は思った。
この山口という相手、『面』は凄い。あの気迫、あの威力、あの重さ。『合い面』で勝負すると、十中八九負ける。
しかし、それだけだ。その他の『技』、体捌き、足捌き、どれを取っても初心者だ。初心者が『面』を武器に意気がってるだけ……。
角口は、稔が飛び込んだ瞬間、一歩後ろに下がれば躱せたし、竹刀で捌こうと思えば捌けた。しかし、敢えてそれをしなかった。
竹刀を動かさずに喉元を突き、恐怖を植え付けてやったのだ。これであわよくば不戦勝、もし試合が再開されたとしても、恐怖心からあの『面』の威力は半減する。角口は、『勝つ』ために、その後の流れを有利に持っていく手段を取ったのだ。
試合は続行される。でも、こいつの気迫は半減するだろう。そう思っていた。
しかし……
「ドゥアアァー!」
稔の気迫に角口は驚いた。先程にも増す気迫。
それに、先程までの焦りが見られず、落ち着き堂々としているように見えた。その瞬間!
「メントォォオー!」
突如、目の前に竹刀が現れたかと思った。角口は即座に竹刀で捌き、身を右へ開いて躱した。
しかし、危機一髪。この迷いのない『面』。こいつに恐怖心はないのか?
それに、『打つ瞬間』が分からなかった……。
「ドゥアアァヤァアー!」
角口が驚く間に振り返り、体勢を立て直した稔は、さらなる気迫を彼にぶつけた。
角口は、稔の中に『鬼』を感じ、身震いした。
もう、こいつを初心者だとは思わない。俺は、『俺のやり方』で、全力でこいつを潰す!
角口は、構えを立て直した。
「メェェーン!」
稔の『面』。角口はそれを竹刀で捌き、躱した。角口も百戦錬磨の小学生剣士。強い相手との戦い方は心得ている。
遠間に構えたまま剣先を僅かにずらし、相手が打ち込むのを誘う。相手の『打ち』は躱し続け、体力を消耗させる。そして、相手の中心をとって攻め続け、相手が崩れた瞬間を狙い……決める! その戦法を立てていた。
稔は、徐々に体力をすり減らしていた。
苦しい……。勝負から逃げてしまえば、楽になれるかも知れない。
でも……。
「あんたは、『あんたの剣道』を貫きなさい」
杏の言葉が、逃げようとする想いを封じた。
逃げてはいけない。たとえ負けたとしても、僕は、『僕の剣道』を貫く!
「ドゥォオラァアー!」
追い詰められた状況で、稔は最大の気迫を発した。それは、試合を見守る観客達を、そして、角口を驚かせた。
あの『面』がくる!
角口は、そう直感した。
『面』では敵わない……。
瞬時に、中心をとっていた竹刀を僅かに上げ、稔の右手元へ伸ばす!
「コテェ!」
竹刀は相手の右手首を捉え、体自体は瞬時に右にずらしての『小手』。
『パーン!』
稔の右手首を竹刀が打つ音が響く。稔の竹刀がかすめた角口の『面』にも、ビリビリと衝撃が伝わる。
「小手あり!」
試合終了間際の『出小手』。準々決勝は稔の一本負けに終わった。蹲踞をして戻った稔は、一気に脱力した。
試合に負けた稔は、中学生女子の決勝戦を見ていた。
「ウォォアァー!」
杏の気迫がビリビリと試合会場内の空気を震わせる。試合会場の観客、皆の視線が集まった。
「メンヤァアー!」
『バコォッ!』
竹刀が、まるで吸い寄せられるかのように相手の『面』のど真ん中にめり込んだ。
「凄い……」
稔は、何度見ても感動する。
自分も、多少なりとも迫力のある『面』を打てるようになったつもりではいた。しかし、この『面』には、まだ遠く及ばない。でも、いつか、必ず……。稔は、手をグッと握った。
試合は、いつも通り、杏と桜の姉妹が優勝という結果に終わった。
「みのーるちゃん!」
金メダルを首にかけ、上機嫌の杏は稔のもとへ駆け寄った。
「あれー、あんた、メダル取れなかったの?」
知ってるクセに、茶化す。デリカシーのなさは人一倍だ。
「ごめんなさい……三位にもなれなかったんです」
稔が本当に泣きそうな顔になったので、杏は慌てた。
「あ、いや、ごめん。そんなにヘコんでるとは……」
頭をポリポリかく。しかし、ふと何かを思いついた。
「稔。こっち向きなさい」
「えっ?」
すると、杏は稔の首に自分が取った金メダルをかけたのだ。
「私が、あげる」
杏は屈んで稔と目を合わせ、柔らかく微笑んだ。
「あんたの、初めての金メダル」
「えっ……でも」
「あんたは、負けても『あんたの剣道』を貫いた。『あんたの剣道』を貫く限り、あんたはどこまでも強くなる。この金メダルを見るたびに、それを思い出しなさい」
杏は優しく言った。その言葉に、稔の目から堪えていた涙が溢れ出す。
「お姉さん……」
稔の顔が涙でグショグショになる。
「僕、悔しい……」
杏は、稔の頭を撫でた。
「うん、うん。その悔しさを忘れるな。忘れない限り、あんたは絶対に強くなるんだから」
屈んだまま、ぐしゃぐしゃに涙を流して泣く稔を撫で続けた。その金メダルは、いつまでも、ずっと……稔の一生の宝物になるのだった。
道場へ向かう公園に立つサクラも満開になった春。
小学四年生になった稔は練習試合をしていた。相手は、門下生仲間の須藤という少年。稔より一つ上、小学五年生だ。
「ヤァァアー!」
「ドゥアアァー!」
稔は、一つ上の須藤の気迫をも飲み込む気迫を発した。しかし……稔が須藤の『面』を狙い振りかぶろうとした、その瞬間!
「コテェ!」
『パァン!』
須藤の竹刀が稔の『小手』を捉えた。
「小手あり!」
試合を観る杏は腕を組む。
「うーむ……」
須藤は、弱い相手ではない。寧ろ、『小手』を得意として、大会でも入賞することのある、強い部類に入る少年剣士だ。
でも、杏は須藤を『強い』とは思っていなかった。ただ、器用に『小手』を決め、『勝つテクニック』に長けている剣士……稔が昨秋戦った、角口と同じタイプの剣道をする。
稔の成長は目覚ましいものに見えた。しかし、成長が早ければ早いほど、挫折も早く訪れる。
『面』で勝負する稔は、悉く『出小手』に負けるのだ。その挫折の時期に、稔は須藤と仲良くなった。どうも、嫌な予感がする。
「稔!」
稽古後、杏は稔を呼んだ。
「今は勝とうなんて思わなくていいから。あんたは『自分の剣道』をやりなさい」
「でも……」
稔は何だか煮え切らない。その時。
「おい、稔。帰ろうぜ」
須藤が呼ぶと、稔は逃げるようにそちらへ行った。
「あ、ちょっと……」
杏が呼び止めようとした時には、稔は須藤と共に道場を出ていた。
「うーん……」
杏は腕を組んだ。
「子供に反抗される親って、こんな感じなのかな」
帰り道。
「なぁ、稔。お前、どうして『小手』を打たねえの?」
須藤が尋ねた。
「えっ?」
「『小手』打てるようになると、勝つん楽だぜ。動きも少なくて済むしよ」
「でも……『面』が僕の剣道だから」
稔の頭の中を、杏から貰った金メダルがかすめる。
「あぁもう、そんなんに拘るなって。お前も、試合で入賞したいだろ? まぁ、でも俺は、今のままの方が、楽にお前に勝てるから助かるけどな」
須藤が嫌な笑みを浮かべながら言うと、稔は下を向いた。
次の稽古でのことだった。
「ドゥアアァー!」
「ウゥァアァー!」
稔と杏が地稽古をしていた。
剣先のギリギリ触れる間合いでの攻め合い。
張り詰める緊迫感……の筈だった。しかし、その日に限って杏はお腹の調子が良くなかった。
いてて……昨日、アイス食い過ぎたかなぁ。
その刹那!『面』ごしにジッと杏の目を見ていた稔は、その刹那の心の隙を見逃さなかった。
竹刀が瞬時に杏の手元へ伸びる!
「コテェ!」
『パァン!』
杏の右手首を竹刀が打つ音が響く。
杏は驚いた。百戦錬磨の自分が稔に負ける筈がない。他のことを考えていても、即座に反応できる筈だった。でも、今のは……本当に、稔が『小手』を打つ『瞬間』が分からなかった。
稔も驚いた。杏は、今までひたすらに憧れ……天の上のような存在の剣士だった。それが、『小手』を狙ったら、一本取れた……。
「くそっ!」
杏はすぐに体勢を立て直した。
それからは、一本取れたのが嘘のよう。稔がどれだけ『小手』を狙っても、すりあげられ、抜かれ、返され、ボロボロに何本も取られた。
しかし……まぐれで杏から『取れてしまった』この一本が、稔のこれからの剣道に大きく影響を与えることになったのだ。
サクラの花びらが舞う春季市民大会。決勝の舞台に稔はいた。
「ヤァァアー!」
「ドゥアアァー!」
気迫の掛け合い。やはり、稔の気迫は同学年の剣士の間では群を抜いている。しかし、狙うのは『面』ではない。
相手の呼吸は一定。攻撃の警戒に切り替わることはなく、攻め合いながら一定の呼吸を続ける……。
その刹那!
「コテェ!」
『パァン!』
消えた!
恐らく、相手はそう思った。微動だに、反応ができなかった。稔は、完全に相手の一定の状態の『瞬間』を裂く『小手』を決めたのだ。
「小手あり!」
稔の春季大会決勝は『小手』での二本勝ち。剣道の大会での初優勝を飾った。
「やったじゃんか、稔。やっぱ言った通り、『小手』を打ったのが良かったな」
試合後、須藤がニヤニヤしながら来た。
「うん……」
稔が杏の方を見ると、まるで無関心に、自分の試合の準備をしている。稔は下を向いた。
「ったく、『勝つテクニック』なんて覚えやがって」
杏はブツブツ言っていた。
「確かに、あいつは打つ『瞬間』が分からない。その『瞬間』の分からない『小手』は物凄い脅威ね」
眉間に皺を寄せた。
「でも、相手とぶつかり合わずに『勝つ』……そんなの、私の『信念』に反するんだよなぁ」
震える口角を上げ、怒りにも見える笑みを浮かべた。
その日の中学女子の部では、杏はかつてないほどの早さで剣士達をなぎ倒して優勝した。そのことが、『怒りにも見える笑み』の意味を物語っていた。
秋の市民剣道大会。稔は小学四年生男子の部で決勝まで勝ち上がった。
「コテ、メェーン!」
「メントォー!」
稔はグイグイ前へ出て、相手を場外ギリギリまで追い詰めていた。
もうすでに、開始早々に『出小手』で一本取っている。一本取った上で、尚且つ相手をギリギリまで追い詰めていた。ほぼ勝ったも同然の状態だった。
稔はジワジワと前へ出る。
相手の目線。この状況にも関わらず、それは稔の目を真っ直ぐ直視していた。
捨て身の『面』が……来る!
相手は稔の『面』を狙い、飛び込む。稔の竹刀は相手の手元へ吸い寄せられる!
「コテェ!」
稔の竹刀は相手の『小手』を捉え、そのまま足と体を左へ捌いて綺麗に決めた。
「小手あり!」
稔は決勝で二本勝ち、優勝を決めたのだ。観客席からドッと歓声が沸き起こる。
しかし……
「チッ!」
歓声を上げる観客達の中で、杏は一人舌打ちをした。
「どうして、そこで『小手』を打つかなぁ……」
「稔、凄えなぁ。お前、無敵じゃん」
「いやぁ、そんなことねぇよ」
頭をポリポリ掻きながら門下生仲間達の賞賛に謙遜し、稔は辺りを見回した。
いない。
ほっと胸を撫で下ろした。
その時、目の端に決勝の相手が映った。相手はぐしょぐしょに涙を流し、手拭いで顔を拭いている。それを見ると、急に心に靄がかかった。
あの勝ち方で、本当に良かったのか?
稔は、その想いを振り払うように防具を片付けて防具袋に戦利品の金メダルを入れ、試合会場を後にしようとした。
「私なら、あそこは『面』で勝負したけどね」
出口を出て、不意に声を掛けられビクッと立ち止まった。見ると、目を瞑った杏が腕を組んで壁にもたれている。目を開け、稔をキッと睨んだ。
「あんたは一本先取してた上に、相手をギリギリまで追い詰めてた。気持ちの上でも、断然有利な筈だった。なのに、どうしてあそこで『小手』を打った?」
「だって、あいつが『面』を打つと分かってたから……」
稔は俯いた。
「はぁ? あんた、私の教えた『面』があいつの『面』に負けるとでも思ったの?」
杏は眉を顰めた。
「『面』でも勝てたかも知れないけど、『出小手』打ったら確実に勝てるじゃん」
「そうね、あんたは確かにあの試合では勝った。相手の手首を斬って『動き』を止めた。でも、相手の『息の根』を止めてない」
「息の根……」
「そう。もっと、欲を張りなさい。勝つために動きを止めるだけだなんて、勿体無い。私は『勝つためのテクニック』なんて教えてない。『どんな相手でも斬る剣道』を教えてきたつもりよ」
でも、やはり稔は俯いた。
「だけど、俺……それでは勝てないんだ。俺、どうしても勝たなきゃならないんだ」
すると、杏はまた目を瞑りため息を吐いた。
「やっぱ、『試合』に勝つためだけ、なのね。あんたはあの『試合』には勝ったけど、『気持ち』では完全に負けていた。相手の捨て身の『面』の方が輝いてたわ」
美しい瞳で見つめるが、やはり稔は下を向いたままだ。
「でも、あんたがそれでよしとするのなら……もう、あんたに教えることは何もないわ」
去って行く杏の寂しそうな後ろ姿に、稔は何も言うことができなかった。
「勝つためで、何が悪いんだよ」
今日取った金メダルを手に持ち眺めながら、稔は自分の部屋で呟いた。
去年のこの大会、自分は負けたけれど杏姉貴に金メダルを貰った。悔しかったけど、それ以上に杏姉貴の言葉が泣けるほどに嬉しくて、ぐしょぐしょになるまで泣いて……その金メダルは今でも大事に飾っている。
でも、同じ大会で金メダルを取った筈なのに、何故だか全然嬉しくない。ぐしょぐしょに泣く相手の顔を思い出すと、やはり靄がかかったような、後ろめたい気持ちになる。
「くそっ!」
稔は、金メダルを部屋の壁に投げぶつけた。
翌週の稽古終わり。杏は桜と共に帰ろうとしていた。
「杏姉貴!」
稔が呼ぶと、杏が振り返った。
「俺と……これから少し、手合わせして下さい!」
「もう、あんたに教えることはないって言ったはずよ」
杏は流し目を送る。
「でも、俺、絶対に勝ちたいと思ったけど……やっぱり、あの勝ち方じゃあ嬉しくないんです。杏姉貴の剣道に憧れて剣道を始めたから、あの『面』で勝ちたいんです。お願いします。前のように、稽古つけて下さい!」
すると、杏はすっと目を瞑る。
「チョコレートパフェ」
「えっ?」
「私に奢るなら、やってやってもいいわよ」
「ありがとうございます!」
稔は目を輝かせる。
「あんたの腐った根性、叩き直してあげる」
杏は担いでいた防具袋を置き、防具を取り出した。
「ドゥアアァー!」
「ドラゥアァー!」
凄まじい気迫がぶつかり合い、道場中の彼方此方に突き刺さる。対峙した杏と稔は、同時にお互いへ向かい、真っ直ぐに飛ぶ。
「メンヤァアー!」
『バクゥッ!』
杏の竹刀が稔の『面』にめり込む。
「やっぱ……凄い」
稽古を観る桜も鳥肌が立った。稔も真っ直ぐに、大威力の『面』を打つ。しかし、杏の『面』の前では全く歯が立たない。
「クッ……」
稔は振り返り、体勢を立て直そうとした。その瞬間!
「メンヤァアー!」
『バコォッ!』
またしても杏の竹刀がめり込む。
「オラァッ!」
『バァン!』
稔は杏から体当たりされ、弾き飛ばされた。その瞬間!
「メントォオー!」
また、『面』を決められる……。
「お姉ちゃん……容赦ないな」
桜は苦笑いした。でも、ただひたすらにやられている稔も『面』の奥で目を輝かせ、口元に笑いを浮かべているように見えて……何だか楽しそうだ。
「メンヤァアー!」
「メェェーン!」
『バクゥッ!』
やはり、杏の竹刀が稔の『面』にめり込む。しかし……徐々に稔も杏の動きに付いてこれてきたように、杏の『飛び込み』にただ『乗られる』のではなく、自分からも『乗ろうと』しているように見えた。両者は振り返り、そして!
「メントォオー!」
「メンヤァアー!」
杏の竹刀と稔の竹刀は、ついに同時にお互いの『面』を捉えた!
『ダァーン!』
激しく体当たりし、ぶつかった。どちらも、薄っすら笑いを浮かべている。その場の二人にしか味わえない、言いようのない高揚感……快感。
桜は、そんな二人が羨ましくて堪らなかった。
「いい? 次の一撃が本当の勝負。あんたは、次の一撃にあんたの全てを込めなさい」
鍔迫り合いをしながら、杏が面越しに言うと稔は真っ直ぐ頷いた。二人は鍔迫り合いを解いて離れ、お互いに中心をとり、構えた。
「ドゥアアァー!」
稔の気迫が突き刺さる。
きた、きた!
杏はニヤっと笑った。久しぶりに感じる、『ゾクッ』とする武者震い。
「ドゥオラアァー!」
杏も負けない気迫を発した。鬼の気迫と鬼神の気迫のぶつかり合い。
次の瞬間! 稔はクワッと目を見開き……飛ぶ!力の限り、真っ直ぐに。
杏も飛ぶ!両者の竹刀は真っ直ぐに、お互いの『面』へ……
「メェェエーン!」
『バコォッ!』
ほぼ同時の『面』。しかし、両者とも……そして、桜にも分かった。この勝負、勝ったのは……。
しかし……
『ダァァーン!』
稔は、杏から『面』を決めた瞬間に足を滑らせ、転倒したのだ。
「いててて……」
腰をさする稔を見て、杏は苦笑いした。
「全くもう、お約束ね。ほれ!」
稔の手を取り、立たせた。
「やればできるじゃない!」
『面』を外した杏は、爽やかに言った。
「はい! でも、転んだから、一本には……」
「ああもぅ、細かいことはいい、いい。それより、あんた、気持ち良かったでしょ」
「はい! とても。それに、凄く楽しかった。正面からぶつかり合うって、こんなに気持ちよくて楽しいんだって」
「そう。その気持ちを、忘れないで」
杏は真剣な眼差しで、稔を真っ直ぐ見た。
「剣道はその楽しさが、一番の強さの糧になる。あんたの最後の『面』。あれは、あんたの気迫が私に僅かでも勝っていたから決まったのよ。剣道では『勝ちへの拘り』なんか要らない。気迫が誰よりも勝っていたら、誰よりも強くなれるんだから」
「はい!」
稔は目を輝かした。
「あんたの『面』は、全国でも通用する。その『面』を潰すな」
杏は白い歯を見せて笑いながら、真っ直ぐに稔を見たのだった。
半年後。満開のサクラが咲く試合会場で、春季市民剣道大会が開催された。小学五年生男子の部、決勝。
「ドゥォヤァアー!」
稔の気迫が相手を圧倒する。相手が稔の手元に目を遣った、その刹那!
「メントォオー!」
『バクゥッ!』
稔が渾身の『面』を決めたのだ。
「面あり!」
勝負がついた二人は向かい合う。
「勝負あり!」
稔の旗が上げられ、蹲踞した。
この大会、稔は全ての試合を『面』で勝ち、優勝した。それは、杏との『豪剣の契り』を果たす、清々しい優勝だった。
「稔、お前、ホントめっちゃすげぇよ」
「マジで、全国行けるんじゃねぇ」
試合後、門下生仲間は稔を絶賛する。しかし、稔の目は誰かを探し……杏と目が合った。
「よくやった!」
杏は満面の笑みを浮かべる。
その瞬間、初めて、稔は自分の優勝を実感した。心の底から痛くなるほどの感動が沸き起こり、熱い嬉し涙を流したのだった。
稔は急ぎ足で道場へ向かっていた。季節は夏。街路樹に留まった蝉の声が響いている。しかし、蝉の声に混じり聞き慣れない声が聞こえた。
『ピーヨ、ピーヨ!』
どこからだろう? 耳をすました。音の方向は……公園の中からだ。音を頼りにしゃがみ込んで、声の主を探した。
「こいつだ……」
雛鳥が、公園の木の下の芝生の上で懸命に鳴き声を振り絞り、親を呼んでいた。木の上の枝には、その雛のものと思われる巣があったのだ。
「どうしよう……」
何もできずに、ジッと雛を見つめていた。その時。
「みのるちゃーん、何してるの?」
白い道着に白袴の杏が、スポーツドリンクの入った袋をぶら下げてやって来た。
「杏姉貴、稽古は?」
「私は重役だから、途中からでいいの。あんたこそ、遅刻よ。それより、そいつ、どうしたの?」
「多分、あの巣から落ちたんじゃないかな……」
稔は目を細めて上を向く。すると、杏は袋を地面に置いた。
「落ちたんじゃないかな、じゃないわよ! 早く戻してやらなきゃ」
「えっ?」
ぼやっとする稔を置いて、杏はスルスルと木に登った。
「いや、姉貴。危ない……」
「ほら、そのコ、渡しなさい」
ある程度まで登った杏は、下へ手を伸ばす。稔は仕方なく、雛を拾って渡した。受け取った杏は、今度は上の木の枝に掛かっている巣へ、雛を持った手を伸ばした。
あと少し、あと少し……よし、入った!
雛を巣に戻した杏は、安心して一瞬気を抜いた。その時。
「あわわわっ!」
足を滑らせて転落したのだ。稔は、咄嗟に受け止めようと動いた。
『ドシーン!』
「いたたたた……」
木から落ちた杏は、稔が下敷きになっているのに気付いた。
「わわっ、ごめん、ごめん。大丈夫?」
慌てて稔から離れる。
「はい。大丈夫です」
稔はどうにか起き上がり、尻についた土を払った。
「あんた、もしかして、私を受け止めようとしてくれた?」
杏は悪戯な笑みを浮かべる。
「別に、そんなんじゃないですよ。それより、無理しないで下さい」
「無理しないで?」
杏は切れ長の目をキッと稔に向けた。
「あんた、剣道やって、強くなって、何を守れるようになった? 本当に強い奴は、どんなに小さな命でも命懸けで守るの。それができないようじゃ、あんた、本当に強くなったって言えないわよ」
ザワッ……
突如吹いた風が、公園の木々の枝を通り抜ける。それと同時に、稔の中を得体の知れない胸騒ぎが駆け抜けた。杏姉貴は、やっぱり立派だ。でも、何だかよく分からないけど……胸騒ぎがする。この立派さのせいで、姉貴が遠くへ行ってしまいそうな、漠然とした不安……。
「でも……やっぱり、あんま無理しないで下さい。だって、俺、あなたのことが……なんだから」
消え入りそうな声で言った。
「なーに、しんみりしてるのよ。それに、何? 最後の方が聞こえなかった。もう一回、はっきし言いなさい」
髪に葉っぱを付けながらも元気な杏を見て、稔は赤くなって目を逸らす。
「それは、次の……秋の大会で優勝できたら、はっきりと言います。それと……道着、早く直して下さい」
杏の道着は、木から落ちた時の反動で胸元がはだけていた。
「何、あんた。生意気に年頃? こんなの、減るもんじゃなし、どんどん見ちゃいなさいよ。まぁ、あんまないけどね」
「やめて下さい」
面白がってからかう杏に、稔はさらに真っ赤になって目を逸らした。
その日の道場の稽古。
「メンヤァアー!」
『バクゥッ!』
杏の『面』にますます磨きがかかっていた。
それもそのはず。杏は夏の県大会を土曜日に控えていたのだ。
杏の練習を見ている稔は、ドキドキと落ち着かなかった。さっき会った時は渡すどころじゃなかったが、稽古後にでも渡したいものがあった。だって、桜から聞いたんだけど、今日は……。
稽古後。掃除を終了した稔は、杏の元へ走り寄った。
「杏姉貴! これ……」
黒くて小さいケースを渡した。
「何?」
杏はケースを開けた。そこには、ジルコニア製の人工物と思われるルビーのネックレスが入っていた。
「あんた、これ……」
「姉貴、今日、誕生日だったんでしょ。俺、お金持ってないからジルコニアしか買えなかったんだけど……プレゼントです」
「いや、ジルコニアっつっても高かったでしょ? 本当にいいの?」
稔は頷いた。
「姉貴、剣道も強いけど、凄く綺麗だから……そういうのつけたら、めっちゃ似合うと思うんです。それと、さっき姉貴に伝えたかったこと……絶対に俺、秋の大会で優勝して、姉貴に伝えます」
稔は真っ赤な顔で、それでも真っ直ぐに杏を見つめた。
ドクン……
杏の胸の中に、今まで響いたことのない鼓動が響き渡る。稔は顔を赤くしたまま、逃げるように道場を出た。
うそ、やだ。何これ? 私、もしかして……
杏はネックレスを見た。ここまでされたら、大鈍感な杏も流石に気付く。あいつの気持ち……。
「全く、私としたことが……。自分の育てた『鬼』に食われるとはね」
杏は頬を赤らめる。しかし、今までで一番美しい純粋な笑みを浮かべて、そのネックレスをつけたのだった。
県大会の日。
「じゃあね、桜。行ってくるわ」
杏は竹刀と防具袋を持って玄関を出た。
「うん。気をつけてね」
桜が笑顔で見送ると、上機嫌な杏は振り返り言った。
「絶対に優勝して帰ってくるからね!」
首元にルビーを輝かせた杏は、鼻歌交じりに出掛けた。
「全く、分かりやすいんだから」
桜はそんな杏を見て微笑んだ。杏はネックレスをつけたその日から、ずっと上機嫌だったのだ。
快晴の青空の下。防具を担いだ杏は浮き足立っていた。数分おきに首に掛かっているネックレスを触り、微笑む。
じんわりと込み上げる、温かい気持ち。私がこの大会で優勝して、あいつも秋の大会で優勝したら……私の気持ちも打ち明けてやろう。顔が自然にほころんだ。
しかし、幸せを噛み締めながら歩道を歩く杏は気付いた。隣の車道を茶色くて小さいものが横切ろうとしている。
「子犬? あんな所に……」
その時だった。横からトラックが、猛スピードで突っ込む!
「危ない!」
思うより早く、体が動いた。即座に防具を置いて車道へ出て、瞬時に子犬を抱きかかえた。その瞬間!
ダァァーン!
杏は子犬を抱かかえたまま、物凄い衝撃と共に宙に浮いて、そして……地面に叩きつけられたのだ。
何が起こった?
体中が痺れて……痛いのかどうかさえ分からない。目が霞んで……何も見えない。でも……
「クゥーン」
自分の抱える腕の中で、小さな命が懸命に自分を舐めているのが分かった。
「そっか。助かったんだ、お前……」
だけど、舐められている感覚は消えてゆき……さらに霞みゆく視力に、意識だけは苦笑いした。
「でも、私の方は……ダメっぽいけど」
微かに残る意識が遠くへ吸い込まれてゆく。しかし……
「お願い、もう少しだけ……」
必死にそれに縋り付いて最期の言葉を想う。
「お父さん、お母さん……私、小さい時から迷惑かけてばかりだったけど、でも……こいつを見捨てること、できなかったんだ。許してね」
「桜……あんたは私よりずっとしっかりしてるから心配ないけど……いつまでも私のことを引きずらないで、ちゃんと前を向きなさいよ」
そして……まだ辛うじてある首元の感覚から、ルビーの感触を感じる。
「稔……」
ゆっくりと目を閉じた。
「できるなら……あんたが『最強』の金メダル、かける瞬間が見たかったな……」
目の前にぼんやりと、金メダルをかけた稔が映り……徐々に薄くなってゆく。杏の目から涙が頬を伝い……意識は遠のき、快晴の青空の奥へと吸い込まれていった。
「稔、どうした?」
道場での基本稽古を突然中断した稔に相手が聞いた。
「いや、何か、呼ばれたような気がしたから」
「え、誰も呼んでないぞ」
「そうか……」
不思議に思いながらも、稽古を再開した。しかし、得体の知れない胸騒ぎ……数日前に感じたそれが、あの時よりはっきりと稔を襲い、言い様のない不安に駆られる。
その時だった。
「大変だ! 春山の姉ちゃんが……」
報せを聞いた門下生が青ざめ、動転して駆け込んだ。稔の体中を、冷たいものが通り抜ける……。
杏が運び込まれた病院への道。稔と桜は、必死に走っていた。道着姿のまま、汗だくの二人は病院の階段を駆け上がり、病室に駆け込んだ。
そこには……白いベッドの上に寝かされた少女がいた。そして、その顔の上には白い布が被せられている。その前では見覚えのある……あの時会った、桜の母親が顔を手で覆っている……。
信じられない……いや、信じたくなかった。
でも、白い布を被せられた顔の下……首元にあるネックレス。それは、確かにあの、プレゼントしたネックレス……。
「お姉ちゃん! やだ、起きてよ。お姉ちゃん!」
桜が青ざめて白い布を取り……体を揺すった。
白い布の下の顔は、所々に痛々しい生傷がついていたが、それでも美しく、綺麗な杏で……いつものような生気や温もりは全く感じられず、作り物の『人形』のようだった。
「お姉ちゃん、やだよ! やだー!」
杏に縋り付き、泣き叫んだ。
稔は、虚ろな足取りで歩んだ。ベッドの杏に近付くにつれて、目から涙が溢れ出す。
「姉貴……嫌だ、起きてくれよ。姉貴……」
杏の腕に触れた。しかし、それは人形……。稔の知る温もりはなく、硬い……。
「姉貴……」
稔は杏に顔を押し付け、声も上げずに……ただ、ひたすらに目から溢れ出る涙を押し潰していた。
病室に入る足音。院長先生が、曇った表情で段ボール箱を抱えていた。
「本当は、病院に入れてはいけないんだけどね。お嬢さんが……命懸けで守った、小さい命だから」
段ボール箱の中では、茶色の小さな……本当に小さな子犬が、片隅で震えていた。
「やっぱり、そうなんだ。姉貴は……姉貴は、最後まで、本当に強かったんだ……」
稔の目から、涙が溢れて止まらなかった。
翌日の通夜には、『剣信館』の皆が訪れた。道場で最大と言ってよいほど偉大で美しく、強かった女剣士の最期に涙を流さない者はいない。誰もが涙を堪えることのできないまま日が沈む。
稔はかすれた声で桜の母親に尋ねた。
「あの……僕も今晩、お姉さんの側にいていいですか?」
「あなたは……」
真っ赤な目の母親は、稔をまじまじと見つめて……そして、静かに微笑んだ。
「いいわよ。今晩、杏の側にいてやって」
稔は桜の家族と一緒に、杏の棺桶の部屋に泊まった。
みんな寝静まり……杏の死からずっと泣き続け疲れたのであろう桜も眠りについた時、稔は起き出した。薄明かりの中、棺桶の窓をそっと開けた。化粧で傷を隠され、長い睫毛の目を閉じて……人形になってしまった杏は、それでもやはり美しくて……稔は見つめ続ける。
「綺麗だよ、姉貴。本当に。でも……ネックレスつけてくれた笑顔が見たかったな……」
稔の目に、また涙が込み上げた。その時。
「稔くん……だよね?」
振り向くと、母親がいた。
「あなたが、杏にネックレスくれたんだよね」
稔の横にしゃがんだ。
「本当に、こんなに一途に想ってくれるコを置いて逝っちゃうなんて、何してるんだろうね」
杏の面影を持つ母親は綺麗で、でも少しやつれていて……でもやはり、悲しいくらいに気丈だった。
「でもね。杏は小さい時、『死』を身近に感じていたから……だからこそ、きっと、小さい命を見捨てることができなかったんだと思うの」
「『死』が身近だった……?」
母親は、頷いた。
「あなたが見てきた杏からは想像もつかないかも知れないけど……杏は小さい時、命が危なくなるほど喘息がひどくて入院してたの。いつ激しい喘息発作に襲われるかとびくびくして……発作が襲うたびに『死』が自分を連れ去ってしまうんじゃないかって……自分のことを弱くて小さい存在だと思って震えてた。丁度、小学三年生くらいの頃だったかな。体調が良くなって、強くなりたいって剣道始めて、『弱い奴を守りたい、だから誰よりも強くなりたいんだ』って、いつも言ってて。それまでの人生を取り返すくらいに必死で打ち込んで、本当に誰よりも強くなっていったの」
母親は噛み締めるように、ゆっくりと語った。
「短かったけど……本当に短かったけど、杏は杏なりに、命を燃やして、精一杯輝いていたのよね」
稔は熱い涙を流した。稔の知っている杏……それはいつでも、元気いっぱいで、誰よりも強くて、眩いばかりに輝いていた。そして、その輝きは杏の中に『弱くて小さい自分』がいたから……だからこその輝きだったのだ。
葬式では、稔は泣かなかった。杏は『いなく』なる……もう二度と会えないけれど、自分は杏の夢を背負ってるから……大好きな人の夢そのものだから、いつでも強くなければならないんだ。
棺桶の杏の美しい顔の横にネックレスを贈って……ずっと、ずっと、この世で一番大切な人を見続けて……永遠に想い続けると誓ったのだった。
葬式から帰った稔は、張り詰めていた力が抜けた。
部屋のベッドでぐったりと横になると、いつの間にか意識が遠のいていた。気がついた時には日が変わっており、もう昼過ぎだった。目を覚ました稔は、また重く悲しい現実に引き戻されて体が重くなり、ベッドに横たわった。
でも、何か忘れているような気がする。何だろう?
ごちゃごちゃになっている頭を働かした。
そうだ、子犬だ。あの子犬、一度、桜の家に預けられることになって、でも、桜の家はマンションで…………あの仔犬、どうなるんだ?
稔は突然気になって起き上がり、外へ出た。
桜の家への道を急ぐ。川の土手、青々とした芝生の上を小走りで進んだ。その時、ふと向こうの川岸で段ボールを持った少女が佇んでいるのを見つけた。
あれは……桜! そして、持っているあの段ボールは……。
桜はそっと段ボールを川面に置き、流そうとした。
「桜、何してる!」
稔は叫んだ。土手を下りて川岸へ、桜のもとへ走り、段ボールを拾いあげた。
「やっぱり……」
段ボールの中では、茶色い子犬がソワソワと動き回っている。
「こいつのせいよ」
桜は真っ赤な目で段ボールを睨んだ。
「こいつのせいで、お姉ちゃんはいなくなった」
だが、稔はゆっくりと桜の目を見つめた。
「なぁ、桜。そんなことして、姉貴が本当に喜ぶと思うか?」
ぐっと下を向いた桜は、首を横に振った。
「杏姉貴はな、本当に強かった。どんなに小さい命でも、命を懸けて守った。だからな、俺達、強くならないといけないんだ。姉貴の分も、誰よりも。そうしたら……姉貴、絶対に喜んでくれるよ」
開けた稔の目には涙が滲んでいたが……それでも、桜にしっかりと杏の遺志を伝えた。ぎゅっと目を瞑っている桜の顔の先の地面に、大粒の雨がポトポトと落ちた。
「なぁ、桜」
川沿いを歩きながら、少し落ち着いた様子の桜に稔が言った。
「こいつ、俺が引き取るよ」
段ボールの中を見た。さっきまで動き回っていた仔犬は、少し安心したのか片隅で丸まって眠っている。
「そんで、俺が立派に育てる。だって、姉貴が命懸けで守った命だもん」
桜は黙って頷いた。
それぞれの想いを胸に、二人はオレンジ色の夕陽の差す土手道を歩き続けた。しかし、稔はふと思い立って口を開く。
「そうだ、桜。俺達、これから戦わねぇ?」
「戦う?」
「そう。今から道場行って。何だか、無性に体動かしたい気分なんだ」
「え、でも……私、そういう気分じゃ……」
「いいから、いいから。行こうぜ!」
半ば強引に道場へ向かった。
道場の玄関の隅っこに置かれた段ボール箱の片隅では、子犬がすやすやと眠っていた。しかし……
「ドゥアアァー!」
「ヤァァアー!」
凄まじい気迫のぶつかり合いに飛び起き、そわそわと段ボールの中を歩き回った。
「メン、コテェ!」
「メンヤァアー!」
道場の予備ではあったが、長い間着けてなかったようにも感じられた防具をつけた二人は、激しくぶつかり合う。
瞬時に間合いを遠ざけて離れた。そこからの、桜の怒涛の連続技!
「コテ、メン、メントォ、ドォオー!」
桜の華麗な『剣舞』。稔の『目』をもってしても、ついてゆくのがやっとだ。
辛うじて動きに付いていっていた稔は、隙をついて再度、間合いを遠ざけた。
剣先をしっかりと桜の中心に向ける。体勢を立て直した桜も、すっと稔の中心を取る。
そうだよな、桜。
稔はニッと笑った。
お前も、『尊敬し合う相手』との『真剣勝負』の時には、絶対に『面』のぶつかり合いで勝負するんだよな……。
静寂が包む、緊迫した空気の中。『面』の奥から、互いの空気を感じ合う。
その刹那!
二人は飛ぶ。二本の竹刀は真っ直ぐに、そして同時に『面』を捉える!
『バクゥッ!』
『パァァーン!』
『面打ち』の音も同時に響き渡る。互いに、真っ直ぐ残心を取った。
「……私の負けね」
振り返った桜は『面』の奥で微笑む。
「そうだな」
稔も爽やかな笑顔を浮かべた。
完全に同時の『面』。恐らく、試合の審判も十人中九人は『相打ち』の判定をするだろう。
それは、二人にしか分からない勝負……二人にしか分からない、僅かな『重さ』、僅かな『剣速』の差だったのだ。
「なぁ、桜」
『面』を外した二人は、道場に寝転んでいた。
「ん?」
「やっぱ俺達ってさぁ。何があっても、剣道やめられねぇよな。だって、こんなに楽しいんだもん。姉貴が……真剣に相手とぶつかり合うことの楽しさを教えてくれたんだもん」
「うん」
桜は目を閉じて頷いた。瞼の奥には、さっきとは違う温かい涙がじんわりと浮かんでいる。
稔はゆっくりと体を起こした。
「俺さ。絶対に秋の大会、優勝する。そんで……姉貴に、俺の気持ちを伝える。だって……姉貴と、そう約束したんだから」
桜は心の奥から熱い気持ちが込み上げて、何も答えられなかった。ただ、閉じた目から一筋の涙が頬を伝う。
稔……ありがとう。
何も言わない桜の胸を熱くするその想いは、稔の胸の奥にも確かに伝わった。
もう薄暗くなっていた道場には、ぼんやりと満月の白い明かりが射し込んでいた。
秋季市民大会決勝。終始前へ出る稔は、相手をギリギリまで追い詰めていた。
場外ギリギリ、そして、精神的にもギリギリのプレッシャー……それに堪え兼ねた相手が飛ぶ。しかし、相手が飛ぶ瞬間には、稔はすでに飛んでいる……
「メントォォー!」
『バゴォッ!』
豪剣の『面』は完全に相手を『斬り』、そして稔の優勝を決めた。
大会後。稔と共に優勝し金メダルを手にした桜は場内を見渡した。
「あれ、稔は……?」
見当たらない。となると、行き場所は一つだけ。
桜は足早に会場を後にした。
霊園の中、桜は姉の墓へ向かった。
墓の前には……いた。首から金メダルをかけた稔。両手であの子犬を抱えている。
「ほら、あんず。お前の命の恩人、杏姉貴だぞ」
「そいつ、『あんず』って名前にしたの?」
桜が声を掛けると、稔は少し頬を赤らめ、恥ずかしそうに頷いた。
「まぁ、あんたらしいけどね」
柔らかく微笑む。
「貸して」
桜が受け取ると、あんずは舌でペロペロ舐めた。
「ははっ、くすぐったい」
「そうだよな。それにこいつ、家で自由奔放に走り回ってるんだよ。杏姉貴のように」
稔は、墓に向き直って……自分の首から金メダルを取って、墓石にかけた。
金メダルには夕陽が反射し、煌々と光り輝いていた。
夕焼けが鮮やかなオレンジ色に染める帰り道。眠るあんずを片手で抱く稔は、ポケットからそっと金メダルを取り出した。
それはさっき墓石にかけたものではなく、少し古くて帯の部分が色褪せていたけれど……強い『想い』の託された金メダル。
「あんた、それ……」
「俺の初めての……姉貴に貰った金メダル。あの日から……これからもずっと、俺の一番の宝物なんだ」
「そっか……そうよね」
二人の想いのこもった金メダルは、キラキラと光り輝いている。
「俺さ。姉貴にはもう二度と会えないけど……このメダルを見る度に、姉貴はずっと側にいてくれるって思える。どこまでも、誰よりも強くなれる。だって、姉貴は俺の……」
「憧れだから?」
先に桜が言うと、あんずを抱きかかえる稔は少し赤くなって俯いた。そんな稔を、桜は真っ直ぐ見つめる。
「ねぇ、稔。お姉ちゃんさ、あんたの気持ち、気付いてたよ」
「俺の気持ち?」
聞き返す稔を見て、柔らかく微笑んだ。
「あんたの気持ちが『憧れ』以上のものだったってこと。だって……流石のお姉ちゃんでも気付くよ。私に七月の誕生石聞いてきて、自分の貯金を全部はたいてまで、あんなネックレス、プレゼントしたんだもん」
「そっか」
稔はじんわりと涙で滲ませながら、強がりの笑いを浮かべた。
「優勝して……気持ちを伝える前から、やっぱりバレバレだったんだな」
「それで……お姉ちゃんも、あんたのこと……」
「えっ?」
強がりの笑いを不思議な表情に変えた稔を見て、桜は目を細めた。
「ううん、何でもない」
優しく目を瞑る。
「あんたさ、これからもずっと、お姉ちゃんのこと好きでいてくれる? 浮気したりしない?」
少し、悪戯そうに聞いた。
「ああ」
稔も目を瞑る。
「姉貴はずっと見ててくれている。どんなに辛いことがあっても、どんなに挫けそうになっても……姉貴は笑顔で俺を見守ってくれている」
稔は目を開け、夕焼けに染まる西の空を見上げた。
「だから、俺もずっと、姉貴のことを見続ける。最強の金メダルを手にする日がきたとしても、ずっと……」
桜は、そんな稔をじっと見つめた。
頭の中を、色んな想いが駆け巡る。
お姉ちゃんと稔の関係が羨ましくて、時には嫉妬したこともあった。お姉ちゃんのことも、稔のことも好きだったから……それなのに、どうして二人の中に私が入り込めないんだろうって。
でも、それ以上に二人の関係が大好きで……だから、二人には永遠であって欲しかった。
運命よりも、愛情よりも深い『契り』で結ばれたお姉ちゃんと稔は、これからも……決して終わることはないんだ。
そうだよね、お姉ちゃん。そう、信じていいんだよね……。
桜はそっと涙を滲ませ、夕焼け空に光り輝く宵の明星を見つめた。そんな桜の気持ちに応えるように、稔は伝える。
「姉貴、好きだよ。出会った時から……そして、これからも……俺が最強になってからも、ずっと……」
杏の笑顔のように眩く黄金色に輝く明星を見上げて、稔は永遠の想いを誓ったのだった。