彼女は紫陽花のような人だった。
腰まで伸びた透き通った夜のように艶やかな黒い髪。柔らかな絹のように滑らかな白い肌。くりっとした夏の空のように果てしなく澄んだ青い瞳。
整った綺麗な顔立ちにスラっとしたシルエット。
一目惚れだった。



彼女を初めてみたのは高校2年の6月のはじめ頃だった。
その日は梅雨の時期で珍しく晴れていた。
朝、雨が降ったから図書室の窓から見た道路には所々、水溜りができていて、空の青を反射している。
雨上がりの程よく湿気を含んだ少し冷たい空気が心地よかった。
涼しげな風が吹いてカーテンが靡く。
穏やかな午後だった。
図書委員としてカウンターに座っていた僕はただ小説に目を落としていた。
ふと、顔を上げるといつもは見ない女子生徒が部屋の隅に座っていた。その顔は見えず、本に夢中になっているようだった。
放課後に図書室にきて本を読むなんて相当な物好きだなと思った。
また、本に視線を戻した。

そうして、閉館時間になり帰ろうと図書室を出た。その時にはもう、その姿は見えなかった。
外は日が沈んでいた。雨の匂いが鼻を掠めた。窓越しに外には雨がポツポツと降っていた。

靴に履き替えて、外に出ようとした時、先ほど見た後ろ姿が見えた。どうやら、傘がないらしい。その少女は今にも雨に流されそうな儚げな雰囲気を纏っていた。
僕は何も言わず鞄に入れていた予備の折り畳み傘をその少女に差し出した。
自分でも無愛想だと思う。でも言うべき言葉は喉を通らなかった。

翌日いつものようにカウンターに座って本を読んでいると、突然肩を叩かれた。本の貸し出しかと小さくため息をして振り向いた。
そこには昨日の少女がいた。その手には僕が渡した折り畳み傘がある。
僕は目を見開いた。
彼女はぎこちなくも、柔らかに笑って口を開く。

「昨日はありがとう。君の名前を教えてくれない?」

そこには緊張からか、変な間があった。
その言葉を飲み込んだ瞬間、驚いてつい彼女と目を合わせてしまった。
彼女ははにかみながらもこちらを見つめていた。
永遠にも感じられる一瞬の後、柔らかな風がどこからか吹いてきた気がした。



それからは放課後は彼女と過ごすようになった。はじめは渋々、緊張しながらも彼女と話をしていたが、日が経つにつれ、僕も心を開いていった。

彼女とは色んな話をした。彼女が訳あって、1年の頃は学校を休んでいたこと、最近になって来られるようになったこと。他にも好きな本や作家など他愛もない話をした。

梅雨に入ったからか雨は止むところを知らず、永遠と降って、雨音を鳴らしていた。しかし、そんな音もBGMに変えるほど、彼女との時間は僕にとって楽しいものだった


それから1ヶ月経ったある日、彼女は図書室に来なかった。たまに来ないこともあったが、その時は事前に知らされていたし、昼休みにはその姿を見たので学校を休んでいないことはたしかだった。
嫌な予感がした。
僕はどうしようもなく気になっていつもより早く図書室を閉めて、彼女のクラスへと向かった。

今にも雨を降らさんと空は重い藍色だった。
日暮から豪雨だと天気予報では言っていたから、早く帰ったのかなと思った。
そうだといいなと思った。

暗くなった廊下を1人で歩く。
吹きつける風が焦燥感を駆り立て、響く足音は不安を募らせた。
僕の気が付かないうちに歩みは早まっていたらしい。いつの間にか教室は目の前にあった。

彼女の教室は閉まっていた。
電気はついておらず、人の気配はしなかった。
ただ、その教室からは妙に風の音が強く聞こえてきていた。
僕は気になって古びた木製の扉を引きずるようにして開けた。
眼前には予想だにしなかった光景が広がっていた。

濡れた床。開いた窓。吹きつける雨風。
窓際に並べられた彼女の上履き。
ただカーテンだけが激しく舞っていた。
僕は雨風が吹きつける中呆然と立ち尽くした。
何が何だかわからなかった。
いやわかりたくなかった。
しばらくして逃げるようにその場を去った。
雨の音がいやに耳に残った。


翌日、玄関の紫陽花の葉に昨日の雨の雫が乗っていた。紫陽花はもう錆びた色をしていた。落ちた花弁が雨水に流されていくのが見える。
僕は目を閉じて細く、長く、息を吐く。
皮肉にも空は果てしなくただ純粋に澄み切っていた。