この思いの向こう側にあるものへ

 総合病院の廊下で、庸介は秀二の家族と共に、治療が終わるのを待っていた。

 そこには柳沢と校長、教頭もいた。

 あれから秀二が書いたと思われる遺書のようなものが見つかった。

 ノートの最後のページに『東大に行けないから』と震える文字で書かれていた。

 そのページは何箇所も滴で濡れたような跡があった。

 進路指導で志望校は難しいと言われ、泣きながら書いたと思われる。どれほどのショックを受けたのか、字を見れば一目瞭然だった。

 警察の現場検証から、当時のことが耳に入っていた。

 三階の渡り廊下から飛び降りたとのことだった。下には花壇が広がっていた。草木の茂みもあれば、煉瓦が複雑に組まれている場所もある。場所が悪ければ即死だったと思われる。だが、どうも秀二の体は、張った木の枝に引っ掛かって方向を変え、幹に当たって速度を殺し、その幹によってさらに方向を変えて茂みに落ちたようだった。

 文字通り、奇蹟的に助かったということだ。落ちた秀二の横には、折れた太い幹が転がっていた。

 即死は運良く免れた。が、頭部を切ってかなり出血していた。全身打撲もひどい。さらに意識もない。手術は夜になっても終わらなかった。秀二の父親が何度も長引いているので帰ってくれていいと促したが、誰も帰ろうとはしなかった。

 重苦しい沈黙を破ったのは、綾だった。血相を変えて駆け込んで来たのだ。

「秀二君が怪我をしたって聞いて――」

 幼い頃、綾は遊びに来た秀二を、庸介と一緒に面倒を見ていた。血は繋がっていないが、弟みたいなものだ。そればかりか、次第に生意気になっていく庸介とは異なり、おとなしくて従順な秀二を実の弟以上に可愛がった。その秀二が大怪我を負ったと聞いて飛んで来たのだろう。

 新しい顔に、その場の空気が変わった。それまでハンカチを握りしめて耐えていた秀二の母親がワッと泣き出したのだ。

「おばさん」
「私が――私が悪いのよ! 隆一ばかり褒めて、ちゃんと見てあげなかったから」
「そんなことないですよ」
「思い詰めていることも気がつかなかった! 私が秀ちゃんを追い詰めたのよっ」
「おばさん、今は秀二君の無事を祈りましょ、ね?」
「そうだよ、母さん。今は秀二の無事のほうが大事だ」

 うっうっと嗚咽を漏らす母親を横目に、庸介は両手を硬く握りしめ、目を閉じて秀二のことを思っていた。

(俺がもうちょっと真面目にしていれば、秀二だって話してくれたはずだ。あいつが兄貴のことで悩んでいることを知っていながら、なんの力にもなれなかった。幼なじみみで、ずっと一緒にいたってのに、大事な時に相談さえできないようなバカだから、秀二の切羽詰まった状況に気付かなかったんだ!)

 握りしめられた拳が震えている。

(俺が頼りないばっかりに。俺が気付いてやらなきゃいけなかったのに! 俺が!)

 手術中を示すランプが音と共に消えた。一同がハッと息をのんで扉に集中した。ゆっくりと扉が開き、医者が姿を現した。

「先生!」
「一命は取り留めたと思われます」

 空気がまたしても変わった。安堵の吐息が洩れ、わずかに和ませる。しかし医者の口から出た言葉は、再び皆の心に影を落とした。

「しかしながら脳の損傷が大きく、確実に助かったと言えるかどうか、まだわかりません。早く意識が戻ることを願うばかりです」

 誰もが言葉を失い、ただ立ち尽くした。

 手術室から運び出された秀二は呼吸器が付けられ、固く目を閉じている。

 青い顔に思わず息を飲むほどだった。それでも『死』が避けられたという事実は大きかった。

「秀ちゃん! 秀ちゃん!」

 母親の呼びかけに応えるはずもなく、看護士と共に、病室に運ばれて行った。