「じゃあ、そこね。あの子の部屋」


おばあちゃんに案内されて、階段を上がる。
きしむ段差、壁に飾られた古い風景画。
どれもどこか懐かしくて、知らないはずなのに落ち着く感じがした。


廊下の一番奥、白いドアの前で立ち止まる。


「すぐ帰ってくると思うから。ゆっくりしてってね」


そう言って階段を降りていく足音が遠ざかっていく。
ドアの前で、私は一瞬立ち止まった。
夏生は出かけていて、この部屋にはいないってわかってる。
それでも……なんだか、緊張した。


「夏生の部屋」だって思っただけで、急そわそわする。
別に、やましいことをしに来たわけじゃないのに――。
勝手にノブに触れるのが、ちょっとだけ気が引けた。
ラジオで話してたときは、もっと近かった気がするのに。
こうして現実の「夏生の場所」を前にすると、どうしてだろう、妙に距離があるように思えてしまう。


……何を緊張してるんだろ。


そう思いながらも、私はそっと深呼吸して、ドアノブに手をかけた。
一拍おいて――ゆっくりと、扉を押し開ける。


静かな空間に、夏生の気配が残っていた。
壁に掛けられたギター、本棚に並ぶ音楽の本、机の上には開きっぱなしのパソコン。
その横には、使いかけのペンと、折りたたまれた紙の楽譜。
散らかってるわけじゃないのに、どれもどこか中途半端で――「誰かが今もここで生きてる」って、そんな感じがした。


私は部屋の真ん中にあるローテーブルの前まで歩き、ラグの上に膝をついて、ゆっくり座った。
ただそれだけの動作なのに、ぎこちなくなってしまう。
自分でもわかるくらい落ち着かない。
でも、それでも――来てよかった。そう思えた。


「これでも食べててね」


トントン、と控えめなノックのあと、おばあちゃんが小さなお盆を持って入ってきた。
お皿の上には、きつね色のドーナツが二つ。
油の香ばしい匂いがふわっと鼻をくすぐる。


「市販のより不格好だけどね。揚げたてはおいしいのよ」


そう言って笑うおばあちゃんに「ありがとうございます」と頭を下げながら、私は、そっと手を伸ばした。


――これ、知ってる。


一度だけ、夏生にもらったドーナツ。
甘くて、温かかった。
そのときとまったく同じ香りがして、なんでもないはずなのに、なぜか少し胸が熱くなった。