――雨衣のいない世界を、想像してみた。





「晴歌ーぁ、今日帰り、どっか寄らない?」

「今日……?」


授業が終わり、帰る支度をしていた私に玲奈が声をかけてきた。
私はチラッと窓の外を見る。灰色の雲、しとしとと降る雨。少しだけ、考え込む。


「あれ? 用事でもあるの?」

「ううん、なにもない――……行こっか」


玲奈と並んで歩き出す。
特別なことなんて、何もない放課後。
いつも通り、騒がしくて、他愛なくて、平和なはずの帰り道。


私は「雨だから」って憂鬱にはならない。
「サイアク、濡れちゃうじゃん」なんて軽口を叩きながら、傘をさして笑って歩くんだ。


「ね、晴歌、田中の課題やった?」

「え……問題集やっとけっていうやつ? ……残念ながらやってませーん」

「だよね! 仲間仲間~。よかった、ホッとした」


ふと、足が止まった。
目の前にあるのは、毎日前を通る病院だ。
だけどなんでだろう。今日だけは、景色のなかで異質に感じる。


「どしたの? 病院? 誰か入院でもしてるの?」


玲奈の声が軽く響く。悪気のない、ただの問いかけ。
なのに、その一言が、心のどこかに小さな棘みたいに残った。


「……ううん」


そう言った自分の声は、思っていたより小さくて、頼りない。



――私はきっと自由で。なにものにも囚われることなく、過ごしている。
病院に行く必要もないし、雨だからって気分が滅入ることもないし、真面目に勉強しなきゃと思う必要もない。
母だって私一人を見てくれる。
とても自由で……。


それなのに――。





『おねーちゃん』

小さな女の子が、私のスカートの裾を掴む。


『はれちゃん』

小学生の女の子が、私の手を握る。


『――晴歌ちゃん』

そして、私と同じ背丈の女の人が……私の腕に絡みつく。


おねーちゃん、はれちゃん、晴歌ちゃん。
ひとつずつ、声が重なっていく。
呼び方が変わっても、仕草が変わっても、あの子はずっと私のそばにいたんだ。


誰かに見せたことのない顔を、私たちはお互いにだけ、見せ合ってきた。
ぐしゃぐしゃに泣きじゃくった顔も、どうしようもなく拗ねた顔も、くだらない冗談で腹の底から笑った顔も。
誰かに見せようとは思わなかった、私の全部を、雨衣は知っている。

二人でひとつの毛布にくるまってお昼寝していた、保育園の頃。
どちらかが泣けば、もう一人も泣いて、先生を困らせた。
二人で押し入れに秘密基地を作って、お菓子を持ち込んでこっそり夜ふかしした、小学校の夏休み。
話が盛り上がりすぎて、結局眠れなかったね。
二人で同じ服を着て「入れ替わり作戦」をしてみたけど、あっさりバレて大笑いした、あの日。
「しょうがない子たちね」と苦笑されたけど、それすら楽しかった



いくつもの優しい記憶。
二人だけで、何もかもが楽しくて仕方なかった時間が、たしかにあったのに。