ノートを教室に忘れたことに気づいたのは、靴を履き替え、今まさに傘を開こうとする瞬間だった。
アレがないと、雨衣が困る。というか、アレを渡すために行くようなものなのに……私のまぬけ。
玲奈に「ごめん、先行ってて」と告げ、慌てて来た道を戻った。


誰もいないことを確認すると、一段飛ばしで階段をかけあがる。
人のいない廊下は薄暗く、どこか不気味だ。
さっき玲奈と歩いた時には気にならなかった静けさが今はやけに際立っていて、私の息遣いが、いつもより速い心音が、雨音に混じって響く。


あーヤバいな、この感じ。耳鳴りがする。ただでさえ今日は朝から調子がよくなかったのに、走るんじゃなかった。
……気持ち悪い。


足を緩め、壁に手をついてしばらく立ち止まる。
視界がほんの少し揺れるのを感じながら、私はゆっくりと歩き出した。
そして、教室の近くまで来たとき――隣のクラスの前で、男子たちの笑い声が聞こえてきた。


「――から言ったじゃん。じゃない方(・・・・・)はやめとけって」


その言葉が耳に届いた瞬間、心臓が跳ねた。
反射的に足が止まる。
胸がざわつく。やめておけばいいのに、私はそっと耳をすました。


「やー、だってさ、顔は同じじゃん? 雨衣ちゃんと。本当は雨衣ちゃんがいいんだけどさぁ、学校来ないから、この際晴歌でもいいかなーっつって」


――あ。雨衣……って……。


やっぱり聞くんじゃなかった。
だけど私の身体は金縛りにあったみたいに動かない。
ドキドキを通り越し、心臓はバクバクしていた。
背中には嫌な汗が伝う。


「でもダメだわ。真面目すぎっつうか硬すぎっつうか……つまんないんだよなぁ」

「あーたしかに。表情もしんでるよな」

「それなー。感情どっかに忘れてんじゃね?」


笑い声がどんどん大きくなる。
周りの男子の同調する尖った声が耳に痛い。


「つきあってみない? って言われて、ふつー無表情のまま固まるか? 雨衣ちゃんだったらそんなこと絶対ナイね。照れて、はにかんじゃったりすんじゃねーかな」

「あーっ、雨衣ちゃんマジ天使……!」

「つか、早くホンモノ帰ってこないかな」

「おま、晴歌がニセモノみたいに言うなよ」

「ちっげーよ! そーいう意味じゃなくて――」


ひゅ、と喉が鳴る。
彼らは私が聞いていることを、知らない。
もし聞いてることがバレたら、彼らはきっと弁明するだろう。「つきあってみない?」って言ったときみたいに、軽い感じで。
でもそんなの、余計に惨めだ。
早く行かなくちゃ。早く……早く……。


やっとのことで動き出した足を引きずって、なんとか隣の教室まで歩いた。
幸いドアが開きっぱなしだったから、物音を立てないですむ。
這うようにして自分の机まで行き、ノートを手に取ると、反対側のドアから出てわざと遠くの階段を目指した。