雨衣が入院している病院は、公園から歩いて五分ほどの場所にある。
三十年ほど前に建てられたというその建物は、ところどころ塗装が剥がれ、くすんだ灰色の壁に時の重みが刻まれていた。
かつて“真っ白”だったはずの外壁は、今やどこにも清潔感の片鱗を残していない。
自動ドアが開いた瞬間、鼻をつくような消毒液の匂いが押し寄せた。
それに雨の湿気が混ざって、喉の奥が少しむず痒くなる。
ほんの一瞬、吐き気に似たものが込み上げかけ、咄嗟に口をおさえた。
受付前の待合ベンチに並ぶ患者たちを横目に、足早に東棟へと向かう。
雨の日の病院は、いつもより少しだけ音がくぐもっている気がする。
靴音も、誰かの咳も、空調の低い唸り声さえ、すべてが壁に吸い込まれていた。
「晴歌さん」
突然背後から呼び止められたのは、雨衣の病室までほんの数メートルのところだった。
病院で知り合いに会うはずもなく、予想外の声かけに思わず体がビクリと震える。
恐る恐る振り向く。私の背後に立っていたのは、雨衣の担当の医師、右京先生だった。
「は……い」
「ああ、突然驚かせてすみません」
そう言いながらも、右京先生の顔はやっぱり無表情のままだった。
悪気があるわけじゃなさそうだけど、あの目力で真正面から見られると、こっちが勝手に身構えてしまう。
なにを言われるんだろう……。
だいたい、今までの担当の先生たちは、私の名前なんてまともに呼んだことすらなかった。
なのにこの先生は、後ろ姿だけで私だとわかった。
……ただものじゃない、気がする。
「昨夜、君たちのお母さんにも伝えたのですが、雨衣さんのことで……」
「え、雨衣……?」
先生から雨衣の名前が出てドキッとする。
右京先生の眉間が少しだけ寄っていて、それだけで嫌な想像ばかりが浮かんでしまう。
「はい。検査結果の数値も悪くなく、ここ数日で症状の改善も見られるので、一時退院の許可が出ました」
一瞬なにを言っているかわからなくてきょとんとしてしまった。
この先生、表情と言動が合っていない気がする。
「あ……え……? あ、よかった……です。あの、てっきり良くないって言われるものだと……」
「なぜです?」
「なぜって……その……先生の――」
顔が怖いからです、は、いくら私でも言えない。
「や、やっぱりなんでもないです」
「ああ。もしかして僕の顔の問題でしょうか」
「えっ」
「患者さんによく言われるんですよね。『先生の顔が怖い』『そんなんじゃ治るものも治らない』って」
「はあ……」
まさか自覚があるとは思わなかった。
わかってるなら、少しくらい笑えばいいのに。
この先生、天然だろうか。
だけど、なんとなくこの人は、そういうことを気にするタイプじゃないんだろうな。
寝癖もひどいし。
ぴょこんと飛び出した髪が触角みたいで、見てると少しだけ力が抜けてくる。
「……晴歌さんは大丈夫ですか」
「え……わ、私……? えと、もう怖くないです」
「そうじゃなくて――」
そこまで言ってから、右京先生はほんの少しだけ身を屈めて、私の目をじっと覗き込んだ。
不意を突かれて、視線をそ逸らせない。
右京先生の目は、まるで濁りのないガラス玉みたいに澄んでいて、なのに何を考えているのか全然読めなかった。
「――晴歌さんは気持ちの面で無理していないですか」
「え……」
三十年ほど前に建てられたというその建物は、ところどころ塗装が剥がれ、くすんだ灰色の壁に時の重みが刻まれていた。
かつて“真っ白”だったはずの外壁は、今やどこにも清潔感の片鱗を残していない。
自動ドアが開いた瞬間、鼻をつくような消毒液の匂いが押し寄せた。
それに雨の湿気が混ざって、喉の奥が少しむず痒くなる。
ほんの一瞬、吐き気に似たものが込み上げかけ、咄嗟に口をおさえた。
受付前の待合ベンチに並ぶ患者たちを横目に、足早に東棟へと向かう。
雨の日の病院は、いつもより少しだけ音がくぐもっている気がする。
靴音も、誰かの咳も、空調の低い唸り声さえ、すべてが壁に吸い込まれていた。
「晴歌さん」
突然背後から呼び止められたのは、雨衣の病室までほんの数メートルのところだった。
病院で知り合いに会うはずもなく、予想外の声かけに思わず体がビクリと震える。
恐る恐る振り向く。私の背後に立っていたのは、雨衣の担当の医師、右京先生だった。
「は……い」
「ああ、突然驚かせてすみません」
そう言いながらも、右京先生の顔はやっぱり無表情のままだった。
悪気があるわけじゃなさそうだけど、あの目力で真正面から見られると、こっちが勝手に身構えてしまう。
なにを言われるんだろう……。
だいたい、今までの担当の先生たちは、私の名前なんてまともに呼んだことすらなかった。
なのにこの先生は、後ろ姿だけで私だとわかった。
……ただものじゃない、気がする。
「昨夜、君たちのお母さんにも伝えたのですが、雨衣さんのことで……」
「え、雨衣……?」
先生から雨衣の名前が出てドキッとする。
右京先生の眉間が少しだけ寄っていて、それだけで嫌な想像ばかりが浮かんでしまう。
「はい。検査結果の数値も悪くなく、ここ数日で症状の改善も見られるので、一時退院の許可が出ました」
一瞬なにを言っているかわからなくてきょとんとしてしまった。
この先生、表情と言動が合っていない気がする。
「あ……え……? あ、よかった……です。あの、てっきり良くないって言われるものだと……」
「なぜです?」
「なぜって……その……先生の――」
顔が怖いからです、は、いくら私でも言えない。
「や、やっぱりなんでもないです」
「ああ。もしかして僕の顔の問題でしょうか」
「えっ」
「患者さんによく言われるんですよね。『先生の顔が怖い』『そんなんじゃ治るものも治らない』って」
「はあ……」
まさか自覚があるとは思わなかった。
わかってるなら、少しくらい笑えばいいのに。
この先生、天然だろうか。
だけど、なんとなくこの人は、そういうことを気にするタイプじゃないんだろうな。
寝癖もひどいし。
ぴょこんと飛び出した髪が触角みたいで、見てると少しだけ力が抜けてくる。
「……晴歌さんは大丈夫ですか」
「え……わ、私……? えと、もう怖くないです」
「そうじゃなくて――」
そこまで言ってから、右京先生はほんの少しだけ身を屈めて、私の目をじっと覗き込んだ。
不意を突かれて、視線をそ逸らせない。
右京先生の目は、まるで濁りのないガラス玉みたいに澄んでいて、なのに何を考えているのか全然読めなかった。
「――晴歌さんは気持ちの面で無理していないですか」
「え……」
